2019年11月30日土曜日

死生学 推敲 2


フロイトと「儚さ」

この様に少なくとも理論においては揺らぎの少ないフロイトであったが、彼が1916年に発表した「儚さについて」という短いエッセイはむしろ例外的といえるだろう。このエッセイはフロイト全集ではわずか数ページを占めるにすぎない。しかしフロイトらしくない気楽な筆致で書かれ、いろいろ刺激を与えてくれるエッセイである。特に揺らぎや死生観に関して彼が考えていたことが示されている。
この「儚さについて」のエッセイでは、フロイトと美しい田舎町を一緒に散歩をしていてにある友人の詩人たち(リルケ、ルー・アンドリアス・ザロメとされる)が登場する。そのうちの一人がこう嘆くのだ。「あーあ、この美しい景色もやがて消えていてしまうのよね。寂しいわ。」(ちなみに言い方は私が少し脚色してある。一応ザロメの発言という事にしよう。)それに対してフロイトはこう言う。「いや、消えていくからこそ価値があるんだよ。」また彼はこうも言う。「それを楽しむことに制限が加わるから、それが希少だからこそ、なおさら美しいのだ。」 
フロイトの着眼点のするどいところは、ある種の境目、この場合存在から非存在に移行する時、ないしは両方が共存している体験の持つ微妙さに向けられている点だ。そして彼はそれを「Transience (儚さ、移ろいやすさ、移行) について」というタイトルのエッセイとして発表しているのだ。本書の読者には、これが臨界領域の問題と重なって見えるかもしれない。
ところで、フロイトの言う「消えていくから価値がある」とか「希少だから美しい」という主張は納得できるだろうか?  フロイトはこれをこともなげに、悟りきった感じで言っているように私には感じられる。でもそんなに割り切って考えることなどできるのだろうか、と思いたくなるのだ。私は全く分からないというのではないにしても、すんなり分かったとはとても言えない。むしろリルケやザロメの感覚の方がよくわかる。ただフロイトはここである種の二重視の問題を扱っているようだという事は分かる。
話を桜の花に喩えてみよう。「桜の花は散っていくからこそ美しい」。これは感覚的に頷ける人が多いかもしれない。その時、私たちは桜の花の向こう側の不在を同時に愛でているという事になる。「美しい」と共に「数日後には消えて行ってしまう」という感覚。このことから台北の故宮博物院に飾られていた「白菜」のことが思い出される。といってももちろん本物ではなく、翠玉白菜(すいぎょくはくさい、虫がとまったハクサイの形に彫刻した高さ19センチメートルの美術品← WIKI pedia)この展示の周りに人が群がり、「スゴーイ」となるわけだが、見る人によってはプラスチック製の安物の白菜に見えてしまうかもしれない。ところがこれがきわめて固い鉱物であるヒスイでできており、葉の部分にあたる緑色も実は原石の色をそのまま用いていることなどを同時に聞いていると、「ホホー!」感が増すことになる。あの硬い石をこれだけよく加工したものだという感動が加わるのだ。そしてもちろんそれは実際の白菜の美しさ(?)とは別物である。しかしそこには感動が伴うのだ。桜だってそうである。今見ておかないと消えてしまう、と思うとより注意を払ってみるだろう。あれだけ硬いものをよくぞこんなに削った、と思うとより注意深く眺める、というのと似ているのだ。これを私は二重視といういい方で表しているのである。
フロイトはこのエッセイの中で、一つ問題発言をしている。それは「失われるものを嘆く人は、ちゃんと心の中で供養を済ませていないからだ」という様な主張だ。この言葉の意味は決して容易ではないが、より正確にはフロイトはこれをリルケに対して「それはあなたの喪の作業に対する抵抗のせいだ revolt against mourning」という言い方をしている。喪の作業とは、あるものを失った時に、それを十分に受け入れ、外で失ったものを心の中のイメージにして(内在化して)ずっととっておくという意味だ。その作業をきちんとすれば問題ないよ、と言うのがフロイトの立場である。

2019年11月29日金曜日

死生学 推敲 1


3章 揺らぎと死生学

心に関する揺らぎの議論は、結局どこに行くかわからない私たちの心の「酔っぱらいの歩行 drunker’s walk」という性質を理解し、解明するものでもある。行き先のわからない、それは私たちの心のいい加減なあり方とも言えるのであった。
すでに第○○章でも触れたことだが、精神分析学は心を揺らぎのない、いい加減さを許容しないものとして捉えていたところがあった。そして私もそこから出発した。私は1982年に正式に精神分析のイニシエーションを受けた。つまり精神分析セミナーというものに通って、当時の精神分析の大家であった小此木先生の指導の下にフロイトを読み始めたのである。
フロイトが描いていた精神分析の世界については、揺らぎといったものは問題にされなかった。むしろ表面的には揺らぎに見えるような、いい加減で予想もつかない心の動きにある確固たる法則が見られるという事を示していたのである。これは私にとってはとても心強いものであった。心の動きという一見つかみどころのないものにも一つ一つ法則や根拠があると聞いて、それに興味を示さないほうが不思議なくらいだ。そしてその様なフロイトの考え方を見事に示していたのが1900年に発表された「夢判断」だったわけである。フロイトはそこで夢の内容(おそらく彼自身が見た夢がかなりを占めているといわれていますが)を事細かに、物理学や数学者が行うような雰囲気で分析して、無意識内容を解明しようとしている。読んでいて見事だともいえるし、少し退屈したり、半信半疑になったりもする内容である。
このフロイトの考えは、喩えているならば、ラプラスの悪魔の世界観だといえる。1700年代の終わりのフランスの学者だが、こんなことを書いている。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。
— 『確率の解析的理論』1812

