2016年5月31日火曜日

精神科医の夢 ③

前回掲載からあまり付け加えていない。

こんなネズミの話を聞いて、それを人に応用できないかと考えるのは不埒だろうか?
米国ルイジアナ州のニューオーリンズにチューレーン大学があるが、そこで1950年代に初めて精神科と神経内科を合体させたのがロバート・ヒースだった。彼がこの話の主人公である。脳の深部、脳幹に隣接して中隔野という部位があるが、ネズミでそこを壊すと激しく興奮することが知られる。逆にそこに電気刺激を与えると・うっとりしてしまうというのだ。そして彼が注目したのも人間のこの部位であった。その実験のフィルムが残っているという。ストレッチャーに横たわる若い女性の姿。その脳には電極が埋め込まれていて、そこに電気が流れるようになっている。以下はバーンズの著書からの引用。
女性は微笑んでいた。「なぜ笑っているんですか?」とヒースが尋ねる。「わかりません」と彼女は応えた。子供のように甲高い声だった。「さっきからずっと笑いたくってしょうがないんです。」彼女はくすくすと笑い出した。「何を笑っているのですか?」女性はからかうように言った。「わかりません。先生が何かなさったんじゃないの。」「私たちが何かしていると、どうして思うんですか?」・・・
こうして実験は続けられたが、ヒースと彼女の会話には明らかに性的なものが感じられたという。ヒースは他の患者にも中隔野への刺激を行い、その多くはそれを快感と感じたというが、反応は人それぞれであったらしい。電極をほんの12ミリ動かしただけで、むしろ苦痛の反応を引き起こしたりする。中にはそれにより激しく怒りを表出した人もいて、ヒースの実験を非人道的であると非難する学者もいたという。
結局バーンズの本からわかることは、快感中枢に電極をさして最後を迎えるというアイデアはうまくいきそうにないということである。彼の記述の重要な指摘を再び引用する。
「特に人間の場合に顕著な脳深部刺激のこうした不安定さから、痛みと快感は、脳の別々の部位に存在するわけではなく、むしろ同じ回路の様々な要素を共有していることがわかる。」(139ページ)
脳深部刺激はそれ自体がまだ非常に粗野で大雑把な技術でしかない。極めて複雑な集積回路の中にドライバーを突っ込んで電気を流すようなところがある。たまたまそれはある部位に行なうことでPDの症状を軽減するという福音をもたらした。しかしそれを人の心をコントロールするレベルに持っていくためには、まだまだ前途多難という気がする。
このヒース先生の実験のこと、ネットでは結構拾える。私が知らないこともあった。どこかにソースがあるのかもしれない。ともかく彼は暴力的な患者、抑うつ的な患者、統合失調症の患者などにこの脳の深部への電極の挿入を試み、かなりの成果を上げたという。特に暴力的な患者さんは、主として快感中枢を刺激することで暴力をかなり抑制することができたという。しかしそれ以外にも…というのでいろいろなエピソードが報告されている。女性に30分間のオーガスムを体験させた、とか男性の同性愛の「治療」を行ったなど。そしてとくに重要なことも書いてある。「もっとも重要なことは、この種の治療では、耐性が見られないことだ」本当だろうか?
ところでニューヨークタイムズには、ヒース先生がフロリダで84歳で亡くなった時の追悼文が掛かれている。19999月のことだ。そこには、統合失調症に対する画期的な仕事を行った医師、として記載されている。そして例の実験のためか、CIAにマインドコントロールに関する研究を依頼されていたとある。そしてなんと、彼は本を書いているではないか! Exploring the Mind-Brain Relationship'' (Moran Printing, Baton Rouge, 1996)

2016年5月30日月曜日

精神科医の夢 ②

レバーを押し続けるネズミ
報酬系に少しでも関心がある人にとっては常識とも言える実験がある。念のために振り返っておこう。
 1954年のことだから、私が生まれる二年前だ。米国カリフォルニア大学にジェームス・オールズ教授とピーター・ミルナー教授という二人の学者がいて、ネズミを使った実験を行った。ネズミの脳の様々な部位に電極を入れ、ネズミ自身がレバーを押すことで弱い電気が流れ、脳内のそれらの部位が刺激するという装置を作った。彼らは動物の動機づけを知る上で、網様体賦活系というところを刺激することを考えていたという。そしてその部分に電極を差したつもりになっていた。そしてラットの反応を見ていると、どうやらその刺激を欲していることをうかがわせる行動を見せた。そこでラットをスキナーボックスに入れてみた。スキナーボックスには様々なレバーや信号や、それによる報酬を与える仕掛けが備わっている。そこでレバーを押すとラットの脳の該当部位に信号が流れるようにした。すると・・・・ラットは一時間に2000回という記録的な頻度でレバーを押すようになったのである。
ここで定番の写真である。大抵この実験を説明する文には、このネズミの写真が付きものである。せっかくだから掲載しておきたいが、無断コピペである。口外しないでほしい。
ここから先は、ネタ本「脳が『生きがい』を感じるとき」(グレゴリー バーンズ (), 野中 香方子 (),日本放送出版協会、2006年)の助けを借りる。

ともかくもオールズ先生らの実験の興味深いところは、ネズミは寝食を忘れて死ぬまでレバーをを押し続けた、というところであるが、おそらくこの実験が革命的であったことは間違いない。それまでどうやら脳というのは、そのどの部分を刺激しても不快感しか生まず、ネズミはそれを回避する傾向にあったという。(ああ、このネズミになりたい。)

2016年5月29日日曜日

精神科医の夢 ①

精神科医は不埒(ふらち)な夢を見る

昨夜、おかしな夢を見た。夢の中で、私はがんで余命いくばくもないことを宣告されている。自分でも体力が落ちてきているのがわかる。しかし私は特別死を怖くは思っていない。むしろ楽しみなくらいだ。それには秘密がある。死ぬ前のある楽しみがあるのだ。私はリモコンのスイッチを取り出した。
 

(中略)

私が長らく求めていたもの。でも決して体験できなかったもの。一種の悟りにも似た境地。最後の到達点。お花畑にも似た、華やかで楽しげな、しかしそれをおそらく数倍は増幅したような境地。もういつ死んでもいい。いや、死ぬのはもう少し待ちたい。この心地よさに少しでも長く浸れるのであれば・・・・・。
ここで私は目が覚めたのである。なんと不謹慎な、不埒な夢を見たのだろう。精神医学や脳科学の知識がなければ見ないような夢・・・・。

ところで「不埒な」、という表現を使っているが、私自身にはこのような夢を見る根拠がないわけではない。人の一生は儚い。大抵の人が、人間が体験しうる最大の苦痛や恐怖も、最上の幸福も体験せずに、普通の人生を営むのではないか。そして人はやがて老い、力尽き、死んでいく。おそらく病院のベッドでごく少数の人に見送られながら。おそらく彼は10年ほど前だったら、「死ぬまでにあれもして、これもして…」と夢見ていた可能性がある。しかしおそらく彼はその10分の一も、百分の一も体験することなく死期を迎えるのだ。彼がチャンスを逃したからだろうか?おそらくそうではない。いざとなるといろいろな事情があり、できなかったのだ。

2016年5月28日土曜日

報酬系 ⑥

報酬系の興奮=善とする根拠

 それにしても善、とは何だろう?人として正しい道。肯定されるべきこと。それを行うことが誰からも非難されず、むしろ肯定されるという感覚。これが快楽と結びつくのには理由があるのであろうか? おそらくそうだろう。善と快は生物の誕生から結びついていた、というのが私の仮説である。(と言ってもそんな大げさなものではないが。)
善とは、それを執行することにいかなる形での抑制も存在しないものではないか? それが他を傷つけるのではないか。それにより他から攻撃をこうむるのではないか。自分がそのために傷つくのではないか。善とはその種の抑制や懸念から解放され、一途に向かっていくことである。そしてそれは、生物が生命を維持する上で最も重要な機能なのだ。エレガンスは好きな匂いに向かって泳ぐ。おそらくそれは彼(!?)にとっての生存の可能性を高める。匂いに向かって泳ぐことに迷いがない個体の生存率がそれだけ高かったはずだ。快を与える行動を無条件に選び、志向する個体。これが自然選択に生き残って行く個体の基本性質なのだろう。生命の進化において、心地よさが無条件で選ばれることは、おおむね適応的といえるのだ。しかし快がことごとく生命の維持にとって合目的的という保証はない。この飽食の時代には食べ物は身の回りに溢れている。快を追及するだけならば、人は永遠に口当たりのいい食事を摂取し続けるだろう。それは純粋な善とは程遠い。しかしそれでも快を善として体験するという習性は残る。そして田●まさしのように、覚醒剤が「安息」になってしまうのだ。それが本来自分が選ぶ場所、本来的に戻って行く場所になってしまうのである。


