2026年3月9日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 8

 2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーの概念は極めて奥が深く、およそどのような文脈からも論じられるだけに、何らかの文脈に沿わない限り、具体的な話が出来ないからだ。それに私が本稿で述べたいテーマであるバウンダリーの両義性の問題にたどり着いた過程を示すためには私の個人的な体験について述べることがベストであるからだ。

 ちなみに私の属する世界で用いる精神分析では、バウンダリーはシンプルに「境界」、そしてそれが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。

 境界についての私の意識が生まれたのは、私が精神分析と出会った時である。その少し前に精神科医になっていたわけだが、精神科医としての臨床の仕事に特にこの問題は関わってこなかった。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 ある時患者さんが分析治療の開始に3分遅れたという話になったが、そこでS先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人は無意識に治療に抵抗しているんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたから精神科を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくはこの患者の遅刻のことを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。
 人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば絶対にその時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってそうだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者が3分遅れた時には、治療者に会うことに心のどこかで抵抗していたのかもしれない。

 しかしほかにも遅刻の原因は山ほどありえるだろう。電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。決まりが少し破られること(大げさに言えば「境界侵犯」)は偶発的にいくらでも起こりうる。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?事実その日S先生とのケース検討は、この最初の遅刻の部分で大部分の時間を費やしてしまったのだ。
 そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。
 何ともはや単純で理系的な発想である。しかし私はその頃はまだ精神分析は一種のサイエンスだと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の分精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では3分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」私はそれに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ. Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。ところがその時の彼の返事は忘れられない。彼はあきれたように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」
 私が3年後にアメリカに精神分析を学びに留学した時点では、私はまだこのレベルにとどまっていたと思う。「これこそ心の探求のための真の道筋なのだ。」