2026年3月31日火曜日

バウンダリー論 推考の推考 2

 3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念

 私が渡米以降に体験したことはひとことでは言えないものの、あえて言うならば、「バウンダリーはいくらでも侵犯される(乗り越えられてしまう)」ということだった。精神分析の構造やバウンダリーは、口頭で伝えられたり文章で書かれたりする際にはしっかり引かれる傾向にあるが、実際にはしばしば平気で破られている。誤解を受けやすいが、私は「バウンダリーは破られてナンボのもの」と思うようになった。それは踏み越えられることで生命を保っていると言ったところがある。その意味で「そもそも境界は生き物だ」、といった方がいいのかもしれない。

 私が精神分析を本格的に学ぶ前に考えていたことは、すでに述べた。それは患者が治療構造を破る際に、どのような場合にそれが無意識的な抵抗に由来するかについて、直観や一種の嗅覚を身に着けるためには、精神分析的なトレーニングが必要であるということだった。
 しかしその後40年がたった今では、私は患者との臨床を通じても、そして自己探求の為の数年間の教育分析を通しても、そのような独特な嗅覚が得られたようにはどうも思えない。(あまり言いたくないことだが。)いや、以前より少しはましになっているのかもしれない、ぐらいは言っておこう。そして私は「神は細部に必ずしも宿らない」という世界観を持つようにもなった。しかしそれとは別に、治療構造の重要性を再認識し、それを「治療的柔構造」として活用する方法を知る事になった。その意味での知恵はしっかりついたつもりである。

 私は実は渡米するころまでには、小此木先生の治療構造論を少し疑うようになっていた。「先生、治療構造を厳密に守るというのは建前でしょう?」とまで思うことがあった。「精神分析的にやるということは、いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」程度のことではないかと考えるようになっていた部分がある。実際小此木先生自身がセッションの開始や修了の時間をあまり守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそのようなことをおっしゃっていた。「イヤね、僕はこういう立場だから、精神分析はちゃんと構造を守ってやりましょう、というけれどね。本当は‥‥」みたいなことを精神分析の講義でよく口にされていたのだ。
 しかしそのうちに、別の意味で小此木先生の教えは正しかったと思うようになった。先生の教えは私の理解では次のようなものであった。「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、そこに表される治療抵抗などの意味を解釈できる」。つまりここでは治療者はバウンダリーを提供してそれに対する患者の反応を見る観察者なのである。
 しかし私のバージョンは少し違う。

「バウンダリーはそれ自体が明確に定まっていることで、それをめぐる微妙なやり取りが患者と治療者の間に繰り広げられる。つまりバウンダリーはそこである種の場(フィールド)を提供するものなのだ。ボクシングならボクシングリング、相撲なら円形の土俵があってこそ、そこでの独特のやり取りが展開するのである。そしてそのバウンダリーをめぐる駆け引きには患者だけでなく、治療者もまた参加しているのである。


以下省略


2026年3月30日月曜日

バウンダリー論 推考の推考 1

 1.バウンダリーの起源

 バウンダリーの歴史についてというテーマで原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深い概念である。私は精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とするが、それらの分野にも深く関与するテーマであるため、その立場からの考察となることを最初にお断りしておく。
 最初にバウンダリーの問題一般についてであるが、その起源は私たちの身体性に根差しているといえる。身体を有する私たちは自由に動ける一定の範囲を常に必要とする。常に収まりがよく、活動のしやすいような空間、「身のおき所」を常に探しているのだ。いわゆるパーソナルスペースとも呼ばれる。そしてそのすぐ隣に他者がいて同じような空間を必要とするなら、たちまち両者の間の境目、バウンダリーの問題が生じる。そしてそれは身体を持つ(「受肉している」と私は言い表している)生命体であれば、進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁の周りを常に泳ぎ回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物の中には自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩くものがある。
 他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだが、それは生物としての私たちにも同様である。それは日常生活の様々な面に関わってくる。新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況は誰でも体験いているだろう。

 バウンダリーはまた社会生活を営む上での利便性の面でも重要だ。一日の時間をいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは共同生活では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
 こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。しかし大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっているのだ。


2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」


 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーについての私の意識が生まれたのは精神分析と出会った時である。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そして当時の精神分析の大御所の小此木啓吾先生の門下生であるという先輩医師のS先生の指導の下に参加者が持ち寄るケースの検討を行っていた。そしてこのバウンダリーという問題に出会ったのだ。
 ある時私たちの一人が報告した患者さんが分析治療に遅刻したという話になった。S先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが定刻の2時に3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人はこうすることで無意識に治療に抵抗していることになるんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたからこそ私は精神科医となる道を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そしてしばらくはこの患者さんの遅刻のことが頭を離れなかったが、そのうち疑問にぶつかった。
 人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば約束の時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってかなりいい加減なものだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者さんは治療に来ることにどこかでためらいがあったのかもしれない。しかし彼は家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰ったせいかもしれない。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?
 そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき、無意識の探求をする手法なのだ」。


(以下略)

2026年3月29日日曜日

「バウンダリー」推考 8  

4.バウンダリー上の遊びと臨界、

  バウンダリー侵犯とトラウマの問題

 これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、危うい綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。そこではまず個人の中でそれを超えるか超えないかの葛藤が体験される。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、そこを越えるか超えないかに関して両者の間の様々な思惑が働く。それは緊張感をはらみ、危険と隣り合わせの体験となることが多い。そして実際にそのバウンダリー自身の破壊や修復が行われる事も少なくない。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。

 このような性質を持つバウンダリーは、またそこで遊びや創造性が発揮され、その意味でこれほど豊かな場はないと言ってもいい。そしてバウンダリーは、そこがいきなり踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらのテーマについてはこの短いエッセイで語りつくすことは不可能であるが、そのいくつかをかいつまんで述べてみよう。

 先ずはバウンダリーの心地よい体験について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の外に一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。まだ自宅の庭を出たことのない彼は、その日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている場所のほんのちょっと外を見てみたいと思う。そこで家事に忙しい母親の目を盗んで門の隙間から、足を踏み出す。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに踏み出すだろう。一方の好奇心や探求心と、他方の不安や恐怖の双方が働きつつ、ジワジワと彼の行動範囲が広げられていく。しかし幼児はこれを明らかに楽しんで行っている。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してもう何歩か進む。すると近所の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼はバウンダリーを少しだけ踏み出すことで新たな世界を発見したのである。
 しかしこのようにバウンダリーをめぐるワクワクする体験は、いとも簡単に恐怖体験に移行する可能性がある。家の周囲の探索に夢中になり過ぎていた彼は、ふと振り返ると自宅が見えないほど遠くにまで来てしまったことに気がつく。そしてどの方角から歩いてきたかもわからなくなっていることを知る。思わず「ママー!」と叫んでみる。しかしこれまでは何があっても飛んできてくれる母親の姿はない。彼は取り返しのつかないことをしてしまったことを知る。自らの慣れ親しんだ安全なエリアをはるかに踏み越えていることを知ったその幼児の恐怖心や寄る辺のなさはどれほどだろうか?そこでは自分の身を守るすべを失い、世界が終わるかのような体験をすることになる…これがトラウマの原型である。

 私はこれを書きながら、他方では幼な子の姿が見えなくなって半狂乱になっている母親の姿を想像している。彼女はすぐに半開きになっている門扉に気がつき、近所を探し回る。もちろんわが子はそれほど遠くに行っているはずはない。そして案の定それほど遠くない街角の道端で泣いている息子を見つけて駆け寄り、抱きしめる。トラウマは深刻なレベルでは起きなかったのだ。  しかし自然界ではこうはいかない。母親からはぐれたライオンの子は、すぐにでもハイエナの餌食になり命を落としかねないのだ。それはともかく‥‥

 この様にバウンダリーを超える体験は様々な「事件」につながる可能性がある。それは喜びや興奮を伴う場合もあれば、恐怖や絶望を生むこともある。そしてそれはバウンダリーという状況が生む一つの宿命でもある。すでに述べたように、バウンダリーとは二つ(以上)の力の均衡により成り立つ。それは一見動かないように見えて、実はその内側に大きな力が加わって、互いが釣り合っているというところがある。ちょうど二人の力自慢の腕相撲の様に、あるいは力の拮抗した二つのグループの綱引きの様に、そのバランスが少し破綻したことから一挙に勝負が決まってしまう可能性があるのだ。

