2026年3月24日火曜日

「バウンダリー」推考 3

  3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念

 私はそれからしばらくして生活の場を米国に移したが、そこで体験したことは一言では言えないものの、あえて言うならば、「境界はいくらでも侵犯される」ということだった。精神分析の構造や境界は、そこにしっかり引かれる傾向にあるが、それでもしばしば平気で破られている。誤解を受けやすいが、私は「境界は破られてナンボのもの」と思うようになった。境界は踏み越えられることで生命を保っていると言ったところがある。というよりは、「そもそも境界は生き物だ」、といった方がいいのかもしれない。

 私が精神分析を本格的に学ぶ前に考えていたことは、すでに述べた。それは患者が境界を破る際に、どのような場合にそれが無意識的な抵抗に由来するかについて、直観や一種の嗅覚を身に着けるために、精神分析的なトレーニングが必要であるということだった。だからこそ精神分析の理論をさらに学び、自分でも分析を受け、また臨床経験を積むために留学したのだ(実はこれは口実だというニュアンスもある。要するに私は日本を出て世界を見たかったのかもしれないとも思う。)
 しかし結論から言えば、私は患者との臨床を通じても、そして自己探求の為の教育分析を通しても(週4回のセッションを5年間)、そのような独特な嗅覚が得られたようにはどうも思えない。(あまり言いたくないことだが。)いや、以前より少しはましになっているのかもしれない、ぐらいは言っておこう。しかしそれとは別に、治療構造の重要性を再認識し、それを活用する方法を知ったというところがある。その意味での知恵はついたつもりである。

 私は実は渡米するころまでには、小此木先生の治療構造論を少し疑うようになっていた。「先生、治療構造を厳密に守るというのは建前でしょ?」とまで思うことがあった。「精神分析的にやるということは、いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」程度のことではないかと考えるようになっていた部分がある。実際小此木先生自身がセッションの開始や修了の時間をあまり守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそのようなことをおっしゃっていた。「嫌ね、僕はこういう立場だから、精神分析はちゃんと構造を守ってやりましょう、というけれどね。本当は‥‥」みたいなことを精神分析の講義でよく口にされていたのだ。
 しかし今こうして考えているうちに、まさにある意味では小此木先生の(表向き上の)教えの通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は次のとおりである。「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」。それはそうなのだが、私が至った考えはそれとも少し違うのである。私が今考えているのは、「バウンダリーはそれ自体が明確に定まっていることで効力を発揮するのであり、それをめぐる微妙なやり取りがる両者(患者と治療者)の心の動きの場 field を形成する」ということなのである。ボクシングならボクシングリング、相撲なら円形の土俵があってこそ、そこで初めて戦いが成立するのである。治療構造とはその種のものなのだ。つまりそれは「守るべきもの」というよりは「『守るべきだ』と意識するべきもの」なのだ。

  そのことを説明するためにある架空事例を考える。ある患者の精神分析のセッションが2時から始まるという治療構造が設定されているとする。ちなみに日本でプライベートオフィスを構える治療者は通常は待合室を持たないので(部屋代が倍になってしまい、支払えない!)、患者はきっかり2時に、ないしはそれ以降にオフィスをノックするという決まりが設定されるのが普通である。開始時間とはそのような状況において設定されていると考えていただきたい。
 さてそのような設定で何が起きるのか。まず治療者は当然ながらその設定を厳守しようとする。倫理的な縛りは彼の方が重いが、それは彼が料金を取ってサービスを提供する側だからだ。彼は2時きっかりか、それ以降の患者のノックには素早く反応して患者を招き入れる。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれを僅かでも遅れることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は「内側に向かって」剛構造的ということだ。
 しかし治療者にとっての開始時間というバウンダリーは「外側に向かって」は少し柔らかいのが普通だ。つまり少し早めのノックにどれだけ反応するかについては治療者の側の裁量があるのである。たとえば治療者の時計では10秒早く患者がノックした場合にも、「まあいいか」となることはよくあるだろう。患者の時計が10秒だけ進んでいたのかもしれないし、ひょっとすると治療者自身の時計の方が少し遅れていたかもしれない。あるいは患者の側の気の焦りがあったのかもしれない。だから10秒前のノックでもドアを開けることは「サービス」としては十分にありうるのだ。
 しかし普通治療者は2,3分ほど早いノックには反応しないだろう。無視する、答えない、というのが普通の反応である。まだ彼自身がトイレから戻っていないかもしれないし、そもそも前の患者さんの終了時間がなぜか遅れに遅れて、まだ立ち去っていないかもしれないからだ。その意味で治療者の時間厳守は外側には柔構造的であり、その意味では開始時間に関しては「半剛構造的」と言えるだろうか。

 そして興味深いことに、患者にとっては逆方向に「半剛構造的」であることがわかる。

患者は2時以降は自分の時間だという感覚がある。だから2時に10秒遅れてもさほど気にしないかも知れない。それは患者の選択肢の一つである。より早く来ることには抵抗がある。5分前に来てノックしても治療者はドアを開けないし、さぞかし迷惑に感じるのではないかと思うだろう。それに前の患者がまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。
 しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。

 逆に患者が2時ちょうどにノックをしても、治療者が10秒遅れでしかドアを開けてくれないとしよう。患者は治療者に時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「10秒間というそんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかホンのちょっとでもひじ掛けの中央線(そんなのは現実にはないが)を越えて侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。そしてこの意味で患者にとってはバウンダリーは内側に柔らかいということになる。