この様な考え方を心にも当てはまるとしたら、精神分析家は患者さんのちょっとした行動の意識的、無意識的な動因がどこかにあり、それは理論的に導くことが出来ることになる。私がこの考えに少なくとも26歳からの数年間は夢中になったことは、そしてそうなることが特に当時の教育を受けた若い精神科医が信じることとしてさほどおかしなことでなかったとしたら(事実私はこの考えを精神分析の先生に説明しても、特に真っ向から否定されることはなかった)、今でもこの考え方はある程度は有効なのだろう。ちなみに、これはすでにどこかに書いているのだが、頭が非常に硬かった私は当時精神分析の権威と目された先生に訊いてみた。「5分遅れたことに、常に無意識的な意味を見出す、というのが精神分析の方針なのですね?」するとその先生はこう応えた。
「いや、常に、というわけではない。5分遅れたことに無意識的な意味がない場合もあるさ。」
「では5分遅れたことに無意識的な意味があるかないかは、どうやってわかるんですか?」その時の先生の答えを私は覚えていないが、想像はできる。こんな感じだ。
「分析家はその初学者の顔を見て、『やれやれ』と思った。『そこに無意識的な意味を見出すか否かを見極めるために必要なのが、教育分析を含めた分析のトレーニングではないか。まだ彼は基本的なことが分かってないようだな。』」
ところがそれから35年後、私は「患者さんが5分遅れるのも、揺らぎだよね。」などと言っているのである。私の精神分析音痴はすでにこの頃から始まっていた可能性がある。

2019年11月28日木曜日

揺らぎと快楽 推敲 2


ビブラートは揺らぎか?
ちなみに揺らぎと快楽についてのテーマを考える上でまず頭に浮かぶのが、器楽や歌唱の際のビブラートのことである。昔ブラスバンドでトランペットを担当した時のことである。一級上のK先輩が、実にすばらしい音色を奏でていた。私はK先輩のようにきれいな音を出せるにはどうしたらいいかを常に考えていた。すると彼の音は、他のブラスバンドの部員がだれもしなかったことをしていたことに気が付いた。それは彼がビブラートをかけていたという事である。単純な音の連続には決して表すことのできない表情を与えるビブラート。これはいったいなんだろう? まさに音の揺らぎの美的効果を体で教わった体験だった。
ちなみに私はK先輩にどうしてビブラートをかけているのか、いったいどうやってかけているのか、といろいろ聞いたことを覚えている。ところがK先輩は頑なに「自分がそんなことをやっていない!」と否定するのである。しかし彼がよく練習の合間に歌謡曲やムード音楽を吹いている時には、それが美しく揺れているのは確かなのだ。ところがK先輩は頑なにそれを否定する。私は自分でトランペットのビブラートをかける方法を見つけるしかなかった・・・・。
私はその頃ブラスバンドの中で指導に当たっていた音楽のT先生に少しかわいがられていたのを覚えている。練習熱心だし、ちょっとはうまかったのだろう。K先輩の弟分として見られるようにもなっていた。しかしその私がビブラートの練習をしているのを見て、苦々しい目で見られるようになったことも覚えている。確かにクラシックでは、弦楽器をのぞいてビブラートは普通は使わない。ブラスバンドではトランペットなどはパパーン、という華やかな金属音を鳴らして貢献し、オーケストラでもトランペットの旋律を聞いても、ムード音楽で聞かせるようなビブラートのかかった音は聞かれない。私はそのうちビブラートをかけるのは不良のやること、という意識が湧いてきた。それでK先輩も頑固にビブラートをかけていることを隠していていたのだろうと思う。
ちなみには、そのシンセサイザー研究の天外伺朗氏は、スピーカーの前で羽を回したり、スピーカー自身を首振りさせるなどをすることにより、心地よく聞こえるようにするという事を早くから行っていたという。そこでそれを電子的に生み出そうとしたが、なかなかはじめはうまく行かなかったという体験を書いていらっしゃる(天外伺朗、佐治晴夫 宇宙の揺らぎ・人生のフラクタル(PHPビジネスライブラリー、2000年)。つまりあまり機械的につくられた揺らぎはかえって美しさを損なうという事だろうか。歌唱法に関する書物などを読むと、ビブラートはそれが意識せずに、自然とかけられることに意味があるのだ、だから美しいのだ、という記述にも出あうが、その真偽は私にはわからない。しかしその主張が言わんとしていることは、器楽や声楽で旋律の美しさを表現する過程で、ビブラートは自然と備わってくるとしたら、それが美しく心に響くから、ということがその理由であり、それ以上の理由はないということである。つかり音の揺らぎは私たちに心地よく感じるというのはもう、人間が本質的に持つ性質である、としか言いようがないことになる。

