この話、私が予想していなかった方向に向かっている。「治療構造をしっかり定めるからこそ、それをめぐる力動がわかるんだよ」とは、小此木先生が私が新人の頃に言っていたことだ。しかし治療構造を厳密に守ることの意味を疑い始めていた生意気な私は「それは建前でしょ?」と思っていた。「いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」(小此木先生があまりそれを守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそうおっしゃっていた。)しかし今こうして考えているうちに、まさに小此木先生の通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は正しかったのだ。しかし通常考えられるのとは別の意味で、なのだ。それに「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」という意味ともまた微妙に違うのだ。でもうまく説明できるだろうか? セッションが2時から始まるという構造であったとする。治療者はぜったいにそれを厳守しようとする。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれをおろそかにすることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は剛構造的? どういうことだ? ここで少し脱線して、商売を例にとって説明したくなった。治療者がお肉屋さんだとしよう。しかも古いタイプのお店で、量り売りをしているとする。昭和の肉屋さんはこうだったなあ。今でも町のパック詰めしない肉屋さんはそうか。 まあそれはともかく、100グラム300円の豚コマを売る時に、お肉屋さんは器に100グラム以下の豚コマを盛ることは絶対にできない。逆にそれ以上どれだけ「おまけ」をつけるかの裁量がある。(93円とかをつけるなら別だけれど。)お客の側は、肉屋が100クラムと主張している肉に、99円しか払うことは出来ない。ただし100円以上のお金をチップ込みで払うという裁量はある。つまり物の価格は、肉屋にとっては料金という境界を内側にへこませることならできる。逆に客にとっては、絶対に内側にへこませることは出来ないが、外側に撓ませることならできる。つまり肉屋と客にとっては、値段という境界は「半柔構造的」(それも逆向きに)になっているのだ。 話は脱線気味だが、治療についても実は同じことが言える。患者は2時より早く来ることは出来ない。来ても治療者はドアを開けないのだ。第一前の患者さんがまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。 逆に患者の側なら、2時にノックをしても、20秒遅れでしかドアを開けてくれない治療者には時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「そんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかひじ掛けの中央線よりホンのちょっとでも侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←時代は適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。