2016年5月27日金曜日

倫理観 ⑤

私たちの日常の多くはストレスの連続である。思い通り、期待通りにいかないことばかりである。それでも私たちが精神的に破綻することなく日常生活を送る事が出来るのは、実はここに述べた「ささやかな楽しみ」のおかげである。ちょうど身体が一日の終わりに睡眠という形での休息やエネルギーの補給を行うのと一緒であり、これは魂の「休憩」なのだ。「ささやかな楽しみ」を通じて、人は日常の出来事の忌まわしい記憶から解放され、緊張を和らげる。その時間が奪われた場合には、私たちは鬱や不安性障害といった精神的な病に侵される可能性が非常に高くなる。「ささやかな楽しみ」は、それにより人が社会生活を継続して送るために必要不可欠なものなのだ。「文化的な最低限度の生活を営む権利」をおそらく凌駕するものである。ただしおそらく「ささやかな楽しみ」の前提として文化的な最低限度の生活が保障されていることは有利に働くであろう。たとえば雨風を十分にはしのげないような住居や、PCもテレビもないような困窮した生活では「ささやかな楽しみ」は望むべくもないかもしれない。
おそらく私たちの祖先は、「ささやかな楽しみ」を善として、良きものとして体験することを習慣として身に着けたのであろう。そしてそれはおそらく前、悪の母体となった可能性がある。そしてそれをよきものとした個体が生き残ってきたものと思われる。
ここで報酬系の関与する快、不快が善、悪と言った倫理観と結びつくのは、この章の一番のポイントである。ひとことで言えば、心地よい活動に浸っている時は、それに対する超自我的な姿勢を放棄することなのだ。それは「ささやかな喜び」をよりスムーズに、抵抗なくその人が味わうための詭計と言ってもいい。

しかし・・・・である。ここで大きな問題があるのは確かなことである。「ささやかな楽しみ」はしばしば葛藤を生み、ただ単に楽しいでは済まされないと言われてしまう可能性がある。田●まさしにとっては、一時の覚せい剤がこの「休憩」だった。それはその人の人生を狂わし、社会生活を台無しにし、やがては報酬系を乗っ取ってしまう可能性のある「休憩」でもある。報酬系の興奮=「休憩」=人生を維持するための「ささやかな楽しみ」は、とんでもない錯覚だったりするのだ。

2016年5月26日木曜日

倫理観 ④


「ささやかな楽しみ」と報酬系
皆さんが毎日ある程度満足しながら生活を送っているとしたら、ある種の「ささやかな楽しみ」をどこかに持っているはずだ。それは仕事の後のビールかも知れない。家族との夕食かも知れない。最近ならスマホをいじりながらだらだらと過ごす数時間かも知れない。スポーツジムでしばらく汗を流すことかもしれないし、ブログを更新したり、眠くなる前にノンフィクションを読むことだったりするかもしれない。それは生きがいとまでは呼べないとしても、一日がそこに向かって過ぎていくというところがある。あなたはそのような時間を肯定しているだろうし、自分の持っている権利だと思うかもしれない。事実あなたが他人に迷惑をかけることなく、自分の職務を遂行し、家族の一員としても十分に機能しているのであれば、後はどんな「ささやかな楽しみ」を持とうと、それは人にとやかく言われる筋合いのものではない。  
さてこの「ささやかな楽しみ」への肯定観を保証しているのはなんだろうか?いきなりだが、日本国憲法25条の条文にはこうある。
「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。
おそらく「ささやかな楽しみ」を持つことを法的に保障してくれるものは、これだろうか? ただし「文化的な最低限度の生活」は報酬系的には必ずしも必要十分条件ではない。仕事帰りのパチンコや寝る前の一杯や一服は、「文化的」かどうかはあまり問題ではないだろう。未開人は私たちのスタンダードからいったら決して「文化的な生活」を営んでいるとは言えないだろうが、それでも彼らにとっての「ささやかな楽しみ」は存在するはずだ。熊本地震で住むところに困り、車の中に寝泊まりをしている状態では、決して「文化的な最低限度の生活」は保障されていないことになるが、それでも彼らは「ささやかな楽しみ」を作り出すはずである。

結局「ささやかな楽しみ」は、「文化的な最低限度の生活」のさらに上に、あるいはそれとは別立てで存在するものだ。「文化的な最低限度の生活」そのものは「ささやかな楽しみ」を必ずしも保証しない。「ささやかな楽しみ」はそれは場合によっては文化的な生活が保障されていても得る事が出来ない人がいる一方では、帰る家を持たないで野宿する人々がひそかに得ているものだったりするのである。

2016年5月25日水曜日

倫理観 ③


快を善とする心の成り立ち

人は本来、自分にとって心地よいこと、自分の報酬系が肯定することは、絶対的に肯定するものである。自分はこれに生きるのだ、と思う。これぞ本物、という感じ。自分にはこれしかないし、これのない人生は考えられない。仕事をしていても、人と話していても、最後はそこに帰って行くことを前提としている。心をいやすべき自宅や棲家の感覚と言ってもよい。
 もちろん心地よいことが同時に道徳心に反していたり、他人にとって害悪であったりするかもしれない。また心地よさが同時に不快感を伴うこともある。するとその快楽的な行動を全面的に肯定することは難しくなるであろう。しかし逆にそのような障害がないのであれば、その行動は、その人にとって疑うべくもない肯定感とともに体験される。無条件の肯定と言ってもいい。人間とはそういうものだ。
たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸いに深刻な健康被害は起きていない。彼にとって喫煙は安らぎであり、生活にはなくてはならないものだった。私が子供の頃の昭和の世界は、皆がどこでもタバコを吸い、通学のための汽車の中は、向こうの端が見えないくらい、たばこの煙でもうもうと立ち込めていたものだ。
 だからその「愛煙家」たちが突然、「喫煙したら罰則が科せられる」という法律が成立したことを聞いたとしたら、どうだろう? きっと彼は憤慨し、その法律を不当なものだと思うだろう。やがて煙草の被害が明るみになり、副流煙がいかに他人の健康被害を生んでいることが分かっても、彼は心の底から喫煙に罪の意識を感じることはないはずだ。「どうしてこれまで問題にされなかったことをやかましく言うようになったんだ?」「ほかに人の健康にとって外になることはいくらでもある。たとえば車の運転はどうなんだ?たくさんの人が交通事故で命を失くしているぞ!」「極端な話、塩分で高血圧が引き起こされ、糖分で糖尿病が引き起こされるんだから、食べ物だって皆法律で厳しく規制されるべきだろう」などと屁理屈はいくらでも出てくる。そうやって自分を正当化することに人間は精神的に生き延びているのである。

覚せい剤所持および使用の罪で何度も収監されている元コメディアンの田●まさしが、こんなことを書いている。
「2回目に捕まった後、刑務所に入っている間も含めて6年近くクスリを止めていた。なのに現物を目にすると『神様が一度休憩しなさいと言ってくれているんだ』と思ってしまった」(夕刊フジ2016 212()配信)

覚せい剤が休息だなんて、とんでもない話だと思うかもしれない。でもこれは報酬系の考え方からすると、すごくよくわかる話である。いや、彼の薬物の使用を正当化しているわけではない。薬物依存がなぜやめられないか、という問題に対する一つの回答を与えているのである。

2016年5月24日火曜日

倫理観 ②

帚木先生はそれから、ギャンブル依存に陥った人が、キャッシュを求めて盗みを働くということもあり得るとおっしゃった。更衣室でたまたま同僚の所持品を見つける。中から現金を抜き取った際に思うことはおそらく「ああ、これで仕事の後にパチンコがやれる」なのである。
ここから導き出すことのできる仮説がある。私たち個人が持つ倫理感は、報酬系を刺激する事柄を善、痛み刺激となる事柄を悪、とする傾向にある、というものだ。この仮説は、人によっては奇妙に聞こえるかもしれない。しかしこの様に考えないと、人の心はあまりに大きな矛盾を背負っているために壊れてしまうだろう。
もちろんギャンブル依存に陥った人は、「善悪が分からなくなっている」と考えることもできるであろう。というよりはむしろそちらの方が自然かもしれない。しかしより合理的な考え方は、その人にとっては、パチンコ屋で玉を弾くことが善、そのためには家庭を顧みないことも、お金を盗むことも正当化される、という観念が、通常の善悪に対する観念を凌駕し、そのためにその人の倫理観そのものが改編されてしまっているというものである。

