2024年12月31日火曜日

男性の性加害性 推敲 13

 ブルース・リンド氏の論文について何らかのコメントをしなくてはならない。私の反応は複雑である。一方では「とんでもない論文だ」だが、もう一方では「一理ある」である。それは私の実体験に多少関係しているかもしれない。といっても加害者の、ではない。どちらかといえば被害者としての体験だ。 小学校時代私は遠方の学校まで小学校1~3年までは汽車で75分かけて、その後は電化されて最後は電車で35分かけて千葉県の田舎町から千葉市まで通学していた。(どうだ! 汽車だぞ!これを読んでいる方々の中で、小学校時代は汽車通学をしていた人は決して多くないだろう。)すると途中から私に話しかけてくる○○大学生の男性に話しかけられるようになった。私は登校時は車中で教科書を読み始めてすぐ飽きて、ぼんやり考え事をすることが多かったが、同じ汽車に乗ってきていたその男性とは結構よく話す間柄になった。どうして大学生が私に興味を持つんだろう、という疑問は湧かないわけではなかったが、○○大医学部生(のちに嘘だとわかった)というその男性に対して「すごいなあ」という経緯を持ったことは多少はあったのであろう。

(中略)

やはり小学生のころ、男性トイレで露出癖の男性に遭遇し、その犠牲になったことが2,3回あった。それも私は軽くいなしておしまいだった。私の非常に乏しい体験では男性に言い寄られ(かけ)た体験はそれだけだったが、私はそれらの体験をトラウマと認識したことはそれ以降なかったし、今でも衝撃というほどではない「変な」体験として記憶に残っている。

2024年12月30日月曜日

「独学する」 書評完成

 サイコセラピーを独学する 山口貴史著 金剛出版 2024年

 本書はわが国で出版された臨床心理関係の書籍の中ではかなり異色である。まず典型的な学術書や専門書とは言えない。サイコセラピーを座学で学んだ筆者が臨床に飛び込んだ実録ないしは体験記というニュアンスがある。それだけ臨床を始めた氏が体験した戸惑いの描写はリアリティに満ちている。そして何よりも氏がそれを自分の頭で解決しようと全力を振り絞った跡が見られる。私は最初から引き込まれるように本書を読み、私自身も非常に似たような体験を昔持ったことを思い出していた。出来ることなら私がまだ心理療法家として駆け出しのころに書きたかった本である。ただし私には彼ほどの文才や学問的なパワーはないので、単なるエッセイ風の体験記に終わっていたであろう。しかし著者はしっかり学問的な裏付けを行いとてもユニークな書に仕上げているのだ。

この本を読んでいて、私の中には「現場主義」という言葉が浮かんでいた。辞書によれば「実際に業務の行われている場所にあって業務の実行の中から生じる問題点を捉え、それを改善し、能率と業務の質の向上を計ること」(デジタル大辞林)とある。現場主義は氏のよって立つ行動原理をかなり反映しているであろう。つまり体験第一主義ということだ。山口氏自身がいう「一次情報」(p.229)の重視である。

 人はある技量を身に着ける際に、ある程度座学で予備知識を得てから実地に臨むことが多い。そしてそこで知識と実体験の矛盾や齟齬に多かれ少なかれ当惑することになる。しかし多くの場合この矛盾にあまり悩まされない。「フーン、理論と実践はちがうんだ」と割り切って、学んだことはいったん忘れて実践から学ぶか、あくまでも理論を実践に当てはめることに腐心するかのどちらかだろう。ところがそのどちらにも満足せず、氏のようにその齟齬の生まれる原因についてとことん追求しつつ実践を続ける人もいる。私はそこに氏の学問的な誠実さを感じ、とても好ましく思う。

 一つ興味深いのは本書の題名が「独学する」となっていることだ。確かにこれは独学でもとても孤独な独学だ。例えば精神分析を独学する、というのとは意味が違う。こちらにはいざとなったら専門書やトレーニング機関がある。しかし氏の独学は、どのような学派の理論にも頼らず、自分で自分の理論を作り上げていく作業だ。究極の独学といっていいし、本書が出た以上心理臨床の初学者はもう孤独を味わいながら「独学」をしなくてもよいのだろう。

 このように山口氏は既存の精神分析理論や心理療法にとらわれず、より現場主義的な立場から自らの「個人モデル」を作り上げたわけであるが、実は精神分析の中においても、同様な立場を貫く流れがあったというのが私の理解だ。それがより自由な気風の米国で生まれた関係精神分析である。それは伝統的な精神分析な価値観を根本的に問い直す立場として生まれた動きだと言っていい。もしスティーブン・ミッチェル(関係論の立役者)のようなスーパーバイザーに早くから出会ったとしたら、山口氏は「個人モデル」の最終形にずっと早く行きついていたのではないか。

 勿論そうは言っても関係精神分析も一つの学派であり、そこには理論的な縛りも存在する。しかし氏は関係論の示すもののかなりの部分を吸収するであろう。それほどまでに氏が提示している「個人モデル」は、セラピストの「揺れ」も含めて関係論的な姿勢と齟齬がないからである。なぜなら関係論は極めて常識的で現場主義的なリアリティを盛り込んだものだからである。

