古き良き時代はこうではなかっただろう。いい加減、別の意味で柔構造的だったはずだ。昔の物々交換の時代に、隣人といつもニワトリ一羽と袋一杯のジャガイモとを交換していたとしよう。あなたはジャガイモ畑の所有者の方だ。するとある日「今日の鶏はちょっと小ぶりだな」とか「今日のジャガイモの袋はちょっといつもより小さいな」とお互いに思ったりするかもしれない。しかし確証が得られず、モヤモヤで終わっていた可能性がある。そのくらいのことでもめ事には発展しないはずだ。 しかし人間はお互いに被害的になる傾向があるからこそ、お互いに相手にごまかされていると思い、不仲や喧嘩につながることが多いのだ。逆に相手にサービスしてもらっているとお互いに思っているようなケースはずっと少ないだろう。おそらくそのような理由もあり、やがて価値の比率を重さで決めるなどし、そこに貨幣が導入されて定価が定まる。土地の境界もしっかり線が引かれてお互いにそれを厳密に守るようになるはずだ。 相変わらず脱線気味だが、私はこう言いたい。治療構造として開始時間が2時、一回50分と定められているからこそ、そこで「サービスをしてもらえた」とか「(終了時間を一秒たりとも延ばしてくれないなんて、なんて頑固な治療者だろう?」などのあらゆるドラマが生じる。 興味深いことに定刻に始まり、定刻に終わったとしてもドラマが起きるのだ。お互いに持っている時計の時刻が数秒ずれるという事はありうる。すると患者が2時きっかりにドアをノックしても、少し時間が遅れている時計を使っていた治療者の方は、「まったく、まだ10秒あるのに…。だいたいほんのちょっと遅れてノックするのが礼儀だろう?」(←私の創作である。ただし私は定刻よりほんのちょっと遅れてノックをするようにしている。ノックされる側としては、時間よりほんの少しでも早くノックされるのは侵入的に感じ、遅れることで余裕をもらえたと思うという風に思うけいこうがあるようにかんじるっているからだ。) なぜこんなことが起きるかと言えば、人間のやることは、(そして自然現象もそうであるが)常に揺らいでいるからだ。そして私たちは気分の波にも翻弄される。治療者と患者の間の挨拶にも表れるだろう。これは境界や治療構造とは異なるが、治療開始には治療者が「それでは始めましょう」と声をかけるとする。あるいは患者が「ではお願いします」で始まるとする。これは目に見えない治療構造として定まっているのだ。すると治療者の「それでは始めましょう」に彼の機嫌が反映されていたり、その声の大きさや嗄れ具合に体調が現れている可能性がある。するとセッションはいつもとはかなり違ったトーンで始めり、「先生はどうしたんだろう?」「気のせいかも知れないが、今日はあまり頷いてくれないな?」などと考えるようになっていく。 私はバカバカしい話をしているのであろうか?実は人間同士のやり取りでは、これは普通に起きている事であり、精神分析でもそうなのだ。仲のいい夫婦でも時々、本当にどうしようもなく些細なことから口論が始まるのを私たちはよく知っているはずだ。