2025年1月31日金曜日

ビリーミリガンを超えて 1

 アイパッドに入っている本や雑誌をいろいろ探しているうちに、25年前に出たユリイカ (2000年5月号、特集:多重人格と文学)を見つけ出した。そして懐かしの安克昌先生の「多重人格とは何か」という論文が出て来た。私も寄稿したのでこの号を持っているわけだが、44歳の時に書いたものだ。(「米国における多重人格の臨床」)一体あの頃何を考えていたのかがわかって面白い。ちなみに安先生は1860年生まれ、私が4歳年上であり、一度生前にお目にかかったことがある。

 その論文で安先生は7年前に初めてDIDの方と会った、と書いてある。ということは1993年。安先生が33歳のころ、ということになる。(実は私が最初にDIDの方と会ったのは、1992年でほとんど一緒である。)そして安先生はそのころはダニエル・キイスの「24人のビリー・ミリガン」がベストセラーになり、連続幼女殺人事件の宮崎勤被告が多重人格であるという鑑定結果が発表されて、世論の関心は一挙に高まり、それがいま(つまり2000年の段階)でも続いている、と書いてある。それからDIDをめぐる問題はどの程度代わってきたのであろうか。

 ちなみに24人の…の日本語版は1992年に発刊。宮崎勤事件(1989年)の鑑定結果が公になったのは1992年である。

 私はこの「24人の・・・・」もアイパッドに持っているが、読み始めてすぐに挫折して、ちゃんと読んだことがない。何しろ登場人物が多すぎて覚えきれないのだ。


2025年1月30日木曜日

統合論と「解離能」 20

 まとめ

 解離は一つの心の機能であり、それは能力(「解離能」)であると同時に、機能不全を起こすことで生活上の支障ともなりうる。そして治療の目標を統合に置く「統合主義」は、解離を病理としてのみとらえ、その解消を目的としているとは言えないだろうか?

解離能を考える立場としては、解離の能力にある種の健全さや必然性、ないしは防衛手段としての意味を持つことになる。すると解離により生まれた交代人格についてもそれを病的なものとしてではなく、より自然なものとしてとらえるという方針が成り立る。すなわち交代人格は「パーツ」と捉えるのではなく、固有の人格として認め、遇するべきなのである。

本稿のも一つの論点は解離の治療者に技巧は必要なく、普通の、あるいはまっとうな心理療法でいいということであるが、それはこの第一の論点、すなわち統合が目標ではないということとも深く関係してくる。つまり統合を目指す場合にはある種の操作が必要になり、いわば教科書に掲げられるような手順が必要になる。いわばマニュアル的な治療プロセスが描かれることになるのだ。それが例えばポールセンのテキストになるのである。

それでは当たり前の、普通な治療とは何か。それはその日に出ている人格(「来談人格」)との一合一会を大切にし、その人格の抱えるトラウマを注意深く扱う。ただし常に背後の複数の人格に話しかけている意識を忘れず、また必要に応じて別人格と接触する用意があるべきである。それらとしては以下を挙げておこう。

① 「来談人格」とは別の人格が面接時に自然に出現した場合。


2025年1月29日水曜日

統合論と「解離能」 19

ということで、私はこの論考の冒頭でも紹介したある当事者の主張に戻りたい。 「解離は精神疾患であると同時に、サバイバルするための力でもある。」(p.1085)「解離が出来たからこそ生きのびることが出来たのであれば、それは能力であり、ゼロにしてしまう必要はないはずです。」(p.1085) これは解離とともに生きている当事者が持つ実感であろう。しかも Richardson の主張とも共通するが、 彼らは解離を健全なものであると主張しているわけではない。これは適応的に働く場合もあれば、それがうまく働かなくなる場合もある、一つの機能なのである。それは例えば心臓が血液を全身に拍出するという機能を有するものの、その機能が働かなくなる状態(すなわち心不全)にもなりうるような存在であるのと似ている。さらに言えば、解離という機能は実は私たちの中枢神経系でどのような働きをしているかの詳細はおそらくわかっていないのだ。ひょっとしたら私たちが抑圧とか抑制とか、否認などと呼んでいる働きはある特殊な形の解離である可能性すらあると私は考えている。

中島幸子(2024)「解離は障害でもあり、力でもある」    精神医学66巻8号pp. 1085-1089. 

解離において別人格の存在をどのように認識するかについては難しい問題だが、やはり結局は「他者」ということに行きついてしまう。何度も出した野口五郎さんの例は今回は控えるが、自分の中でもう一人の自分と出会うことである種の衝撃を受けるとしたら、そのもう一人の自分は十分に異質的な存在でなくてはならないだろう。自分の中で知らなかった自分に出会う、とは実は治癒機序にしっかり組み込まれているのかもしれないと考える。治療者によるミラリングにより照らし返された自分はもう一人の自分、ということかもしれない。

(以下略)

2025年1月28日火曜日

統合論と「解離能」 18

 このテーマについて考えるうえでとても参考になる論文を見つけた。RF. リチャードソンという人の「解離:機能的な機能不全」という論文である。

Richardson RF. (2019) Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 9(4):207-210.