いわゆる「1/f揺らぎ」について
 ここでいい加減さとの関連で、いわゆる「1揺らぎ」の概念について紹介しておかなくてはならない。揺らぎの中でも特別な性質を持つと言われるのが「1/f 揺らぎ」である。これを事実上発見し、広めたのが日本の武者利光先生という学者である。ここで f  とは周波数 frequency を意味し、「1揺らぎ」とは「パワーが周波数に反比例するような揺らぎ」という事になる。するとfが小さい、つまり周波数が小さくゆっくりした波ほどパワーが強くなるような波、「低周波の方がパワーが強くなるような波」と説明される。
1/f 揺らぎ」として例に出されるのが小川のせせらぎやそよ風などだが、たしかにこれらは、キーンという高い音などは混じっていてもその量は小さく、低音はそれだけ大き意という性質を有する。私は個人的にはオーケストラを考える。高音のバイオリンやピッコロや、トランペットなどの音は、コントラバスやチェロなどの低音に支えられることで心地よい音楽となる。弦楽四重奏にはチェロなどの低音部が欠かせないが、たとえばピッコロ四重奏などは(聞いたことはないが)あっても聞いていて居心地が悪いのではないか。
ここですでに聞き心地の話に入ってしまっているが、実は「1/f 揺らぎ」の面白いのは、しばしばそれが聞いた時の心地よさ、癒し効果と結び付けられるからだ。こうなるとこの種の揺らぎが途端に商業的な価値を伴ってくるわけだが、ある専門家によれば、(吉田たかよし著の「世界は『揺らぎ』でできている」(光文社新書)自然界に「1/f 揺らぎ」は満ち溢れているものの、それが癒し効果を発揮するかについてのエビデンスは十分でないという。

2019年11月27日水曜日

揺らぎと快楽 推敲 1


 読者の中には次のように思う方もいるかもしれない。いい加減であることが人の心の基本的な性質である場合、それはその人にどのように体験されるのだろうか。本来いい加減な性格であればそれでもいいかもしれないが、きちんとした、几帳面な方にとっては、むしろいい加減であることは耐え難いことかもしれない。しかしいい加減さを耐えがたく感じる場合には、かなり生きにくい人生を歩まなくてはならないであろう。と言っても生きにくいと感じるのは当人とは限らない。その周囲の人たちが苦労をすることになるかもしれないのである。この点は後にもう少し詳しく述べよう。
大分昔のことであるが、田口ランディという人のエッセイが書いていたことがいまだに心に残っている。彼女は「いい小説とは、それを読んだ後に、分からないという世界に放り出されるような小説だ」という趣旨のことを書いてあった。それが人間を描いたものであれば、人間がますますわからなくなる。しかしそれが不快さや混乱を招くようではいけない。それが強烈な好奇心を刺激するようなものでなくてはならないのだ。逆に人間とはこういうものだという結論をポンと出しておしまい、では何も余韻が残らず、読者にそこから先を考えさせてくれないだろう。
「事実は小説よりも奇なり」という。イギリスの詩人バイロンの言葉というが、小説にも事実に似たいい加減さが備わっていないと、嘘っぽい作り物という印象を与えてしまうだろう。私は心についても宇宙についても、ゲノムについても、脳についてもとても惹かれているが、それは少し調べていくとどんどん分からなくなっていくところが面白いからだ。それが人を引き付けるのである。そしていい加減さや揺らぎも、それは自分の人生の先が見えないながらもその予測不能さがある種の楽しみとして体験できることに意味があるのだ。それでこそいい加減さは生産的になるのだと思う。
このこととの関連で先ほどのサイコロ振りの話に戻ると、良質のいい加減さはおそらく創造性に結びついていくと考えることが出来よう。というのも何かを決めようと意図しないときにふとおきる行動やふと思い浮かべる表象は、それ自身が何らかの芸術的な価値を持っている可能性があるからだ。良質のいい加減さは、それ自身は問題の解決に結びつかないとしても、創造性に絡んでくると言うのが私の考えである。
私たちは~すべきだ、という人生にふつうは容易には耐えられない。それよりはいい加減であるほうが好きなのだ。それは私たちが自分の将来に未知の部分を含ませることができるからである。そのためにはわからないことを楽しめなければならない。もちろん~すべきだに耐えられる人たちもいる。しかしそれはある種の不安や恐怖に駆られて、それを逃れるために~すべきという人生を送ることになる。その場合は「~すべし」に従うことで安全が確保される。そのつらさと引き換えにある種の保証が与えられるからそれを行っていることになる。ただしそのような人生にはおそらく創造や探求や新奇さによる刺激は望めないであろう。