 バウンダリーのその種の性質は、臨界状況、ないしはリミナルスペースとして現代科学の一つの大きなテーマとなっている。

2026年3月28日土曜日

「バウンダリー」推考 7

 以上で「3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念」を書いたことになる。次の「4.境界侵犯と相転移、トラウマ SOC」に移る前に内容を少しまとめておこうか。  バウンダリーは実際には剛構造として契約書に記載され、固定されているだけのものではない。それは生きた人間が運用するものでもある。すなわちそれは内在化され、心の中で自由な取り回しがなされる。そしてその在り方が「柔構造」的だというわけだ。(また何か新しいことを言っているぞ。)  例えば(まとめなのにまた例を出すのか?!)高速道路の法定速度が時速60キロだと定められている。これは絶対に59.9キロでも60.1キロでもない。ブレることがないから剛構造だ。それについて文句を言う人はいない。(例えば警察署にねじ込んで、「法定速度を60.1キロにしてくれませんか。お願いしますよ」と嘆願する人などいない。自分の文句により変更されることは絶対にないから、そんなことをするのは時間の無駄だということを知っているのだ。)しかしそれを頭に置いているドライバーが、最高時速何キロで走るかは全く別の話だ。ひょっとしたら70キロくらいかもしれない。だから実際に人間により運用される速度は柔構造的なのである。  もしこの柔構造という視点を持たないとどうなるのか。治療開始時間は守られるべきもの、として患者がそれを守ることに全力を注ぐとしたら、それが守られないことはすなわち患者が治療自体に抵抗しているということになる。そうすることは、治療者に迷惑をかけたり、契約違反となったりするという形で治療関係の維持を困難にする可能性があるため、治療に対する抵抗と考えざるを得ない。だからそのような行動は直ちに取りあげなくてはならないというのが古い分析的な考え方だ。  しかし実際の治療開始時間は、様々な意図や偶発事により、患者だけでなく治療者によってもチャレンジを受け、揺り動かされているものなのだ。そのような揺らぎは生きた人間がそれを運用する以上は必然的に生じると言っていい。  このように考えると、剛構造的なバウンダリーの何が柔構造的となるかは、そのバウンダリーの性質によることになる。揺らぎようのないバウンダリーは確かにある。治療の行われる場所やその料金などはそれに相当するだろう。分析家のオフィスは空間的にはいつも同じである。毎回その住所が変わったり、地盤沈下で突然地下に埋もれたりはしない。またセッションの料金(例えば一回一万円)は、分析家のその日の体調や気分で9000円になったり、12500円になったりはしないし、分析家も患者もそれらを固定されたものとして動かすつもりはないから、それについての力動は少なくとも短期的には働かない。(ただしある患者が1万円という料金について問題にし始め、治療者もそれに応じてそれを変更するための話し合いが行われるとしたら、それはとたんに柔構造的になるという可能性は否定できないが。)  しかしそれ以外の要素の多くは揺れ動く余地を持っているし、それは常に交渉により変わりうるものだ。治療終了時刻にしても、患者が気分が悪いから早退することもあるだろうし、治療者が少しうっかりして終了時間を遅くしてしまうこともある。つまりそれが柔構造かどうかは、それが両者によって動く余地があるものとして扱われるかにより違ってくるのである。(そうか、それが剛構造と柔構造ということなのだ。一つ理解が進んだぞ。)  ところで柔構造については次のように一般化できるだろうか。  柔構造的なバウンダリーが実際に運用されるときは、それに両側からかかる力、たとえばそれを広げる方向と狭める方向の二つが釣り合うことで安定する。その意味では福岡伸一先生の「動的平衡」の概念に近い。これは物理法則にしても言えることだ。(相変わらず脱線だ!)  例えば水の氷点は0度である。それは理科の教科書に書かれているし、そのような形で一応剛構造的に定まっていると考えられている。(ただし一気圧という条件下だろう。)そしてその温度の付近では、水の分子同士の氷結と融解の力がバランスを保たれているのだ。しかしそれは0度だから平衡状態になる、というのではない。平衡状態になる時の温度が結果的に0度として示されると考えた方がいい。そしてそれは常に細かく揺らいでいるものだ。同様に治療開始時間も終了時間も実際にはそのたびごとに揺らいでいるのはこれまでの例から明らかだろう。 それではバウンダリーをめぐる両方の力の正体とは何か。その一つの候補として挙げられるのが、ホフマンの「儀式性と自発性」の考え方である。この点について以前に書いたのは以下のような内容だ。  ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つは「それを破ったら大変な事になるかもしれないので、しっかり守らなくては」という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎにより成立している。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を「自発性」、「後者」を儀式としたのだ。  私たちの個人的な生活における行動はことごとくこの種のせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。  しかしこれは二者関係においては一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」されるのである。以前、「患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性である」と言った。患者は時間を減らす自由はある程度あるが(「今日はお先に失礼します」)、それでも「あまりに早く退出するとさすがにまずいだろう、まるで治療をサボっているように思われてしまうから」という抑制がかかる。また時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(といっても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合、或いは火災が発生して緊急避難をしなくてはならない時など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。  ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。そもそも人間存在は、生きているかなりの時間をこの「儀式」と「自発性」の境界線上に浮遊 poise している状態なのだ。フロイトが考えたような形での自由連想が実現している状態がそれに相当するかもしれない。つまり完全に抑制がなくなって退行しきった状態でもなく、~すべしという観念にがんじがらめになっている状態でもなく、その中間でいいバランスがとれている状態。治療構造はその上で患者がバランスがとれるように張られている格好のロープというわけだ。

2026年3月27日金曜日

「バウンダリー」推考 6

  ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。  「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃないと考えるようになっているんだ。それに多くの場合そのどちらとも決められないからね。」  つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはあまりならなかった。ただしその種の出来事の扱い方の経験値が増すのである。これはどういうことか。  たとえば患者さんが何回か遅刻することが続いても、すぐに解釈による介入、とはならないだろう。「あなたは最近セッションに何回か遅れてきますね。それは何を意味しているのでしょうか?」などと尋ねる事はしないことが多い。一つにはそのような言い方はもろに「遅れないように!」というメッセージを伝える事になってしまうからだ。患者の繰り返される遅刻は、彼が分析家に気を許し始めているからかもしれないし、一つの自己表現かも知れない。あるいは分析家の出方を試しているのかもしれない。しかし単なる偶発事、たとえば患者の時計が数分狂っていることに気がついていないからかもしれない。そして分析家の側も、言葉にはしなくとも色々感じ、あるいは考えるはずだ。患者に軽んじられていると感じたり、挑戦を受けたような気がしたり、はたまたほんの僅かの自由時間を患者からプレゼントされたと感謝するかもしれない。その様々なやりとりが重要なのだ。これらの心の動きのある部分は言葉として自由に交わされるであろうし、それに従って二人の間での「開始時刻」の扱われ方がカスタマイズされていくのだ。  いずれにせよ「治療抵抗」という呼び方ではくくれない様々な事情が浮かび上がってくる可能性がある。そしてこのように考えると分析的な「抵抗」の概念は非常に問題含みであることもわかるだろう。その概念はかなり高飛車で上から目線なのである。

2026年3月26日木曜日

「バウンダリー」推考 5

   上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは自己開示の例であった。両方ともある種の境界がそこに引かれていることで、それを原則的には守ろうとする二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれは境界を厳密に守る事に徹することによって、ではない。境界を意識化し、それを念頭に置くことによって、である。治療者は患者からチャレンジを受け、境界を押したり引いたりする力を加えられ、それに対してある程度の柔軟性を発揮して対処する。それが柔構造的なやり方だ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はその境界はもっとしっかりとした、やわらくて同時に強靭なものになって行くのだ。そうして境界のマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくのである。  治療者と患者のやり取りを、押し相撲にたとえよう。そして患者の方が治療時間の延長を望んだり、治療者の自己開示を迫るという形で治療者を押してくる。治療者の皮膚は柔らかく弾力がある。患者がちょっと治療者のお腹のあたりを突っついても、その皮膚はその指を跳ね返してくる。その時治療者は多少困惑の顔色を浮かべ、「どうしたの?」と少し不思議そうな顔をするだろう。そこで患者はもっと強く押してみる。すると治療者の体は多少揺らぐが、押された力に応じて踏ん張るので、倒れることがなく安定を保つことができる。しかし治療者は先ほどよりはもさらに困惑の色を浮かべ「そんなに押さないでくださいね。どうかしましたか?」と尋ねてくるだろう。  このように治療者はその力に応じて反応をし、患者の側はどこら辺が引き際かを知る。ただその際の治療者の反応は依然として穏やかで、患者からのチャレンジに挑発されて仕返しをしてくるわけでもなく、心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、自己防衛のできる人間としてそこに存在し続ける。そこで患者が感じるのは、自分の体をしっかり保ち、かつこちらの働きかけに応じた反応を示す人間としての治療者であり、その動きを徐々に取り入れ、内在化させていることが望まれるのだ。  このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう? それは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はすぐに指摘されたり、ピシャッと跳ね返されたり、あるいは何事もなかったかのように無視されたりするだろう。「私の来週のキャンセルの理由をどうしてお尋ねになるのですか?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、剛構造的な治療者は「はい時間ですね!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。  ここで示したような剛構造的な治療者は現実にはあまり存在しないかもしれない。治療者もそれなりに普通の人生経験を積んできているはずだからだ。しかし多少なりともロボット的な印象を感じさせるとしたら、その治療者は治療構造を何が何でも厳密に守るべし、という誤った教えをかたくなに患者にも自分にも押し付けてくる人という事になる。  なぜそのような治療者が存在するかを考えてみる。一つは、治療者の多くが「左脳人間」であり、境界を少しでも踏み越えることが著しい不快感や違和感、ないしは不安を喚起するという可能性である。ただそのような人が精神分析を志す可能性はあまり高くないだろう。そしてもう一つは治療構造を誤って理解しているために、良かれと思いその遵守を目指し、それを揺るがせる行動については抵抗とみなすという可能性である。これはかなり経験を積んだ精神分析家にもみられる可能性がある。いずれにせよ患者の側は治療者を血の通った人間として認識することが出来ないであろう。