この論文は解離を一つの機能として理解している。

彼の引用から。

「もしある現実の一部が対応するにはあまりに苦痛な場合に、私たちの心は何をするのだろうか。痛みに対する生理的な反応が生じるのと同様に、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。その一つのメカニズムが解離だ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常的な機能を継続することを可能にしてくれるのだ。」


Richardson解離は人間ないしはあるいは生命体に備わった一種のブレイカーのようなものと考えているようだ。電気を使い過ぎるとカタッと下りる、あれだ。動物レベルでも生じるがその時は体の動きを止めることで、いわゆる擬死反応とも呼ばれる。それにより天敵に襲われることを防ぐという意味があるのであろう。しかしそれならシンプルに気を失うか、あるいはフリージングすればいいのであり、体外離脱のような複雑なメカニズムを必要とするのか、と思う。ただし考えてみれば擬死反応はそれを客観的に見ている部分を伴うならば、そこで冷静な判断を下すことが出来るため、単なるフリージングよりは生存の確立が上がるだろう。
私が興味があるのは、解離した自分とされた自分、つまり柴山先生のいう「存在する自分」と「まなざす自分」が出会うことで生まれる何かだ。両者の融合や統合ではなく、邂逅(かいこう)することで生まれる変化。この辺りは野口五郎のエピソードにかなり影響を受けている。何かのストレスが働き、体のブレイカーが勝手に下り、それが解除されるというプロセスである。

この論文で Rory Fleming Richardson は、心の機能を病的なものとしてしか見ないのは間違いであると指摘する。そして解離もそれに類するものだという。そして私たちが情緒的に耐えがたい体験をする際に、解離が緩衝材 buffer となることは、それにより今すべきことをするためには重要な働きであるという。

ところでRichardsonはp.208あたりで統合を薦めないいくつかの理由を挙げているのが興味深い。

1.ある特殊な能力を持ち高度の機能を果たしていた人格にアクセスできなくなる可能性。

2.患者が再び孤独になる可能性。

3.何時もそこにいなくてはならなくなる可能性。

そしてp.209あたりでさらに過激になっている。治療の目標は解離を絶やさないことだ。解離は必要であり、緊急の際に自らを離脱させるために必要なのだという。さらには自らの立場から離れて他者に共感することもできない、という。相手の立場をとる、ということが一種の解離だという論法である。

実はこの部分を書いていて私は新たな認識を得たという気がする。よくあるトラウマの際に人格が分かれる break off という表現を見かけるが(この Richardson 先生も同様である)、私はこれまでその考え方に抵抗があった。いかにも人格=断片、パーツ、というニュアンスを持ったからだ。しかしそれが人格の成立に関わる可能性は少なくないのではないか。つまり break off した部分は、次の瞬間からすぐに自律性を獲得するのである。それは複雑系の基本的な性質なのだ。たとえば切り出した心臓を幾つかに分解したら、それぞれが独自のリズムの拍動を開始するという事情と同じである。むしろ自律性を失うのは、他の部分との連結が生じている時である。左右脳のことを考えると、それぞれが自律性を獲得するのは脳梁が離断されたときである。  


2025年1月27日月曜日

統合論と「解離能」 17

解離能の問題
この話のとっかかりは、体外離脱体験(OBE)が示唆するものについてである。私はOBEを解離体験のプロトタイプと考えているが、それは統合不全、DBSの表れとして理解できるだろうか?
そもそも体外離脱体験自身は一般人の数%の人が経験している。これは病的体験とばかりは言えず、場合によっては優れた能力と考えることが出来る。私たちは対自存在であるとともに対他存在でもある(サルトル)。ところがOBEにおいて生じているような解離における「存在者としての私」と「まなざす私」の分離は、対自存在のあり方をまさに血肉化したような現象であるといえる。そして一般人のごく一部の人たちにしか体験されないものである。これをある種の特権ないし能力ととらえる根拠は十分にあるだろう。つまりこれは一つの能力なのだ。これをここでは「解離能 dissociative capability」と呼ぶことにしよう。
「解離能」については、J.ハーマンの「解離能」の概念を参照したい。
ハーマン (1992) は「トラウマと回復」の中で、トラウマにおいて生じる解離を一つの能力(解離能 dissociative capability) と考えた。そしてそれがあるかないかでDIDとBPDの病理を分けて論じた。
DID=解離能を有することで、トラウマの際に自己の断片化や交代人格が形成される。
BPD=解離能力を欠くためにトラウマの際に交代人格を形成できないが、その代わりスプリッティングを起こす。
少なくともこの概念化の特長は、解離を一つの病理とばかりはとらえていない点である。つまりそれは人が潜在的に持っている能力か、あるいは一部の人間に備わっている能力としてみる立場を示しているのだ。

2025年1月26日日曜日

統合論と「解離能」 16

 ここら辺は繰り返しの「愚痴」のようなものになるが、統合派はそこに至るための「交代人格の有するトラウマの解決」とサラッと言いすぎる感がある。それは催眠の手技などにより簡単に達成できるのであろうか?一つのトラウマの解決だけでも長期的な治療目標となっているケースがあまりに多い。

催眠を用いた「処理」は操作的でそれを受け入れない患者も多いのではないか。やはり統合は「絵に描いた餅」と言わざるを得ないのではないか?