2019年11月26日火曜日

いい加減さ 推敲 3


心でサイコロを振ることの重要さ

そのような間断なき選択の中で、ひとつの問いを立てよう。それはABという選択肢が、同程度にありうるとしたらどうだろう? あるいはどちらが正解かがわからないときに、それでもどちらかを選ばなくてはならない時には、どうしたらいいのだろう? 実はそのような状況は日常生活には極めて多いはずだ。このようなときにそれでも心の中でさいころを振ることが出来るには、本当の意味でのいい加減さが必要となる。更に言えば、どちらでもいい時に、それでも微妙な違いを感じ取って、無難な方を結果的に選んでいく能力というのは非常に高度のレヴェルの判断力を必要としているといえるであろう。
皆さんは外国人のお宅にお邪魔して、「コーヒーにしますか、紅茶にしますか?」と聞かれて「どちらでもいい」と答えるわけにはいかないという話を耳にしたことがあるだろう。客観的に見ればどちらでもいいことに白黒をつけることは、物事が円滑に進むためにも重要なのだ。私たちが言葉を用いて人とのコミュニケーションを成立させている以上、どちらでもいいがどちらかに決める時のいい加減さはむしろ必然になってしまっているのかもしれない。そしてそのような状況で決められない病気を私たちはよく知っている。それが強迫性障害なのだ。
おそらく私たちの多くは、どちらでもいい時にどちらかにさいころを振るかは、無意識にパターン化されている可能性もある。意識的にはどちらでも同じだと思っていても、無意識に培われたものがさいころを振る瞬間に影響を与えている可能性があるからだ。
このように良質のいい加減さを獲得できるかは非常に重要なテーマなのだ。振り方がその人の運命を決めるといってもいいのだろうと思う。そしてそこにある特別なメンタリティが働いているように私は思う。それは正解がないことに耐え、そこでの選択に際して後悔をしないということかもしれない。なぜならA,Bの選択が両方とも同程度にありえる場合には、Aを選ぶことにより得られるものと失うものが見えているはずだからだ。そしてそれはBを選択することにより得られるものと失うものを知っているということになる。ABの選択はもはや優劣ではなく、異なる人生の選択ということになり、それは異なる運命に身をゆだねることになるのであろう。
 どちらも同じように好ましく思える選択肢のうちどちらかを選ぶ、ということはだから後悔を伴わないわけであるが、そのような選択を生と死というきわめて重大に思える選択肢の間で行っていた人たちを描いているのが、司馬遼太郎である。彼の描く歴史上の人々、たとえば坂本竜馬や西郷隆盛という幕末の志士たちの人生観とはそのように見える。以下の司馬遼太郎の文章を引用しよう。

「しかし戦に負けて軍艦が沈めばどうなります?」「死ぬまでさ」と、竜馬はむしろ饅頭屋の顔を不思議そうに見、当たり前だよ、といった。「然し死ぬのはまだ惜しいです。」「惜しいほどの自分かえ、饅頭屋」「饅頭屋はよしてください。」「では長さん、男はどんな下らぬ事にでも死ねるという自信があってこそ大事を成し遂げられるものだ。」…… (竜馬がゆく 6、司馬遼太郎1998

この度胸のよさはどうだろう?
あるいは次のような葉隠れの文章を引用しても言い。
 
 武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。
図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにすることは、及ばざることなり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が付くべし。

これはいざと言うときに死を覚悟していれば、行動を誤ることはないという意味である。
 私はここにはまた不可知論が深くかかわっていると考える。それは正解はわからないし、未来はわからないし、その大きな不可知の前で人の命ほどはかないものはないということである。なんという壮大でかつ深い思想なのだろうか?

