2026年3月15日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 13

  実は告白するが、この論文は全く進んでいない。今の私の一番の気がかりはこのことだ。締め切りは4月の後半だが、このままだと単なるエッセイか、自分自身の著書(治療的柔構造)一冊しか引用文献のない出来損ないの論文になってしまう。はっきり言って…執筆を引き受けるべきではなかった。このテーマについて私は書く資格がないからだ。でも引き受けてしまったからにはしょうがない。とりあえず書き進めよう。トホホ・・・・

 いろいろ回り道をしているようだが、私はどうして治療的柔構造の発想に行き着いたかを書こうとしているのだった。しかし書いているうちに新たな考えが浮かんでくるのだ。つまり自分の中で全く「仕上がっていない」テーマなのだ。だから一点に収束していかないのだ。
 ともかくも精神分析の臨床をやりながら思ったのは、患者と私との会話において起きている力動(つまり感情的なやり取り)はほぼこのバウンダリーを巡って起きているということに気が付いたのだ。例えば開始時間、終了時間がそうだった。開始は2時くらい、終了は2時50分くらい、というのであれば、起きないことが、きっちり2時から2時50分と定められていることで起きる。  例えば私が少なくとも分析的なやり方を多少なりとも意識している時は、いつも終了時間はかなり正確に守っている(ただし終了時間なら正確には2時50分に終了にしてはいない。必ずほんのちょっと遅くにしている。ここですでに柔構造的になっているのだ)。だから私が話し続ける患者のために(私と患者の間で暗黙に定まっている終了時刻から)30秒間延長したら、ふつうそのような「持ち出し」は相手に伝わる。分析において構造の微細な侵犯(それほど大げさなものではないが)は患者の側にも伝わっているはずだからだ。そしてこれはアバウトな構造では生じないことなのである。これが「柔構造の基底に剛構造あり」と言われる所以だ。(←実は今自分で作った諺のようなものである。)

 治療構造としては時間以外にどういうことがあるだろう? たくさんある。その中で「匿名性の原則」を例に挙げよう。一挙に話が複雑になるが。治療者は原則として自分の情報を意図的に患者に伝えない。これはフロイトが最初に唱えたことで、多くの古典的なやり方で治療を行う分析家にとっては今でも重要な原則である。これを患者と治療者の間に引かれた線引き、一種の治療構造と考えよう。私はそれに対して自己開示(治療者が自分の情報を伝えること)は必要に応じて「あり」だと考える。しかし、である。自己開示は匿名性の原則があってこそ意味を持つ、というところがある。最初から何でもあり、では意味をなさない、というか意味が薄らいでしまう可能性があるのだ。

 もちろん友人や同僚どうしなら、自分のことをある程度は明かすのは、ある意味ではマナーの範囲だ。米国でも友人や同僚の間でどこまでは話すということが大体決まっていて、そのことは特別の理由を除いては互いに隠さないというところがある。結婚をしていたら指輪を身に着ける、という暗黙の決まりのようなものである。つまり個人情報に関してのバウンダリーはしっかりあり、だからこそ自分のプライバシーを執拗に明かす露悪的な人の前では、人はそこに「KY感」を感じてそ「引いて」しまうものだ。