ワトキンス夫妻やパットナム(DBS)やハウエル(相互文脈化)は、無理に統合せず、人格のいくつかの側面として残しておけばいいではないかという、より受け入れやすい立場と言えるが、それぞれの人格の独自性を認めない傾向がある。


ちなみにこの講演は録音したものを「CLOVA文字起こし」なるソフトで文字にしているので、そのまま書き写してみよう。

で統合派統合主義はそこに至るための抗体比較の有するトラウマの解決っていうふうにさらっと言うんだけども、それは催眠の主義などにより簡単に達成できるのかっていうのがええ。実際に催眠を常に用いていない立場からは数字を覚えてしまう一つのトラウマの解決だけでも長期的な治療目標となっているケースがあまりに多い。これ確かにそうで、(中略)はもう何年もできる。

これだけでは何のことかわからないが、ソフトにはその部分の録音を再生できる仕組みになっていて、それを聞きなおしながら訂正すると以下のようになった。

 統合派統合主義はそこに至るための交代人格の有するトラウマの解決っていうふうに、サラっと言うだけども、それは催眠の手技などにより簡単に達成できるのか、と言うか実際に催眠を常に用いていない立場からは違和感を覚えてしまいます。一つのトラウマの解決だけでも長期的な治療目標となっているケースがあまりに多い。これ確かにそうで、私のあるケースは(中略)何年も続いています。」

確かにこれだけやってくれるだけでもソフトとしては悪くない。しかし月々2000円を支払って使う価値があるのかといえば、うーん、となってしまう。


2025年1月25日土曜日

統合論と「解離能」 15

統合についての考察

 さてここでこれまでの議論をまとめてみよう。ISSTDの最新のガイドラインを見た限り、統合から協調に方針を転換していることはかなり明らかである。この論考のテーマからすれば、この点を確かめるだけでもある程度は目的を達成できたかもしれない。しかしあえて最近の解離の治療論をいくつかピックアップして論じてみたのだ。

まず印象としては、ハウエル 先生による折衷案としての「相互文脈化」は一考の余地がある。論理的には一番収まり具合がいいのではないか。統合か、協調か、という二者択一を回避できるというのも、ハウエル先生のおっしゃる通りだろう。しかし他方では自我状態療法に由来する流れの中では、(例外的に?)ポールセンが明確に統合を目指し、またこちらは自我状態療法にどの程度近いかどうかは別として、小栗先生のUSPTもまた明確に統合を目指している。

一般論として言えば自我状態療法では催眠に由来するだけあり、催眠やEMDRなどの基本的な手技を治療手段として用いることを前提としている。そしてそれにより患者の心を操作するというニュアンスが強く、その流れの中で自然と統合が目指されているようである。

 ちょっと思いついた例えだが、武道について考えよう。剣道においては竹刀を用いないということはあり得ない。すると攻撃は竹刀によるある種の打撃に限定されることになる。そこに足払いや関節技や寝技などは出て来ようがない。流派によってはあるかもしれないが、邪道扱いされておしまいではないだろうか。何しろそれらは竹刀を使わないからだ。ところが竹刀を用いない徒手空拳で行う武道(すなわち柔道や合気道)なら、打撃以外の多彩な技が考えられるであろう。

 あるいは別の例えも思いついた。外科医なら外科手術しか治療手段はないことになる。メスを用いない外科的な手技などないだろう。それは勢い侵襲的になり、病巣の除去という最終目標も変わることはないであろう。(もちろん産科手術、移植手術などの場合は例外であるが。) ところが内科学の場合は、外科的侵襲以外の様々な治療が自在に選べることになる。

 トラウマの治療でもトラウマ記憶の想起や人格の融合、統合といったドラマティックな介入以外の治療が自在に求められる。いわばマネジメントの役割が極めて大きくなるのだ。再び先ほどの例えを持ち出すならば、剣道なら竹刀を交える前の心理戦や駆け引きが勝敗にかなり大きなウェイトを占める。あるいは外科手術であれば、それを行う前のムンテラや心の準備や手術野の消毒などが手術そのものよりも大きな意味を持つ。(実際にその様な「手術」などあり得ないかもしれないが。)


2025年1月24日金曜日

統合論と「解離能」 14

 さてこのようなポールセンの臨床的な記述について述べる。この引用の前に、「色々なパーツが抱えていたBASK要素の処理が済んで自己に吸収されたので、子供のパーツはキム本人から解離している必要がなくなったのだ。」とある。つまり患者の中に多くいた、「パーツ」のそれぞれが抱えたトラウマは既に処理されていたことになる。これは一言でサラッと言えるほど簡単なことではない。

しかしトラウマの処理はそれほど簡単にできるのだろうか?実際トラウマの処理には何年もかかる場合がある。それをいとも簡単にEMDR何セッションかで次々と処理していくという風に書いてあるが、これは非常に誤解を招くのではないか。


統合を目指さない杉山先生の自我状態療法


それに比べて杉山先生の提唱されるDIDの治療方針には大変納得出来る。先生はそのテキスト「発達性トラウマと複雑性PTSDの治療」の中で「平和共存、みんな大切な仲間』というメッセージが一番大事なキーワードとなる。」(p.64)

「全パーツの記憶がつなげられるようになれば、人格の統合は必要ない。皆でわいわいと相談をしながら生きて行けばよく、適材適所で対処することにより、むしろ高い能力を発揮したりする。」(p.64)

杉山先生の記述を読むと、やはりこの世界は統合をめぐって大きく意見が分かれていることに改めて気づかされる。



2025年1月23日木曜日

統合論と「解離能」 13

 ポールセンは基本的には過去の解離に関する論者の説を援用して治療論の解説を進める。その中にはベネット・ブラウンの有名なBASKモデルも登場する。このモデルは、正常な記憶ではこのB(行動)A(感情)S(感覚)K(知識)という4つの要素がつながり、統合されたものと考える。トラウマ記憶とはこれらが解離した状態であるというものだ(BG Braun,1988)。そしてトラウマ記憶を処理するとは、これらがつなぎ合わされ、一つの正常なエピソード記憶に戻すということになる。(それらしき挿絵もある。4つの様式をミシンで繋ぎ合わせている様子が描かれている。)それを両側刺激(EMDR)により行う。要するに過去のトラウマ記憶を一つ一つつなぎ合わせる作業をせっせと行うのである。