快を善とする心の成り立ち

たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸いに深刻な健康被害は起きていない。その人が突然「喫煙したら罰則が科せられる」という法律が成立したことを聞いたとしたら、不当なことだと憤慨するだろう。やがて煙草の被害が明るみになり、副流煙がいかに他人の健康を蝕んでいるかが分かっても、彼は心の底から喫煙に罪の意識を感じることはないはずだ。「どうしてこれまで問題にされなかったことをやかましく言うようになったんだ?」「ほかに人の健康にとって害になることはいくらでもある。たとえば車の運転はどうなんだ?たくさんの人が交通事故で命を失くしているぞ!」「極端な話、塩分で高血圧が引き起こされ、糖分で糖尿病が引き起こされるんだから、食べ物だって皆法律で厳しく規制されるべきだろう」などと屁理屈はいくらでも出てくる。そうやって自分を正当化することに人間は精神的に生き延びているのである。
もう一つの例として、連続窃盗犯を考えてみる。私たちの社会には、窃盗をすることに快感を覚える人間がいる。彼らにとっては何らかの形で盗みは正当化されてしまうだろう。「私は恵まれない境遇で金銭的に余裕がない。しかしそれは社会の不平等のせいだ。だから盗む正当な権利があるのだ」など。もちろん窃盗に快感を覚える人が、同時に強い倫理観を持ち、その矛盾に悩まされることがあるだろう。しかしやがては自分にとって「合理的」な言い訳を見つけ出すことで、少なくとも窃盗は深刻な罪と感じられることはなくなるであろう。例えば、「少なくとも自分は人を害してはいない。それだけはしないというのが私のポリシーだ」、などと自分に言い聞かせることで、罪の意識はいくらでも軽くなりうるのである。

2016年5月23日月曜日

倫理観  ①

報酬系と倫理観

私のある患者さんは夫が家庭を顧みないことを嘆く。
「給料日の次の休日には、朝からパチンコに行き、店の終了まで帰ってきません。そして戻ってきた時は、給料の大半がなくなっていることもありました。『お願いだからパチンコをやめて』、と言っても『うるさいな!俺に指図をするな。』と怒鳴るばかりです。」 
結婚した当初は働き者で思いやりのある優しい夫であったという。ところが数年前から「仕事が面白くない」と言い出して、パチンコにはまりだし、休日は朝からパチンコ屋に通うようになり、徐々に子供と過ごす時間もなくなっていったという。パチンコは夫の人格を変えてしまったのだろうか?
帚木蓬生というペンネームでも知られる精神科医森山成彬(もりやまなりあき)先生。「やめられない ギャンブル地獄からの生還」(2010年、集英社) 「ギャンブル依存とたたかう」 (新潮選書、2004) などの著書で有名である。が有名な作家でもある。
先生の講演を聞いていて考えたことが本章の発想のもとにある。ギャンブル依存がきわまると、家族の説教は全く耳に入らなくなる。本当にはまってしまうと、手元にお金がなければ、盗むことを考える。それまで倫理的だった人が、人の財布に手を出すまでになる。依存症はその人の倫理観を事実上骨抜き記してしまうのである。
先生の講演で聞いた話はこうである。ギャンブル依存の夫を何とか話し合いの場に連れ込む。それこそ夫の両親も心配そうな顔をして顔をだし、とにかく作ってしまった借金については何とか算段をすることになる。夫は真剣そうに「もう二度とパチンコには手を出しません。」と言う。「しかし」と先生は言う。「彼の頭の中は、どうやってここを切り抜けて、またパチンコ屋に舞い戻ろうかということしか考えていない。」
私は「まさか」、と思った。説教をされている時くらいは真剣に反省するのではないだろうか?もちろんどの程度ギャンブル依存になっているかにより違うだろう。何度もやめようと試みる人の場合は、少なくとも真剣にやめることを考える時が短時間ではあれ、あることになろう。しかし依存症が一定の限度を超えると、「やめよう」という決意はもう浮かばない。やめられないことはあまりに明白だからだ。まさに先生の本の題名(「やめられない」)通りである。
しかしこれは例えば自分が激しい痛みや不快を体験している時を考えれば納得ができるであろう。おそらく痛みを取るためならどんな行為もいとわないし、その行為の善悪は、その切迫の度合いによりいくらでも軽視されよう。おそらくその行為を裁くような倫理則などありえないはずだ。

2016年5月22日日曜日

射幸心 ⑦


ということで結局「射幸心」とは?

ということで射幸心のまとめである。射幸心は、ギャンブルにおいて、渇望が引き起こされる仕組みであり、ギャンブルを提供する側の作戦である。どのように人をギャンブルに引き込むかという策略というわけだ。射幸心をあおる、とは賭け事で「もっともっと・・・」と人の心を狂わせるための手段である。そしてその特徴はなんと、負けたことで人の心をあおるという仕組みであり、そもそも負けることが人を興奮させるという奇妙な性質を利用することだったのだ。
もちろん人は負けること自体を目的にするわけではない。負けることはつらく苦しいことだ。しかし「次は勝つかもしれない」、という気持ちがギャンブルの継続を人に強いる。そのひとつの決め手はニアミスということだ。しかしこのニアミスという現象、脳科学的にはそれが報酬系に関与しているということはわかったのだが、それ以上の具体的な事実や仕組みがわかったわけではない。そしてもちろんギャンブルを継続させるのは、ニヤミスだけではない。事実宝くじなどで、ニアミスはあまり出ないことになる。あたりくじとひとつだけ違う番号がたくさん出回る、という話など聞いたことがない。それでも人は宝くじを買い続けるのだ。それは自分が勝てる、という想定が、実際よりはるかに高く行われてしまうという事実、それがファンタジーであっても、それ自体を楽しむという人間(あるいはサルもそうである!)の心の不思議な性質に関連しているのだ。
ところで薬物依存においては、何が射幸心に相当するのであろうか?基本的にはそれは存在しないはずである。コカインを鼻から吸ったら、2対一の割合でハイになれる、ということは普通は起きない。何度吸ってもハイはハイである。しかし、と私は思う。薬物中毒でも、最初の快感を追う形で人は何度もヤクを用いるのではないか。ロスチェイシングではなく、ハイチェイシングである。すなわち一番最初に得た快感が忘れられずに、それを追い求めて薬物を使用するという構図が心理的に出来ているのではないか?ロスチェイシングは、ある意味ではハイチェイシングのバリエーションなのだろう。同じ量のコカインを吸っても、得られるハイの高みはその時のコンディションで微妙に違う。一つ確実なのは、最初の強烈な快楽ではもはやありえないということなのだ。
しかし私のこの主張とてエビデンスはない。射幸心には、私たちの快感にまつわるファンタジーが深く関係していそうだ、という点を漠然と指し示しているだけなのである。 

渇望が起きている時、脳の中で起きている変化
  
この項目、射幸心とは直接結びついているかはわからないが、ここに入れておこう。射幸心にはまりきっている脳が、普通の脳とどこが違うのか、という話である。
S. D. NORRHOLM, et al. (2003) Cocaine-induced Proliferation of Dendritic Spines in Nucleus Accumbens is Dependent on the Activity of Cyclin-dependent Kinase-5.  Neuroscience 116 (2003) 1922 というすごーい論文がある。脳内の側坐核というところが、食塩水を与えたラットと、コカインを与えたラットで、それを切った後、どのような変化を起こしたかという図である。
この研究でわかったことは、コカイン依存症はおそらく、この脳内の変化、神経伝達をより活発化させるような脳の変化に関介しているということだったという。軸索のトゲトゲの増加がそれである。このトゲトゲがシナプスの量を表すと考えればいい。
 (図は省略)

コカインは脳内のMEF2というたんぱく質を阻害する。このMEF2は軸索のトゲトゲとげとげの生成を抑える作用があるので、それを止めることで、トゲトゲを増やしたというのだ。
ところがこの話には後があるようだ。ネットにはこんな記事があった。
Dendritic spine proliferation seems to compensate for some impacts of cocaine use.
October 01, 2010 Carl Sherman, NIDA Notes Contributing Writer
上の論文から数年後の話だ。コカインがMEF2を抑える作用を阻害する薬を一緒に与えた。するとトゲトゲが減ったが、ネズミはもっとコカインを欲しがるようになったという。ということはトゲトゲは、コカイン依存を制限するように働いていたということになる。コカイン依存を起こしている脳内の変化はどこか別のところにあって、トゲトゲはそれを行きすぎないように押さえているという話だ・・・・。なんだかよくわからなくなってきた。