最後は関係精神分析の宣伝のようになってしまったが、ともかくわが国で氏のように柔軟で独創性を備えた療法家が生まれたことを心から歓迎したい。


2024年12月29日日曜日

「メンタライゼーション」 書評完成

  「メンタライゼーションと遊ぼう」(日本評論社)書評

 本書は精神科医で精神分析家でもある池田暁史氏のメンタライゼーションに関する二冊目の書である。第一冊目は2021年の「メンタライゼーションを学ぼう」(日本評論社)で「こころの科学」に連載されたものをまとめた、いわば入門編としての解説書である。その姉妹書として2024年に出版された本書「メンタライゼーションと遊ぼう」はそのタイトルとは裏腹により専門家向けに書かれた学術書と言うべき重厚な内容となっている。(「~と遊ぶ」というタイトルの含みについては本書の中で解説されている。)



(中略)

 

 ところで伝統的な精神分析の世界でトレーニングを受け育ったもの(著者もこの評者も含まれる)にとって、メンタライゼーションは実に悩ましい存在だ。それはれっきとした精神分析的な出自を持ちつつも、その範疇を逸脱するエネルギーを発し続ける。無意識や転移をあえて扱わず、週4回の分析的なセッションとは距離を置くという彼らの姿勢は挑戦的とすら感じる。そしてそれは逆に精神分析にその包容力の大きさを試しているかのようだ。そしてそのことについてフォナギーとベイトマンで温度差がることも本書に教えてもらった。

 私は本書を読み、現在メンタライゼーションの世界で起きていることの一端を生々しく知ることが出来たように思う。そしてこれだけ高レベルでメンタライゼーションの現在について明らかにしてくれた池田氏の力業に驚嘆せずにはいられない。


2024年12月28日土曜日

男性の性加害性 推敲 12

 ところでこの男性性の加害性を論じるうえでどうしても言及しなくてはならないのがブルース・リンド先生の論文だ。

Rind, B,  Tromovitch, P, Bauserman, R (1998). "A Meta-Analytic Examination of Assumed Properties of Child Sexual Abuse, Using College Samples". Psychological Bulletin. 124 (1): 22–53.

この論文が問題視されたのは、子供の性的虐待(以下CSA)が男女を問わず極度の外傷となるということが常識とされているが、これに関する59本の論文のメタ分析をしたところ、CSAの犠牲となった学生は一般の学生と比べて適応の度合いが軽度に低かったということを結論付けているからだ。しかもこの軽度の低下は家族環境 family environment のせいであり、そのファクターに比べたらCSAは有意ではない nonsignificant のだという。そして男性の反応は特にその傾向があったという。またCSAの体験者のレポートを読んでも、特にその内容が強烈だったり広範的であったりはしない neither pervasive nor typically intense と結論付けた。1998年に発表されたこの論文は何度か査読で棄却された後に受理され発表されたが、アメリカの両議会でも問題視されたという。そしてこの論文の発表にかかわったアメリカ心理学協会も特別な声明文を出し、CSAの有害性や外傷性について改めて提言する形となったという。

このリンド氏らの論文は、いかにも男性の性加害性について論じる際に火に油を注ぐ内容である。多少のセクハラは・・・という議論を導きやすい危険性を有するからだ。


2024年12月27日金曜日

男性の性加害性 推敲 11

 前々回に続いて「恥と自己愛トラウマ」の第11章をここで紹介しようと思う。10年前の私はかなりあけすけに自らの体験を語っているが、これも年齢的なものが影響しているのだろう。 この章の中で私は米国の女性はみなキュロットをはくという話、それに比べて日本の女子高生は短いスカートをはくこと、そんな女子高生をそのころ住んでいたアメリカの田舎町で目撃してものすごく浮いていて恥ずかしくなったことなどが語られ、最後に私はある標語を提案するのだ。

「キュロットで、まぶしい太ももを、健康な膝小僧へ。」

まあどうでもいい文章だが、この問題日常的な他愛のないレベルから加害・被害のレベルにまで至る傾向にあるのは確かだ。


第11章 見られることのトラウマとセクシュアリティ(2)

以下は「北山修のレクチャーアンドミュージック 第3回 2016年6月 NHK FM」からの抜粋である。このテーマに関する議論を展開している部分を抜き出してみたい。

黒崎(黒崎めぐみアナウンサー、司会者):話は尽きませんが、このあたりで、先生は伝えたいメッセージをお持ちということですが。
岡野:ああ、そうでしたね。精神科医というより一人の人間として。私は日本に帰って5年になりますが、カルチャーショックだったのは、女子学生のスカートが異様に短いということです。これにびっくりしました。アメリカの田舎町に住んでいた時に、その格好で来ていた日本人の女子学生がいたんですが、すごくおかしな格好に見えて、周囲から完全に浮いていました。アメリカ人も肌は出すんですよ。でもスカートじゃないんですよ。・・・・・・キュロット。 (沈黙ののち、笑い。)
北山(北山修、ホスト): アメリカ人はキュロットなんか着ています?
岡野: はい、短いのは確実にキュロットです。まあ、それで防衛しているというか。男性の劣情を誘うことを防いでいます。
北山: つまり下が開いているより、しまっているという方が、男の欲望を刺激しない、と言っているわけだ。
岡野:その通りです。
北山: でもアメリカではなんか、上は露出しまくっているじゃない。胸の谷間とか。
岡野: あ、例えばパーティのドレスなどは胸の谷間は、出すのが正装なんですよ。
北山: そうなんだ。でもそれは誘惑目的があるんでしょ? 
岡野: でも見慣れちゃうと、もうそうでもないんですよね。
北山:じゃあ、女子高生のスカートも見慣れれば、そうでもないんじゃないかな。
岡野:いやー、そうじゃないんじゃないかな。あのねーすごく特異な文化だと思う。日本は。この間私の一番お歳を召した患者さん、もう90歳になっているんだけれど、おっしゃっていました。「私は長年生きていて、こんな変なことは見たことがない」って。確かに現代の女子学生のスカートは短すぎで、おかしいとおっしゃいました。私は日本に帰ってからあの様子を見て、憤慨したんです。なんと日本の教師たちはひどいんだろう。あんなのを生徒たちにはかせて。そしたら私の妻が言いました。「何言ってんの。女の子たちが自分で短くしているのよ、と。」

