2015年3月23日月曜日

15年前に「現実」について書いたもの(11)

エナクトメントと現実の表現
エナクトメントの概念についてはさまざまな理解のされ方があるが、私自身は現実の提供される非常によい機会だと考える。Jacobs (1986) らにより導入されたこの概念は、しばしば精神分析的な議論において語られるようになってきている。Jacobsはこれを、計画や予想をしていなかった「思考やファンタジーが行動に形を変えたもの(Jacobs, 1993)」としているが、それこそが恰好の現実の提供を意味するからである。Friedmanもいうように、エナクトメントという概念は必要がないかもしれない。というのもかかわりはことごとくエナクトメントというニュアンスがあるからだ。ただし私はもう少し狭義のエナクトメント、は臨床的に役に立つと考える。それは当人にとって予想していなかった、思いがけない、あるいはうっかりした行動や感情表現である。この意味でのエナクトメントは「よい現実」となる候補としての意味がある。なぜならそれは明示的なものの背後にある無意識的な、あるいは気が付いていないプロセスを示唆しているからである。エナクトメントの無意識的な意味はその全体が明らかにされることはないであろうが、何らかの理由にせよそこで生じた情緒的なインパクトがさらなる分析的な探索を招くという意味では、「よい現実」の有力な候補なのである。

エナクトメントが生じたということが後にわかった際に、それが起きるべきだったか否かという議論はさほど有用ではなく、むしろそれから何を学ぶことがあったかについての語らいの方が生産的である。しかしだからと言って人はエナクトメントが起きたことを後悔することに意味がない、というわけではない。むしろあるエナクトメントに対する後悔、恥の感情などは優れて現実として算入されるべきなのである。臨床例では、シンディ―の電話の話を聞いたときは、私は不意を突かれ、彼女に振り返られた時は動揺した。私が失望の色を表現したのはエナクトメントであり、しかし意味のある現実だった。それが彼女の側の失望へと連鎖し、私がその彼女の心の変化を察知して話題にした。それはいずれも重要な現実だったのである。