2019年11月25日月曜日

いい加減さ 推敲 2


そもそも排他的に決断することは適応のために必要だった

両極の間をさまようという揺らぎ、そこでのいい加減さについて論じる前提として、私たちはそれとは全く逆の状態についてまず考える必要があることになる。それは曖昧にしない、白か黒かをはっきりと決めるという事である。精神分析学ではこれを「スプリッティング」という呼び方をしている。メラニー・クラインの言う「PS ポジション」とはもっぱらそのように働く心の状態を表したものである。そしていい加減さの意義について考える前提となるのが、私たちが物事をスプリットしやすいという性質であろう。そして私は実はスプリッティング、すなわち白か黒かに決めることは、私たち、あるいは生命体が生きていくために欠かせない能力なのだ。
私たちが白黒を付ける傾向にあるのは、そもそもそうしないと生き延びられなかったからなのである。スプリットすることといい加減であることのどちらが生命現象にとって重要かと言えば、答えは間違えなく、スプリッティングの方である。そして実は適切な形でスプリッティングする能力は、いい加減さにより保障されているという不思議な事情があるのだ。ただしここは少し先走りし過ぎてしまった。そこまで少しゆっくり論じてみよう。
はるかに下等な生物でも、目の前の獲物が安全なのか毒なのかの決断をしなくてはならない。さもないと栄養を補給するつもりが逆にいのちを奪われることになりかねない。あるいは目の前の動物が天敵か、それとも獲物かの判断も必要だ。その選択を誤ると、生命体は命のつなぐための捕食行動を行うことが出来ず、逆に捕食されてしまう可能性がある。あるいは目の前の道が泉やオアシスに通じるか、それとも砂漠に向かうか? これを誤ると生命の維持にとって不可欠な水を獲得するどころか、炎天下で干からびて死んでしまいかねない。
私たち人間の日常生活を考えても、これは全く同じように当てはまる。私たちは生きていくためには常に good  と bad を分けなくてはならない。冷蔵庫に入っている賞味期限が切れかかっている食材は、使うか捨てるかしなくてはならないのだ。そしてこのイエスかノーかの決断を適切に行わないと、私たちは食中毒を起こしたり、どんどん賞味期限の切れた食材が冷蔵庫に貯まって行ったりする。あるいは横断歩道を渡り始めたところで青信号が点滅し始めている状況を考えよう。渡り切ってしまうという行動は good bad か。どちらかを決めずに横断歩道の途中で立ち止まっていると、それこそ車にひかれかねない。
あるいは社会で生きていく上では敵と味方を分けなくてはならない。私たちはおそらく社会生活の中で、この人は信用しよう、この人とは距離を置こう、この人とはもう別れよう、などとかなりあれかそれかの判断をしている。もちろん人間は信用できるか、出来ないかの二種に峻別することはできない。ところが日々の生活はそこにかなり明確な ○ か × かを付けて生きている。それがメリハリというものだし、その種の決断はその人が社会生活を送るうえでむしろ必要とされている能力でもある。

2019年11月24日日曜日

いい加減さ 推敲 1


揺らぐ心といい加減さ
本章では、心の揺らぎと「いい加減さ」について論じてみよう。ちなみに下敷きとなるのは、わが国の代表的な精神分析家である北山修氏の一連の考察である。そこに出てくるように、この章では「揺らぎ」ということの心理学的な意味を考えてみよう。「いい加減さ」とは何かユルいテーマのように感じられるが、決していい加減なテーマではない、という事を最初に申しあげたい。いい加減であることは実は人の心のあり方の極めて重要な特徴である。ただし本章の目的は北山理論の詳しい説明ではなく、いい加減さと揺らぎとの理論的な関連を北山理論を手掛かりにさらに推し進めることである。
北山の「いい加減さ」の理論は極めて多岐にわたっているが、まずは言葉の定義からである。彼は「いい加減さ」として「あれかこれか」の二者択一でも「あれもこれも」という欲張りでもない状態と述べているのが興味深い。ここで「あれかこれか」、という姿勢を「ABか」と、「あれもこれも」を「ABも」と言い直しておこう。いい加減さはこの二つの間を揺れ動く状態ということが出来る。しかしこれは具体的にはどういうことなのだろうか?
一つ言えるのは、この「いい加減さ」はどちらにも決めかねて揺らいでいるという消極的な姿勢ではないということだ。むしろ積極的に、両者の間を漂っている状態とも言えるだろう。タイミングや文脈によってはABのどちらかの選択をする用意を持ちつつ揺らいでいる状態といえるでしょう。それはどうしてだろうか?
そもそも私たち人間の生きた体験とは、各瞬間に小さな二者択一を常に迫られているようなものだ。ABか、という大げさなものではないにしても、「abか」くらいの選択は始終行っている。生きるというのはそういうことなのだ。毎日朝電車に乗り通勤するときのことを考えよう。目の前に三つある改札口のどれかを選んで通っていかなければならない。ホームに下りると発車間際の電車に飛び乗るか、それともあきらめるかの選択がある。いざ電車に乗っても、今度は目の前に空いている席に座るかどうかの選択がある。その際空いた席から同じくらいの距離に立っている別の乗客の動きを判断し、その人に譲るのか、それとも自分が積極的に取りにいくかを決めなくてはならない。そんなことを常にやり続けてようやく職場にたどり着くというわけである。
しかしこのような小さな選択をくり返している私たちはさほどそれを苦痛に感じたり、頭を悩ませたりしないはずだ。というのも私たちは生命体であり、生命体は常にAB化を選択することで生命を維持し、種を保存してきたからだ。つまり次のことが言えるのではないか。
「いい加減さとは、各瞬間に、必要に応じて選択できることだ」

