2024年12月26日木曜日

男性の性加害性 推敲 10

 昨日の長々としたエントリー(自己引用だから仕方がないが)をどう考えるか。もう10年前になる論考だが、米国から帰国(2004年)して10年になる私の再異文化体験の名残が感じられる。かなりぎりぎりのところを論じている気がするが、少なくとも文化のレベルでは隠すことは媚態、誘惑につながり、文化的には粋として洗練されるという論旨はその通りだろう。それに関してはヒジャーブのように完全に隠すよりも、日本の文化の方がより中途半端で誘惑的、ということか。

 しかし媚態はある意味では興味、関心、興奮を呼び、その意味では「価値」がある。人はそれに引き付けられるし、又隠す側もそれによりもっと注目されるという目的を達することができる。しかしそこには危うい線引きがある。夕鶴の与ひょうのように、隠すことで価値があり,「かわいい」のに、それに害を及ぼし、台無しにしてしまう。それは幻滅にもつながり、破壊にもつながり、トラウマにもなる。こうなるとやはりフェレンチの「言葉の混乱」の問題がここにもある。女性が「かわいさ」を発信しているのに、男性が求める「かわいさ」とは違う。隠す、見せるという攻防の微妙なラインはその線上であれば機能するが、一歩間違うとすぐに境界侵犯 boundary violation につながるのだ。

しかしそれにしても「可愛い」を媚態として片づけてもいいのだろうか?「わび、さび」を英語表現してみよう。辞書的にはよく出てくるのが、

・The beauty of imperfection
・Less is more.
・Appreciation of the transience and imperfection.

つまりは「美の中の不完全性」というわけだ。とするとかわいいには、あどけなさ、不確かさ、不完全さ、危うさ、危なげなので思わず助けたり抱っこしたりしたくなるという意味を含む。やはり「かわいい」につながるとみていいのではないか。