2026年3月25日水曜日

「バウンダリー」推考 4

 以上の例に挙げた治療開始時間は精神分析において比較的わかりやすいバウンダリーの例と言える。しかし精神分析には目に見えにくい、それ自体をバウンダリーとして把握しにくいものもある。そこでも互いに逆方向の「半柔構造」が存在してそれが治療者と患者の力動を生んでいる。その例として治療者の匿名性の問題を考えよう。   精神分析における匿名性の原則とは、治療者が原則として自分の個人的な情報を意図的に患者に伝えない(自己開示をしない)という原則である。これはフロイトが最初に唱えたことで、多くの古典的なやり方で治療を行う分析家にとっては今でも重要な原則である。そしてこれを患者と治療者の間に引かれた線引き、バウンダリーに関わる問題と考えることができる。  ところで私はそれに対して自己開示は必要に応じて「あり」だと考える。しかし私の主張は、フロイトに反対したものというわけではない。もともとフロイトの考えではこの匿名性の原則は常に守られるべし、というニュアンスがあった事に対する代替案としての意味を持っていたのだ。決して「むやみに自己開示をすべし」ではない。  わかり易く言えば、「治療者は必要な時以外は自己開示をするな」という、より現代的な匿名性の原則と「治療者は必要な場合には自己開示せよ」という私の主張とは結局同じことを言っていることになる。そしてこの意味でのバウンダリーは、それが剛構造的にそこに示されることで逆説的に二者の間の精神力動的な場を提供するのだ。  一般の読者にはこの匿名性の原則が意味することはピンとこないであろうから、さっそく例を示そう。先ほどこの原則を「治療者は必要な時以外は自己開示をするな」と言い換えたが、実際は患者は治療者のことをいつも知りたいと思っているわけではない。それどころかむしろ逆のこともあろう。つまり患者は治療者の個人的なことは聞きたくないかもしれないのである。

 私があげる例は次のようなものだ。治療者が患者に来週のセッションをキャンセルする必要があると患者に告げるとする。実は彼の親戚に不幸があり、その日に告別式が行われることになったのだ。その際患者に急なキャンセルの事情をどこまで話すかは結構微妙な問題だ。治療者にはそのような急なスケジュールの変更がよくあり、患者が慣れているという場合には、特に理由を告げる必要もないだろう。しかし治療者の健康問題とか家庭のさまざまな事情を心配する患者にとっては、キャンセルの理由を知ることは一時的には不安の軽減(場合には逆効果?)に繋がるだろう。また患者によっては「きっと私があまり困らせるから会いたくないからではないか?」と疑う場合もあるかもしれない。すると治療者の側から、それが杞憂であるという一つの手掛かりが与えられるだけで、その患者はほっとするだろう。  ところが患者によっては全く治療者のキャンセルの理由を知りたくない場合がある。治療者が「親戚が他界したので故郷に帰ります」と伝えることは、ある患者にとっては大迷惑だったりする。「先生の個人的なことは聞きたくありません。なるべく実在しない存在と感じていたいのに!」と言われることもあるのだ。  つまり治療者が個人情報を患者に伝えることは「言い過ぎ」にも「言わなさすぎ(出し惜しみ)」にもなり、いずれにせよ少なからず治療関係にインパクトを与える。どちらに転んでも「先生は私の気持ちをやはりわかっていないんだ」という事になるとしたら、そのインパクトの大きさに従って治療で扱わざるを得なくなる。  しかしそこで治療者がそのことを取り上げて扱おうようとしても、その「扱い方」もまた問題になるだろう。ネガティブな反応だけに絞っても、次のようなものが浮かぶ。「どうして『家族の事情で』くらいに留めてくれなかったんですか?先生は私が何でも先生のことを知りたいとでも思っているんですか?」「父親を亡くした時の自分のことを思い出しました。先生はどうしてそんなに平然としていられるのですか?」「あれから父親を亡くしたという先生の気持ちのことを考えてばかりいました。どうしてそんな余計なことを私に伝えたんですか?」「私が先生のお父さんのことについて聞いたときの私の気持ちをどうして尋ねてきたりするんですか?私の気持ちについてあれこれ聞かないで下さい!」など様々だろう。そしてそれぞれに対して治療者の側からのいくつもの返し方が存在する。さらにそのそれぞれにいくつかの患者の反応が考えられる・・・。


2026年3月24日火曜日

「バウンダリー」推考 3

  3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念

 私はそれからしばらくして生活の場を米国に移したが、そこで体験したことは一言では言えないものの、あえて言うならば、「境界はいくらでも侵犯される」ということだった。精神分析の構造や境界は、そこにしっかり引かれる傾向にあるが、それでもしばしば平気で破られている。誤解を受けやすいが、私は「境界は破られてナンボのもの」と思うようになった。境界は踏み越えられることで生命を保っていると言ったところがある。というよりは、「そもそも境界は生き物だ」、といった方がいいのかもしれない。

 私が精神分析を本格的に学ぶ前に考えていたことは、すでに述べた。それは患者が境界を破る際に、どのような場合にそれが無意識的な抵抗に由来するかについて、直観や一種の嗅覚を身に着けるために、精神分析的なトレーニングが必要であるということだった。だからこそ精神分析の理論をさらに学び、自分でも分析を受け、また臨床経験を積むために留学したのだ(実はこれは口実だというニュアンスもある。要するに私は日本を出て世界を見たかったのかもしれないとも思う。)
 しかし結論から言えば、私は患者との臨床を通じても、そして自己探求の為の教育分析を通しても(週4回のセッションを5年間)、そのような独特な嗅覚が得られたようにはどうも思えない。(あまり言いたくないことだが。)いや、以前より少しはましになっているのかもしれない、ぐらいは言っておこう。しかしそれとは別に、治療構造の重要性を再認識し、それを活用する方法を知ったというところがある。その意味での知恵はついたつもりである。

 私は実は渡米するころまでには、小此木先生の治療構造論を少し疑うようになっていた。「先生、治療構造を厳密に守るというのは建前でしょ?」とまで思うことがあった。「精神分析的にやるということは、いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」程度のことではないかと考えるようになっていた部分がある。実際小此木先生自身がセッションの開始や修了の時間をあまり守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそのようなことをおっしゃっていた。「嫌ね、僕はこういう立場だから、精神分析はちゃんと構造を守ってやりましょう、というけれどね。本当は‥‥」みたいなことを精神分析の講義でよく口にされていたのだ。
 しかし今こうして考えているうちに、まさにある意味では小此木先生の(表向き上の)教えの通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は次のとおりである。「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」。それはそうなのだが、私が至った考えはそれとも少し違うのである。私が今考えているのは、「バウンダリーはそれ自体が明確に定まっていることで効力を発揮するのであり、それをめぐる微妙なやり取りがある両者(患者と治療者)の心の動きの場 field を形成する」ということなのである。ボクシングならボクシングリング、相撲なら円形の土俵があってこそ、そこで初めて戦いが成立するのである。治療構造とはその種のものなのだ。つまりそれは「守るべきもの」というよりは「『守るべきだ』と意識するべきもの」なのだ。