2016年5月21日土曜日

射幸心 ⑥

ところが事態はそれほど単純ではない。そのことを教えてくれるのが、リンデン氏の書(デイヴィッド・J・リンデン (), 岩坂 彰 (翻訳) 「快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか」 河出書房新社 2012)の記述である。そこで紹介されているある実験がある。(以前にこのブログに登場したことあり。)
サルを訓練させたうえで、緑の信号を見せる。すると猿の報酬系は一瞬活動を増す。これは「やった、甘い水がもらえる」というサインであり、実際に2秒後に口の中に砂糖水が注がれる。そうしたうえで青信号を導入する。青信号は、甘い水が2秒後に与えられる確率は50%にすぎないようにトレーニングしてあるのだ。すると青信号がともった瞬間にやはり報酬系が興奮し、だらだらと持続し続ける。2秒後にもらえても、もらえなくても、結果が分かった時点で興奮は止んでしまう。なんという驚くべきことだろう。(前から知っていたが)期待するだけで、半ばダメもとでも楽しいなんて。
待っているとき、すでに報酬系が働いている。結果のいかんに関わらず。競馬でいったら、馬券を買ってから疾走馬がゲートに入り、一斉にスタートをし・・・・そのすべてのプロセスが楽しいことになる。たとえ負けたとしても。どういうことだろう? 負けたらもちろん失望する。しかしその分は待っていたときの快感の総和より少ない? そういうことだろう。
それを図示すると以下のようになる(図3)。昨日の図2の通りにはならないわけである。

図 3


2016年5月20日金曜日

射幸心 ⑤

期待することそれ自身が快感である、という事実がどれだけ驚くべきか、私はまだ十分に説明できていない気がする。もし私たちの報酬系が、きわめて単純にできていたら、期待したものが得られなかったら、その分失望という名の不快として体験されるはずだ。
図 1
ここからは思考実験である。あなたがパチンコの玉一つを与えられる。それを弾くと、中央口に入る確率がちょうど50%だとしよう。あなたはその球をただでもらったのだから、玉を弾く瞬間は、球が入った時の快感(Pとしよう)の半分を体験してもおかしくない。½Pというわけだ(図1)。

図 2

そして実際に玉が入ったら残りの½Pが獲得される。入らなかったら、-½Pが体験されて、ゼロ(図2)

疲れた・・・・。絵を描くだけで終わってしまった



2016年5月19日木曜日

射幸心 ④

射幸心とマゾヒズム

 以上の射幸心に関する話が即座に自虐性(マゾキズム)の問題に結びつくことについては特に説明はいらないだろう。射幸心に駆られて賭け事にはまり、身を持ち崩す人が、「自分を傷つけている」という感覚はないかも知れない。しかしある意味ではこれほど明らかな自虐的行為もないのである。
 興味深いことに、ギャンブル依存の人と正常な人で、大当たりをした人の報酬系の興奮に差はないという。問題は負けた場合、あるいはニアミスの場合だ。負けることで余計熱くなり、さらに賭け事を続けようとするのだから、自ら自己破産のプロセスに身を投げ出しているようなものである。
しかしよく考えてみよう。射幸心的なメンタリティーは決して異常ではなく、私たちは日常的に出会っているのではないか? 「101回目のプロポーズ」というドラマがあったが、主人公は実は断られることに快感を覚えていたのではないか?そしてこれはまた恋愛妄想に近い心理をも説明する可能性がある。つまり断られ、拒絶されればされるほど燃え上がる人々がいて、それはあなたかもしれないのだ。あるいはもう少し広げれば、マゾキズムの問題とも関係しているのではないか?
 この問題は人間の行動も、それを理解しようとする心理学をも一気に複雑かつ不可解にする可能性がある。私たちは通常は人間を功利主義的な存在と考える。常により大きな快を求め、同時に苦痛を回避する傾向にあると考えるのだ。そして大抵はそれにしたがって生きている。ところがふとしたことから喪失、拒絶、失敗の体験に興奮が伴う。ここでも「快感」とは敢えて言わない。でもそれを繰り返したくなってしまうのである。
  
期待することそのものが快感なのか?

今までの議論は、負けることが興奮を生む、という話だ。ここから先は少し違う。人は結果を期待して待っている時、それ自身が快感だという研究がある。これは負けることでコーフンする、という若干倒錯的なニュアンスのあるギャンブラーの話とは違う。期待しているときの快感は、いわば万人に共通なのである。そしてそれが私たちの人生の喜びのかなりの部分を占めているかもしれない。将来きっといいことがあるかもしれない、と思っているだけで快感だから、私たちは人生に容易に絶望することなく、生かされているというのが、私たちの人生の真実なのかもしれないのだ。

あまり話を大きくせずに、ギャンブルの話に限定しよう。ギャンブルにはひとつ注目すべき点がある。それは彼らが「遊ぶ」という感覚、楽しむという感覚を持つことだ。
1000円札を捨てるつもりでパチンコ屋に入る。十中八九、15分後にあなたはそのお金をお店に丸ごと献上して店を出てくる。でもあなたは不幸ではない。15分の間にあなたは1000円を失い、その代わりに自分を高めたわけでも、より健康になったわけでも、より知識を身に着けたわけでもない。でもきっと思うだろう。「15分遊んだんだから、1000円は安いものだ。」でもあなたはその15分の間、期待をしていた。1000円を元手にひと稼ぎすることを、である。もしそのパチンコ台が絶対に勝てない台であるということを知っていたらあなたは絶対にその時間を楽しめなかっただろう。しかし勝つという可能性がゼロではない以上、結果を待っている時間はそれだけでも楽しいものとなる。客は喜んでお金を落とす。ギャンブルはなんとうまくできた仕組みだろう。

2016年5月18日水曜日

射幸心 ③

負けるほど熱くなる

 ところで射幸心がなぜこれほど問題になるのだろうか?それはこれを刺激することで人は容易に身を持ち崩してしまうからだ。その意味で射幸心は麻薬の依存性と酷似している。依存性は、それにより人がますます薬物にはまり、身も心もボロボロにしてしまう力を持つ。射幸心もそれと同じ意味を持つ。そこでは人は射幸心により賭け事にますます入れ込む、ということでは済まない。負ければ負けるほど入れ込む、という構図を持つ。麻薬との例えで言えば、吸っている麻薬がまずければまずいほどますます吸いたくなるという事情になる。そこが異常なので、射幸心が場合によっては麻薬の依存性よりも恐ろしいと考えられる理由なのである。しかしそれにしても、負ければ負けるほど・・・とはどのような意味か。それを以下に説明しよう。
 ギャンブル依存に関する最近の脳科学的な知見は、非常に重要な情報を与えてくれる。その一つは、ギャンブラーたちの多くは、お金を儲けるために賭け事に夢中になるのではない、ということである。いや、これは正確な言い方ではないかもしれない。彼らはもちろん「一攫千金のために、大当たりを出すためにパチンコ台に向かっているんです」というだろう。しかし彼らは負けた時も、あるいはニヤミスの時も、場合によっては大当たり以上に脳内の報酬系にドーパミンが出ることで、賭け事に夢中になるというのだ。それを Loss chasing (負けの追跡)と呼ぶという。だから正確な言い方をするならば、「ギャンブル依存の人は負けることに興奮する」のだ。結局はお金が儲かるかが不確かであればあるほど賭け事に夢中になるというわけである。
 ここで私は注意深く、「興奮する」という言い方をした。記述に正確を期すためである。実は負けることが快感である、と書こうとしたが、それでは正確ではないと思いとどまったのだ。なぜならパチンコ台であともう少しのところで大負けした人に「気持ちイイですか?」と尋ねても、「馬鹿もの!」と怒鳴り返されるだけだろうからだ。そう、その時は快感とは言い切れない体験をしている。しかしハマっている。ますます金をつぎ込もうとする。
私が別の項目で説明した、like want との違いを思い出していただきたい。好き like ではなくとも求めてしまう want のが、報酬系の妙なのである。パチンコの台のことを思い出そう。釘に細工をされた台では、パチンカーは何度も「一般口」に裏切られてつらい思いをするはずだ。でもますます「中央口」に向かって玉をはじく。一般口に入らない体験が、より彼をアツくする。「いつ出るかはわからないが出ると大きい」が一番人を興奮させるのだ。
 ある学者はこれには、系統発生的な意味があるという。哺乳類でも鳥類でも、餌が予想に反して出てくるような仕掛けにより夢中になるという。総じて餌の出る量が、予想できる仕掛けより低いとしても、動物はそちらを選ぶという。そしてもともとこの賭け事好きの個体が、生き残ってきたのだ、という仮説を立てる学者もいるという。Front. Behav. Neurosci., 02 December 2013 | http://dx.doi.org/10.3389/fnbeh.2013.00182 What motivates gambling behavior? Insight into dopamine's role