このテキストの大部分がその作業の手順の説明に費やされるが、肝心の統合に関する記述はテキストでは僅か数ページに過ぎない。

「治療の目標は、解離性健忘がないまま、同時にかつ正常に機能する自我状態システム、ないし神経ネットワークを作ることです。」(p.249)

EMDRは本質的に結合を促すものです。従ってクライエントがEMDRを受けると、それまで分断されて未処理だった一連の神経系統の集まりが統合されていきます。これは自然なことだと言えるでしょう。」(p.249)

「[トラウマが処理されれば]解離によって防衛の必要がなくなり障壁は痕跡に過ぎなくなります。」(p.249)

特にこのEMDRは本質的に結合を促すものです。」という主張に注目していただきたい。ここには催眠やそれに由来するEMDRの考え方の一つの典型が現れている。それはある種の操作により精神の改変を促すという発想であり、これはEMDRが治癒を促すプロセスを理論的に説明する考え方である。それはある種の行動療法的な、ないしは生物学的なアプローチというニュアンスがあると感じるのは私だけであろうか。

BASKモデルに従って次々とトラウマが処理されて、最後にポニーとキムが残る場面である。

統合のプロセスでポニー自身はもう分離した人格でいる必要はないと感じていて、キムと統合されたがっていることが分かった。キムも賛成だと言った。その後解離障壁を残しておいた方がよいと思われるようなトラウマ記憶が残っていないか入念に確認してから、両側性刺激を行なって、残った解離障壁を取り除くことになった。キムとポニーの準備が出来ると、私は「キムとポニーが自分の目を通して外界を見ています、壁が崩れます、壁が崩れるよ‥・・・」と言いながら、両側性刺激を何セットか行った。(p.250)

「『どうですか?』と私が尋ねると、キムは『変な気分です、両手がピリピリしています。』と答えた。『その感覚に注目していてください』 と私は言ってそのままもう何セットか両側性刺激を続け、確認に入った。『ポニー?』するとキムは『ポニーはもう分離していません。私の中にいます』 と返事をして笑った。それは私が知っているポニーの笑い方と同じだったが、それも今やキムの特徴として統合されたのだ。」(p.250)


私はここにかなりの操作性を感じる。統合ありき、というか、一つになることを最優先しているというか。最後に残ったキムはそれほど積極的に全体への統合を望むものだろうか?


2025年1月22日水曜日

統合論と「解離能」 12

ワトキンス夫妻が少なくとも統合を目指さなかったことについては、実際の論文におけるその旨の記載が明らかにしている。

アメリカ時代にせっせとコピーしてきた論文を掘り出すと、夫妻の1984年の論文が見つかった。(Watkins,J, Watkins H.(1984)  Hazards to the Therapist in the treatment of Multiple Personalities. Psychiatric Clinics of North America Vol, 7,No1. March 1984.) そこには以下の様な記載がみられる。

多重人格においてもequilibrium が成立しているのであり、「そのような分裂 split を『統合』しようとすることは、アラブ諸国とイスラエルを凝集した cohesive 中東国にするように誘いかけるようなものだ」(p.112)という。「人格の間の違いが大きければ、さらに強固な解離が必要となるのである。」そして解離は内的な葛藤を抑えようという試みであることを強調する。このことは解離が持つ防衛的な側面を考えれば十分納得がいく話である。

しかし、である。同じ自我状態療法の流れをくむサンドラポールセン

はと言えば、かなり明確な統合派なのである。

サンドラ・ポールセン著、新井陽子・岡田太陽監修、黒川由美訳(2012)「トラウマと解離症状の治療 EMDRを活用した新しい自我状態療法」 東京書籍. 


彼女の業績は、自我状態療法にEMDRを組み合わせ、DID の安全な治療を可能にした技法(杉山)ということになっている。

統合論と「解離能」 11

自我状態療法

自我状態療法(EST)は、ワトキンス夫妻により1990年代に考案された。これは自我状態モデルを臨床催眠に取り入れたもので、催眠下でトラウマの再体験を促す。つまり催眠によりトラウマ体験を再体験することを目的としていたのだ。(EST emphasizes repeated hypnotically activated abreactive "reliving" of the trauma experience )そうは言っても本来は解離の治療に特化してはいなかったが、複数の治療者(サンドラ・ポールセン、杉山登志郎その他)に取り入れられた。そこでまずこのジョン、ヘレン夫妻の話から始める。
ちなみにジョン・ワトキンスはもともと催眠療法の人であり、有名な「ヒルサイドストレンジャー」の犯人に自白させ、DIDであることを明らかにしたことで有名な人である。また奥さんのヘレンは国際解離トラウマ学会(ISSD)の創始者のひとりである。つまり二人とも解離やトラウマとは深いかかわりを持っていたのだ。
私がここで強調したいのは、実はESTは統合論を目指していたのではなく、むしろその逆だったのだ。しかしポールセンはそれを統合を目的としたものとして改変したのが一つの特徴と言えるのである。
従来このESTは「自己内家族」を構成する自我状態間の葛藤を解決することを目的としたものとして知られる。個人療法,集団療法,家族療法を活用した催眠分析の発展型と表現できるサイコセラピーである。もともと多重人格や解離性障害の治療を主たる目的として生まれたわけではないが,近年の身体志向のトラウマ・ケアの考え方を大胆に取り入れつつ,現在進行形でさらなる進化を続けているのだ。 自我状態療法 創始者 Watkins 夫妻の論文(Watkins, H. H. (1993). Ego-State Therapy: An Overview. American Journal of Clinical Hypnosis, 35(4), 232–240.)に、既に彼らの20年の臨床経験について書かれている。ということは1970年代から始まったということか。この論文の抄録を読むと、自我状態療法は自らを力動的なアプローチと規定し、精神分析の向こうを張ったところがあることがわかる。そしてそこではグループおよび家族療法のテクニックが用いられるとする。そして「隠された自我状態は、多重人格でない限り表に出ないが、催眠ではその活動が見られる」と書かれているところに注目したい。つまり催眠療法由来ということは「手技」を用いることを前提としているわけである。そして抄録で「グループ療法や家族療法のアプローチを応用する」という限り、全部を統合しようとする試みは恐らくなされないであろう。