黒崎: そうですよ。あえてたくし上げているという感じがあります。
岡野:ええ、それがまたカルチャーショックだったんですが。

北山:要するにかわいいんでしょ?

黒崎:足が長く見える、というのが女の子たちの言い分ですね。

岡野:それが彼女たちの言い分なんですか。それならおじさんたちの言い分としては、とにかく刺激しないでほしい。

北山:頼んでいるわけだ。

岡野:頼むよ、と。

北山:頼むから、キュロットにしてくれ、と。

岡野:この間新聞を読んでいたら、新潟県は女子高校生たちのスカートが一番短いんだと。そこで標語を作って、「勉強もスカートの丈も、やる気しだいでまだまだ伸びるんだ!」

北山:(大笑い)

岡野:こんな標語を作っても、なかなか伸びないだろう。それよりはキュロット。足はどんなに出してもいい、でもキュロットだ、という。

北山:でもあなたがどんなにお願いしても、キュロットがはやるということはないだろうね。

岡野:おそらく・・・はい。でもキュロットは見た目はまったく同じなんですよ。ただよく見ると間にスリットが入っているわけです。それでスタイルは変わりませんから。

北山:でも男の欲望というのは、今度はキュロットを見たら発情するとかいうことにはならないのかな。

岡野:それは一部はそうかもしれませんね。キュロットフェチとかね。(笑い) それは男のどうしようもないところですね。(笑い)

北山:でもあなたが言っているように、むしろキュロットであろうと、短いスカートだろうと、あなたが言っているように、じっと見れば、そのうち飽きるよ。

岡野:なるほど、私はもっと見るべきなんだ。

北山:そうだよ、見ないようにしているからじゃない?

岡野:なるほど、そうだったのか。ここら辺ぜんぜん打ち合わせと違う方向に行ってませんか?

黒崎:ということは西洋の方の胸の開いたドレスと同じように、見ているうちに慣れれば大丈夫と。

岡野:ということは北山先生はもうじっくりとご覧になったということですね。

北山:いや、というよりももう年ですね。(笑い)

岡野:なんだ、結論は結局そうなるんですね。

黒崎:女性としてはどう割り込んでいいかわからないんですが・・・女の子たちは、見られても大丈夫な下着にしているんですよね。

岡野:ああ、そうなんですか?

黒崎:ええ、ブルマーを下にはく、というのと同じような。あの当たりはどう考えたらいいでしょうかね。

岡野:うーん、・・・見たことないからぜんぜんわからないですね。(笑い)

北山:だから、もう少しゆっくり観察をしたら、慣れるかもよ。

岡野:私の作った標語はですね、「キュロットで、まぶしい太ももを、健康な膝小僧へ。」というんです。

(笑い)いいでしょ。女の子たちは健康な足をしているんだから、それがまぶしい太ももであってはならない。これは私の仕事とも関係しているのですが、性的な被害に遭われている方が多い。そういうことが少なくなるためにも、キュロットのことを学校の制服を考えるときに少しは考えていただければ、と思います。

(以下略)



2024年12月26日木曜日

男性の性加害性 推敲 10

 昨日の長々としたエントリー(自己引用だから仕方がないが)をどう考えるか。もう10年前になる論考だが、米国から帰国(2004年)して10年になる私の再異文化体験の名残が感じられる。かなりぎりぎりのところを論じている気がするが、少なくとも文化のレベルでは隠すことは媚態、誘惑につながり、文化的には粋として洗練されるという論旨はその通りだろう。それに関してはヒジャーブのように完全に隠すよりも、日本の文化の方がより中途半端で誘惑的、ということか。

 しかし媚態はある意味では興味、関心、興奮を呼び、その意味では「価値」がある。人はそれに引き付けられるし、又隠す側もそれによりもっと注目されるという目的を達することができる。しかしそこには危うい線引きがある。夕鶴の与ひょうのように、隠すことで価値があり,「かわいい」のに、それに害を及ぼし、台無しにしてしまう。それは幻滅にもつながり、破壊にもつながり、トラウマにもなる。こうなるとやはりフェレンチの「言葉の混乱」の問題がここにもある。女性が「かわいさ」を発信しているのに、男性が求める「かわいさ」とは違う。隠す、見せるという攻防の微妙なラインはその線上であれば機能するが、一歩間違うとすぐに境界侵犯 boundary violation につながるのだ。

しかしそれにしても「可愛い」を媚態として片づけてもいいのだろうか?「わび、さび」を英語表現してみよう。辞書的にはよく出てくるのが、

・The beauty of imperfection
・Less is more.
・Appreciation of the transience and imperfection.