2016年5月17日火曜日

射幸心 ②

賭け事も立派に依存症を生む

あなたが誰かとコインの裏表でお金をかけるとしよう。(あくまでも想像上の話だ。実際にやるのは違法である。絶対にダメだ。私も神に誓って賭け事は一回たりともやったことはない。)表が出たらあなたが相手のお金、例えば100円を受け取り、逆に裏が出たら相手にそれを取られる。それをたとえば10回行うとしよう。あなたはそれに熱中するだろうか?おそらく。ある程度は。「遊技」としては悪くない。でもどうしてこれが面白いと感じられるのだろうか?確率から行ったら、あなたは10回の試みで、平均すれば儲けはプラスマイナスゼロになるだろう。100回でも同じはずだ。結局あなたはゲームをする前とした後で損も得もしないはずだ。それなのに、どうしてそれが面白いのか、ということになる。 
その秘密は、おそらく掛け金の存在にある。思考実験をしよう。掛け金をゼロにする。とたんにあなたは「そんなアホらしいことなんで出来ない!」いったいどうしてなんだろう?お金を賭けても、得する確率は変わらないのである!そして再びここに射幸心が潜んでいる。
 米国の精神科のバイブルとも言われている診断基準の最新版「DSM5」は2013年に発刊された。その中でギャンブル依存に関する分類が大きく変更された。それまでのDSMでは、ギャンブル依存は「衝動コントロール障害」に分類されていたが、DSM-5からは、「ギャンブル障害」として、「薬物依存、嗜癖障害」というカテゴリーと一緒になったのである。それもそのはずで、最近の研究が進む中で、 結局薬物依存とギャンブル依存は、脳の中で同じ部分が暴走しているということがわかったからだ。それはそうだ。このブログをお読みになっている方ならお分かりの通り、それらはいずれも「報酬系」の異常なのである。そこで最近わかったことは、ニアミスだけでなく、負けることが、さらにギャンブルの継続へと人を掻き立てることである。 ギャンブル依存が一種の嗜癖であるという事実は、最近のパーキンソン病についての研究からも明らかになったという。それはパーキンソン病の治療のために用いるドーパミン系の薬が、嗜癖を呼び起こすという臨床的な事実が関係していた。パーキンソン病とは、脳の中のドーパミンを作り出す細胞が萎縮し、枯渇してしまう病気である。御存知の通り、ドーパミンは、快感をつかさどるとともに、運動とも深く関連している。パーキンソン病ではドーパミンの量を脳内に増やす薬「ドーパミン剤」が用いられることになる。するとパーキンソンの治療を受けていた患者さんたちの中に、それまでまったく手を出したことのないギャンブルにはまる人が出てきたというのだ。つまりこういうことだ。報酬系というエンジンを動かしているいわばガソリンのようなドーパミンが人工的に増えると、およそかけことには縁がないという人まで賭け事中毒になる。彼らは薬物により二次的に生じた報酬系の暴走の犠牲者となってしまうのである。



2016年5月16日月曜日

射幸心 ①

射幸心という名の悪夢 自罰傾向は人の本性である

今日から射幸心の章の二度目である。


射幸心の不思議

「射幸心」という言葉を聞いたことがあるだろうか?英語では gambling spirit とか言うらしいが、それでは雰囲気が出ない。思わず賭けてみたくなる、賭け心をそそられる、ということだ。「射幸心」とは字通り考えれば、幸福という的(まと)を矢で射抜きたいという願望ということになるが、そこにアヤしいギャンブルのにおいがある。射幸心は私たち人間が持つ不埒な願望であり、ギャンブルの胴元はそれを巧みに刺激して、ギャンブラーたちを破滅への道に誘いこむのだ。いったいこの射幸心とは、報酬系とどのように関係しているのかを考えよう。
 わが国では、ギャンブルといえば、パチンコや競馬である。これらの公営ギャンブルは、「遊戯」ということになっているようだ。だから公営ギャンブルという呼び方も正式なものではなく、公営競技というらしい。呼び方はともかく、ギャンブルが、本当の意味での「遊戯、競技」とどこが違うのかを、人は考えたことがあるだろうか?それは射幸心が介在しているか否か、ということになる。それでは射幸心とは何か?
身近な例から取り上げよう。パチンコは日本に特有の「遊戯」であり、もちろん単なる遊びにはとどまっていない。年間200万円も300万円もそれにつぎ込む「ヘビーユーザー」たちが産業を支えているともいう。その業界で最近問題になっているのが、「クギ曲げ問題」であるという。簡単に言えば、釘の間隔を操作することで、射幸心を増すという違法行為だ。私もパチンコをこれまでに23度(たった!?)やったことがあるからわかるが、玉を弾いて台の頂上付近で落下させるわけだが、その一番頂上にある穴が「中央入賞口」だというそうだ。そこに入ると大当たりだが、その周辺に逸れると運が良ければ小口の「一般入賞口」に入り、それ以外の大部分の玉はどこにも掠らず台の下まで落ちて、穴に吸い込まれていってしまう。
さてその「中央口」と「一般口」に玉が入る確率は業界で定められていて、それを満たすような釘の間隔というのが存在する。ところがパチンコの業者はそれを勝手に曲げてしまい、「中央口」に入りやすく、「一般口」には入りにくくする。それが格段に「遊技者」のやる気を引き出し、要するに射幸心を増すということだ。
ではどうして警察もそのような題を規制しないかということであるが、実は題を検査する「保安通信協会」には警察OBが入っているというのだから、検査がアマくなるのは当然と言わなければならない。
ちなみにこの問題が深刻なのは、レジャー白書によると、パチンコにおける1人当たりの平均消費金額は1989年が年間50万円ほどだったのに対し、2014年は年間300万円ほどと約6倍に跳ね上がっているというような問題が起きているからだ。それだけギャンブル性の高いパチンコ台に多額のお金を注ぎ込んでいる人が多いとみられ、家族を巻き込んだ多重債務問題につながっているとの指摘が出ている。(以上の数行、ちょっと、ネットのコピペをしてしまいました。)

コピペはまあいいとして(よくないか?)、中央口だけ入りやすく、一般口が入りにくいという操作が、どうして射幸心を増すかは、おそらくピンとこないだろう。私も来ないが、おそらくしばらくパチンコを打っているうちに、体感されるのであろう。理屈では説明できなくても。そしてそこには確かに脳科学的な根拠があるのである。

2016年5月15日日曜日

嘘 2 ⑰

あれ?日付の設定を間違えていたようだ。

最後にこのテーマについて、とても興味深い説を唱えている人がいることを紹介しておきたい。ウィリアム・フォン・ヒッペルと進化生物学者ロバート・トリヴァースの論文だ。彼らによれば、自己欺瞞の能力は他人にそれと見破られる可能性を排除するために進化したという。(意識と無意識のあいだ マイケル・コーバリス著、鍛原多惠子訳 講談社ブルーバックス 1915年)。(元の論文は、Von Hippel W, Trivers R: The evolution and psychology of self-deception. Behavioral and Brain Sciences 2011, 34:1-16.)
  わかりやすく言えばこんなことだ。人は嘘をつくとき、それを嘘と知っている場合にはそれが態度に出てしまう。だからそれを信じ込むことが適応的というわけだ。ある人が真実と異なることを主張したとしよう。それが虚偽であることは誰の目にも明らかである。しかしその人にとってはいつの間にか、それが真実と感じられてしまうとしたら、それがその個人のためになるというわけだ。
 著者たちはここでこのブログのテーマである報酬系にとっても重要な点を指摘する。それは自己欺瞞は意図的に嘘をつくことによる多大な労作を軽減してくる。そこには罪悪感に関連した心的ストレスや、嘘をつき続けるために必要な認知プロセスをも含むだろう。簡単に言えば人は自己欺瞞により省エネをするのだ。その意味で自己一致は快感に通じている。そしておそらく虚偽を真実にすり替えることは、脳科学的にはさほど難しいことではないのだろう。だからいわゆる偽りの記憶、という現象も存在する。
 偽りの記憶の権威であるエリザベス・ロフタスは、彼女自身が見たはずのない母親の死体の様子をまざまざと回想することが出来るという。またジャン・ピアジェは、
4歳の頃目の前で暴行を受けた乳母の顔を思い出すことが出来(後に乳母の狂言だとわかった)、ヒラリー・クリントンはボスニアを訪問したときに狙撃を受けそうになったという記憶について語るが、実際にはそのような事実はなかったとのことである。(すべて上述の書「意識と無意識のあいだ」に書かれている例。)
ちなみにこの両著者は、その自己欺瞞が可能なための心の機制として、解離をあげている。これも興味深い。ただしこの解離には、意識的記憶と無意識的記憶、自動的な心的内容と意識的な心的内容、など様々なものが想定され、解離の概念の拡張が必要かもしれない。
ところで前出のトリヴァースという学者の「互恵的利他行動」という概念も興味深い。Wikipedia の該当項目を参照する。