2025年1月21日火曜日

統合論と「解離能」 10

解離の治療理論における統合という概念

ここからは統合を目指す理論を中心にいくつかを紹介したい。彼らの理論がどの程度臨床的な現実と符合するかについて検討することが目的である。
まず明確に統合を目指すUSPT理論(小栗、ら)新谷 宏伸 (著, 編集), 十寺 智子 (著), 小栗 康平 (著)(2020)USPT入門 解離性障害の新しい治療法 -タッピングによる潜在意識下人格の統合. 星和書店を挙げたい。ちなみにUSPTとは Unification of Subconscious Personalities by Tapping THerapy タッピングによる潜在意識化人格の統合のことを指す。この療法は「DIDや内在性解離において別人格を表出させ、その場で融合・統合をすることができる治療法。」(p.1) としてまず位置づけられている。そして「短時間で人格を統合し治癒させ得る方法で、患者さんのためだけでなく医療経済的にも非常に優れているといえる。」(p.1)
彼らの手法を見てみよう。まずEMDRの代わりに両膝の交互タッピングで人格変換を手早く行い、「背部のタッピング」で人格を統合するのがUSPTの原型である。」という。そしてタッピングの部位は手でも肩でもいいが膝は女性の抵抗が一番少ないという。(p.39)ともかくもまず主人格にタッピングを行ない、子ども人格から呼び出す。(ちなみに女性が両膝のタッピングが一番抵抗が少ないという記述は私には少し意外であった。)
もし別人格が出てこないとしたら、「患者さんが本当の意味で治りたいと思っていないからである。辛いことは封印しておきたい、別人格に任せておきたいのである」。(p. 50 )とも書かれている。
そして子供の人格が出たら、辛い時の記憶を語ってもらい、「離れていると辛い気持ちを一人で抱えて辛いでしょう。一つになると辛さが流せるし、あなたの辛さに耐えた強さが入るから、しっかりした〇〇さんになるの。」と説得する。(p. 47 ) 主人格からもそれを促してもらう。

2025年1月20日月曜日

統合論と「解離能」 9

  ここで発達論的な解離の理論に対する私の異議について明確に示しておきたい。それは人格の出現の多くは「創発的」であるということだ。それは多くの場合、予想を超えた形で生じるのだ。そしてそれはDBSのような発達論的な解離理論にはうかがえないのである。

 私の考える解離のプロトタイプをここで示そう。一般人にもまれならず体験されるパターンとは対外離脱である。例えば突然自分から飛びのいて後ろから見る形で出現する。後ろから自分が殴られたり、身体的な外傷を負ったりするのを客観的にみている、など。それが突然起きるのだ。そしてそれは決していくつかの自我状態の間を飛び移るという現象では説明できないだろう。たいていトラウマをきっかけとして解離を体験し始める人の場合には、この種の突然新たに、つまり「創発的に」人格が出来上がるのを経験しているのだ。

あるいは別の形をとる場合もある。極めて絶望で進退窮まった状況で、突然自分の中から声が聞こえ出す。「死んじゃだめだ!」などの励ましの声だったりする。勿論「どうした、そこまでか!」などと叱咤激励する場合もあろうが。そしてその声の主は第三者的で「他者性」を帯びているからこそある種のインパクトを与えるのだ。

「転校生として現われた」という例もある。昔から存在していたらしい人格が突然覚醒することもある。このような現象をこれらをDBS(Putnam)や「相互文脈化」(Howell)で説明できるのだろうか?おそらく否である。

 それに比べて私が依拠したいWinnicott のモデルはPutnam などの発達過程での「部分→統合」というのとも違う気がする。彼は自己が確立してから、非自己が生まれるのだ、とも言っている。ということは内側から外側に向かって一つ(自己)になった後に非自己が分化していくが、その過程で偽りの自己も出来上がっていくという印象を受ける。部分 → 統合体 → 分化(自己、非自己)というより複雑なプロセスを考えているように思われる。つまり部分は統合体になる前のもの、というのではなく、統合されたのちに偽りのいこという名の false self という部分が出来上がっていくのだ。その点が明らかに Putnam らと違う。 

考えてもみよう。赤ん坊が母親に同一化するプロセスでは、自分と母親の相違には気がつかないだろう。そのうちに「あれ?何かがおかしい」となるはずだ。つまり、やはり解離は自己の成立後に生じるはずである。それがもともとバラバラな状態のまま統合できない、というモデルとは違う。Winnicott が防衛的な解体という時は、やはりこの全体→部分に分かれるというプロセスが想定されているらしいのだ。

Winnicott が晩年に残した草稿には、こんな文章がある。

「私は私たちの仕事について一種の革命 revolution を望んでいる。私達が行っていることを考えてみよう。抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。しかし患者が自己分析によっては作業出来ない以上、部分が全体になっていくのを誰かが見守らなくてはならない。(中略)多くの素晴らしい分析によくある失敗は、見た目は全体としての人seemingly a whole person に明らかに防衛として生じている抑圧に関連した素材に隠されている、患者の解離に関わっているのだ。」(Winnicott, quoted by Abram,2013, p.313,下線は岡野)