2019年11月23日土曜日

書評 1 の 1


対人関係精神分析の心理臨床  川畑直人() 京都精神分析研究所

 
本書は編者である川畑直人氏の還暦記念の書である。川畑氏はサリバンを代表とする対人関係学派の理論と実践を本場アメリカのウイリアム・アランソン・ホワイト研究所で学び、すでに日本で対人関係理論研究の大御所でおられるとともに我が国に京都精神分析研究所(KIPP)を立ち上げ、我が国における同学派の発展に大きな貢献をした精神分析界の第一人者のひとりである。
我が国における精神分析のおかれた状況をすこし語るならば、現在の精神分析学界においては米国学派の占める位置は近年狭まりつつあつたという事情がある。特に60~70年代に多くの留学生を輩出したカンザス州のメニンガ一・クリニックへの留学が途絶えて以来、米国で日本からの留学生を引き受ける機関は非常に限られたものとなっていた。その中でウィリアム・アランソン・ホワイト研究所は日本人が精神療法を学ぶための米国の数少ない研修場所である。そして折しも2016年に同研究所がアメリカ精神分析学会の会員として正式に認められたことで、いわゆるサリバン派の存在はますますその存在意義を深めているという事情がある。
我が国で精神分析についてのトレーニングを行う際に日本精神分析協会がどちらかといえばフロイト以来の伝統的な精神分析理論に軸足を置いた機関といえる。それに対して川畑氏の率いるKIPPは、同研究所の留学経験者を中心とした分析家たちにより構成され、対人関係理論から派生した関係精神分析の流れを推し進めるもう一つの研修機関としての意味を持つのである。
本書はその川畑氏の薫陶を受けた分析家の先生方により編まれた対人関係学派を俯瞰するうえでのまたとない書といえる。
本書の中身を少しご紹介しよう。第1章の「対人関係精神分析の歴史的意義と臨床的接近について」は鑪幹八郎氏の手による、対人関係学派の流れを一望のもとに見渡すことを可能にするような著述である。また第2章「関係精神分析の歴史的意義とその臨床」は、我が国にスティーブン・ミッチェルの著作を紹介導入した横井公一氏による、対人関係学派から関係精神分析をつなぐ優れた解説である。第4章の「関与観察」は野原一徳氏による、サリバンのいわゆる「参与しながらの観察」のより詳細な解説である。また第5章の馬場天信氏による「『詳細な質問』の持つ治療的意義」は、ともすれば受身的に患者の自由連想を聞く治療者とは異なった、より積極的に患者の心に含みこんでいく質問の持つ治療的意義(サリバンの論じたdetailed inquiry)に関しての解説であるが、その効用を開設した上で、馬場氏は受け身的に自由連想に耳を傾ける姿勢も、積極的に質問を行う姿勢も両方重要であるという立場を示している。

2019年11月22日金曜日

揺らぎと精神分析 3


私がこの自由連想のプロセスを通して体験していたのは何だろうか? ここで読者の皆さんに思い出していただきたいのは神経ダーウィニズムの話である。私は自由連想の減速に従って、心に自由に浮かぶものを待つ。それはいわば大脳皮質の上で何が競争に勝ち、意識に浮かび上がってくるかを待つようなものだ。そこで浮かび上がってくるものは何か、実は私は知らない。それらは何しろ競争に勝ち上るまでは意識に上らないからだ。
私は分析を受けていたある日、寝椅子に横たわって何かが浮かび上がってくるのをまった。相変わらず心には目まぐるしく、でも静かに何かが浮かんでは消える。私はそれらの中から明らかに「この分析のオフィスで、後ろに座っている分析家に向けて話すのにふさわしい何か」というバイアスをかけつつ待つ。その時ふと、昔母親が作ってくれたオムスビにまつわる出来事が浮かんだ。私の母親に関連した記憶。分析家も興味を持ってくれるかもしれない、という思いもあった。そこでそれをポツポツと話した。その思い出はこうである。大学生卒業間際のころだ。私はもう千葉県の実家にあまり寄り付かなくなっていたが、東京とは比較的近距離のために、時々帰省していた。そんなある日、昼前に東京に戻ろうとしていたとき、母親が帰路でおなかが空いた時に食べるようにと、昼食用にいくつかの小さなオムスビを作ってくれた。母親もその日は所用で昼食を用意する時間がないため、私が東京に持ち帰るように小さな三つのオムスビをビニールの袋に入れて食卓に置き、私にその旨声をかけて一足先に家を出ていた。ところが私は家を出る際に、食卓に出ていたお結びの入った袋を食卓の上に忘れてきてしまった。私はそのことを二時間近くかけて都内に入ったころに思い出した。千葉の実家の食卓の上にぽつんと置かれた三つのオムスビ。私はそれらを急にかわいそうに思ったのだ。もちろんそれを後に帰宅してみた母親の気持ちも考えたが、「ナンだ、忘れて行ったのね」程度の反応であろうことは明らかだ。別にそんなに気にすることもないし、普段そうしてもいない。でも私はオムスビたちが不憫だった。そこで私はふとそれを取りに帰ることを思いついた。おそらく往復で4時間近くの無駄だ。しかもたった三つの小さなオムスビの、しかも母親が特に念入りに作ったわけではなく、無造作に残り物のご飯に海苔を巻いた程度のもののために。でもそれは母親が夕方に所要から帰宅する前に、私がそっと家に忍び込んで取ってこなくてはならなかった・・・。
さてこのエピソード、本当にどうでもいいエピソードだが、5分前にはそんなことを話そうという気持ちすらないものだった。本当にたまたま、他の連想の候補との生存競争をなぜかかって意識に浮かび上がってきた。私の分析家がこれに対してどんなコメントをしたか覚えていない。私が別のことを話したら、その日のセッションはまったく異なる内容になったのだろう。私のテーマの選択も、ある意味では本当に適当で、揺らいでいた。もちろん心のエキスパートのフロイトは、私がこの日にこの思い出を語ったことについて決定論的に考えるだろう。彼は私がこのセッションの前回のセッションで話された内容からあるいは私がそのとき日常生活で、ないしは職場で体験していたことからこのエピソードが語られた根拠を心の探偵のごとく割り出すだろう。でも私は心の中でむしろかなりサイコロを振ることに熱心になっているのだ。それは分析家の前で、早く沈黙を終了し、何か意味のある連想を生み出そうとしていた。いわば「何でもいいから」何かを話そうとしていたことも確かであろう。すると天国のフロイトはまた言うだろう。「それこそが自由連想であり、そういうときにこそ、無意識的に大きな意味を持つ連想がでてくる、ということがこれほど言ってもわからんのか!」そう、フロイトの中で心は揺らいでいないことになっていた。心はロジカルな法則にしたがって動くことになっていたのである。



