(中略)
この女性の追及するかわいさが、セックスアピールとは微妙に、あるいは明らかに異なるという点は重要であろう。男性が女性のかわいさを魅力的と感じたとしても、そこにはどこか倒錯的なところがある。秋葉原でメイド服を着た女性たちに対して男性はそこに一種倒錯的(オタク的)な視線を向けることになる。それは女性たちがセックスアピールとは異なる「かわいさ」を発散しているつもりでも男性はそこに性的な魅力を覚えてしまうということになる。
確かにかわいい、は女性にとってはセクシュアリティと関係しているようでしていない部分がある。彼女たちはアクセサリーを見ても「かわいい!」と言ったりする。うちのカミさんは、コーヒーカップも、トイレの便座カバーも、明らかに「かわいい」(彼女にとって)ものを買ってくる。そしてそのかわいいはもちろん、うちの犬チビの「かわいい!」とも結びつく。子犬、子猫の「かわいさ」は言うまでもない。そして … 人間の赤ちゃんを見たときの「かわいい」にもつながっているかもしれない。そう、女性にとってのかわいいは、幼児を見たときの「かわいい」に通じるところがある。しかしではどうして彼女たち自身が「かわい」くありたいのだろうか?動物学的に考えたら、男性を惹きつけるために女性がかわいくありたいとしたら、繁殖にむすびつくという意味では合目的的である。しかし繰り返すが、彼女たちがかわいさを追求する際にそこに男性の目はあまり意識されていない(というよりは余計なもの、迷惑なものと感じる)場合の方が多いのである。
自分もかわいくありたく、そしてかわいいものにひかれるというこの女性の特徴は、女性に特有の対象との同一化傾向と関係しているのかも知れない。対象の気持ちが分かり、対同一化し、取り入れ、またその中に自分を見るのだ。
ところでこの隠すことの誘惑性について、私はかつて「恥と自己愛トラウマ」(2014)に結構面白いことを書いている。
第10章 「『見るなの禁止』とセクシュアリティ」
これまで自己愛トラウマと恥の関係について論じてきたが、そこでは人の視線は両儀的な意味を持つことが示せたのではないかと思う。自分の弱さや恥ずかしい部分を暴力的に暴く時、人の視線はトラウマを及ぼすことになる。しかし自分の存在を肯定し、見守ってくれる視線は、逆に自己愛トラウマの癒しともなるのである。
見られることの両義性はセクシュアリティに関してより顕著な現れ方をする。見られ、知られることは性的な文脈では、喜びや興奮にも、トラウマにもつながるのである。この問題を日本の文化に照らして更に考えてみたい。
「見るなの禁止」とセクシュアリティ
北山修氏は世界的に有名な精神分析家である。まだ現役で次々と新しい発想に基づく論文や著書を世に送り出している。その中でも「見るなの禁止」とは海外にも知られる概念である。その概念とは次のようなものだ。
日本の神話には、主人公が「な見たまいそ(見てはいけませんよ)」という禁止を破ってのぞき見することから悲劇(離別など)が始まる、というパターンが多くみられる。浦島太郎の玉手箱などはその一番ポピュラーな例だろう。北山先生が特に用いるのが「夕鶴」の例である(北山修、見るなの禁止 北山修著作集1 日本語臨床の深層 岩崎学術出版社、1993年)。
与ひょうは、ある日罠にかかって苦しんでいた一羽の鶴を助けた。後日、与ひょうの家を「女房にしてくれ」と一人の女性つうが訪ねてくる。夫婦として暮らし始めたある日、つうは「織っている間は部屋を覗かないでほしい」と約束をして、綺麗な織物を作る。これが「見るなの禁止」というわけである。つうが織った布は高値で売られ、与ひょうは仲間からけしかけられて、つうに何枚も布を織らせるが、つうとの約束を破り織っている姿を見てしまう。そこにあったのは、自らの羽を抜いては生地に織り込んでいく、与ひょうが助けた鶴の姿だった。正体を見られたつうは、与ひょうのもとを去り、空に帰っていく。
つまり覗かないで欲しいという約束を破ったことから与表とつうの破局が始まったのである。
北山先生はここから日本人が伝統的に抱いている罪の意識(原罪)のあり方を説明していく。つまり覗いていけないものを覗いてしまうという罪である。しかし北山先生の一連の著作の愛読者でもある私は、これを少し別の文脈から読みたくなる。それはつうの側からの誘惑という文脈である。
もちろんつうが与ひょうを誘惑したというわけではない。文字通り身を削って織物をしている姿を、彼女は本当に見られたくなかったのであろう。ただ「見るなの禁止」は強烈な誘惑の源になり、それを男性の主人公が破ってしまう結果となったのではないだろうか。言い代えるならば、「見るなの禁止」は「見よの誘惑」とも考えられるのである。これもまた文化を通して普遍的なテーマではないかと思うのだ。そしてこれはもうひとつの重要な問題と結びついている。それは男性の側が我が身を隠す女性を「誘っている」「誘惑している」と都合よく解釈してしまう傾向であり、それにより生じる様々な性被害の可能性である。
このテーマは私の異文化体験とも関係しているかもしれない。2004年に帰国して特に印象深かったのが、テレビを頻繁ににぎわす盗撮事件と、おそらくそれに関係した女子学生の露出度の高さである。私は最初は憤慨したものだ。「日本の高校の校長や教頭は何をしているんだ!あんなに短いスカートを制服に指定して!」ところがあとからわかったことは、スカートの丈を「自主的」に上げていたのは生徒の方だったというわけである。
「見るなの禁止」は誘惑を意図したものか?