  そのことを説明するためにある架空事例を考える。ある患者の精神分析のセッションが2時から始まるという治療構造が設定されているとする。ちなみに日本でプライベートオフィスを構える治療者は通常は待合室を持たないので(部屋代が倍になってしまい、支払えない!)、患者はきっかり2時に、ないしはそれ以降にオフィスをノックするという決まりが設定されるのが普通である。開始時間とはそのような状況において設定されていると考えていただきたい。
 さてそのような設定で何が起きるのか。まず治療者は当然ながらその設定を厳守しようとする。倫理的な縛りは彼の方が重いが、それは彼が料金を取ってサービスを提供する側だからだ。彼は2時きっかりか、それ以降の患者のノックには素早く反応して患者を招き入れる。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれを僅かでも遅れることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は「内側に向かって」剛構造的ということだ。
 しかし治療者にとっての開始時間というバウンダリーは「外側に向かって」は少し柔らかいのが普通だ。つまり少し早めのノックにどれだけ反応するかについては治療者の側の裁量があるのである。たとえば治療者の時計では10秒早く患者がノックした場合にも、「まあいいか」となることはよくあるだろう。患者の時計が10秒だけ進んでいたのかもしれないし、ひょっとすると治療者自身の時計の方が少し遅れていたかもしれない。あるいは患者の側の気の焦りがあったのかもしれない。だから10秒前のノックでもドアを開けることは「サービス」としては十分にありうるのだ。
 しかし普通治療者は2,3分ほど早いノックには反応しないだろう。無視する、答えない、というのが普通の反応である。まだ彼自身がトイレから戻っていないかもしれないし、そもそも前の患者さんの終了時間がなぜか遅れに遅れて、まだ立ち去っていないかもしれないからだ。その意味で治療者の時間厳守は外側には柔構造的であり、その意味では開始時間に関しては「半剛構造的」と言えるだろうか。

 そして興味深いことに、患者にとっては逆方向に「半剛構造的」であることがわかる。

患者は2時以降は自分の時間だという感覚がある。だから2時に10秒遅れてもさほど気にしないかも知れない。それは患者の選択肢の一つである。より早く来ることには抵抗がある。5分前に来てノックしても治療者はドアを開けないし、さぞかし迷惑に感じるのではないかと思うだろう。それに前の患者がまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。
 しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。

 逆に患者が2時ちょうどにノックをしても、治療者が10秒遅れでしかドアを開けてくれないとしよう。患者は治療者に時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「10秒間というそんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかホンのちょっとでもひじ掛けの中央線(そんなのは現実にはないが)を越えて侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。そしてこの意味で患者にとってはバウンダリーは内側に柔らかいということになる。


2026年3月23日月曜日

「バウンダリー」推考 2

 2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーについての私の意識が生まれたのは、私が精神分析と出会った時である。(ちなみに私の属する世界で用いる精神分析では、バウンダリーはシンプルに「境界」、そしてそれが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。)

 その少し前に精神科医になっていたわけだが、精神科医としての臨床の仕事に特にこの問題は関わってこなかった。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 ある時患者さんが分析治療の開始時間の午後2時に3分遅れたという話になったが、そこでS先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人は無意識に治療に抵抗しているんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたから精神科を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくはこの患者の遅刻のことを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。
 人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば絶対にその時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってそうだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者が3分遅れた時には、治療者に会うことに心のどこかで抵抗していたのかもしれない。しかしほかにも遅刻の原因は山ほどあるだろう。電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。決まりが少し破られること(大げさに言えば「境界侵犯」)は偶発的にいくらでも起こりうる。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?事実その日S先生とのケース検討は、この最初の遅刻の部分で大部分の時間を費やしてしまったのだ。
 そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。
 何ともはや単純で理系的な発想である。しかし私はその頃はまだ精神分析は一種のサイエンスだと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の分精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では3分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」私はそれに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ. Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。
 ところがその時の彼の返事は忘れられない。彼はあきれたように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?第一患者さんもその抵抗を無意識にしか持っていないとしたら・・・・」すると彼は厳かに、しかし決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けて、まずは自分自身の無意識の働きを知ることだよ。それにより患者さんの無意識も見えてくるのだから。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」

そしてS先生は続けた。「小此木先生の治療構造の論文を読むといいよ。『治療構造論』は小此木先生の最大の業績だからね」「おおそうか!」と私。治療構造とは要するにセッションがいつから始まり、何時で終わり、料金はいくらで…という治療上の決まりを作っておくことを意味する。要するに「バウンダリー集」と言っていい。私はすぐさま小此木先生の精神分析セミナーの受講を始め、実際に其の謦咳に触れた。そして彼の「治療構造をしっかり定めるからこそ、それをめぐる力動がわかるんだよ」という言葉はその口調までしっかり脳に刻まれた。そして間もなくアメリカに精神分析を学びに留学したわけである。私は精神分析こそが心の探求のための真の道筋だと思い、治療構造は精神分析にとっての重要なツールだと信じて異国の地に降り立ったのである。


2026年3月22日日曜日

「バウンダリー」推考 1    

 1.バウンダリーの起源

 バウンダリーの歴史についての考察という事で原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深いテーマである。精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場である私にとってはとりわけ関心を持たざるを得ないテーマであるため、その立場からの考察になる。
 私のバウンダリーの問題はとりわけ2つの意味において重要である。第1には精神分析や精神療法において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているということだ。そして第2には、そのバウンダリーが乗り越えられたり侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。しかし紙数の関係でこの2に触れることは出来ないかもしれない。
 最初にバウンダリーの問題は広く深いと述べたが、その原型は私たちが持つ身体そのものに関連している。つまりバウンダリーの起源は私たちの身体性に根差しているのである。


 (以下略)



2026年3月21日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 19

 バウンダリー上の「遊び」と臨界

最終的にこの話は臨界状況に至っておしまいになるだろうか。私は基本的に生命体は臨界にあると思っている。動的平衡という考え方も、「自己組織化臨界性」 (Self-Organized Criticality, SOC) もこれに関係している。これについては、3年ほど前(2023年8月29日)にこのブログで書いたことを引用しよう。


脳と心は臨界状況である


 ここで脳や心が置かれる臨界状況の典型的なものについて挙げたい。

 ・あることを思い出しそうで思い出せない時。

  • あるアイデアが閃きそうな時。

  • 怒りの爆発をギリギリで抑えている時。

  • 解離状態において人格の交代が起きる時。

 これらの時私たちは「考え」てはいない。「脳」が自動的に動いている(サイコロを振っている?)だけである。何かを思い出そうとしている時、もう少しでいいアイデアが浮かびそうなときなどを思い浮かべていただきたい。私達はよく中空を見上げたり、眼球を上転させるような仕草をする。たいていの場合目は開いたままである。ただしその目は何か具体的なものを捉えてはいない。出来るだけ何もないような中空に目を泳がせたりする。その様な時私たちは明らかに何かを「待って」いる。向こうから何かが下りてこようとしている、そのプロセスの邪魔をしないように、心の動きを止めるのである。英語で言うと poise している状態。もちろん人によっては散歩をしたり、風呂に入ったりということをしながら、頭をボーっとさせるという手段を取るかもしれない。

 では私たちは何がどうするのを待っているのかと言えば、それは私たちの無意識、ないしは脳からのリスポンスを待っている状態であろう。それはあたかもコンピューターの検索エンジンにキーワードを入れて enter キーを押し、結果を待っている状況に似ている。いずれにせよこのような場面で私達は無意識や脳に対してかなり受け身的な姿勢を取るのである。


「自己組織化臨界性」 (Self-Organized Criticality, SOC)とは?

 さてここで少しわかりにくいタームを導入したい。それはSOCという頭文字である。これは「自己組織化された臨界性 Self-Organized Criticality」の頭文字だが、長ったらしいので簡略化してSOCと呼ぼう。これはどういう意味かといえば、複雑系の中でもあるものは、この臨界の付近に自然と近づいてくるという意味である。

  SOCの定義としては、臨界に向かっては離れ、離れては向かい、場合によっては相転移を起こすシステムであり、広い意味では心、ないしは脳はこのSOCと考えられる。臨界から遠ざかっている時はあまり大きなことは起きない。しかし決断を下さなくてはならない機関であるということは、必然的にいつでもいざとなったら氷結や雪崩を起こすことのできるSOCである。

 ではなぜ脳はSOCなのか。それは端的に動物は生きるという宿命を負っているからだ。動物は安静時でも常に活動し、外界からのエネルギーを必要としている。その為には捕食しなくてはならず、敵から身を守らなくてはならない。つまり行動を起こすわけであるが、それは殆どが臨界状況を含む。例えば猫がネズミを捉える時は、ネズミを捉えるという決断を下す、実際にネズミを捕獲するチャンスを伺う、獲物にこちらの存在を気づかれずに捕獲できるギリギリの距離までおびき寄せる、等はことごとく臨界期なのだ。

 もちろん臨界期を迎えずに生きている生命体もいる。例えば一日に一度餌と水を与えられ、あとは昼寝をしている猫であれば、臨界はめったに起きないかも知れない。全てが計画通り、予測通りに生じ、猫は何もハラハラする機会がないかも知れない。しかしそのような環境を提供してくれるご主人様に捨てられたら、野良になり、臨界につぐ臨界の厳しい生存競争を生きていくことになる。

 それに比べて自然界、例えば大地がSOCだと言えるのだろうか?必ずしもそうではないだろう。たとえばアメリカの中央平原に居てもめったに地震を体験しない。何年かごとに起きる大地震にハラハラすることもない。つまり臨界からは程遠いのである。しかし世界全体の地震の頻度が、リヒター・グーテンベルグの冪乗則に従う以上、全体としては臨界に近いことになる。つまりプレートは常に動いており、世界のあちこちでひずみが生じては地震である程度それが解消され、ということが連続的に起きているわけである。


