2015年3月19日木曜日

15年前に「現実」について書いたもの(9)

禁欲規則との関係はどうであろう?患者に禁欲を迫るかどうかという問題は決して全か無かという問題ではないものの、多くの臨床家が現実の日常臨床において直面するジレンマであると見てよい。古典的な精神分析家の関心はもっぱら、患者を過剰に満足させてはいないであろうか、という点であろう。またより支持的なアプローチを選ぶ傾向にあったり、いわゆる「コフート的」なアプローチに親和性を持つ療法家は、むしろそれとは逆の方針を選ぶ傾向にあるかもしれない。ともかく臨床家の関心はもっぱら、フロイトが述べたような「禁欲に従った」治療方針か否かということにある。
 しかしCRの問題は、この患者を満足させるかフラストレーションを与えるかという問題に頭を悩ますことを要請しない。これはむしろその問題をやり過ごしてくれる。現実は患者に満足体験を与えもするし、失望も与える。それはまさに現実の性質そのものなのだ。分析家の役割は、CRが患者を満足させるか失望させるかではなく、いかに私が「よい現実 good reality」と呼ぶところのものを提供するかという問題である。
 では「よい現実」とは何か。それはそれを患者に提供することが、外傷的とはなることなく患者の自己理解を促進し、それまで彼が見ようとしなかったことへの洞察を深めるようなものだ。その意味では分析家の提供する解釈もその「よい現実」の一つとなりうる。
 伝統的な分析過程はストレスと苦痛に満ちたものだった。それは子供のような願望を捨て去ることを強いるものだったからである。フロイトの禁欲規則はまさにそのようなものだった。
 たとえばフロイトは「精神分析療法の一連の進歩」(1919, p.164)で次のような指摘を行っている。「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者さんに与える分析家は、神経症のための非分析的な施設が侵している過ちを犯す。彼らの目標の一つは、すべてをできるだけ心地よくすることで、人が人生の試練から退避することである。そうすることで患者さんに人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。精神分析的な治療においては、そのような甘やかしspoiling は回避しなくてはならない。(p.164)」という。ここでフロイトの言う「人生の試練」は、私が「よい現実」と事実上同義であると言いたい。
Freud1919) しかしこの現実の試練は、「よい現実」が提供する主要なもののひとつなのである。おそらく患者にとって一番つらい現実とは、治療者が主観を持った存在であるということだろう。治療者は患者といて陽性の感情も陰性の感情も体験する可能性がある。時にはそれらの感情の一部は「よい現実」として患者に伝えられることの意味があるかもしれない。なぜならそれは逆転移感情とは別の由来を持ち、患者が人生で出会う人々も同じ感情を持ちつつ、患者に伝えることが出来ないものであったかもしれないからだ。
 この文脈で重要なのは、Winnicott の客観的な嫌悪 objective hate であろう。彼は患者が嫌いでなくなったときに「実はあなたが嫌いでした」といったという。そして書いている。「これは彼にとって重要な日であり、現実への適応の意味を持っていた。(Winnicott, 1947