「互恵的利他行動は無条件ではない。まず協力することで余剰の利益を見込めなければならない。そのためには受益者の利益が行為者のコストよりも有意に大きくなければならない。次に立場が逆転した場合に先の受益者が返礼しなければならない。そうしなければ通常、最初の行為者は次回からその相手への利他的行動を取りやめる。互恵主義者が非互恵主義者による搾取を避けるために、互恵主義者は「いかさま師」を特定し、記憶し、罰するメカニズムがなければならない。最初は利他的に振る舞うが、相手も利他主義者でない場合には援助を取り下げるこの戦略はゲーム理論しっぺ返し戦略と酷似している。おそらく互恵的利他主義のもっとも良い例であるのは、チスイコウモリの血液のやりとりである。チスイコウモリは集団で洞穴などに住み、夜間にほ乳類などの血を吸う。しかし20%程度の個体は全く血を吸うことができずに夜明けを迎える。これは彼らにとってしばしば致命的な状況をもたらす。この場合、血を十分に吸った個体は飢えた仲間に血を分け与える。それによって受益者の利益(延長される餓死までの時間)は失われる行為者の利益(縮小される餓死までの時間)を上回る。また返礼をしない個体は仲間からの援助を失い、群れから追い出される。より身近な例はインターネットファイル共有コミュニティである。他者からダウンロードしたファイルを共有することを拒否する人はヒル(Leecher)と呼ばれ、そのような人の情報は参加者の間で共有されて、コミュニティへの参加を拒否される。」(引用終わり)

 まさにこの文中に書かれていることだが、他人の血ばかり吸い続ける人は結局はその集団から追い出される。そういう人を英語ではleech (蛭)というらしい。ということは、少しでもその集団から追い出されるのを遅くするためには、自分が蛭であることに気が付かず、後ろめたさも見せずに堂々と血を吸わなくてはならないということか。


2016年5月13日金曜日

トラウマ治療として共通因子を探る (3)

2.最近の精神分析におけるトラウマ事情

さてそのような精神分析の伝統も、大きく変わろうとしています。それについては私は最近ある論文を書いたので、それを参照していただきたいと思います。しかしそのエッセンスを述べるならば、以下のとおりになります。

精神分析におけるトラウマ理論

現代の精神分析において「トラウマ」が一つのキーワードとなりつつあることは、ある意味では時代の必然といえる。フロイト以後に様々な学派により、養育上の欠損やトラウマを病因として重んじる、いわゆる「欠損モデル」が提唱されたが、Freud の立場はそれとは理念上一線を画していたと言える。
Kernberg は米国で1970年、80年代に境界性パーソナリティ障害についての理論を展開したが、その彼が同障害の病因として論じていたのが、クライン派の考えに沿った患者の生まれつきの羨望や攻撃性であった。しかしその後1995年には、トラウマを取り入れる意見を述べている。
ところでよく知られることだが、Freud は精神分析理論を構築する前の段階では、トラウマの問題に深く関心を寄せていた。1893年の「『ヒステリー研究』に関連する3篇」(Freud, 1893)で、Freud はトラウマを以下のように定義している。
神経系にとって、連想を用いた思考作業によっても運動性の反応によっても除去することが困難な印象はすべて、心的外傷になるのである。(全集1., p307
Freud 1896年には、扱ったヒステリーの18例すべてに性的なトラウマが聴取されたという報告を行った。これが後に「誘惑仮説」と呼ばれるようになったものである。しかし1897年の921日に、突然同じく Fliess あての書簡で、この「仮説」が Freud  自身により棄却されたのであった。しかしそれらの研究が一様に強調するのは、Freud の「翻意」は自らの見解を180度切り替えたものだったわけではなく、むしろ「すべてのヒステリー患者が現実に性的なトラウマを負っていたというわけではない」という、より穏当な見解への方向転換を意味していたということである。

(以下省略。誰も読んでいない。)

さて以上のことが伝えるのはどのようなことでしょうか?それは最近の精神分析理論において、一種の理論的な変革が生じ、より実際の外傷を扱う素地が生まれたということです。カンバーグの方針転換が示すとおり、分析家の側では、実際のトラウマに焦点を当てていなかったということへの反省が生まれています。ということは精神分析の側でも、古典的な立場を変え、より「トラウマ仕様」に変わって行く必要があるでしょう。そこで結果的に必要となるのが、統合モデルというわけです。そこで必要なものは何かについて、以下の諸点を提案いたします。
1点は、トラウマに対する中立性を示すことです。これは決して「あなたにも原因があった」、「向こう(加害者側)にも言い分がある」、ではなく、「何がトラウマを引き起こした可能性があるのか」、「今後それを防ぐために何が出来るか」、について率直に話し合うということです。
2点は愛着の問題の重視、それにしたがってより関係性を重視した治療を目指すということです。フロイトが誘惑説の放棄と同時に知ったのは、トラウマの原因は、性的虐待だけではなく、実に様々なものがある、ということでした。その中でもとりわけ注目するべきなのは、幼少時に起きた、時には不可避的なトラウマ、加害者不在のトラウマの存在です。私が日常的に感じるのは、いかに幼小児に「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」というメッセージを受けることがトラウマにつながるかということです。しかしこれはあからさまな児童虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションであり、母子間のミスマッチである可能性があります。そこにはもちろん親の側の加害性だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況です。
3点目は、解離症状を積極的に扱うという姿勢です。これに関しては、先ほどの論文の要約でもあげたとおり、最近になって、精神分析の中でも見られる傾向ですが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られないのも事実です。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢を、以前よりは控えることと言えるかもしれません。抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促します。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいでしょう。

さて以上の論点は、共通因子とどういう関係を持つのでしょうか。それは結論から言えば、治療関係の重視であり、そこではテクニックにもまして治療者の倫理性を重んじるという立場です。
ちなみに私は「汎用性のある精神療法」という論文を最近書いたことがありますが(精神療法増刊第2号―現代の病態に対する<私の>精神療法– 牛島 定信 (編集), 精神療法編集部 (編集) 2015/6/11)その要旨は以下のようなものでした。

「汎用性のある精神療法」や関係精神分析は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するものという特徴がある。それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の最大の利益の保全にかかっているとすれば、「汎用性のある精神療法」はその時々の患者の状況により適宜必要なものを提供するからである。結論としては、少なくとも精神分析的な「基本原則」に関しては、それを相対化したものを今後とも考え直す必要があるが、「汎用性のある精神療法」についてはむしろ倫理原則に沿う形で今後の発展が期待されるのである。それは実は現代的な精神分析理論の中でも関係精神分析という学派によりかなり体現されているというのが私の考えである。





2016年5月12日木曜日

トラウマ治療として共通因子を探る (2)