まずは非常に原則的なことから論じよう。現代の世の中の法律には、「~してはならない」という禁止事項は膨大に記載されているはずだ。そしてそれは禁止することで余計人々を誘惑することを意図しているわけでは決してない。当たり前の話であろう。為政者は、覗き、盗撮を禁止することで一般市民を誘惑する(「劣情をあおる」)ことを意図してはいない。たとえば
軽犯罪法第1条:左の各号の一に該当する者は、拘留又は科料に処する。
第23号 正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所、その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者。
ただし最近頻繁にニュースをにぎわす「盗撮」は刑法で定められた罪名ではなく,地方自治体で制定されるいわゆる「迷惑防止条例」で取締りが行われるという。
この盗撮がどうして最近増えているのであろうか?盗撮については「いやいや昔からあったが、捕まらなかっただけだ」という論法は成り立たない。昔はそのようなテクニックが存在しなかったのだから。携帯電話の録画機能が高まるにつれて盗撮の件数も増加してきたと考えるべきであろう。何しろ最近ではサンダルにケータイを挟んで盗撮するという輩まで出て来ているのだから。さらには女性の露出が増えて盗撮が容易になる分だけ、盗撮の件数が増えているという可能性はどうか?これもあるかもしれない。
ちなみにこの問題に関して思い出すことがある。2013年の夏にある精神医学のシンポジウムに参加する機会があったが、そこで榎本クリニックの榎本稔先生が司会をしておられた。榎本先生はアルコール依存症のほかにも性犯罪の加害者の治療にも携わっていらっしゃるが、その先生の言葉が興味深かった。
先生によれば、日本でしばしば報道される盗撮については、諸外国では問題にならないという。諸外国においては性犯罪はさらに深刻な加害行為、たとえば強姦などという形を取ることが通常であり、日本の迷惑防止条例で問題にされるような犯罪はむしろ少ないという。そして日本においては相対的に強姦が少ないといわれる。
そのように考えると日本の性犯罪のあり方は、やはりこの「見るなの禁止」と関連しているという印象を受ける。日本においては女子学生の制服に見られるような露出の多さは日本を訪れる外国人にとっては顰蹙を買っているようであるが、日本の性犯罪も「見る、見ない」のレベルで生じていて、それはそれ以上の深刻な性被害をむしろ防止するという意味合いを持っているともいえるのであろうか?その意味では日本はむしろ「安全」だからこそ露出度の高さは深刻な問題にならずにすむのか? そして諸外国では露出が高いことはむしろ即座に問題とされ、何らかの処分がなされるのであろうか?ここら辺は私は精神科医としての公式の見解としては表明できないことであるから憶測に過ぎない。
(中略)
やはりお国柄の違い、ということか。日本で同じことが起きたなら、周囲の学生は見て見ぬふりをして、あるいは皆ニヤニヤして、そのうちだれかがそっと「それはあまりに目立つんじゃないの?」と声をかけるのではないか。あるいは教師が個室に呼んで、静かに叱責するとか。つまりミニの学生への扱い方もまた人目につかず、隠微な、目立たない形で行われるだろう。そしてそれが盗撮の土壌となるのだ。
私の個人的な見解は省略して、論客上野千鶴子先生に登場してもらおう。
「日本のビニ本文化は、性器を露出してはならないという世界にも稀有な倫理コードのおかげで、爛熟した洗練と発達をとげましたけれども、どうやらそれは法律の抑圧のせいだけではないのではないか、と思えてきます。性器・性交を見せない日本のソフト・ポルノの猥褻さとは、ハードコアになれた西欧人も驚く「国際水準」ものです。その「表現力」を思うと、どうやら作り手はパンティを脱がせたくなかったのではないか-・・・パンティでおおわれたボディのほうが、むき出しのボディよりずっと卑猥だ、ということを知っていたのではないかとさえ思います。・・・」
上野千鶴子「スカートの下の劇場」河出書房新社 1989年より。
ビニ本、とはもう死語化しているのではないか。またこのコメントも昨今のインターネットの普及により事情はかなり違ってきたというべきだろうか。ただ「古き良き時代」の日本のポルノ産業は確かにこんな感じだったのである。
文化の装置としての「見るなの禁止」は「粋(いき)」にも通じる
結局この「見るなの禁止」、日本人はこれを一つの「文化的な装置」として使っているような気がする。日本人のシャイな、控えめな民族的な気質と見事にマッチしているのだ。見せそうで見せない、そのへんで止めておく。これは従来粋、と呼ばれていたものだ。見せそうで見えないものを実際に見せてしまったら、これは野暮ということになる。
そこで粋と言えば、九鬼周造先生の名前を上げなくてはならない。「『いき』の構造」(九鬼周造、1930年)から読んでみよう。内包的見地からの「いき」の徴表として九鬼は三つの表徴を挙げる。
「第一の表徴は、異性に対する『媚態』である。」
「第二の徴表は、『意気』すなわち『意地気』である。」
