「クリストファー・ボラス、デイヴィッド・サンデルソン著、筒井亮太、細澤仁訳 心の秘密が脅かされるとき 創元社 2024年」という著書の言わば書評のようなものを用意する必要があり、これを読んでいる。最初はとっつきにくかったが、だんだん見えて来たのは以下の内容である。 まず英国の精神分析家クリストファー・ボラスについてはいいだろう。「対象の影」などの著作で知られるが、筋金入りのフロイディアンという印象がある。そして彼が一貫して述べているのは、精神分析家は徹底して守秘義務を守るべきであり、「犯罪となりうる事態を前にしても沈黙を維持する」(p.56)とまで言う。 私がボラスの論述に感じるのは、精神分析こそが他のどの様な関りにも見られないような特徴を持っていて、分析家―患者の関係は特権的で、特別なもの、聖域に置かれたものであり、あらゆる外的な侵入に制限されることのないものであることというニュアンスである。(これはかなり自己愛的だ。) そこで追及されることはあくまでも「心的現実」であり、それが実際の現実にどの程度照合されるかということはもとより重要ではないという考え方だ。ボラスは「被分析者の『心的現実』は他の一切に優先される」(p.56)) という。 これはフロイトが性的外傷説から誘惑説に移った時のスタンスをどうしても彷彿させる。すなわち性的外傷が実際に起きたかどうかよりも、それがどの様な心の現実を生んだのかが問題とされる。そこでは患者は絶対的な秘匿性が保証されていなければ、心の奥底にある罪深さや恥の感覚を呼び起こすような空想について話せないであろうというわけです。もし患者が誰かに対する殺害空想を持っていたとしても、それを話すことで通報されてしまうことがわかっていたら、そのようなことは話せないであろうというわけだ。 ボラスの姿勢は決して新しいものではなく、往年の分析家たちが主張してきたことである。そこには精神分析と精神医学の対立、精神分析が医学化されることへの抵抗などといった問題が最近忘れられようとしていることへの懸念が表明されているのだ。 しかし私はいくつかの素朴な疑問を抱く。そしてそれは何よりも私が「精神分析家」らしくないからであろうが。まず自傷他害の恐れがない限り公開されないという条件によりそれほど脆く崩れるのだろうか、という疑問がある。私達の多くは自傷他害の恐れがないであろうし、だから精神分析家に何を言っても通報されることはないと思うだろう。しかしそれなら何でも自由に話せるかといえば、決してそんなことはない。私達が心を開かないのは、それが外部に漏れるからではない。目の前の他者(分析家)に自分のプライベートな部分が知られることへの抵抗なのである。そしてそれは私のプライベートな部分が自傷他害と関係しているからでは決してないのだ。