2021年5月2日日曜日

母子関係の2タイプ 9

 さてロスバウムの研究は結構批判されているようだ。一番の問題は土居先生の甘え理論を彼が曲解しているということだろうか。土居先生は甘えは人類に普遍的だど考えた。西洋でも東洋でも甘えという基盤は存在する。バリントの一次的対象愛(愛されたい、という受け身的な愛情)がその証左だ、という立場だ。ところがロスバウムは甘えは日本特有と考えているらしい。ただ日本における母親の敏感さは、非言語的で情緒的で、先回り的であるという意味で西欧のそれとは違う、という指摘はその通りであろう。先回り的ということではウィニコットがそれを、子供の幻想を守る母親の役割として語っていたとは思うが、この点についての考察はあまりなさそうだ。
 ここで私が何日か前に書いた二つのタイプ、つまり甘えタイプと西欧タイプのことを思い出していただきたい。一言でいうと日本では子供は放任 laisser faire で、好きなことをさせて甘やかす。最近寝る前に読んでいる「逝きし日の面影」(渡辺京二著)という本には、江戸期の日本を訪れた西欧人の記録がたくさん掲載されているが、

とにかく昔の日本は子供の天国で、何をしても許されるという環境だったと彼らは驚いている。それがとにかく伝統だとしか言いようがない。そしてそれでも人が育つということは、甘やかすことへの後ろめたさをさほど持たなくてもいいということではないだろうか。それがうまくいかないとしたら、それは土居がなぜ西欧では甘えという言葉がないのかについて考えたことを探ってみる必要がある。それを最後の帰結とすることができるだろうか。否、それだけでは物足りない。
 ということで私の考察の方向は次に向かった。「土居先生は、西欧社会ではなぜ『甘え』という概念なしに成立していると考えたのだろうか?」
 土居先生の文章は結構読んだつもりだが、それでもピンとこない分がある。そこで精神分析の世界で土居先生の著作を調べてみると(日本語の著書の英訳という以外では)、二本しかなかった。
Doi, T. (1989). The Concept of Amae and its Psychoanalytic Implications. Int. R. Psycho-Anal., 16:349-354.
Doi, T (1993/2016)Chapter 3: Amae and Transference-Love  Psychoanalytic Inquiry, 36:171-186
この193年の論文に手掛かりがあった。彼によれば、
「甘えの感情はそれ自身が非言語的であるということを忘れてはならない。それは非言語的に伝えられ、それとして感得されなくてはならない。だからこれは明示的な情動ではなく、静かな情動なのだ。(おそらくだから多くの言語は「甘え」のような言葉なしでいられるのであろう。)」It is important to remember in this regard that the feeling of amae in itself is nonverbal. It can be conveyed only nonverbally and should be acknowledged thus. Therefore, it is not a manifest emotion, but rather a silent emotion. (Perhaps it is why many languages manage without a word like amae.) (p.179)
「この点に関して興味深く思うのは、日本の子供は母親に「愛している」とは言わないということである。それは日本語にそのような表現がないからでは必ずしもない。多分彼らはお互いに非言語的な甘えにより交流しているのだろう。この思考の流れでいえば、西洋においては子供のいう「愛している」は「甘え」の代用になっているということになりはしまいか? そしてそれを外挿するならば、西洋の成人の転移性の愛はその背後の「甘え」を隠しているということになりはしまいか。私はこれは十分にありうると思うのだ」。It may be of interest in this regard that Japanese children don’t say “I love you” to their mothers, not necessarily because there is no expression equivalent to this in Japanese, but rather, I believe, because they know how to communicate with each other in nonverbal amae. Along this line of thought one may say, therefore, that the “I love you” of the children in Western societies does stand for amae.. Along this line of thought one may say, therefore, that the “I love you” of the children in Western societies does stand for amae. Isn’t it possible, then, to assume by extrapolation that behind the transference-love of Western adults as well hides the psychology of amae? I believe this to be a quite plausible proposition.(p.181~182)
 これを読む限り、土居先生は、甘え概念の欠如を西洋社会において抑圧されたものを表している、というような大上段に構えた議論をしてはいないことになる。