1.従来の精神分析のトラウマに対する立場
私の周囲には、それまでさまざまな治療法に興味を持っていた人たちが、ふと一念発起して精神分析のトレーニングを始めるということが時々起きます。精神科医として、臨床と研究をつづけ、論文を書き、大学病院での地位を築き・・・・という道を歩む代わりに、精神分析という奥の深い道を、時間と労力をかけて極めたいという意図を持つ人が少なくないのです。東京の精神分析協会員は若いキャンディデート(候補生)が増加していく傾向にあります。
もちろん精神分析には100年の歴史がありますから、その国際的なシステムは非常に整っていますし、トレーニングのフォーマットや従うべきルールもすべて決まっています。精神分析家になりたい人は審査面接に合格すると分析の候補生となり、自らの教育分析を受け始めたのちに、ケース(コントロールケースとよばれます)を開始します。また同時に週末には精神分析の理論に関する授業を何時間も受けることになります。
これらの一つ一つにはきわめて長い時間と労力と時間が費やされます。そしてどんなに最短でも数年をかけて、また多くの人は10年以上もかかって、精神分析家の資格を得ます。なぜそれだけ時間がかかるかといえば、自分の精神分析を週4時間、自分が週4回の分析を行うケースを少なくとも二つ(アメリカでは3ケースでした)、自分のケースのスーパービジョンを週に2時間、週末の何時間にも及ぶ授業などを合計すると、それだけで週に20時間以上、まるでパートタイムの副業を持つような状態になります。しかもコントロールケースから入るお金は通常わずかですし、教育分析家やスーパーバイザーに払うお金や授業料などによる支出の方が膨大になりますから、トレーニング中は経済的にも非常に厳しい状況になります。更には教育分析に通うだけで、一日何時間も通うということが起きてきます。自分の教育分析家が都合よく同じ町に住んでいるとは限らないからです。そこでそれらを一度でこなす事は事実上できず、それを引き延ばして部分的にやって行くしかありません。それに日本の場合は分析学会で発表したり原著論文が受理されなくては、分析家の資格が認められません。
それほどの苦労をして精神分析を極めたい、という気持ちが彼らの中にもあり、私の中にもあったのです。ところが実はそこで獲得されることはきわめて主観的で、個人差の大きいものです。あえてその成果を数値化できにくい世界の話といえます。
そのような精神分析的な営みの特徴を一言で言うならば、「症状に意味を問う」「症状の背後にあるものを探索する」ということでしょう。少なくともフロイトが追求した精神分析はそうだったのです。このトラウマティックストレス学会で話題となるようなケースは、さまざまなトラウマやストレスを体験しています。それは幼少時の親子関係における問題であったり、学校での苛めの問題であったり、性的な被害の問題であったり、自然災害によるものであったりします。それらのさまざまなトラウマやストレスは多くの症状を引き起こします。私たちは彼らのトラウマ記憶を扱い、恐怖や屈辱や恥の感情を扱い、それとともに症状は徐々に程度は改善して行きます。そこで治療の対象となっていたのは、あくまでも加害者ないしは加害的な事象により被害をこうむったということ、いわば被害体験という受け身的な体験です。しかしその後は患者さんはどうなっていくのでしょうか。おそらく患者さんたちは自分たちの体験に対して受身的な姿勢を保つだけではなく、それに対峙し、その意味について考え、それを克服して行かなければなりません。また同時にどうしてそのようなトラウマが生じたのかについての振り返りも必要になってくるでしょう。それらはトラウマ症状がある程度解決した段階で問題になってくるものですが、その段階で、治療者にここから先何ができるのか、という思いを持つのでしょう。また別のケースでは、症状を扱ってもなかなか改善せず、その人がその背後に持つパーソナリティの問題を伺うことが出来、それを扱わない限りそれ以上の進展は見られないだろう、と治療者は感じるかもしれません。そのようなときに精神分析的な考え方が必要と感じられるのでしょう。
ただし残念ながら従来の精神分析理論は、少なくともトラウマが扱われた後の治療にむけられたわけではありませんでした。フロイトが精神分析を創出して行ったプロセスを考えればわかるとおり、フロイトはトラウマの代わりに、内的な欲動を扱うという考えを持ち、それを発展させたのです。そこにはやはり、トラウマをそれとして扱うことを放棄したというニュアンスがあります。そのために今でも精神分析においては、トラウマ理論は敬遠されがちであるという事情があります。そしてそのことが、精神分析家がPTSDや解離性障害を扱うことを従来は難しくしてきたという事情があるのです。分析家は原則としてトラウマを扱わない、という不文律が成立していたといってもいいでしょう。こうして少なくとも欧米では、精神分析家とトラウマを扱う治療者の間には一種の対立関係があったのであり、だからこそトラウマをう扱う治療者が精神分析にある種の期待を抱くという事情が意外であり、また若干当惑を抱かせるという事情でもあるのです。

この精神分析の伝統はトラウマにどちらかと言えば背を向けていたこと、精神分析の伝統は残念ながら「トラウマ仕様ではなかったこと」は、実は多くの分析を専門としないセラピストたちが知らないことであり、彼らの期待を向けられる精神分析家の立場としては、最初に断っておかなくてはならないことなのです。

2016年5月11日水曜日

トラウマ治療として共通因子を探る (1)

トラウマ治療として共通因子を探る (1)

(抄録)精神分析という世界の内側にいると、分析的なアプローチへの批判や猜疑心だけではなく、期待も聞こえてくる。トラ ウマに対する治療に関する精神分析への期待とは、「トラウマを扱うだけでなく、より深層からアプローチし、洞察を求 める」ことになろう。そして精神分析を専門的に用いる治療者にも、多くの場合はそのような自負ないしは覚悟がある。 このような期待は、精神分析の理論が時は非常に複雑かつ難解で、そのトレーニングシステムも複雑かつ重層的であり、 その分深遠に映ることにも起因しているであろう。
 しかし精神分析の内部に身をおく立場としては、「洞察を求める」というプロセスや手続き自体が決して明快ではなく、また容易ではないという事実の認識がある。無意識の探求とは、フロイトが想定していたものとは異なり、まさに海図のない航海と形容すべきものである。また「洞察を求める」ことは理想的には「トラウマを扱う」ことの先にあり、両者は 深く結びついているはずなのであるが、実はこの両方のアプローチは微妙に矛盾し、齟齬をきたす可能性がある。その根底には、伝統的な精神分析の基本方針は、トラウマを扱う基本的な仕様を備えていなかったという事情がある。 本発表ではこのような背景を踏まえて、トラウマ治療における「共通因子」の問題について精神分析の立場から論じた。

私はこの場にお呼びいただいたことを非常に光栄に感じておりますとともに、この共通因子というテーマについて皆さんと論じることを非常に楽しみにしております。私はこれまでの自分のトレーニングや現在の仕事を考えた場合、精神分析的な精神療法を専門としている人間だと自己紹介をすることが一番自然なわけです。私は精神分析家の資格を取得するために長い時間のトレーニングを必要とし、そのための留学もしました。また同時にトラウマや解離の問題にも関心があり、臨床に携わっているため、このテーマで論じる資格があるということでお声をかけていただいたのだと思います。
さてこの問題について論じるための前置きのような話から入りたいと思います。現代の精神分析は、一昔前の全面的に肯定的な見られ方をした時代とは違い、様々な疑いのまなざしを向けられています。特にそれは米国では顕著です。そこには、それほど時間とお金をかけてなされる治療に本当にそれ相応の効果が得られないのではないか、という疑いが聞かれます。これは一昔前、といっても1950年代、60年代の話ですから、半世紀も前のことですが、一時精神分析が極めて高い期待を背負い、一世を風靡した後にさまざまな代替手段にとって変わられたという歴史があるからです。
ところが日本では精神分析の専門家は、もちろん若干疑いの目を向けられることもありますが、依然として非常に大きな期待を抱かれる場合も少なくないのです。それは一般の臨床家の方々にも当てはまります。先生方からは「分析のことはよく知りませんが…・」という断り書きがよく行かれますが、そこには一定の敬意が感じられるのです。ここに米国との違いがあります。日本では精神分析は一世を風靡したことはなく、過剰な期待をかけられたことがない代わりに、ある種の根強い期待やそれに対する神秘性を感じる人がまだ存在するわけです。私はそれを嬉しく感じるとともに、身の引き締まる思いです。


(以下省略)

2016年5月10日火曜日

嘘 2 ⑯


ここに書いたシナリオはすべて私の想像だが、不正を働く人々(すなわち私たち)の間で行われている会話と見て間違いないだろう。その際、「他のところもみなやっている」、「これまでそうしてきた」というロジックは強烈に働く。いかに善良な人でも、入職したばかりの会社で、先輩から手取り足取り教わった仕事の内容が、どこまで不正に関与しているかは判断のしようがない。「ここの数値を、こちらに記載するように」といわれたら、その通りに書類を作成するだろう。実はそれが不正な文書として決定的な役割を果たすかもしれないが、あなたはそれを知らない。しかしある程度仕事を始めて、徐々に「あれ?」と気がつく。最初は漠然とした疑問だ。そのうち徐々に心の中で明らかになっていく。しかしそれでも確信が持てずに、恐る恐る周囲の一番聞きやすい同僚や上司に尋ねてみる。そこから先は先ほどのような会話が行われるであろう。
自分が不正に加担しているのではないかと感じ始めた時点で、さっそくその不正を正すために公的機関に通報する、という人がいるだろうか?彼はそれによりせっかく得た職を失い、一家を支えることが出来なくなるかもしれないのだ。組織における不正に加担することを一切拒否するとしたら、おそらくその人のほうがどこか変わっていて、融通が利かず、「話がわからず」、他人とうまくやっていけない、すなわち健全な社会人とはいえないという可能性すらある。なんとオソロシイことだろう?組織ぐるみでの不正が、実は私たちが正常であるからこそ起きるとしたら。

ところで組織において不正を働く人は、これまで考えた「弱い嘘」や自己欺瞞の傾向を持つのだろうか?あるいは組織において不正に加担する人の心に起きていることは「弱い嘘」や自己欺瞞と同じなのだろうか?否、いずれとも異なるだろう。第一に彼らは、その人個人としては嘘や自己欺瞞とは無縁の人である可能性がある。その彼が不正に手を染め続けるとすれば、それが「皆がやっていること、その意味で後ろめたさを本来もつ必要のないもの」という意識であろう。いわば治外法権としての世界でぎりぎり合法的な活動を行っているという意識に近いかもしれない。ただしそこでの法律はすべて不文律であり、暗黙のうちにしかその内容は伝えられないことであるが。