2019年11月21日木曜日

揺らぎと精神分析 2


「自由連想」がそもそも揺らいでいた・・・

フロイトの打ち立てた精神分析理論の基本原則の一つとして「自由連想」というものがある。患者は寝椅子に横になり、心にふと思い浮かんだ内容を、恥ずかしいとか罪の意識を感じる、などの気持ちを排除して語り、取り留めもなく連想を浮かべてそれを口にしていくことを要求される。そうすることで無意識的な心理過程を見いだしていこうとする手法だった。それにより心の底に深く抑圧されている葛藤や願望を読み解いていくことが目的だったのである。この手法は精神分析では現在でも用いられ、治療の重要な手段となっている。
精神分析家になることを目指す訓練生は、まずこの自由連想を自分自身が体験する必要がある。つまり何年かの分析治療を自分が受けることが必須の条件なのである。そして私も訓練生としてカウチに横になることで、この自由連想を体験することになった。ところがこの自由連想、いざ実行しようと思うととても決して「自由」にはいかないことがわかったのである。その自由連想のむずかしさは、おそらく実行したものにしかわからないかもしれないが、ひとことで言うならば、何が「自由」なのかが分からなくなってしまうということだ。
そもそも心に浮かんだことを語ろうとして体験するのは、「心にはいくつかの内容が同時に発生する」ということなのだ。そのうちのどれを捕まえようとしても、なかなかつかまらない。それはちょうど泡が水面に浮かんでは消えるようなものなのだ。
ある日カウチに横になった私はふとオフィスの窓に目をやった。外にはカンサス州の緑の景色が見える。この季節は自分の中では一番好きだ。でも景色のことを言ってもしょうがないか・・・・などと言う考えが浮かぶ。そして私は「しまった!」とふと気が付くのである。これらはもうすでに自由連想が始めり、私はそれを口にすることを要求されているということなのである。しかし時間はもう刻々と過ぎ、それらを口にする時間は失われてしまったのだ。
この自由連想の体験は、人の心(少なくとも私の心)に浮かぶことは、ちょう度沸騰しかけの水のように、浮かんでは消え、浮かんでは消える泡のようなものであり、あるいは風にはためいている旗のように、さらには小川の流れのように、決してひとところに留まらず、揺らいでいるということだったのだ。しかもそれらは言葉の形を必ずしもとっていない。単なるイメージだったり、音だったり、記憶だったりする。つまりその連想のうちのどれを捕まえて言葉にするとしても、そこに一定の選択や創作が入り込んでしまうようなものだ。「自由連想は不自由連想である」とある分析家が喝破したが、まさにその通りであり、そのような心の性質は自由連想を行おうとする試みにより気づかれることになる。心は常に揺らいでいるから、決してそのものを捉えることが出来ない、というのが私の精神分析修行の初めの体験だったのである。



