ところで山口氏は既存の精神分析理論や心理療法に関する常識的な教えを疑ってかかり、より現場主義的な立場から自らの心理療法を選び取ったということになる。それを「個人モデル」と彼は称するわけであるが、実は精神分析の中においても、それまでの常識からより現場主義的な立場に向かった流れがあり、それが関係精神分析であると理解している。
すでに述べたが、山口氏の姿勢は自然科学者のそれであり、歴史的にみれば分析家の中にも当然そのような考えを持つ人が居た。それがより自由な気風を重んじる米国で生まれたわけである。すると彼が主張するようなこと、例えば自己開示は本当に良くないのか、患者の質問に答えてはいけないのか、などの疑いや、初期の治療関係におけるラポールや治療同盟を重視するという立場はこの関係論の流れに当然入ってくる。また例えばセラピストの「揺れる」姿勢(p.269)などもいわゆる二者心理学的な立場と大きく重なるのである。
だから実は私は次のように問いたくなる。もし山口氏が一番最初に故スティーブン・ミッチェルのようなスーパーバイザーに出会ったとしたら、大方の疑問に対する良い導き手になったであろうし、彼は関係論の流れに身を任せることで大きな迷いもなく臨床家としての経験と自信を深めることが出来たのではないか。
勿論こうは言っても関係精神分析も一つの学派であり、そこには大きな理論的な縛りも存在するであろうし、そこでもまた山口氏は窮屈な思いをするであろう。勿論それはそれでいいわけで、またそうでなくてはならない。関係論に沿っても結局はそれぞれが「個人モデル」を作り上げることには変わりない。ただそれは関係論の示すもののかなりの部分を吸収した先に生じることであろう。つまりミッチェルとのSVはかなりの間違和感なく進むであろうということだ。「守破離」の守の賞味期限が長くなるのである。というのも最終的に彼が提示している個人モデルはそれほどに関係論的な姿勢と齟齬がないからである。それもそのはずなのは、関係論はある意味では極めて常識で現場主義的なリアリティを盛り込んだものだからである。(もう少し言えば、我が国の精神分析で関係論的な文脈があまりに軽視ないし無視されているために、山口氏の思考の中に十分な影を落としていないようであることが残念なのだ。)
このような意見を述べることで何かつまらない書評になってしまった気がするが…