 つまり臨界状況とは生命体(それ以外にもあるだろうが)が常に近づいては離れていく関係にあるようなものである。そこで様々な事件が起きるのも当然である。臨界状況が面白いのは、ある意味で自明なことなのだ。そしてそこでは相転移という名のどんでん返しが起きる。それはトラウマにもなるのだ。


2026年3月20日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 18

  この話の路線上に出てくるのが「遊び」である。と言っても境界線上の浮遊状態が即、遊びにつながる、という短絡的な主張をするつもりはない。しかし境界線上の綱渡りと遊びには深い関係があることは確かである。  そもそも遊んでいる時には私たちは大きな不安に駆られることはない。不安が強ければ遊んでいる余裕はないだろう。「自発性」がなく、「儀式」のみに追いまくられる状況とは、例えば捕食者に追いかけられて必死に逃げている状況、病の苦痛に耐え忍んでいる状況、あるいは上司からの命令で好きでもない仕事を締め切りに追われて一心にこなしている状況、などであろうか。  しかし一切の不安や「儀式」がない状態もまた退屈であり、結構苦痛でもあるのは確かだ。仕事に追われて忙しい毎日を過ごす人は、休暇を取ってリゾート地に赴き、ビーチで横になってのんびりしたいと願うだろう。確かにそれは思い描く分にはいいが、しかし実際に浜辺で何もせずに横になり「のんびり」する時間に、実際には何分耐えられるだろうか?何をしても許される、他方では~をしなくてはならないというものが一切ない状況もまた、遊びとは程遠い。  私は去年遊戯療法学会での発表でいわゆる「じゃれ合い」を遊びのプロトタイプとして論じたが、ジャレ合いの楽しさにはスリルが必要である。動物の子供同士のジャレ合いには、肉球に隠している爪を出したらお互いに傷つけ合いかねないという迫力が伴う。この状態の特徴は、発揮される「自発性」に一歩遅れて「儀式」が付きまとい、互いにイタチごっこになるということである。ただし本当の意味で両者が伯仲している状態とは違う。その場合はジャレ合いではなくて、ボクシングの試合のようになる。パンチを繰り出すことでカウンターを食らう確率も増す。そのギリギリのせめぎあいで進行するのがボクシングの試合だ。  それに比べて相手のパンチが大したことがないことをわかっており、その分自由にないしは気楽にパンチを繰り出すことができる状況はミット打ち(スパーリング)にたとえることが出来よう。スパーリングの場合コーチはミットを構えてボクサーのパンチを受ける。でも時々ひょいひょいとそのミットを動かし、こちらがパンチを外せば、いつそのミットをこちらの顔面に向けて来るとも限らない。もちろん程よい手加減をわきまえているコーチはそこら辺をうまく調整することが出来、一種の遊びの要素を入れることでボクサーがミット打ちを継続するモティベーションを与え続けるのであろう。

2026年3月19日木曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 17 

  ここでこの境界の問題に、ホフマンの「儀式と自発性」がどうかかわってくるかを示さなくてはならない。以前に書いたのは以下のような内容だ。

 ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つはそれを破ったら大変な事になるのではないか、という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎ合いである。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を自発性、後者を儀式としたのだ。

 私たちの個人的な生活における行動はことごとくこのせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。

そしてこれは治療関係についてもいえる。患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性だと言った。患者は時間を減らす自由はあるが(「今日はお先に失礼します」、と言って時間前に退出することなど。治療者はその患者の自由を尊重すべきであろう。それもまた患者の時間の使い方だからだ)、時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(と言っても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。

 ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。そもそも人間存在は、生きているかなりの時間を(すなわち何かに追われて余計な思考が介入できないような時間を除いて)この「儀式」と「自発性」の境界線上に浮遊 poise している状態なのだ。フロイトが考えたような形での自由連想が実現している状態がそれに相当するのか。完全に抑制が放たれて退行しきった状態でもなく、「~すべし」という観念にがんじがらめになっている状態でもなく、その中間でいいバランスがとれている状態。治療構造はその上でバランスがとれるような格好のロープというわけだ。


2026年3月18日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 16   

  ここで私が40年前に日本を発つとき考えていた「患者さんの遅刻が治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。より正確には以下のように書いた。 「でも[患者さんの3分の遅れは]どの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」

 今の私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。

 「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事はあるよ。でもそのこと自体はそれほど重要なことじゃないんだ。というのも多くの場合そのどちらとも決められないからね。大事なのは治療抵抗の可能性に気がついたら、一応フラグを立てておくことかな。もしその上でそれが繰り返され、そこに何らかのメッセージが含まれるのではないかとより強く感じた場合は、それが単なる偶発事ではない可能性を考えるだろう。まだ確証はないだろうが、それが強いと感じられるのなら、その時点で患者と話してみるといいだろう。でも恐らくそれはそれを感じ取る能力は、分析のトレーニングとはあまり関係ないだろうね。」

 そう、はっきり言って精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり働いてくれないのだ。「でも」と私は続ける。「その種の出来事の扱い方の経験値は増えていくだろうね。」それは以上のような経緯で何らかの反応をし、それに対する相手の反応を見る、という事を通して高まっていくのだ。でも患者さんの遅れを取り上げると言っても、決して「あなたは最近セッションに何回か遅れてきますね。そのことに気づきですか?」などの言い方にはならないだろう。というのもそのような言い方はもろに「これからは遅れないように!」というメッセージを伝える事になってしまうからだ。でもそれはその介入の目的ではない。というか精神分析はそれとは逆のことを目指しているからだ。というのもセッションに遅れるのはある意味では患者の自己表現だし、治療者にセッションの開始を遅らせる権利はなくても、患者の側にはその自由があるのである。

 患者さんの3分の遅れについてのこうした扱いは「柔構造的」と言えるだろう。それは一言でいえば、決して超自我的な役割を分析家が負わないということだ。そしてその結果として実は色々なことが偶発的にわかったりする。たとえば患者さんが乗るバスの時刻表が最近変更になってから起き始めたという事が判明したりもする。あるいは患者が少し遅れることで治療者を試すという意味も含まれていたかもしれない。いずれにせよ「治療抵抗」という呼び方ではくくれない様々な事情が浮かび上がってくる可能性がある。そしてこのように考えると分析的な「抵抗」の概念は非常に問題含みであることもわかるだろう。その概念はとても大切ではあるが、かなり高飛車で上から目線なのである。

2026年3月17日火曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 15

  上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは自己開示の例であった。両方ともある種の境界がそこに引かれていることで、それを原則的には守ろうとする二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれは境界を厳密に守る事に徹していては生じない。治療者は患者からチャレンジを受け、境界を押したり引いたりする力を加えられ、それに対してある程度の柔軟性を発揮して対処する。それが柔構造的なやり方だ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はその境界はもっとしっかりとした、強固なものになって行くのだ。それはなぜなのだろうか?それは境界のマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくからだ。  治療者と患者のやり取りを、押し相撲にたとえよう。と言っても患者の方が一方的に押してくる状況だ。治療者の皮膚は柔らかく弾力がある。患者はちょっと治療者のお腹のあたりを突っついても、その皮膚は跳ね返してくる。その時治療者は多少困惑の顔色を浮かべ、その患者の行動に不思議そうな顔をするだろう。そこで患者はもっと強く押してみる。すると治療者の体は多少揺らぐが、こちらの押す力に応じて踏ん張るので倒れることがなく、安定を保つことができる。しかし治療者は先ほどよりはもっと困惑の色を浮かべ「押さないでくださいね。どうかしましたか?」と尋ねてくるだろう。そう、治療者はそれなりにしっかり反応をしてくるのだ。ただその反応は依然として穏やかで、患者からの揺さぶりに挑発されて仕返しをしてくるわけでもなく、ただ心穏やかな人間としてそこにいることを感じさせる。そこに患者が感じるのは、自分の体をしっかり保ち、かつこちらの働きかけに応じた反応を示す人間としての治療者である。  このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう?つまりそれは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はピシャッと跳ね返されたり、無視されたりするだろう。「私のキャンセルの理由をお聞きになりたいのですね?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、「はい時間です!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。  今示した剛構造的な治療者は現実にはあまり存在しないかもしれない。治療者もそれなりに真っ当な人生経験を積んできているからだ。しかし多少なりともロボット的な印象を感じさせるとしたら、その治療者は治療構造を厳密に守るべし、という誤った教えをかたくなに患者にも自分にも押し付けてくる人という事になる。 そのようなことが生じる可能性を考えてみる。一つは、治療者自身が左脳人間的であり、境界を少しでも踏み越えることが著しい不安を喚起するという可能性である。ただそのような人が精神分析を志す可能性はあまり高くないだろう。そしてもう一つは治療構造を誤って理解しているために、良かれと思いその遵守を目指し、それを揺るがせる行動については抵抗とみなすという可能性である。これはかなり経験を積んだ精神分析家にもみられる。 いずれにせよ患者の側は治療者を血の通った人間として認識することが出来ないであろう。