「第三の表徴は、『諦め』である。運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。」
さらに「媚態」については次のように述べる。
「異性との関係が『いき』の原本的存在を形成していることは、『いきごと』が『いろごと』を意味するのでもわかる。」
「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態は自ずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的に実現とともに消滅の運命を持ったものである。」
「なお全身に関して『意気』の表現と見られるのはうすものを身に纏うことである。『明石からほのぼのとすく緋縮緬』という句があるが、明石縮を着た女の緋の襦袢が透いて見えることをいっている。うすものモティーフはしばしば浮世絵にも見られる。」
このテーマでもうひとりどうしても引用しなくてはならないのが、谷崎潤一郎であろう。彼の古典的な「陰翳礼賛」は、日本的な美とは、見えにくい影の部分、陰影にその源があるという発想に基づいたものだ。それを谷崎は例えば家屋の事情から論じている。「美というのは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の先祖は、いつしか陰影のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰影を利用するに至った。」(「陰翳礼賛」より)
この谷崎の記述は江戸時代までの日本の家屋の事情を思い起こさせる。わが国では基本的には洋風建築が入ってくるまでは、家屋がドアで仕切られるということはなく、それぞれの部屋はせいぜい障子か襖で隔てられているだけだった。もちろん視界は外とはさえぎられるが、音はかなり筒抜け状態だったのである。そこでは襖を隔てた隣で起きていることは常に想像やファンタジーを掻き立てるものだったのである。日本のエロティシズムも、そのような想像を刺激するもの、間接的に触れるものとして発達したことは想像に難くない。それが上野先生の「ビニ本」論ともつながるというわけだ。
「夕鶴」に戻って、あるいは「見る」ことのトラウマ性
最後に夕鶴の「見るなの禁止」のテーマに戻ろう。夕鶴を含む民話や伝説は、同時にセクシュアリティのテーマを間接的に扱っていたのではないか? 私にはそう思える。
「見る」ことによる失望や脱錯覚は、セクシュアリティにおける脱幻想(「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う」こと(九鬼))を象徴してはしまいか? 民話や伝説が性的な表現や描写をほとんど含まないのは、逆にそれを「見る」行為により象徴させているからではないか?
このあたりのテーマは、実はリスキーである。というのも「見るなの禁止」の概念を提唱した北山先生は、この点を論じておられないからだ。一見性愛性を思わせない「夕鶴」にそんな不埒な考察を加えてもよいものだろうか? でもあえて論じてみよう。
私の仮説は、「夕鶴」において見ることを禁止されていたのは、「つうの(女性としての)身体」ではなかったか? もうちょっと大胆な仮説。つうと与ひょうの関係は「プラトニック」だったのではないだろうか? 与ひょうはつうから性的にかかわることを拒否され続けるが、強引に思いを遂げることでつうの獣性を帯びた女性性に触れ、て脱錯覚を起こしたのではないか?
ところが2010年の春に日本語臨床研究会でこの考えを発表した時、最前列で聞いていらした北山先生は私の発表を「いい線行っていると思う」とおっしゃってくれた。やれやれ、である。
しかしもし私が考えるように「夕鶴」のテーマが暗にセクシュアリティを含んでいたとしても、そこで提示されているのは見る-見られるという関係性をめぐる誘惑とトラウマなのである。見られた、晒された、犯された夕鶴はもうそこにいられなくなって消えてしまった。それは与ひょうの行為がトラウマだったからである。その結果としてつうは「穴に入る」しかなかった。与表はそのことを予知できなかったのだろうか?それでも覗かなくてはいけなかったのだろうか・・・・? しかし同じような状況で与表のようにのぞきの行為に走らずに、じっと一人で耐えている男性は果たしてどのくらいいるのであろうか?つうが実際は誘っているのだ、という勘違いをしない男性はどれほどいるのだろうか?
私の視点は男性側に偏りすぎているのを感じたので、少し修正しよう。自分を助けてくれた(と信じた)女性が、男性のために一心に生産をし、それに専心している最中に、男性が邪な考えを持つということを女性はどこまで思いはかることができるのだろう?おそらく女性が純真で、人の心の邪悪な側面を知らないほど、男性からの侵襲に驚き、トラウマを体験し、時には人生を台無しにしてしまう。彼女の人生はもうもとの平和で慈愛に満ちた世界を永久に失うことになる。
恥のテーマは誘惑とトラウマの狭間で永遠に私たちに、時には不可能とも言える理性的選択を迫って来るのである。