思わずエーッとなる内容だが、これを補足する様に Abram は論じる。「Winnicott の理論では、自己は発達促進的な環境によってのみ発達する。その本質部分がない場合は、迎合を基礎とした模造の自己 imitation self が発達し様々な度合いの偽りの自己が発達する(それについては「真の自己と偽りの自己に関する自我の歪曲」(1960)という論文で論じてある。)そしてよくある精神分析では解離されたパーツ、すなわち偽りの自己の分析にいたらないのだ。(Abram p.313)

 私は勢い余って太文字強調したが、Abram を読んでいると、Winnicott の偽りの自己の議論は事実上解離の議論ということになる。少なくともAbram の筆致によれば、そしてWinnicott の記述を字義とおり取れば、彼はどうやら今の解離の議論を半世紀以上前に先取りしているということになるが、本当に信じていいのであろうか?


2025年1月19日日曜日

統合論と「解離能」 8

昨日の虹色(天然色)の議論に補足。

 


さらに言えば、人は常に天然色を放っていると言える。その時の気分だったり、たまたま回想している内容その他によるのだ。一人でいるときは特にそうだ。自由に好きな色を出している。

 ところが誰かに対面したときは、お互いの色を合わせるということをする。どちらに合わせるかは、どちらがより「支配的」かによる。顔色を窺わなくてはならない相手の場合は、とりあえず相手の色に合わせる。逆に気の置けない相手なら、自分の色はそのままでよく、相手に合わせてもらう、とか。ところが解離傾向を有する人の場合、相手に常に合わせ、かつその色がいくつかの単色に分かれているのだ。そのうちのどれかを、ちょうどいくつかのチャンネルのうちのどれかを選択するようにして合わせる。そこが離散的で解離的なところなのだ。

この図で言うと、色の三原色であらわされている部分で、それを統合すると白くなってしまうというわけだ。

さて以上、Patnum, Forrest らの発達論的な解離理論およびそれに準拠したHowell の理論について見てきたが、これらはどの程度妥当なのだろうか?

パットナムのBDSの概念は、解離は正常な発達(部分 → 統合)がおこなわれなかったという前提に立つ。DBSの概念とハウエルの文脈化の障害という議論とは近縁関係にあることは見てきた。だから正常ないくつかの心の部分の存在 → 発達によりそれらが統合される、というPatnumの基本的な前提はどの程度理屈に合っているのか、という問題になる。

しかしそれまで一つにまとまっていた心がトラウマにより第2,3の心が出現するというプロセスはそれで説明できるのだろうか?

トラウマで「解離が用いられる」という発想(解離能)とは程遠いことになろう。


2025年1月18日土曜日

統合論と「解離能」 7

 


ここでこの図を見ていただきたい。これは野間先生がDBSの説明をなさっている論文からお借りして、私が少し変えたものである。この図にあるように、人間の心の状態は、いくつかの代表的なプロトタイプに分かれているというのがDBSの趣旨である。ここで「いい子の自分」「父親に甘える自分」、「父親におびえる自分」あるいは「父親と性的なかかわりを持つ自分」などを例として挙げているが、これは父親からの性的虐待を受けた娘の場合に相当し、それらの間を流動的に変わることが出来ず、甘える自分からおびえる自分にポンポンと飛ぶ傾向を示す。このあり方がDBSの「離散的 discrete 」という意味である。そしてそれは父親が豹変することに対応を迫られた子供が作り出した複数の自己状態ということになる。通常は甘えている時の自分の状態とおびえている自分の状態は、それらがさほど極端でない場合は連続しているはずであり、それをまとめているのがForrest 先生の説によるとOFCということになる。しかし解離となるとOFCの力も及ばず、それぞれが切り離され、思い出せないことになる。

ところでおそらくハウエル先生の本で読んだと思うのだが、いくら探しても出てこない。それは治療とは虹色の他者に対してこちらも虹色で出会うことが出来るようになることだという内容であった。そこで私の言葉でこのことを書いてみよう。要するに普通の人が様々な感情状態を示すのに対して(つまり天然色で生きているのに対し)、解離を持つ人はそれに自分も天然色を出しながら対応するのではなく、例えば光の三原色のように、赤、青、緑の飛び飛びの反応しかできないということが起きている。それが基本的にはDBSが述べていることである。ではどうするのか。それは3つの色を12色に、さらには24色にしていくということだろう。これがハウエルさんの言った、文脈的な相互依存性 contextual interdependence というのはわかりやすく言えばそういうことだ。しかしその3つを無理に統合すると、白の一色になってしまう。(色の三原色で言えばクロになる)。それではいけないだろう。天然色同士の人間関係が彼らの言う意味での健全な生活というわけだ。


2025年1月17日金曜日

統合論と「解離能」 6

 以上のDBSの議論を脳科学的に支えるのがケリー・フォレストの理論(Forrest, KA (2001) Toward an etiology of dissociative identity disorder: a neurodevelopmental approach Conscious Cogn 10:259-93.)であるので、これを簡単に紹介しよう。
 彼の理論では、解離に関して現時点でもっとも有効な理論は、パットナムのDBSの理論だが、その背景となる生物学的なメカニズムは何かについて考えられるのは、眼窩前頭皮質OFCを含む前頭前野であるという。そもそも人間が自己の異なる部分を統合する機能は人が持つ幾つかの機能が同じ人の複数の側面として、「全体としての自分 Global Me」として機能する必要があるが、それを支えているのが、この眼窩前頭皮質OFCなのだ。そしてOFCの機能の低下により、多面性が失われて、それぞれの側面がAさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として振舞うのがDIDである。