2026年3月16日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 14 

  しかし精神分析的な治療関係においては、治療者がプライバシーを持ち込むことは、「それが患者にとって何らかの意味で助けになる限りにおいて」である。つまり実際は患者の側は治療者の個人的なことは聞きたくないかもしれないという可能性も考えて、むやみに伝えないことを原則とするのだ。  もし治療関係にかかわる事で治療者の側の情報を伝えるのであれば、それは最初からある程度意図して開示すべきものなのであろう。たとえば治療者が「今日は花粉症で何回かくしゃみが出るかもしれませんが、風邪ではありません。」とか「骨折をして松葉杖を使っていますが大丈夫です(その痛々しい姿は見ただけで明らかであり、それを隠しようもなく、そのことで患者のよけいな不安を取り除くため)」等の言葉がけは、治療者がそれを伝えた方が治療をよりスムーズに、かつ安全に行えるのであれば行うべきであろう。  ところが聞かれもしないのに治療者が「昨日は〇〇という映画を見ました。ラストシーンがよかったなあ。」などと伝えることの意味は恐らく皆無である。それは治療に全く関係ない、ただの世間話だからだ。しかし場合によってはそのような話も治療的な意味を持つかもしれない。たとえば患者の側が非常に緊張していて、治療者側が何かパーソナルな話を挿入することがその緊張感を和らげる助けとなると考えた場合などだろう。  このように考えると、治療者が自分について何をどこまで話すかというのはかなり微妙だが、確かにそこにバウンダリーが存在することで意味を持ってくると言えそうだ。治療者は塀の上をバランスを取りながら歩いているようなところがある。そして患者に何を伝え、何を伏せておくかを細かく考えながら歩を進めるのである。

 さらにもう一つ具体例を挙げる。治療者が患者に二週後の週のセッションをキャンセルする必要があると告げるとする。その理由をどこまで告げるか、ということは結構微妙な問題だ。毎年同じ時期に学会関連の出張があり、今回は治療者がそれを伝えるのが遅れただけだと患者が察するであれば、特にキャンセルの理由を告げなくても問題はないだろう。しかし治療者の健康問題とか家庭のさまざまな事情を患者の側が心配する理由がある場合には、治療者のキャンセルの理由を知ることは一時的には不安の軽減(場合には逆効果?)に繋がるだろう。また患者によっては「きっと先生は私とはあまり会いたくないからではないか?」と疑う場合もあるかもしれない。すると治療者の側からの一言で、それが杞憂であるという一つの手掛かりが与えられるだけで、その患者はほっとするだろう。  ところが患者によっては全く治療者のキャンセルの理由を知りたくない場合がある。治療者が「父親が他界し、故郷に帰ります」と伝えることは、ある患者にとってはそれを伝えられてありがたく感じるかもしれない。しかし別の患者には大迷惑だったりする。(「先生の個人的なことは聞きたくありません。なるべく実在しない存在と感じていたいのに!」と言われることもあるのだ。)  つまり治療者が個人情報を患者に伝えることは「言い過ぎ」にも「言わなさすぎ(出し惜しみ)」にもなり、いずれにせよ少なからず治療関係にインパクトを与える。どちらに転んでも「先生は私の気持ちをやはりわかっていないんだ」という事になるとしたら、そのインパクトの大きさに従って治療で扱わざるを得なくなる。  しかしそこで治療者がそのことを取り上げて扱おうようとしても、その「扱い方」もまた問題になるだろう。ネガティブな反応だけに絞っても、次のようなものが浮かぶ。「どうして『家族の事情で』くらいに留めてくれなかったんですか?先生は私が何でも先生のことを知りたいとでも思っているんですか?」「私の父親を亡くした時のことを思い出しました。その時は私は悲しみのどん底でした。先生はどうしてそんなに平然としていられるのですか?」「あれから父親を亡くしたという先生の気持ちのことを考えてばかりいました。どうしてそんな余計なことを私に伝えたんですか?」「私が先生のお父さんのことについて聞いたときの私の気持ちをどうして尋ねてきたりするんですか?私の気持ちについてあれこれ聞かないで下さい!」など様々だろう。そしてそれぞれに対して治療者の側からのいくつもの返し方が存在する。さらにそのそれぞれにいくつかの患者の反応が考えられる。これも考えればきりがない。

2026年3月15日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 13

  実は告白するが、この論文は全く進んでいない。今の私の一番の気がかりはこのことだ。締め切りは4月の後半だが、このままだと単なるエッセイか、自分自身の著書(治療的柔構造)一冊しか引用文献のない出来損ないの論文になってしまう。はっきり言って…執筆を引き受けるべきではなかった。このテーマについて私は書く資格がないからだ。でも引き受けてしまったからにはしょうがない。とりあえず書き進めよう。トホホ・・・・

 いろいろ回り道をしているようだが、私はどうして治療的柔構造の発想に行き着いたかを書こうとしているのだった。しかし書いているうちに新たな考えが浮かんでくるのだ。つまり自分の中で全く「仕上がっていない」テーマなのだ。だから一点に収束していかないのだ。
 ともかくも精神分析の臨床をやりながら思ったのは、患者と私との会話において起きている力動(つまり感情的なやり取り)はほぼこのバウンダリーを巡って起きているということに気が付いたのだ。例えば開始時間、終了時間がそうだった。開始は2時くらい、終了は2時50分くらい、というのであれば、起きないことが、きっちり2時から2時50分と定められていることで起きる。  例えば私が少なくとも分析的なやり方を多少なりとも意識している時は、いつも終了時間はかなり正確に守っている(ただし終了時間なら正確には2時50分に終了にしてはいない。必ずほんのちょっと遅くにしている。ここですでに柔構造的になっているのだ)。だから私が話し続ける患者のために(私と患者の間で暗黙に定まっている終了時刻から)30秒間延長したら、ふつうそのような「持ち出し」は相手に伝わる。分析において構造の微細な侵犯(それほど大げさなものではないが)は患者の側にも伝わっているはずだからだ。そしてこれはアバウトな構造では生じないことなのである。これが「柔構造の基底に剛構造あり」と言われる所以だ。(←実は今自分で作った諺のようなものである。)

 治療構造としては時間以外にどういうことがあるだろう? たくさんある。その中で「匿名性の原則」を例に挙げよう。一挙に話が複雑になるが。治療者は原則として自分の情報を意図的に患者に伝えない。これはフロイトが最初に唱えたことで、多くの古典的なやり方で治療を行う分析家にとっては今でも重要な原則である。これを患者と治療者の間に引かれた線引き、一種の治療構造と考えよう。私はそれに対して自己開示(治療者が自分の情報を伝えること)は必要に応じて「あり」だと考える。しかし、である。自己開示は匿名性の原則があってこそ意味を持つ、というところがある。最初から何でもあり、では意味をなさない、というか意味が薄らいでしまう可能性があるのだ。

 もちろん友人や同僚どうしなら、自分のことをある程度は明かすのは、ある意味ではマナーの範囲だ。米国でも友人や同僚の間でどこまでは話すということが大体決まっていて、そのことは特別の理由を除いては互いに隠さないというところがある。結婚をしていたら指輪を身に着ける、という暗黙の決まりのようなものである。つまり個人情報に関してのバウンダリーはしっかりあり、だからこそ自分のプライバシーを執拗に明かす露悪的な人の前では、人はそこに「KY感」を感じてそ「引いて」しまうものだ。


