9.どのように鑑別するか?
最初に
解離性障害に誤診はつきものと言っていい。本章では現代的な見地から解離性障害の診断で問題になるほかの疾患との鑑別の問題について論じたい。
最初に解離性障害の診断についてひとこと述べたいことがある。それは解離性障害の診断は「緩め」につけた方が無難であるということだ。解離性障害にはDIDを筆頭にいくつかの種類があるが、十分な根拠に乏しい場合には「解離性障害」の診断にとどめておくべきであろう。たとえば内部にいくつかの人格部分の存在がうかがわれる際にも、それらの明確なプロフィール(性別、年齢、記憶、性格傾向)が確認できない段階では、特定不能の解離性障害 unspeficied dissociative disorder(以下、UDD)としておくことがよいかもしれない。ただしDSM-5のUDDという診断は、従来の「ほかに分類できない解離性障害」、いわゆる従来のDDNOSとは少しニュアンスが違っていることについては、前章で解説したとおりである。つまりこれまでのように気安くは「分類不能」とつけられないという事情があるのである。
この診断を「緩め」につけることに関しては、実はほかの臨床家がその臨床診断をどう考えるか、微妙な問題も絡んでいる。「序章」でも述べたとおり、解離性障害の中でも特にDIDは、誤解の多い診断である。その診断をつける十分な根拠が今一つ乏しい場合に、それでもDIDの診断をつけることで、「あの臨床家は多重人格に興味を持ち、簡単にその診断をつけたがる」という目で見られる危険を高めるであろう。同様に解離性の遁走のエピソードがあり、それが主たる訴えとなっている場合、その背後にDIDが存在する可能性を考慮しつつも、初診段階では解離性遁走の診断に留めるべきであろう。
無論診断は純粋に臨床所見に基づくべきで、それ以外の余計な懸念は不要と考える臨床家は別である。また臨床家はその診断における注意深さとは別に、解離症状のあらゆる兆候に注意を払うことを忘れてはならない。たとえば初診でボーっとした要領を得ない話し方をする患者さんに、来談を希望した人とは別の人格部分が出現している可能性を考慮することは重要であり、その際に予備的な診断としてのDIDを思い浮かべておくことは経験ある治療者にはむしろ期待されるべきであろう。解離の診断は徐々に治療関係が深まり、聴取される生活歴や患者が表現できる人格状態が広がるにつれてより正確なものとなっていく傾向にあることを忘れてはならない。
解離性障害の併存症や鑑別診断として問題になる傾向にあるのは以下の精神科疾患である。統合失調症、BPD(境界性パーソナリティ障害)、躁うつ病、うつ病、てんかん、虚偽性障害、詐病(これは疾患とは言えないが)、など。これらの診断は必ずしも初診面接で下されなくても、面接者は常に念頭に置いたうえで後の治療に臨むべきである。
ここでは松本(2009)にならい、解離性障害の鑑別に重要なものとして、まず統合失調症とBPDについて考えたい。さらには特に注意が必要とされる側頭葉てんかんその他についても触れる。
精神病との鑑別
解離性障害に精神病症状が伴うか、というのは一言では答えられない問題である。一人でいる時に聞こえてくる声を例にとろう。周囲に誰もいないが、頭にかなりはっきりと「声を聞いた」という実感が残る。これは「幻聴」だろうか?もしそうなら、それは精神病症状といえるのだろうか?そしてDIDの方がしばしば体験するその種の体験は、その人が精神病的 psychotic であるということを示しているのだろうか?これらの問題は常に多くの臨床家にとって(もちろん一般の方々にとってはなおさら)曖昧なままのはずである。そもそも「精神病的」という言葉自体の意味が不確かに感じられる人も多いのではないだろうか?おそらくこれらの問題への回答は、識者により大きく異なる。「DIDの体験も統合失調症の体験も共に現象としては同じ『幻聴』ではないか」という主張も十分ありうるのだ。
ここでひとつ留意すべきことがある。それはいわゆる精神病と解離性障害とは本質的に異質で、別々のものであるということだ。そして「精神病」、「精神病的」、「幻覚」などの用語は、この両者の混同を招くような形では用いるべきではないのである。
1911年にブロイラーが schizophrenia (一昔前の「精神分裂病」、現在の「統合失調症」)の概念を生み出して以来、それと解離性障害との異同が様々に論じられてきているが、そのこと自体が両者を区別して論じるべき必要があることを示している。端的に言えば、精神病の代表ともいえる統合失調症は、一般的に時と共に人格の崩壊に向かい、予後も決してよくない。他方は解離性障害は社会適応の余地を十分に残し、また年を重ねるにつれて症状が軽減する傾向にある。両者は全く別物であるというのは、この予後の観点からとくに言えることなのだ。だから一人でいるときに頭の中に響く声は、それをたとえ「幻聴」と言い表しても、あくまでも「精神病性の」か又は「解離性の」と形容することで、より正確に記載したといえるのである。しかしその一方では幻聴にしても関係念慮にしても、それが精神病性のものか、解離性のものかは実は区別がつけがたいことが少なくないのも事実なのだ。
ところで幻聴や関係念慮に関して、「精神病様の症状 psychotic-like symptoms」という表現が時折使われる。それは「それ自体では精神病性のそれか解離性のそれかを即座に判断できない(あるいはまだその鑑別を行っていない)」という意味で用いられる。 その上で私が薦めるのは、この「精神病様」の症状に出会った際に、それが精神病性のものか、解離性のものかについて予断を持たずに慎重に検討するということだ。いくらこれまでに解離性障害については経験不足でも、またいかに解離性障害を見出し、新たな診断として下すことに情熱を注いでいたとしても、だからこそ両者の鑑別には慎重にならなくてはならない。そしてその慎重な鑑別を行ってもなお区別がつかないものに対して、診断を保留することもまた臨床家としては非常に大切なことである。
以上を前提としたうえで言えば、精神病の症状としての幻聴や幻視か関係念慮には確かに一定の手掛かりがある。精神病性の場合には、周囲の世界が一つになり、自分を付け狙い、またメッセージを送ってくるという被害的な世界観を背景としている。幻聴の主は常に匿名的で姿を現さず、その存在は恐怖や不安を与え、当人の存在を根源から脅かす。逆に言えばそのような世界体験を継続的な形で背景としない場合には精神病性の症状である可能性はそれだけ低くなる。さらには記憶の欠損ないしは健忘が伴えば、症状は解離性のそれである可能性も高くなる。
あるDIDの確定診断のある患者さん(40歳代既婚、女性)が、その日の面接を終え、筆者と一緒に廊下を歩いている最中に、別の診察室から聞こえてきた医師と患者の会話の声を聞いて訴えた。「今あの部屋で、私のことを噂しているように聞こえました。」筆者が「私も声は聞こえましたが、特にあなたのことは話していないと思いますよ。」と言うと彼女は少し安心した表情を見せた。彼女は医療関係に従事し、社会適応も保たれている。またほかの場面で関係念慮を訴えることはほとんど聞かない。
このような例も考えると、従来の「幻聴や被害念慮イコール精神病や統合失調症」という常識は改めなくてはならないのはもちろんである。 幻聴、幻視、関係念慮などの症状が聴取された場合、それは統合失調症の可能性とともに解離性障害の可能性を同時に生むということを理解しなければならない。そしてここでも決め手は、その症状の持続期間や社会適応に与える度合いなのである。その意味で精神病用症状を体験した時の両者の鑑別は急務であり、重要である。