つまりは「美の中の不完全性」というわけだ。とするとかわいいには、あどけなさ、不確かさ、不完全さ、危うさ、危なげなので思わず助けたり抱っこしたりしたくなるという意味を含む。やはり「かわいい」につながるとみていいのではないか。


2024年12月25日水曜日

男性の性加害性 推敲 9

   ところで私はこのテーマで本ブログの2011年1月12日のエントリーで次のような内容の文章を書いた。

(中略) この女性の追及するかわいさが、セックスアピールとは微妙に、あるいは明らかに異なるという点は重要であろう。男性が女性のかわいさを魅力的と感じたとしても、そこにはどこか倒錯的なところがある。秋葉原でメイド服を着た女性たちに対して男性はそこに一種倒錯的(オタク的)な視線を向けることになる。それは女性たちがセックスアピールとは異なる「かわいさ」を発散しているつもりでも男性はそこに性的な魅力を覚えてしまうということになる。

確かにかわいい、は女性にとってはセクシュアリティと関係しているようでしていない部分がある。彼女たちはアクセサリーを見ても「かわいい!」と言ったりする。うちのカミさんは、コーヒーカップも、トイレの便座カバーも、明らかに「かわいい」(彼女にとって)ものを買ってくる。そしてそのかわいいはもちろん、うちの犬チビの「かわいい!」とも結びつく。子犬、子猫の「かわいさ」は言うまでもない。そして … 人間の赤ちゃんを見たときの「かわいい」にもつながっているかもしれない。そう、女性にとってのかわいいは、幼児を見たときの「かわいい」に通じるところがある。しかしではどうして彼女たち自身が「かわい」くありたいのだろうか?動物学的に考えたら、男性を惹きつけるために女性がかわいくありたいとしたら、繁殖にむすびつくという意味では合目的的である。しかし繰り返すが、彼女たちがかわいさを追求する際にそこに男性の目はあまり意識されていない(というよりは余計なもの、迷惑なものと感じる)場合の方が多いのである。
自分もかわいくありたく、そしてかわいいものにひかれるというこの女性の特徴は、女性に特有の対象との同一化傾向と関係しているのかも知れない。対象の気持ちが分かり、対同一化し、取り入れ、またその中に自分を見るのだ。

ところでこの隠すことの誘惑性について、私はかつて「恥と自己愛トラウマ」(2014)に結構面白いことを書いている。

第10章 「『見るなの禁止』とセクシュアリティ」

これまで自己愛トラウマと恥の関係について論じてきたが、そこでは人の視線は両儀的な意味を持つことが示せたのではないかと思う。自分の弱さや恥ずかしい部分を暴力的に暴く時、人の視線はトラウマを及ぼすことになる。しかし自分の存在を肯定し、見守ってくれる視線は、逆に自己愛トラウマの癒しともなるのである。

 見られることの両義性はセクシュアリティに関してより顕著な現れ方をする。見られ、知られることは性的な文脈では、喜びや興奮にも、トラウマにもつながるのである。この問題を日本の文化に照らして更に考えてみたい。

 「見るなの禁止」とセクシュアリティ

 北山修氏は世界的に有名な精神分析家である。まだ現役で次々と新しい発想に基づく論文や著書を世に送り出している。その中でも「見るなの禁止」とは海外にも知られる概念である。その概念とは次のようなものだ。

 日本の神話には、主人公が「な見たまいそ(見てはいけませんよ)」という禁止を破ってのぞき見することから悲劇(離別など)が始まる、というパターンが多くみられる。浦島太郎の玉手箱などはその一番ポピュラーな例だろう。北山先生が特に用いるのが「夕鶴」の例である(北山修、見るなの禁止 北山修著作集1 日本語臨床の深層 岩崎学術出版社、1993年)。

与ひょうは、ある日罠にかかって苦しんでいた一羽の鶴を助けた。後日、与ひょうの家を「女房にしてくれ」と一人の女性つうが訪ねてくる。夫婦として暮らし始めたある日、つうは「織っている間は部屋を覗かないでほしい」と約束をして、綺麗な織物を作る。これが「見るなの禁止」というわけである。つうが織った布は高値で売られ、与ひょうは仲間からけしかけられて、つうに何枚も布を織らせるが、つうとの約束を破り織っている姿を見てしまう。そこにあったのは、自らの羽を抜いては生地に織り込んでいく、与ひょうが助けた鶴の姿だった。正体を見られたつうは、与ひょうのもとを去り、空に帰っていく。