2026年3月14日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 12  

  古き良き時代はこうではなかっただろう。いい加減、別の意味で柔構造的だったはずだ。昔の物々交換の時代に、隣人といつもニワトリ一羽と袋一杯のジャガイモとを交換していたとしよう。あなたはジャガイモ畑の所有者の方だ。するとある日「今日の鶏はちょっと小ぶりだな」とか「今日のジャガイモの袋はちょっといつもより小さいな」とお互いに思ったりするかもしれない。しかし確証が得られず、モヤモヤで終わっていた可能性がある。そのくらいのことでもめ事には発展しないはずだ。  しかし人間はお互いに被害的になる傾向があるからこそ、お互いに相手にごまかされていると思い、不仲や喧嘩につながることが多いのだ。逆に相手にサービスしてもらっているとお互いに思っているようなケースはずっと少ないだろう。おそらくそのような理由もあり、やがて価値の比率を重さで決めるなどし、そこに貨幣が導入されて定価が定まる。土地の境界もしっかり線が引かれてお互いにそれを厳密に守るようになるはずだ。  相変わらず脱線気味だが、私はこう言いたい。治療構造として開始時間が2時、一回50分と定められているからこそ、そこで「サービスをしてもらえた」とか「終了時間を一秒たりとも延ばしてくれないなんて、なんて頑固な治療者だろう?」などのあらゆるドラマが生じる。  興味深いことに定刻に始まり、定刻に終わったとしてもドラマが起きるのだ。お互いに持っている時計の時刻が数秒ずれるという事はありうる。すると患者が2時きっかりにドアをノックしても、少し時間が遅れている時計を使っていた治療者の方は、「まったく、まだ10秒あるのに…。だいたいほんのちょっと遅れてノックするのが礼儀だろう?」(←私の創作である。ただし私は定刻よりほんのちょっと遅れてノックをするようにしている。ノックされる側としては、時間よりほんの少しでも早くノックされるのは侵入的に感じ、遅れることで余裕をもらえたと思うからだ。)  なぜこんなことが起きるかと言えば、人間のやることは、(そして自然現象もそうであるが)常に揺らいでいるからだ。そして私たちは気分の波にも翻弄される。治療者と患者の間の挨拶にも表れるだろう。これは境界や治療構造とは異なるが、治療開始には治療者が「それでは始めましょう」と声をかけるとする。あるいは患者が「ではお願いします」で始まるとする。これは目に見えない治療構造として定まっているのだ。すると治療者の「それでは始めましょう」に彼の機嫌が反映されていたり、その声の大きさや嗄れ具合に体調が現れている可能性がある。するとセッションはいつもとはかなり違ったトーンで始まり、「先生はどうしたんだろう?」「気のせいかも知れないが、今日はあまり頷いてくれないな?」などと考えるようになっていく。  私はバカバカしい話をしているのであろうか?実は人間同士のやり取りでは、これは普通に起きている事であり、精神分析でもそうなのだ。仲のいい夫婦でも時々、本当にどうしようもなく些細なことから口論が始まるのを私たちはよく知っているはずだ。

2026年3月13日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 11

  この話、私が予想していなかった方向に向かっている。「治療構造をしっかり定めるからこそ、それをめぐる力動がわかるんだよ」とは、小此木先生が私が新人の頃に言っていたことだ。しかし治療構造を厳密に守ることの意味を疑い始めていた生意気な私は「それは建前でしょ?」と思っていた。「いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」(小此木先生があまりそれを守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそうおっしゃっていた。)しかし今こうして考えているうちに、まさに小此木先生の通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は正しかったのだ。しかし通常考えられるのとは別の意味で、なのだ。それに「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」という意味ともまた微妙に違うのだ。でもうまく説明できるだろうか?  セッションが2時から始まるという構造であったとする。治療者はぜったいにそれを厳守しようとする。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれをおろそかにすることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は剛構造的? どういうことだ?  ここで少し脱線して、商売を例にとって説明したくなった。治療者がお肉屋さんだとしよう。しかも古いタイプのお店で、量り売りをしているとする。昭和の肉屋さんはこうだったなあ。今でも町のパック詰めしない肉屋さんはそうか。  まあそれはともかく、100グラム300円の豚コマを売る時に、お肉屋さんは器に100グラム以下の豚コマを盛ることは絶対にできない。逆にそれ以上どれだけ「おまけ」をつけるかの裁量がある。(293円とかをつけるなら別だけれど。)お客の側は、肉屋が100クラムと主張している肉に、299円しか払うことは出来ない。ただし100グラム分以上のお金をチップ込みで払うという裁量はある。つまり物の価格は、肉屋にとっては料金という境界を内側にへこませることならできる。逆に客にとっては、絶対に内側にへこませることは出来ないが、外側に撓ませることならできる。つまり肉屋と客にとっては、値段という境界は「半柔構造的」(それも逆向きに)になっているのだ。  話は脱線気味だが、治療についても実は同じことが言える。患者は2時より早く来ることは出来ない。来ても治療者はドアを開けないのだ。第一前の患者さんがまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。  逆に患者の側なら、2時にノックをしても、20秒遅れでしかドアを開けてくれない治療者には時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「そんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかひじ掛けの中央線よりホンのちょっとでも侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←時代は適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。

2026年3月12日木曜日

共感とその限界 3

 最後に

 最後に今日の発表の内容を簡単にまとめておこう。

 この発表では、いわゆる支持的療法の現在の立ち位置について述べた。この問題は当センターの皆さんが週一回かそれ以下の頻度の精神療法を日々行っている場合が多いため、それだけ重要な問題であろうと考え、テーマとして選んだものである。
 最初にメニンガー・クリニックにおけるPRPについて説明したが、そこではいわゆる表出的な手法よりは支持的なアプローチの有効性が明らかにされたという意味で画期的なものであった。そしてその影響もあり、海外の精神療法の世界では、支持的療法の再評価が進んでいる。そしてそれと同時に起きているのが、精神療法家たちの精神分析離れといった現象である。
 しかし今の時代も、少なくとも日本の精神分析の世界では、支持的療法はその評価を十分に与えらえていないという印象を持つ。やはり転移の解釈といった王道が治療的な価値が高いと考えられ、それこそが本物の精神分析であるという、私が「モーセの十戒」と呼んだ考え方が支配的であると言っていいであろう。ただし転移解釈の有効性を否定するような根拠はまだ十分でないとしても、支持的なアプローチの有効性を示す根拠は疑いようがないと言っていい。

 私は次に支持療法的な介入の中で、共感に焦点を当てて論じた。しかし共感の重要性を手放しで論じたというわけではなかった。実は共感を私たちが十分にわかっているかどうかには、私はかねてから疑問を持っていたのだ。少なくとも自分ではよくわかっていなかったと思う。そのことをAIとのやり取りで痛感したというのが私の話の後半部分であった。

 AIは中立的であるはずだ。なぜなら一切の逆転移を有しない(はずだ)からだ。AIの人の心とのかかわりについて論じる際に、これほど明確なことはないであろう。AIは体験を持てないし、物事を(人間が行うような意味で)理解することはできない。しかし人間の問いかけを「機能的な意味で」理解を行うことが出来、またそれを可能にするような明らかな「知性」を有する。そのAIがなぜ人間との対話で肯定的な言葉を伝え、ポジティブな評価の言葉を投げかけ、しかもここが重要なのだが、なぜ人はそれを作為的、虚言、などとみなすことなく、むしろ有難さを感じつつ受け入れるのであろうか?

 この問題に対するアプローチとして私が選んだのは、「いかにAIは優れて共感力を発揮できるのか?」ではなかった。むしろ「なぜ人間がAIのようにできないか?」について論じる事であったのである。そしてそれは私たちが受肉していること、それゆえに自己愛的で羨望を抱きやすく、シャーデンフロイデにまつわる感情に捉われるという現実を認識することでもあったのだ。

 多少なりとも理屈っぽく哲学的な議論になったが、このお話をお聞きになった皆さんが、支持療法や共感の問題について、その価値や限界も含めて再考するきっかけとなれば幸いである。


2026年3月11日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 10

 「治療的柔構造」の概念を作った大野裕先生との対談(岡野 (2008)「治療的柔構造」の最終章)で彼が語っている例が面白い。彼は教育分析を受けていた時、日本から帰ってきたばかりで時差ボケでセッションをすっぽかしてしまったことがあったという。大野先生は「自分が無意識的に示しているであろう治療抵抗を早速扱われてしまう」と不安を覚えつつ、まずはセッションをすっぽかしたことの謝罪の電話を分析家に入れた。すると分析家は非常に素っ気なく、「あ、そ、じゃ次の予約は?」という感じで特に何も言われなかったという。大野先生は「ああ、こんな感じでいいんだ。あまり枠に縛られる必要はないんだ」と思ったというが、おそらくそこに同時に感じられたのは、治療者の寛容さではなかったかと思う。いつも厳しいと思っていた分析家が、実は柔軟で人間味を持った人だった‥‥というわけだが、これも不思議な話なのだ。精神分析以外のもっとユルーい治療関係で、「来れる時に来てね」という治療者との関係があったとしたら、治療をすっぽかしたことで患者はそれほど後ろめたさを感じないし、「あ、そう。じゃ次の予約は?」で済ましてくれる治療者の寛容さも感じないであろう。というより謝罪の電話もしないかもしれない。

