「パーソナリティ症」
はじめに
本稿の主題は「パーソナリティ症(以下PD)の教育の仕方」であり、PDについてのテキスト的な解説でははなく、どのような心構えや配慮のもとに、PDについて若手医師に教育すればいいのかについて述べることが目的である。
私達は人にあるテーマについて伝える場合、そのテーマの置かれた文脈やそのエッセンスを最初に示すことで、各論の具体的な内容の理解も深まることを知っている。私自身はこのPDというテーマに関するエキスパートを自認することは出来ないが、このテーマにある程度なじみのある先達として、「最初にこの順番で解説してもらえたら、このわかりにくいテーマについての理解が進んだであろう」と思える内容となることを心がけたい。
PDのエッセンスをどう伝えるか
まずPDとは精神医学では微妙な立ち位置にあることを示したい。PDはすぐに投薬や入院治療の適応となるような、明白な症状を伴う精神疾患とはいえない。それは通常は正常範囲にあるその人の生き方(考え方、感じ方、人との関係の持ち方)のある種の偏りが、自身や周囲の人に困難をもたらすような状態である。PDはいわば疾患と正常との間に位置するのであるが、しばしば患者自身やその周囲から、あたかも疾患とは対極にあるような扱いを受けることになることも特徴である。
たとえばAさんについて家族や同僚が「これは彼の持っている病気というよりは、性格ではないでしょうか?」と問う時、それはAさん自身の持つ性質として、治療するというよりは受け入れるべきものではないか、というニュアンスと、Aさん自身がそれを病気のせいにせず、責任を取るべき問題ではないか、という両方のニュアンスを伴うことが多い。
PDの研究は精神医学の歴史の中では、気分障害や精神病に付随する形で着手された。1800年代にE.クレペリンは軽佻者、欲動者、奇矯者、虚言者、反社会者、好争者の7つに分類し、K.シュナイダーは類似のものを10提示した。これらがひな型になり代々引き継がれてDSMやICDにおけるPDの分類に引き継がれて行ったのである。
さて現代的なPDの基礎となったのは1980年のDSM-Ⅲに掲げられた10のカテゴリーであり、いわゆるカテゴリカルモデルの雛型となった。私は米国でのレジデント時代に、「PDはmad, bad, sad」と教わった。つまりそこには患者の思考、対人関係、感情の在り方の三つが反映され、それがA、B、C群に該当する。A群はスキゾイドPDなどの様に思考過程の特異性を伴ったもの、B群は境界性PDや反社会性PDのように対人関係に問題を抱えたもの,そしてC群は回避性PDなどの、感情面での問題を抱えたPDということになり、これらはそのままDSM-5(2013)にも踏襲されたのだ。
ただしその間にこのカテゴリーモデルについては様々な問題が指摘されるようになっていた。たとえば特定のPDの診断基準を満たす患者は、しばしばほかのPDの基準も満たすという診断の重複の問題(DSM-5,p755)という問題や、上述の10のカテゴリー分けには十分な根拠がない、という批判である(Bach)。実際にシゾイドPDについては、それと発達障害との区別はますます難しくなってきた。また統合失調型 schizotypal PDはDSMでは統合失調症スペクトラム障害へも分類されている。また自己愛性PDについては、その人が置かれた社会環境により、後天的、ないしは二次的な障害としても理解されつつある。ただしその中で境界性PDは着々とその臨床研究が積み重ねられてきている。
カテゴリーモデルからディメンショナルモデルへ
DSM-5ではこれまでの10のPDのカテゴリーを表向きは維持しつつ、同時に掲げられた代替案では大きな方針変換が示された。それはディメンショナル(次元)モデルと呼ばれ、いわばジェネリックな一つのPDを掲げて、それが「あるか、ないか」を指定するという形をとる。こうすれば診断の重複は生じず、その機能レベル(重症、中等度、軽症)の判断に診断者間のばらつきが出る程度である。そしてICD‐11(2022)ではこちらのモデルが正式に採用されたのである。
ジェネリックなPDはいくつかの自己の側面の機能と対人機能のいずれかに障害があるものとして定義される。自己機能とは、自分とはだれかというアイデンティティの感覚や自己肯定感、将来への志向性の有無などであり、また対人機能とは、他者と親密な関係を持ち、他者を理解し、対立に首尾よく対処できるということだ。そしてDSM-5では障害の中等度以上がPDと見なされる(軽度以下の場合は「パーソナリティの問題と呼ばれる)。