 つまり覗かないで欲しいという約束を破ったことから与表とつうの破局が始まったのである。

 北山先生はここから日本人が伝統的に抱いている罪の意識(原罪)のあり方を説明していく。つまり覗いていけないものを覗いてしまうという罪である。しかし北山先生の一連の著作の愛読者でもある私は、これを少し別の文脈から読みたくなる。それはつうの側からの誘惑という文脈である。
 もちろんつうが与ひょうを誘惑したというわけではない。文字通り身を削って織物をしている姿を、彼女は本当に見られたくなかったのであろう。ただ「見るなの禁止」は強烈な誘惑の源になり、それを男性の主人公が破ってしまう結果となったのではないだろうか。言い代えるならば、「見るなの禁止」は「見よの誘惑」とも考えられるのである。これもまた文化を通して普遍的なテーマではないかと思うのだ。そしてこれはもうひとつの重要な問題と結びついている。それは男性の側が我が身を隠す女性を「誘っている」「誘惑している」と都合よく解釈してしまう傾向であり、それにより生じる様々な性被害の可能性である。

このテーマは私の異文化体験とも関係しているかもしれない。2004年に帰国して特に印象深かったのが、テレビを頻繁ににぎわす盗撮事件と、おそらくそれに関係した女子学生の露出度の高さである。私は最初は憤慨したものだ。「日本の高校の校長や教頭は何をしているんだ!あんなに短いスカートを制服に指定して!」ところがあとからわかったことは、スカートの丈を「自主的」に上げていたのは生徒の方だったというわけである。

「見るなの禁止」は誘惑を意図したものか?

 まずは非常に原則的なことから論じよう。現代の世の中の法律には、「~してはならない」という禁止事項は膨大に記載されているはずだ。そしてそれは禁止することで余計人々を誘惑することを意図しているわけでは決してない。当たり前の話であろう。為政者は、覗き、盗撮を禁止することで一般市民を誘惑する(「劣情をあおる」)ことを意図してはいない。たとえば

軽犯罪法第1条:左の各号の一に該当する者は、拘留又は科料に処する。
第23号 正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所、その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者。

 ただし最近頻繁にニュースをにぎわす「盗撮」は刑法で定められた罪名ではなく,地方自治体で制定されるいわゆる「迷惑防止条例」で取締りが行われるという。

この盗撮がどうして最近増えているのであろうか?盗撮については「いやいや昔からあったが、捕まらなかっただけだ」という論法は成り立たない。昔はそのようなテクニックが存在しなかったのだから。携帯電話の録画機能が高まるにつれて盗撮の件数も増加してきたと考えるべきであろう。何しろ最近ではサンダルにケータイを挟んで盗撮するという輩まで出て来ているのだから。さらには女性の露出が増えて盗撮が容易になる分だけ、盗撮の件数が増えているという可能性はどうか?これもあるかもしれない。

ちなみにこの問題に関して思い出すことがある。2013年の夏にある精神医学のシンポジウムに参加する機会があったが、そこで榎本クリニックの榎本稔先生が司会をしておられた。榎本先生はアルコール依存症のほかにも性犯罪の加害者の治療にも携わっていらっしゃるが、その先生の言葉が興味深かった。
 先生によれば、日本でしばしば報道される盗撮については、諸外国では問題にならないという。諸外国においては性犯罪はさらに深刻な加害行為、たとえば強姦などという形を取ることが通常であり、日本の迷惑防止条例で問題にされるような犯罪はむしろ少ないという。そして日本においては相対的に強姦が少ないといわれる。

そのように考えると日本の性犯罪のあり方は、やはりこの「見るなの禁止」と関連しているという印象を受ける。日本においては女子学生の制服に見られるような露出の多さは日本を訪れる外国人にとっては顰蹙を買っているようであるが、日本の性犯罪も「見る、見ない」のレベルで生じていて、それはそれ以上の深刻な性被害をむしろ防止するという意味合いを持っているともいえるのであろうか?その意味では日本はむしろ「安全」だからこそ露出度の高さは深刻な問題にならずにすむのか? そして諸外国では露出が高いことはむしろ即座に問題とされ、何らかの処分がなされるのであろうか?ここら辺は私は精神科医としての公式の見解としては表明できないことであるから憶測に過ぎない。
(中略) 

やはりお国柄の違い、ということか。日本で同じことが起きたなら、周囲の学生は見て見ぬふりをして、あるいは皆ニヤニヤして、そのうちだれかがそっと「それはあまりに目立つんじゃないの?」と声をかけるのではないか。あるいは教師が個室に呼んで、静かに叱責するとか。つまりミニの学生への扱い方もまた人目につかず、隠微な、目立たない形で行われるだろう。そしてそれが盗撮の土壌となるのだ。

私の個人的な見解は省略して、論客上野千鶴子先生に登場してもらおう。

「日本のビニ本文化は、性器を露出してはならないという世界にも稀有な倫理コードのおかげで、爛熟した洗練と発達をとげましたけれども、どうやらそれは法律の抑圧のせいだけではないのではないか、と思えてきます。性器・性交を見せない日本のソフト・ポルノの猥褻さとは、ハードコアになれた西欧人も驚く「国際水準」ものです。その「表現力」を思うと、どうやら作り手はパンティを脱がせたくなかったのではないか-・・・パンティでおおわれたボディのほうが、むき出しのボディよりずっと卑猥だ、ということを知っていたのではないかとさえ思います。・・・」

上野千鶴子「スカートの下の劇場」河出書房新社 1989年より。

 

ビニ本、とはもう死語化しているのではないか。またこのコメントも昨今のインターネットの普及により事情はかなり違ってきたというべきだろうか。ただ「古き良き時代」の日本のポルノ産業は確かにこんな感じだったのである。