 この種のいわゆる無断キャンセルは分析以外ではよくある話であり、その扱いについても普通は「素っ気ない」のが普通だ。通常の社会生活を送り、そこで生じたすっぽかしと同じ扱いになる。それが大事な会合だったら大チョンボであり、「無意識的な抵抗」を扱うどころか、その責任の重さが問われることになる。上司は「その意味を一緒に考えましょう」などと悠長なことを言う場合ではなく、即刻降格か解雇を告げるところだ。  しかしそれがユルーい会合、例えば私の新人時代にS先生が主催していた分析研究会なら、一回無断で休んでも「今度からちゃんと来ようねー。最近来る人数が減ってきてるんだから。」「すみません、ちょっとうっかりして」という「素っ気ない」あつかいをうけて終わるだろう。遅刻やすっぽかしはその意味を深く問われずに日常の一コマの一つとして過ぎていくわけだ。  この問題、考えていくと意外と奥が深い。私が今至ろうとしているのは,剛構造あっての柔構造だという話である。精神分析では時間も料金も休みの設定もきちんと線引きをする。そして治療者も患者もそれを遵守しようと努力をする。するとそれが破られることには必然的に何らかの意味が生じてくる。たまたま電車の遅延で遅れたとしても、それが起きたとしても定刻通りにセッションに訪れるように、どうして普段から10分前には着くように余裕を持って来ないのはなぜか、とか。  つまり剛構造だから構造が破られたときは両者もそのことをしっかり認識することになる。その上で治療者が柔軟にそれを扱うか、あるいは素っ気なく流すかという事が問題となる。日本では治療者が個人開業をしている場合、部屋代の関係で待合室を設置できないことが多い。すると患者は定刻通りにドアをノックすることが求められる。すると少し遅く訪れるか、それとも定刻の30秒早いか、などの僅かな変動は治療者がそれをどう扱うかにとても微妙に反映される。例えば一分以上前に患者がノックをしても返事をしないという分析家もいる。彼は30秒前より近ければOKという風に決めるのだ(個人差あり。)つまり患者も治療構造を微妙に揺るがし、治療者の方もそれに対する対応を調整するという事がより明確になる。それは一つの駆け引きであり、「治療開始時間はしっかり守る」という前提があって初めて意味を持ってくる。

 ここで述べていることはしかし、「治療構造は守るべし」という意識とは微妙に、しかし明確に異なることは強調しておきたい。


2026年3月10日火曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 9

  さて米国に移り体験したことは、簡単には言えないが、精神分析の構造や境界は、そこにしっかり引かれていながら、しばしば平気で破られているという現実であった。「境界は破られてナンボのもの」というところがある(誤解を受けやすいが)。そのことへの疑問が後の「治療的柔構造」の概念に繋がるのであるが、ここら辺をまだきっちり書いたことはなかった。この機会にまとめてみよう。  一対一の対面で行われる通常の精神分析の治療だけでなく、精神分析的なメソッドを用いた入院治療も存在する。メニンガー・クリニックでの入院治療がまさにそうであった。しかし私がそこで目にしたものは、まさに治療構造で患者をがんじがらめにするという傾向であった。患者は一日のスケジュールを学校の生徒の様に一時間目から決められる。一時間目はグループセラピー、二時間目は木工作業、3時間目は全体ミーティング、4時間目は治療者との精神療法や精神分析、などと言う風に(もちろん時間割は個人個人で異なる)。患者は入院した時からLOR(責任レベル)という一種の地位を与えられる。入院当初の一番低いレベルでは外出が許可されず、参加できる活動は制限される。精神科入院で、入院したててまだ具合の悪い患者の多くが保護室から出発するのと似ている。徐々にスタッフとの付き添いでの外出OK、そのうち二人の患者一組で、最後に一人で自由に、という風に進む。つまり上に行くほど制限が緩んでいくわけだ。そしてそれぞれの段階で許可されること、されないことがしっかり規定されている。入院してからの患者は治療が順調に行けば「昇格」していくが、その態度によっては降格もある。他の患者に暴言を吐いたりスタッフと喧嘩をしたりすると、1,2ランク落ちることにもなる。表現は悪いが患者にとっては獄中の生活のようだった。

 患者の多くは社会適応が出来ていた人だから、当然これらの治療構造により定められた制限に不満を覚え、それを様々な形で表現する。個人およびグループセラピーでは患者がそのようなフラストレーションを体験しながらどのように自分を律し、またその不満をどのように合理的に表現するかという事が扱われる。基本にあるのは無意識を扱う精神分析的な考え方なので、当然ながら患者の表現されない、あるいは意識化されていない不満や怒りも検討の対象となる。そしてその不満や怒りをこのようなランク付けにより誘発しているというニュアンスも少なからず感じた。  このようなスタッフと患者の関係は、さながら分析家と患者のような、中立的な立場から観察し、管理する分析家の側とそれに従う患者の側というニュアンスがあった。味気ないというか、型にはめられたというか。何よりもそこに患者の自由や、治療者との生きた交流が感じられない。そしてそれを全体として支えているのが、治療構造という名の規則であり、境界であった。その境界は動かすことのできない、「剛構造」的なそれであった。  精神分析治療のメッカとして世界的に有名なメニンガークリニック。さぞかしすごいことが行われているだろうと思ってきたわけだが、そこで行われている「治療」とはこのようなものなのか・・・・。私は疑問を感じながら一年半の見学生としての生活を送った。それから国家試験に受かってアメリカでの精神科レジデントのプログラムに潜り込むことが出来て、その給料で家庭を支えて精神分析のトレーニングに入ることが出来たというわけである。そしてもう少し徹底してこの治療構造の意味を見定めることになる。それからだんだんわかってきたのは、この剛構造的な治療構造が意味がないという事ではなく、それがあって初めて破られることの意味が浮き彫りになるという事だった。   

2026年3月9日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 8

 2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーの概念は極めて奥が深く、およそどのような文脈からも論じられるだけに、何らかの文脈に沿わない限り、具体的な話が出来ないからだ。それに私が本稿で述べたいテーマであるバウンダリーの両義性の問題にたどり着いた過程を示すためには私の個人的な体験について述べることがベストであるからだ。

 ちなみに私の属する世界で用いる精神分析では、バウンダリーはシンプルに「境界」、そしてそれが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。

 境界についての私の意識が生まれたのは、私が精神分析と出会った時である。その少し前に精神科医になっていたわけだが、精神科医としての臨床の仕事に特にこの問題は関わってこなかった。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 ある時患者さんが分析治療の開始に3分遅れたという話になったが、そこでS先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人は無意識に治療に抵抗しているんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたから精神科を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくはこの患者の遅刻のことを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。
 人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば絶対にその時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってそうだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者が3分遅れた時には、治療者に会うことに心のどこかで抵抗していたのかもしれない。

 しかしほかにも遅刻の原因は山ほどありえるだろう。電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。決まりが少し破られること(大げさに言えば「境界侵犯」)は偶発的にいくらでも起こりうる。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?事実その日S先生とのケース検討は、この最初の遅刻の部分で大部分の時間を費やしてしまったのだ。
 そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。
 何ともはや単純で理系的な発想である。しかし私はその頃はまだ精神分析は一種のサイエンスだと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の分精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では3分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」私はそれに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ. Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。ところがその時の彼の返事は忘れられない。彼はあきれたように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」
 私が3年後にアメリカに精神分析を学びに留学した時点では、私はまだこのレベルにとどまっていたと思う。「これこそ心の探求のための真の道筋なのだ。」


2026年3月8日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 7

 昨日の文章(バウンダリー6)を書いているうちに少し方向性が見えてきた。章立ても浮かんできた。

1.バウンダリーの起源

2. そもそもの問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

3.バウンダリーの本質としての両義性と「治療的柔構造」の概念

4.境界侵犯と相転移、トラウマ


1.バウンダリーの起源


 バウンダリーの歴史についての考察という事で原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深いテーマである。精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場である私にとってはとりわけ関心を持たざるを得ないテーマであるため、その立場からの考察になる。
 私にとってのバウンダリーの問題はとりわけ二つの意味において重要である。一つには精神分析や精神療法において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているということだ。そしてもう一つは、そのバウンダリーが乗り越えられたり侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。そこでこれらの二つのテーマについて主として論じることとする。
 最初にバウンダリーの問題は広く深いと述べたが、その原型は私たちが持つ身体そのものに関連している。私達は身体が自由に動ける一定の範囲の空間を必要とする。私たちは常に収まりがよく、活動のしやすいような身の置き所、空間を探しているのだ。いわゆるパーソナルスペースと呼ばれるものに近い。そしてそこに他者が表れて同じような空間を必要とするなら、両者の境目の問題は必然的に生じる。そしてそれは身体を持つ(「受肉している」存在、ないしは生命体)であれば進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁を見回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物は自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩く。他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだ。そしてそれは生物としての私たちにも同様である。それは日常生活のあらゆる面に関わってくる。しかし新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況でしかあまり意識化されないかもしれないが。

 この様にバウンダリーは他者と生きる私たちの身の安全を保つためにやむを得ず引かれるものというニュアンスがあるが、それはまた社会生活を営む私たちにとっては利便性の面でも重要になってくる。一日の時間をバウンダリーを設けることでいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは隣人達と活動を共にする上では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
 こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。その意味でバウンダリーの歴史はそのまま人間としての私たちの社会の発展とともに細かく張り巡らされ、その上に載って私たちは生きている。そうして大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。