2015年3月31日火曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (6)


では果たしてUEとはなんだろう?日本語訳を調べなくては。そこで解離モデルの説明に入る。「知覚は決して感覚的所与sensory givenではない。知覚はUE として入力され、構成される。スターンは以前この議論について言語的な意味しか考えていなかったという。しかし非言語的な意味なども含まれると考えるようになったという。たとえばいちゃつきflirtation がそうであり、それは非言語的な意味として対人間のかかわりの中で創造されるという。

このように考えていくと、抑圧モデルと解離モデルでは、ちょうど逆の考え方をしていることがわかる。解離モデルでは、意味は想像するものだ。最初からそこにあったものに対する抑圧をとくというものではない。意味は最初から可能対としていくらでもある。その中で耐えられないものは、フォーミュレイトされないままでいる。抑圧だと自然な出来事は抑圧されていたものが解除されて、ちょうどビーチボールが水面に浮き上がってくるような状態。ところが解離モデルだと、耐えられるものがフォーミュレイトされて意識に上る。ちょうどレンズがあってそれがフォーカスを当てたものが上ってくるようなものだという。
 このように考えると解離されたものは、そこに形を成していないものということになるが、これが抑圧モデルとかなり異なる(というか正反対の関係にある)のはわかった。しかしたとえば「別人格」などはどうだろう?同じように考えるのだろうか?あるいはトラウマ記憶でもいい。Aさんにとってトラウマ記憶は解離されていて思い出せない。するとAさんにとってはそれは存在しない、ということか。つまり抑圧されているというわけでもないというわけだ。