2016年5月9日月曜日

嘘 2 ⑮


報酬系と不正問題-嘘の応用問題として

最後は応用問題である。たびたびニュースで話題となる、企業や団体の不正の問題。これをどのように考えるべきか。これは嘘や自己欺瞞のいずれと関係しているのだろうか?
人間社会はよほど不正が好きと見える。最近もM自動車が会社ぐるみで20年以上にもわたり燃費に関するデータの不正な操作を行っていたという。この不正の問題はこれまで私たちが考えて来た自己欺瞞や「小さな嘘」とは問題の性質が違う。それは組織全体がそれを共有し、かつ維持していたという点においてである。
このような問題に対する私たちの反応は極めて画一的でパターン化しているといわざるを得ない。「このような不正は許されることではない。」「その企業に自浄作用がないことが問題だ。」もちろんその通りである。どのテレビのキャスターもそれしか言わない。
他方個人のレベルの反応には少し違いがあるだろう。テレビのキャスターに同一化した「とんでもない話だ」という反応の一方では、「これ、起きちゃうんだよねえ」という反応もあろう。団体での不正の問題は、おそらく大部分の組織において、ある程度はおきているというのが私の見方である。私たちの多くが何らかの組織に属している以上、その不正を起こすメンタリティにも親和性があるのだ。組織での不正は決して人事ではない。それは端的にいって、不正を行うことが快楽原則に従うからである。私たちはこの報酬系からの囁きかけに抗うことは出来ない。
私たちは自分とは無関係な組織が起こした不正については、それを聞いただけで「とんでもないことだ」という反応をする。私たちの多くが何らかの組織に属し、そこですでに不正が行われていて、場合によっては自分もある程度関わっているのに、どうしてその私たちが、他人の不正についてはそれを許せないと思うのだろうか?それは自分たちの不正に関しては、それが特別な事情があり、やむをえないことであり、罪悪感をさほど持っていないから、である。そう、この内部の人間の罪悪感の麻痺があるからこそ、組織の不正はなくならないのである。
具体例を示さなくてはならない。M自動車と限定をすることなく、ある自動車会社で起きたと想像される次の様な社員同士の会話について考える。
上司:「また政府が厳しい燃費の水準「リットルあたりXキロ」を示してきた。わが社はどうがんばってもX2キロが精一杯だ。」
部下:「困ったことになりました。A社が、その基準をクリアする車を開発したと、先程発表しました。リットル当たりX+1キロを達成したといいます。」
上司:「何?それは困った。どうにかならないのか?」
部下:「どうにか、といわれても・・・・。」
上司:「もしA社がその車を発売したら、わが社の車は、まったく競争力がなくなるぞ。売り上げゼロだ。わが社が生き残るためには、X+2キロを達成しなければならない。」
部下:「しなければいい、と言ってもこれ以上車の改善をすることは、今のペースでは不可能です。」
上司:「とにかく燃費データをリットルあたりX2キロ達成したことにするのだ。」
部下:「えっ、そんなことをしていいんですか・・・・。それじゃ不正データを使用することになり、罪を問われてしまいますよ。」
上司:「君はわかっていないな。そもそもA社のデータの発表、そのまま信じるのか?」
部下:「A社も不正データというわけですか?」
上司:「もちろん確証はない。でもA社の2年前の発表は、リットルあたりX3キロだった。こんな短期間に、政府の基準を満たせるようになると思うか?」
部下:「確かに、そうですね・・・・・。」
上司:「企業間の競争とはそんなものだ。みんな実際のデータを出しているかは怪しい。そんなものだ。」
部下:「えー、そんな人生観が変わるようなことを言われても・・・・。でも、誰が不正に手を染めるのですか?・・・・・」
上司:「いいか、不正は起きないのだ。誰も『リットルあたりX2キロ』というデータがどこから来たかはわからないことにするのだ。君も知らない。俺も知らない。この会話も起きていなかったのだ・・・・・。」
部下:「本当に大丈夫なのでしょうか・・・・。」
上司:「いいか、この会話はここまでだ。『リットルX2キロ達成』という発表をしなければ、わが社は車がとたんに売れなくなる。すると会社は事実上倒産だ。たくさんの社員やその家族が路頭に迷う。その意味ではこのデータを示すかが多くの人々の生活を左右するのだ。それともキミにそれだけの人々を犠牲にするだけの勇気はあるとでもいうのか?」
部下:」「・・・・・・・。」
上司:「まだわかっていないようだな。いいか、これは企業間の申し合わせのようなものだ。もっと言えば政府もそこに加わっていると考えていい。彼らも実は燃費が実際にそこまで高くなることなど無理だということを、どこかで知っているのだ。でも彼らにも、この燃費の達成目標を提示する、それなりの事情があるのだ・・・・・・。俺も10年前にこの業界に入ったときは信じられなかった。でも今では開き直っている。そういうものだと思っている。それに考えてみろ。『わが社はリットルあたりX2キロを達成』、ということで、誰か人が死んだり犠牲になったりするのか?実際に誰が実害をこうむるのだ?乗る側も『やった!こんな高燃費の車を買うことが出来て、節約になった』と大喜びだろう。誰も犠牲にはならないのだ。人を殺したり、物を盗んだり、という類の犯罪とはまったく別の話だ。」

書いているうちに、私も勇気が出てきた。この上司の言うことはもっともな話だ。もちろん私は、不正の行われたM社以外のA社やB社が不正をしているとは思わない。本当は政府が不正をしているとは絶対に思っていない。だから、上に書いた会話は、全くの私の空想、架空の話だ。ただこの種の不正が起き、それが後ろめたさを起こさないとしたら、そしてそれをごく普通の善良な市民でさえ起こすとしたら、この種の考え方が必然となる、それだけだ。

2016年5月8日日曜日

嘘 2 ⑭

サルトルのいう「自己欺瞞」

というわけでサルトル。よくわからないが、自己欺瞞とは次の様なものとされている。「対自が即自化された自己を進んで受け入れ、しかもなお自分を対自とみなすような態度」。(富沢古賀敬太 ()「二十世紀の政治思想家たち新しい秩序像を求めて」ミネルヴァ書房 2002年。) たとえば次の様な説明が入ればわかりやすいだろう。「人間とは自由であることを宣告されている。人間には自由であること以外の存在の仕方はない。しかし同時に自由は「不安」という事を意味している。たとえば厳かな式典で突然叫び出す自由を自分は持っているとすれば、それは実に不安や恐怖を掻き立てる。いつ自分がその自由を行使して叫び出し、皆から一斉に怪訝の目を向けられるかわからないのだ。(トゥレット症候群の人の苦しみはそれだが、その場合の叫び声はもはや症状であり、自由の行使とは別物だ。)
 自由は責任や不安と表裏一体なのだ。だから人はその不安を避けるために自由を放棄することがある。たとえば人前ではおとなしくして、決して規範を犯すようなことはしない存在。そう決め込んでしまう。それは安全かもしれないが、自分の自由を殺している状態でもある。それは本来の対自的な存在ではなくて、即時的な存在に成り下がることになる。そこらへんにある石ころとか、ペンのように、おとなしい聴衆の一員、というわけだ。しかしそれでいて自分は対自存在、すなわち自分に向き合い、自由を受け入れる存在と思い込むとする。それが自己欺瞞だというわけだ。
 「存在と無」には、こんな例が出てくる。ぶどうの房に手を伸ばすが、あいにく届かなかった。男は言う。「フン、どうせまだ青すぎておいしくないぶどうに決まっている。」イソップのすっぱいぶどうの例みたいな話だ。ここにある自己欺瞞はわかるだろうか。ぶどうに手を伸ばすという自由の行使は、期待はずれという苦痛を伴う可能性を前提としている。自由を行使する人間は不安や苦痛と向き合わなくてはならない。ところがぶどうが手に届かないとわかると、自分がぶどうを取らないという自由を最初から行使したかのごとく振舞う。

 しかし他方では、人間は自由であると同時に、本来自己欺瞞的でもある。私がすでに書いたように、ほっておいたらそちらに沈み込むような性質を持っているのだ。サルトルも「存在と無」(ちくま学芸文庫)で次の様な驚くべき(でもないか?)ことを書いている。同じことを言っている!!!

われわれは、眠りにおちいるような具合に自己欺瞞におちいるのであり、夢みるような具合に自己欺瞞的であるのである。ひとたびかかるあり方が実現されると、そこからぬけ出すことは眼をさますのが困難であると同様に、困難である。それは、自己欺瞞が夢またはうつつと同様に、世界のなかの一つの存在形態であるからである。(p223) えーっ!!