ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。 「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃないと考えるようになっているんだ。それに多くの場合そのどちらとも決められないからね。」 つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはあまりならなかった。ただしその種の出来事の扱い方の経験値が増すのである。これはどういうことか。 たとえば患者さんが何回か遅刻することが続いても、すぐに解釈による介入、とはならないだろう。「あなたは最近セッションに何回か遅れてきますね。それは何を意味しているのでしょうか?」などと尋ねる事はしないことが多い。一つにはそのような言い方はもろに「遅れないように!」というメッセージを伝える事になってしまうからだ。患者の繰り返される遅刻は、彼が分析家に気を許し始めているからかもしれないし、一つの自己表現かも知れない。あるいは分析家の出方を試しているのかもしれない。しかし単なる偶発事、たとえば患者の時計が数分狂っていることに気がついていないからかもしれない。そして分析家の側も、言葉にはしなくとも色々感じ、あるいは考えるはずだ。患者に軽んじられていると感じたり、挑戦を受けたような気がしたり、はたまたほんの僅かの自由時間を患者からプレゼントされたと感謝するかもしれない。その様々なやりとりが重要なのだ。これらの心の動きのある部分は言葉として自由に交わされるであろうし、それに従って二人の間での「開始時刻」の扱われ方がカスタマイズされていくのだ。 いずれにせよ「治療抵抗」という呼び方ではくくれない様々な事情が浮かび上がってくる可能性がある。そしてこのように考えると分析的な「抵抗」の概念は非常に問題含みであることもわかるだろう。その概念はかなり高飛車で上から目線なのである。