パーソナリティ特性について
次にパーソナリティ特性について論じる。ディメンショナルモデルでは、ジェネリックなPDに何らかの特徴を指定することになっている。ちょうどこれまでは10種類のそれぞれ異なるソフトクリームを発売していたが、これからバニラ味に統一した上で、そこに一種類以上のフレバーを指定するようになったようなものである。そしてそのフレバーならぬ特性としてDSM-5では否定的感情、離隔、対立、脱抑制、精神病性。ICD-11では否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性の5つを提示している。
ディメンショナルモデルに馴染みなない人は、この5つの特性に多少なりとも戸惑うはずだ。いきなり「脱抑制」と言われても何のことかわからないだろう。とくにDSM-5ではその対立概念が掲げられていて、「脱抑制とは誠実性の反対だ」とされているが、何のことかわかりにくい。つまりこれらの特性はその意味を理解していない限りは、直感的にその人の性格を理解しがたいであろう。それが「あの人は自己愛的だ」「あの人は反社会的だ」という風に直感的に理解できるカテゴリカルモデルとの相違である。
その理由としては特性についての議論は一般心理学において人の性格を類型化しようと因子分析を行った研究を背景にしているからであり、これらの特性も学問的に洗練されているものの臨床的な直観と解離しているからなのである。
そこでDSM-5に掲げられた5つの特性を取り上げ、以下にかみ砕いて解説しよう。
1.情緒安定性 ⇔ 神経症性(否定的感情)
これは普段から気持ちが安定していて落ち着いているという傾向か、その反対に情緒不安定で、怒りや悲しみなどの負の感情を体験しやすいという傾向か、という対立軸である。ここで「否定的感情」のかわりに「肯定的感情」を考えたなら、喜びや安心感ということになるが、それらを体験している人は結局は「物事に動じず、情緒が安定している人」ということだ。そして情緒不安定性を神経症傾向と言い換えているわけであるが、そのような背景を知らなければ分かりにくいであろう。
2.外向性 ⇔ 内向性(孤立傾向)
人と交わることを好むか、孤立を好むかという対立軸で、これは比較的わかりやすいであろう。これは1.肯定的、否定的感情の問題とは別の性質であり、感情的な起伏の大きい人が同時に寂しがり屋で他人を巻き込む場合(外向性+神経症性)などもあり、かなり周囲に影響を及ぼすことになろう。また他方では人とはあまり交わることを好まず、一人での活動で充足するケース(内向性+情緒安定性)もあり、この1,2はその意味では独立変数的に扱えることになる。
3.同調性 agreeableness ⇔ 対立 antagonism
これは言うならば人と和する傾向にあるか、それとも対立するかという対立軸である。ただしこれについては次のような疑問が生じてもおかしくないかも知れない。「人と同調しやすい人は、外向性も高いということになりはしないか?」「孤立がちな人は、人と和する傾向がそれだけ低く、より対立的と言えないだろうか?」すなわち2,3はある程度相関があるとも考えられる。
4.脱抑制 disinhibition ⇔ 誠実性 conscientiousness
これが一番わかりにくい対立軸かも知れない。脱抑制的な人は思い付きで行動し、自由でかつ唐突な感情表現をする傾向にあり、その意味では衝動性とも深くかかわるであろう。他方「誠実」な人とは周囲に気を遣い、所属集団のルールを守るという傾向を有する。ちなみにこの後者のconscientiousness は「誠実性」と和訳が当てられているが、「思慮深さ」や「入念さ」というニュアンスの方がより近いと考える。
5.精神病性 ⇔ 透明性 lucidity
これも用語としては分かりにくいであろう。精神病性とは奇抜さや奇妙な思考を意味する。そしてそれに対立する透明性とは lucidity の訳であるが、これは殆ど誤訳に近いと言えよう。lucid とは英和辞典では「わかりやすい」「明快な」という意味もある。つまりこれは明快で誰にでもその理屈が分かりやすい、という意味では「明快さ」がより適切な訳語と言える。