嘘 2 ⑭
サルトルのいう「自己欺瞞」
というわけでサルトル。よくわからないが、自己欺瞞とは次の様なものとされている。「対自が即自化された自己を進んで受け入れ、しかもなお自分を対自とみなすような態度」。(富沢克, 古賀敬太 (著)「二十世紀の政治思想家たち―新しい秩序像を求めて」ミネルヴァ書房 2002年。) たとえば次の様な説明が入ればわかりやすいだろう。「人間とは自由であることを宣告されている。人間には自由であること以外の存在の仕方はない。しかし同時に自由は「不安」という事を意味している。たとえば厳かな式典で突然叫び出す自由を自分は持っているとすれば、それは実に不安や恐怖を掻き立てる。いつ自分がその自由を行使して叫び出し、皆から一斉に怪訝の目を向けられるかわからないのだ。(トゥレット症候群の人の苦しみはそれだが、その場合の叫び声はもはや症状であり、自由の行使とは別物だ。)
自由は責任や不安と表裏一体なのだ。だから人はその不安を避けるために自由を放棄することがある。たとえば人前ではおとなしくして、決して規範を犯すようなことはしない存在。そう決め込んでしまう。それは安全かもしれないが、自分の自由を殺している状態でもある。それは本来の対自的な存在ではなくて、即時的な存在に成り下がることになる。そこらへんにある石ころとか、ペンのように、おとなしい聴衆の一員、というわけだ。しかしそれでいて自分は対自存在、すなわち自分に向き合い、自由を受け入れる存在と思い込むとする。それが自己欺瞞だというわけだ。
「存在と無」には、こんな例が出てくる。ぶどうの房に手を伸ばすが、あいにく届かなかった。男は言う。「フン、どうせまだ青すぎておいしくないぶどうに決まっている。」イソップのすっぱいぶどうの例みたいな話だ。ここにある自己欺瞞はわかるだろうか。ぶどうに手を伸ばすという自由の行使は、期待はずれという苦痛を伴う可能性を前提としている。自由を行使する人間は不安や苦痛と向き合わなくてはならない。ところがぶどうが手に届かないとわかると、自分がぶどうを取らないという自由を最初から行使したかのごとく振舞う。
しかし他方では、人間は自由であると同時に、本来自己欺瞞的でもある。私がすでに書いたように、ほっておいたらそちらに沈み込むような性質を持っているのだ。サルトルも「存在と無」(ちくま学芸文庫)で次の様な驚くべき(でもないか?)ことを書いている。同じことを言っている!!!
われわれは、眠りにおちいるような具合に自己欺瞞におちいるのであり、夢みるような具合に自己欺瞞的であるのである。ひとたびかかるあり方が実現されると、そこからぬけ出すことは眼をさますのが困難であると同様に、困難である。それは、自己欺瞞が夢またはうつつと同様に、世界のなかの一つの存在形態であるからである。(p223) えーっ!!