 

文化の装置としての「見るなの禁止」は「粋(いき)」にも通じる

 

結局この「見るなの禁止」、日本人はこれを一つの「文化的な装置」として使っているような気がする。日本人のシャイな、控えめな民族的な気質と見事にマッチしているのだ。見せそうで見せない、そのへんで止めておく。これは従来粋、と呼ばれていたものだ。見せそうで見えないものを実際に見せてしまったら、これは野暮ということになる。
 そこで粋と言えば、九鬼周造先生の名前を上げなくてはならない。「『いき』の構造」(九鬼周造、1930年)から読んでみよう。内包的見地からの「いき」の徴表として九鬼は三つの表徴を挙げる。

「第一の表徴は、異性に対する『媚態』である。」

「第二の徴表は、『意気』すなわち『意地気』である。」

「第三の表徴は、『諦め』である。運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。」

さらに「媚態」については次のように述べる。

「異性との関係が『いき』の原本的存在を形成していることは、『いきごと』が『いろごと』を意味するのでもわかる。」

「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態は自ずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的に実現とともに消滅の運命を持ったものである。」

「なお全身に関して『意気』の表現と見られるのはうすものを身に纏うことである。『明石からほのぼのとすく緋縮緬』という句があるが、明石縮を着た女の緋の襦袢が透いて見えることをいっている。うすものモティーフはしばしば浮世絵にも見られる。」

このテーマでもうひとりどうしても引用しなくてはならないのが、谷崎潤一郎であろう。彼の古典的な「陰翳礼賛」は、日本的な美とは、見えにくい影の部分、陰影にその源があるという発想に基づいたものだ。それを谷崎は例えば家屋の事情から論じている。「美というのは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の先祖は、いつしか陰影のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰影を利用するに至った。」(「陰翳礼賛」より)

この谷崎の記述は江戸時代までの日本の家屋の事情を思い起こさせる。わが国では基本的には洋風建築が入ってくるまでは、家屋がドアで仕切られるということはなく、それぞれの部屋はせいぜい障子か襖で隔てられているだけだった。もちろん視界は外とはさえぎられるが、音はかなり筒抜け状態だったのである。そこでは襖を隔てた隣で起きていることは常に想像やファンタジーを掻き立てるものだったのである。日本のエロティシズムも、そのような想像を刺激するもの、間接的に触れるものとして発達したことは想像に難くない。それが上野先生の「ビニ本」論ともつながるというわけだ。

「夕鶴」に戻って、あるいは「見る」ことのトラウマ性

最後に夕鶴の「見るなの禁止」のテーマに戻ろう。夕鶴を含む民話や伝説は、同時にセクシュアリティのテーマを間接的に扱っていたのではないか? 私にはそう思える。

「見る」ことによる失望や脱錯覚は、セクシュアリティにおける脱幻想(「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う」こと(九鬼))を象徴してはしまいか? 民話や伝説が性的な表現や描写をほとんど含まないのは、逆にそれを「見る」行為により象徴させているからではないか?

このあたりのテーマは、実はリスキーである。というのも「見るなの禁止」の概念を提唱した北山先生は、この点を論じておられないからだ。一見性愛性を思わせない「夕鶴」にそんな不埒な考察を加えてもよいものだろうか? でもあえて論じてみよう。
 私の仮説は、「夕鶴」において見ることを禁止されていたのは、「つうの(女性としての)身体」ではなかったか? もうちょっと大胆な仮説。つうと与ひょうの関係は「プラトニック」だったのではないだろうか? 与ひょうはつうから性的にかかわることを拒否され続けるが、強引に思いを遂げることでつうの獣性を帯びた女性性に触れ、て脱錯覚を起こしたのではないか?

ところが2010年の春に日本語臨床研究会でこの考えを発表した時、最前列で聞いていらした北山先生は私の発表を「いい線行っていると思う」とおっしゃってくれた。やれやれ、である。

しかしもし私が考えるように「夕鶴」のテーマが暗にセクシュアリティを含んでいたとしても、そこで提示されているのは見る-見られるという関係性をめぐる誘惑とトラウマなのである。見られた、晒された、犯された夕鶴はもうそこにいられなくなって消えてしまった。それは与ひょうの行為がトラウマだったからである。その結果としてつうは「穴に入る」しかなかった。与表はそのことを予知できなかったのだろうか?それでも覗かなくてはいけなかったのだろうか・・・・? しかし同じような状況で与表のようにのぞきの行為に走らずに、じっと一人で耐えている男性は果たしてどのくらいいるのであろうか?つうが実際は誘っているのだ、という勘違いをしない男性はどれほどいるのだろうか?
 私の視点は男性側に偏りすぎているのを感じたので、少し修正しよう。自分を助けてくれた(と信じた)女性が、男性のために一心に生産をし、それに専心している最中に、男性が邪な考えを持つということを女性はどこまで思いはかることができるのだろう?おそらく女性が純真で、人の心の邪悪な側面を知らないほど、男性からの侵襲に驚き、トラウマを体験し、時には人生を台無しにしてしまう。彼女の人生はもうもとの平和で慈愛に満ちた世界を永久に失うことになる。

恥のテーマは誘惑とトラウマの狭間で永遠に私たちに、時には不可能とも言える理性的選択を迫って来るのである。


2024年12月24日火曜日

解離と知覚 文献

ようやく文献リスト作成までこぎつけた。脱稿まであと一歩(実は昨日が締め切りだった。)やれやれ。

 (1) Waters F, et al. (2012) Auditory hallucinations in schizophrenia and nonschizophrenia populations: a review and integrated model of cognitive mechanisms. Schizophr Bull. 38(4):683-93.

