2015年3月28日土曜日

解離とフォーミュレイトされていない体験(スターン) (3)

さてこのフロイトの議論で面白いのは、「抑圧されたものは常に表現されるような圧力を加える。欲動の派生物は常に解放されることを『願う』のである。」そしてこのような傾向があるからこそそれに対する無意識的な防衛も必要になる。なぜならその解放は最終的に不快を招来するため、防がれなくてはならないからだ。私がここの部分のくだりを特に面白いと思うのは、このことはまさに解離についてもいえることだからだ。解離された心の内容も、あたかも表現を望んでいるかのようだ。これはそもそもフラッシュバックと同類と考えるならば、「解離されたトラウマ記憶は表現されることを『望む』」と言い換えてもいいだろう。ところがフロイトにとってはトラウマではなく、あくまでも欲動なわけだが。やはりこのフロイトの欲動への固執は、分析の方向を誤らせているね。これは孫うことのない事実という気がする。私もフロイト派だけど。まあ続けよう。スターンはこういう。「意識の内容は特に選択されたわけではない。ある意味では防衛されることがなかったものが昇ってくるというだけだ。意識内容は欲動と防衛の衝突の副産物であるという。意識内容とは戦いが終わって煙が晴れた時にそこに残っているものなのだ。」何もそこまでいうことはないとは思うが、確かにフロイトはそのような言い方をしたのだ。
この後スターンは私にはよく理解が出来ないが、多分妥当なことを言う。「フロイトの時代は、人は心はある十分に形の与えられた内容物を持っていると考えていた。The mind – and, therefore, the UCS – is composed of fully formed contents.そしてそもそも私たちの近くは所与であり、すでにそこにあるものがそのまま心に入ってくる、と考えたのだ。」「知覚が構成主義的に概念化され直したのは、それからはるかにあとの話だ。(Bruner & Klein, 1960)」「だからフロイトは考えた。ある事柄を意識しないということは、心がそれを意識しないように仕向けているのだ。なぜならそれはそこにすでに形を成してあるのだから。」
確かに私たちは何かを体験した時、それがすでに十分に形を成してfully formedそこにある、と思いがちだ。これはどうだろう?自分でもよくわからない。しかしプリミティブな心なら、それを信じていたのだろう。何しろ昔の人は、あることを知覚するとは、そのものの表面が薄くはがれて目に入ってくるからだと考えた。机、とわかるのは、その薄皮がはがれて目に入ってくるからだ、と。(昔大学で広松渉先生の哲学の講義で、そんな話を聞いた。) 匂いに関してはそんな考え方をわしたちはしているかもしれない。林檎の匂いを嗅いだ時、小さな「リンゴの粒子」が鼻に入ってくることを想像しないか。これって一種の「逆ホムンクルス」ではないだろうか?