こりゃ読まなけりゃいけないな、という論文がある。もちろんブログ向きではないが、なるべく噛み砕いてやってみる。その結果としてこのフザけた文体になる。ドンネル・スターンさんのわりと最近の論文だ。心はどのように動いているか、一言でいうとそのテーマだ。
Donnel B. Stern: Dissociation and
Unformulated Experience: A Psychoanalytic Model of Mind (in “D book”)
「解離はトラウマとの関連で論じられることが多いが、解離の理論は自分が堪えられない体験に対して用いられる自己防衛のプロセスとして理解される。」そうだよね。確かに。でも自己防衛、というのが少し怪しい。自己防衛になっていないということがあるからだ。山を歩いてクマに突然出会い、袋ネズミが擬死反射を起こして横たわる。でもここには問題がある。一つはそれにより余計食われてしまうかもしれない。それに自己防衛というよりは「スイッチオフ」の状態といえるのではないか?卑猥な言葉を聞いたビクトリア朝の貴婦人が卒倒する。これは自己防衛なのか、それともスイッチオフなのか、演技的なのか。どれ一つとも決められないところがある。
「解離はフロイトの精神分析とは対照的な心の理解である。」それもよくわかる。「私の解離の理解は分析的でかつ、哲学的である。」これもわかる。心と世界について考えるのが哲学だ。解離は心の在り方の非常に興味深い例だ。分析家の中で哲学に片足を突っ込んでいる人は多い。(この言い方は我ながら失礼だな。)あのストロローも、確か分析での立場を確立した後、大学の哲学科でハイデッガーを学びなおしている。
「私は解離の問題に、サリバンの著作を通して遭遇した。」あなたもですか。なかなか「ウィニコットの著作を通して」「フェアバーンを通して」という人には出会わないな。やはりサリバンの影響力は偉大だ。どうしてだろう?自分ではあれほど論文を書こうとしなかったのに。「サリバンは古典的な分析家と違っていた。彼は欲動と防衛の衝突という観点ではなく、重要な他者との関係で実際に起きたことwhat had actually happened in relationships with SOを見据えていた」わかるわかる。ただしこの頃思うことだが、「実際に起きたこと」ではなく「実際に体験したこと」だね。というのもすべては患者が何を実際に体験したか(何が実際に起きたか、ではなく)にかかっているのだから。