(2) McGrath JJ, Saha S, Al-Hamzawi A, et al. (2015) Psychotic Experiences in the General Population: A Cross-National Analysis Based on 31,261 Respondents From 18 Countries. JAMA Psychiatry. 72(7):697-705.
(3) Sacks, O. (2012) Hallucinations. Vintage. 太田直子訳(2014)幻覚の脳科学 見てしまう人びと. 早川書房.

(4) Blanke O, Ortigue S, Landis T, et al. (2002) Stimulating illusory own-body perceptions. Nature. 19;419 (6904):269-70.
(5) Longden,E., Madill, A., Waterman, MG. et al (2012). Dissociation, trauma, and the role of lived experience: Toward a new conceptualization of voice hearing. Psychological Bulletin, 138(1), 28–76.
(6) American Psychiatric Association (2013). Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition (DSM-5). American Psychiatric Publishing. 日本精神神経学会 (監修) (2014): DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル. 医学書院.
(7) Steele, K,, van der Hart, O., Nijenhuis, E. (2009) the theory of trauma-related structural dissociation of the personality. in Dell, P. F., & O'Neil, J. A. (Eds.). (2009). Dissociation and the dissociative disorders: DSM-V and beyond. Routledge/Taylor & Francis Group.

(8) Breuer, J., Freud, S.(1985) Studies on Hysteria. Standard Edition, 2. 「ヒステリー研究」(1895)フロイト全集 2 1895年 ヒステリー研究 芝伸太郎 (編集, 翻訳)岩波書店、2008年.
(9) Varese F., Barkus, E., Bentall, RP. (2012) Dissociation mediates the relationship between childhood trauma and hallucination-proneness. Psychol Med. 42(5):1025-36.
(10) Jones, O., Hughes-Ruiz, L., & Vass, V. (2023). Investigating hallucination-proneness, dissociative experiences and trauma in the general population. Psychosis, 16(3), 233–242.
(11) Steinberg, M. (1994)structured clinical interview for DSM-IV dissociative disorders Revised (SCID-D-R) Washington, DC. American Psychiatric Press.
(12) Putnam, FW. (1989) Diagnosis and Treatment of Multiple Personality Disorder.The Guilford Press.
(13) Kluft, R. (1987) First-rank symptoms as a diagnostic clue to multiple personality disorder American Journal of Psychiatry. 144:293-298.
(14) Ross, CA. (1997)  Dissociative Identity Disorder - diagnosis.clinical features and treatment of multiple personality. John Wiley & Sons, Inc.

(15) 松本俊彦(2009)解離性障害と鑑別すべき疾患.専門医のための精神科臨床リュミエール20 解離性障害 岡野憲一郎中山書店 に所収
(16) 柴山雅俊(2017)解離の舞台 症状構造と治療. 金剛出版.


2024年12月23日月曜日

男性の性加害性 推敲 8

ついでに朝日の記事も面白い。

進むミスコンの脱・性別化 それでも根強い「やめたら」
https://www.asahi.com/articles/ASN9V3T78N9TUTIL01X.html
阿部朋美  2020年9月26日 大学の「ミスコンテスト」が曲がり角を迎えている。才色兼備
の学生を選ぶ行事として各地で続き、芸能界やアナウンサーへの登竜門にもなってきたが、性差別や外見差別を助長するという批判も根強い。性別を不問にしたり、廃止したりする大学も出てきた。
有名アナ輩出ミスコンも変化
 性別や国籍、外見を問わず、大学を代表するインフルエンサーを選ぶ――。上智大学の学園祭「ソフィア祭」の実行委員会は今年、そんな「ソフィアンズコンテスト」を新設した。「ミス」「ミスター」を決めるコンテストは廃止した。
 大橋未歩さんら有名アナウンサーも輩出した伝統のミスコン。廃止に至るきっかけは、学内外からの「大学の多様性に反する」「いつまでやっているのか」といった批判だった。大学側からもやめるよう求められ、実行委は昨年から議論を開始。ダイバーシティー(多様性)が叫ばれる時代に、従来のやり方では「ミス=女性らしさ」「ミスター=男性らしさ」という価値観の押しつけや、ルッキズム(外見差別)を助長する可能性があると判断した。
 ソフィア祭実行委コンテスト局長で2年の荒尾奈那さん(19)は「多様な価値観を認め合うグローバル化の時代に、従来のミスコンが問題をはらんでいることに気づいて欲しい」と話す。自身は、最終選考で女性がウェディングドレス、男性がタキシードを着用することが「結婚=ゴール」という価値観の押しつけになりかねないことに気づいたという。
 一方で、出場者が最終選考までの数カ月間でスピーチを磨き、精神的に成長する姿も見てきた。だからこそ、形を変えて存続する道を選んだという。
 議論の末に生まれた新コンテストでは、自己PR、スピーチ力のほか、国連サミットで採択されたSDGs(持続可能な開発目標)についての情報発信も審査の対象とした。ツイッターなどで、社会や環境問題についての発信を競う。ファイナリストには男性2人、女性4人が選ばれた。
 SNSでは新コンテストに対しても「時代に合っている」「コンテスト自体、やめたら」など賛否の声が渦巻く。これに対し、ファイナリストの1人は「外見『だけ』で選出されたわけではない」とツイートした。
 過去のミスコンでアナウンサーの滝川クリステルさんらが輩出した青山学院大。今年はミスコン、ミスターコンともに、性別を問わずに出場できることを初めてエントリー資格に明文化した。実行委員長の3年、金沢佑樹さん(20)は「時代の流れでミスコンへの風当たりが強くなり、あり方を変えないといけないと考え、性別を超えて参加できるようにした」と話す。
 同様の動きは、ほかの大学でも広がる。
 慶応義塾大湘南藤沢キャンパス(SFC)の今年のミスターコンテストでは、女性がファイナリストに選出された。2016年には日大芸術学部のミスコンで男性がファイナリストに選ばれている。