2025年1月16日木曜日

統合論と「解離能」 5

次にエリザベス・ハウエル先生の統合についての考え方について述べてみよう。ハウエル先生は精神分析的立場から論じているという点も親近感を感じる。彼女の著書「心の解離構造」(柴山雅俊、宮川麻衣訳 金剛出版、2020年)を参照してみる。

ハウエル先生はこの本でかなり本音を語る。「そもそも統合 integration という語やその背後にある概念が問題だ。ラテン語の integer は単位とか単体 unit or unity であり、統合という概念はワンパーソン心理学の概念なのだ。」(143). 関係論的な立場の人にとっては、ワンパーソンサイコロジー(一者心理学)といわれると、もうそれだけで「終わっ」ていると言っているようなものだ。そしてハウエル先生はもちろん関係論の立場だろう。そして彼女の書いているおそらく一番大事な文章。「文脈的な相互依存 contextual interdependence という概念により、解離対統一という対立項を回避することができる」(143)。

たとえるならば「男性は怖い」という反応に留まり、囚われるのではなく、人生の別の文脈では「男性は優しい」「男性はどうしようもない存在だ」などと体験できるようになることがこの文脈的な相互依存ということであるという。そしてこの「文脈的な相互依存 contextual interdependence は、「解離 vs 統一」という対立構造を回避することができる。」(p.143)とある。

ちなみにハウエル先生はパトナムのDBS理論に依拠しているという。ではDBSとは何か。フランク・パトナムの離散的行動状態理論 (Frank W. Putnam: Dissociation in Children and  Adolescents: A Developmental Perspective. Guilford  Press, 1997) その前提となるのは 1.人間は最初は精神状態・行動状態をいくつも持つが、発達に伴いそれらの状態間をスムーズに移行出来るようになる。

2.交代人格という状態は,その他の通常の状態とは違い、虐待などの外傷的で特別な環境下で学習されたものだが、それらの移行がスムーズに行われない。

パトナム先生によれば、人間の行動は限られた一群の状態群の間を行き来するのであり、DIDの交代人格もその状態群の中の1つであるとする.交代人格という状態は,その他の通常の状態とは違い虐待などの外傷的で特別な環境下で学習される.そのため,交代人格という状態とその他の通常の状態の間には大きな隔たりと,状態依存性学習による健忘が生じると考える.パトナムPutnam 1997)にとって精神状態・行動状態というのは,心理学的・生理学的変数のパターンからなる独特の構造である.そして,この精神状態・行動状態はいくつも存在し,我々の行動はその状態間の移行として捉えられる.


2025年1月15日水曜日

統合論と「解離能」 4

 ところでこの発表をまとめている中で、私はISSTDのガイドラインそのものがどのように変遷しているかに興味を持った。ガイドラインは、初版が1997年に、第2版が2005年に、そして最新のものが2011年に出ている。(今回、このブログをまとめていて、1997年度版もネットで見つけることが出来た!前回は探し方が下手だったのだ。)これらのガイドラインには、統合か否かというテーマについての温度差がみられる。

例えば1997年度版は、「統合が全体的な治療のゴールである」とシンプルに述べているだけだ。

しかし2005年のガイドラインではこうなっている。

解離性障害の分野のエキスパートの大部分は、最も安定した治療結果とは、すべてのアイデンティティの融合、つまり 完全なる統合 、混ざりあい、そして分離の消失であることに同意する。」(p.13)

ところが2011年のガイドラインには変化がみられる。                      

リチャード・クラフトによれば、最も安定した治療結果とは、すべてのアイデンティティの融合、つまり 完全なる統合、混ざりあい、そして分離の消失である。(p.133)


つまり統合を推進するのは「大部分のエキスパート」から「クラフト先生」に、表現が代わっているのだ。この3つのガイドラインの記載のされ方からも、治療においては統合が必須という考え方が変化している事情が見て取れるだろう。


2025年1月14日火曜日

統合論と「解離能」 3

 


なおガイドラインにはこうも書いてある。「一部の患者にとっては、より現実的で長期的な帰結とは、協力的な取り決め cooperative arrangement であろう。それはしばしば「解決 resolution」 と呼ばれ、最善の機能を達成するために、交代人格たちの間で必要な程度に統合され、協調された機能を営むことである sufficiently integrated and coordinated functioning among alternate identities to promote optimal functioning.」(p.134)

英文が混じって読みにくいかもしれないが、なるべく正確な翻訳を目指しているからだ。患者にとっての解決とは要するに「必要な程度の統合」と協調であるということだが、その統合を完全に一体化したものと表現するのではなく、十分にsufficiently という言い方をして、「ある程度の」でいいのだということをここで示しているといえる。そして統合が実際どの程度に行われるかということについては、以下のように書かれている。「治療結果についてのシステマティックなデータによれば、完全な統合(最終的な融合)に至るのは16.7~33%のケースである (Coons & Bowman, 2001, Coons & Sterne, 1986, Elliason & Ross, 1997)。(p.134) この数字はまだ統合が治療の目標であることは当然であるという了解が治療者の間になされていた時代のことである。おそらくこの16~33%という数字もかなり水増しされていたのではないかと私は考える。

ここで統合と融合という用語の使い分けにも触れておこう。ガイドラインには以下の文章がみられる。 統合 integration融合 fusion などの用語は混同されて用いられている。クラフトの以下の文章が引用されている。『[統合とは]人格の数や特徴が減少し始める以前から生じている、解離的な分離のあらゆる特徴が解消されるような現在進行形のプロセスである』。」(Kluft, 1993, p109.)

