2015年3月24日火曜日

15年前に「現実」について書いたもの(12)


最後に-現実はどのように臨床的に役立つのか?

結局最大の問いは、どのようにして現実が役に立つか、ということだ。それは「治癒的」な力を有するのだろうか?精神分析は医学モデルには当てはまらない部分が多いが、やはりその効果や治癒機序について無縁であるわけにはいかないため、この問いが最後に問われなくてはならない。筆者はCRを求めることは、患者が自らと世界についてのより広い考え方を獲得する上で欠かせないものであろうと思う。治療者が患者が十分に把握していない(気が付いていない、否認している、抑圧している、など) 現実について提供することで、CRが生まれる。それを患者が取り入れ、統合を目指す。人の無意識には、新たなる情報を獲得してそれを統合していく力があるのであろう。フロイト(1919)は「精神分析の目標は、この統合synthesis であるが、精神統合psychosynthesis という概念が必要がないのは、人の心は抵抗を取り除くことで自らを統合する力を備えているからだ」と述べている。
 このCRの成立ということと伝統的な分析のモデルに従った概念、例えば抑圧や洞察などとも照合しておきたい。筆者の考えでは、現実の提供は解釈とは異なるが、その解釈のための豊かな源を提供するものと考える。患者と治療者の現実の違いを見出し、それの由来について検討することは、すでにそこに解釈的な要素を含むことになるだろう。しかしそれは古典的な意味での解釈とは異なる。古典的な意味での解釈は、分析家がそれを正確にし、最終的な宣告として伝えるというニュアンスがあった。しかしCRの文脈で生まれる解釈は、基本的に主観的・客体的な性質を持ち、それ自体の正確さを問われることはない。それは最初は治療者により、彼自身の現実から生まれたものとして試みとして提案されるものであり、分析家はいかなる形でもその正確さを知る由はないのである。
 CRを通して統合できるのは、この解釈的な側面だけではない。CRの情緒的、知覚的な側面は、実際の目の前の他者がいるときに、よりよく患者の自己に統合される際に重要な役割を有する。それを通して患者は、自分のすべてについて治療者が同意できるわけではないことを体験するが、それはどの他者との関係についてもいえることなのである。
 この情緒的で知覚的な体験を通して、患者はいかなる思考も永続的であったり「正しく」あったりはしないことを体験する。患者の現実は分析家の現実に常に影響を受けて、その現実が更新される(同様に分析家の現実も患者のそれの影響を常に受けている。) 何事も一定ではなく、すべてが移り変わっていく。このCRの持つ刹那的 transient な性質については、精神分析の文献ではほとんど扱われていないという現状がある(北山、1998)