何かどこかがおかしい。ミスターコンテストで女性がファイナリストになることはおかしくないか? 何か逆差別のようなニュワンスがある。近年は世界レベルの美女コンテストで黒人が立て続けに選ばれているという。これもよくわからない。
隠すことの誘惑性と「かわいい」
これまでは女性を見ることの加害性について論じ、しかしそれが女性の側の自らの美的価値を表現することと時には矛盾するという議論だった。しかし「隠すことの誘惑的な側面」というテーマについて考えると、ますます問題は複雑かつ危険になってくる。議論の流れはこうだ。
Hijabはコーランによれば「貞節な女性たちに『目を伏せ、プライベートな部分を守り、(魅惑させないよう)飾らず』」という教えに従ったものだということになっていた。ところが一部の男性は「隠されるからこそ益々誘惑されてしまう」という体験をしている可能性があり、「それを知っている女性がそれを男性の誘惑に用いる可能性はないか」。この問題が厄介なのは、自らを隠すという正当な行為をしている女性を糾弾しかねないことになるからである。

2024年12月22日日曜日

どうでもいい話

日(12月15日)に公認心理師の会で招待講演を行った。ZOOMでとてもやりやすい。私のオフィスから使い慣れた機材を使って90分の話をした。比較的楽な気持ちで好きなことを話した。テーマは心理士にとっての診断面接というもので、わかりやすく言えば、心理師は精神医学的な問題についても経験値を持つことで、クライエントさんの悩みについてより幅の広い理解の仕方ができるのではないか、ということだ。結構医者批判の内容も含んでいた。
1500人程度の聴衆になるというが、今日ライブで聞いていただいたのはそれほど多くなかったようだ。後で配信されるようである。

2024年12月21日土曜日

サイコセラピーを独学する 2

 ところで山口氏は既存の精神分析理論や心理療法に関する常識的な教えを疑ってかかり、より現場主義的な立場から自らの心理療法を選び取ったということになる。それを「個人モデル」と彼は称するわけであるが、実は精神分析の中においても、それまでの常識からより現場主義的な立場に向かった流れがあり、それが関係精神分析であると理解している。

すでに述べたが、山口氏の姿勢は自然科学者のそれであり、歴史的にみれば分析家の中にも当然そのような考えを持つ人が居た。それがより自由な気風を重んじる米国で生まれたわけである。すると彼が主張するようなこと、例えば自己開示は本当に良くないのか、患者の質問に答えてはいけないのか、などの疑いや、初期の治療関係におけるラポールや治療同盟を重視するという立場はこの関係論の流れに当然入ってくる。また例えばセラピストの「揺れる」姿勢(p.269)などもいわゆる二者心理学的な立場と大きく重なるのである。

だから実は私は次のように問いたくなる。もし山口氏が一番最初に故スティーブン・ミッチェルのようなスーパーバイザーに出会ったとしたら、大方の疑問に対する良い導き手になったであろうし、彼は関係論の流れに身を任せることで大きな迷いもなく臨床家としての経験と自信を深めることが出来たのではないか。

勿論こうは言っても関係精神分析も一つの学派であり、そこには大きな理論的な縛りも存在するであろうし、そこでもまた山口氏は窮屈な思いをするであろう。勿論それはそれでいいわけで、またそうでなくてはならない。関係論に沿っても結局はそれぞれが「個人モデル」を作り上げることには変わりない。ただそれは関係論の示すもののかなりの部分を吸収した先に生じることであろう。つまりミッチェルとのSVはかなりの間違和感なく進むであろうということだ。「守破離」の守の賞味期限が長くなるのである。というのも最終的に彼が提示している個人モデルはそれほどに関係論的な姿勢と齟齬がないからである。それもそのはずなのは、関係論はある意味では極めて常識で現場主義的なリアリティを盛り込んだものだからである。(もう少し言えば、我が国の精神分析で関係論的な文脈があまりに軽視ないし無視されているために、山口氏の思考の中に十分な影を落としていないようであることが残念なのだ。)

このような意見を述べることで何かつまらない書評になってしまった気がするが…