ここでやはりクラフトがどのような使い分けをしているかを示していることが興味深い。経典はクラフトの文章、という印象がある。そしてガイドラインは次のように述べている。「融合は二つ以上の交代人格が合わさり、主観的な個別性を完全に失う体験を持つことである。最終的な融合とは患者の自己の感覚が、いくつかのアイデンティティを持つという感覚から、統一された自己という感覚にシフトすることである。」そして再びKluft の引用。「クラフト は「最終的な融合 final fusion」完全なる統合 complete integrtion」を同等に扱っている。(同1993)

結局私自身の結論としては次のようになる。2つの人格が一つになる程度なら融合 fusion と呼ぶ方が適切であろう。単に二つが一つになるという意味で。ただしそれは人格全体の中の部分的なプロセスを描いているというニュアンスがある。ところが全体が一つになるという意味ではやはり統合 integration が使われるべきだ。ただしその意味では融合も広い意味では統合の一つのプロセス、ということが出来るのだ。  


2025年1月13日月曜日

統合論と「解離能」 2

    ここで私の発表の骨子について3項目あげておきたい。論文で言えば「抄録」の部分に相当するだろう。
●解離性同一性障害における治療目標として従来は人格の「統合 integration」が掲げられてきた。しかしその根拠はどうやら希薄である。
●この問題の背景にあるのは、解離を本来病的なもの(脳の誤作動?不具合?)と見なす姿勢であろう。 
●解離を一つの能力(「解離能 dissociative capability」)と考える立場は、「統合主義」に対するアンチテーゼとなりうるであろう。 

 では本論に入る。最初にある当事者の言葉を紹介したいと思う。これは昨年8月に精神科専門誌に発表された論文の一部である。その一部を引用する。
 「治療者から一人の人格への統合を目指すように言われている当事者は後を絶ちません。しかしDIDの場合、統合はプロセスの一部であって目標にしてはならないと思います。目指すは “functional multiplicity”[機能的な多重性]という状態です。」

 この言葉は私には非常に大きな意味を持っている。そこでまず問うてみよう。現在の解離性障害の治療において統合を目指すのかどうかについて、専門家の公式見解を求めるとしたら、それはどこであろうか?
「トラウマと解離に関する国際研究協会 International Society for the Study of Trauma and dissociation」 がDIDの治療ガイドラインを発表している。それが解離性障害についての国際誌 Journal of Trauma and Dissociation に掲載されているが、それを参照することで、おそらくその「公式見解」に近いものが得られるであろう。 そこでこのガイドラインには治療目標に関してどのように書かれているかを見てみよう。「治療的な帰結として望ましいのは、交代人格の実現可能な統合 workable integration ないしは協調 harmony である。」(p.133)「リチャード・クラフト (1993) によれば、最も安定した治療的な帰結としては、すべてのアイデンティティの最終的な融合 final fusion-つまり完全なる統合 complete integrtion, 融合 merger そして分離の消失である。」 (p.133)「しかし相当な治療の後でも、かなりの数のDIDの患者が、最終的な融合に至ることが出来ず、またそれが望ましいと考えない。」 (p.133)「この最終的な融合の障害となるものは、たとえば併存症や高齢である。」(p.133)I
nternational Society for the Study of Trauma and Dissociation (2011): Guidelines for Treating Dissociative Identity Disorder in Adults, Third Revision, Journal of Trauma & Dissociation, 12:2, 115-187Kluft, R (1993) Clinical approaches to the integration of personalities. in R.Kluft & CG Fine (Eds) Clinical perspectives on multiple personality disorders (pp.101-133)Washington, DC. American Psychiatric Press. 

2025年1月12日日曜日

統合論と「解離能」 1

 


しばらくは昨年12月のJASDの大会で発表した「統合論と『解離能』」の文章化である。

最初に私たち臨床家を悩ます二つの問題から入りたい。

①人格の統合を目指さなくてもいいのだろうか?

② 解離の治療には特殊な技法が必要なのだろうか?(EMDR?自我状態療法?・・・・

まずそれぞれに説明を加えたい。

①に関しては、私の今回の発表の目的とも関係している。私は今回の発表では、これまでと少し違ったことを言いたかった。私は統合は「絵に描いた餅」であることが多い、ということを言っていたので、「いや、統合したというケースもありますよ」という発表をしたかったのだ。同じ主張ばかりしていると、その論点に凝り固まってしまい、周囲に飽きられてしまう。それに自分の理論を守ることに躍起となってしまい、現実に起きていることを捻じ曲げてしまいかねない。そこでいっそ反対のことを言い出してはどうか、と思うのだ。おかしな発想かもしれないが、これを私はかなり前からやっているところがある。

②についてはこれも私自身の問題であるDIDをはじめとする解離の治療にはいくつかの流派やテクニックが存在する。私はそのどれにも習熟しているとは言えないし、多くの治療者は同様であろう。これでいいのだろうか?この点も少し深堀したかったのだ。

勿論ここに書いてあるEMDR,自我状態療法以外にもたくさんある。少し上げただけでも以下のようなものが思い浮かぶ。

  • BSP (ブレインスポッティング)

  • TFT (思考場療法)

  • HT (ホログラフィートーク)、

  • BCT (ボディコネクトセラピー)、

  • SE (ソマティックエクスペリエンス)、

  • TF-CBT (トラウマ焦点付け認知行動療法)