2019年11月20日水曜日

揺らぎと精神分析 1


「揺らがない心」という前提から出発した精神分析

過去100年を振り返って心の理論の土台をつくった人間を挙げるとしたら、まずはフロイトとユングを考えなくてはならない。フロイトの伝記を読み、精神分析の理論が生まれて発展していった様子をたどると、当時の分析学者たちが持っていた、心に関する並々ならぬ関心がうかがえる。フロイトの図式に従って心の設計図を描き、その理解に基づく治療を行うことは当時の分析家たちが命がけであり、そして大きな期待を寄せていたのだ。
私がこの時代の心のモデルをあえて「揺らぎのない心」と表現するとしたら、デフォルトネットワークモデルや、神経ダーウィニズムで表現したような揺らぎに基づく脳の働きの理解とは一線を画していたからだ。すなわち心とは決定論的な展開を行うものとしてフロイトには想定されていたからだ。彼の意識、無意識と言った局所論モデルも、超自我、自我、エスといった構造論もその路線で立てられた議論なのだ。
しかし面白いことに、理論とは別の人間フロイトの言動をたどると、これが結構揺らぎにみちた人間だったことがわかる。一方で水も漏らさない、揺らぎやグラつきのない理論を立てながら、実際の生活では結構揺らいでいたという彼の姿があったらしい。私がフロイトの人生を振り返って繰り返し印象付けられるのは、彼がある種のダブルスタンダード、使い分けをしており、その仕方には臆面がなく、それが徹底していたという事である。このダブルスタンダードとはやさしく言えば、理論と実践の不一致という事だ。
カール・ロジャースの概念に「自己一致」というものがある。ひとことで言えば、自己矛盾がないという事だが、フロイトに「あれ、フロイト先生、本にお書きになっていることおやりになっていることが違いますね」と言ったら、彼は肩をすくめて「それがどうしたの?」という顔をすると思う。もちろん内心「しまった!」とは思っていただろう。そして自分の体験している揺らぎのために自分自身の方針が定まっていないことへの後ろめたさを多少なりとも感じさせていたに違いない。しかしフロイトはそれに対する悪びれを見せないだろう。
フロイトは私生活が人に知られるのを非常に嫌がったことでも知られる。彼は後の伝記作者を困らせるつもりだ、などと言って書きかけの草稿をどんどん焼き捨ててしまった。フロイトの書簡はそれを受け取ったフリースやフェレンチやユングがそれを残していたことでようやく私たちの目に触れることになったのである。という事はフロイトは揺らぎに気が付き、それを明らかにしようとせず、またその揺らぎ自体を心地よいと思っていなかったと推定することが出来る。
  
ちなみに映画「危険なメソッド A Dangerous Method」に描かれていたシーンがやはり思い出される。フロイトはアメリカにわたる船旅の途中で、同伴したユングやフェレンチと自分の見た夢を語り合ったが、ある時自分の語った内容についてユングに鋭くその内容の詳細を語ることを求められると、「それを話したら私の権威がそこなわれるだろう」と応じなかったというシーンがある。どの程度史実に基づいているかはわからないが、フロイトにはありそうなことだと思う。フロイトは自分の秘密の存在をほのめかしながら、実に堂々と「そんなことカンケ―ないだろ」と言えた。こころの揺らぎに本質部分を見出さないからこそ、切り捨てても平気だったという事だろうか。フロイトには無意識にしっかりとしまわれている思考や欲動が大切なのであり、表面でフラフラ揺れているものには関心を示さなかった、というのが私の理解である。
このフロイトの揺らぎ軽視は、当時の時代背景を抜きには語れない。当時の学者は皆そうだったのだし、それがヘルムホルツ学派の持つ「実態主義 positivism」の真骨頂だったのだ。実体のあるもの、明確に存在して分節化され得るもの以外にはあまり価値はなかったのだ。
「揺らぎ」という概念や現象について多少なりとも肯定的な見方がされるするようになったのは、おそらく複雑系の理論が注目を浴びるようになった19701980年代だろう。それまでは揺らぎはそれこそ「ノイズ」や観察の非徹底性を表すことであり、そもそも表に出すべきことではなかった。科学は圧倒的に決定論的な考え方に支配されていたのだ。
さてそれでもフロイトは揺らぎについての重要な示唆を行っていたとも私は考える。それが彼の1916年の論文「儚さについて」である。

2019年11月19日火曜日

DMN 推敲 2

ところがDMNについて調べると、私たちは奇妙な体験をすることになる。それはDMNが脳にとって果たしていい働きをしているか、悪い働きをしているかという事がよくわからなくなってくることだ。DMNは私たちがボーっとして何もしていないようだが、脳の使うエネルギーの75%はその状態で使われていると言われる。つまり脳がスムーズに活動を行う上で常に準備状態にしておくという重要な役割を果たすことを、このDMN の発見者であるワシントン大学のマーカス・レイクルMarcus E.Raichle博士が論じているのだ。Marcus E.Raichle, ME (2010) The Brains Dark Energy. SCIENTIFIC AMERICAN. (養老孟司, 加藤雅子, 笠井清登訳「脳を観る認知神経科学が明かす心の謎」の中で(日経サイエンス社、1997
またDMNとは心がぼんやりして浮遊しているということであり、その状態はまるで瞑想のように思えるが、実は瞑想はこのDMNとは逆の活動なのだ、という説明にも出会う。最近流行しているいわゆるマインドフル瞑想などは、むしろ心を浮遊させないような試みといえる。つまり心をDMNに向かわせないことが心身の健康に役に立つ、と説明されてある。しかし他方では、このDMNは人間が何か創造的な活動を行う上で決定的な役割を果たしているとの記載もされている。
最近は脳科学の発展によりDMNに関する科学的な知見は沢山提出され、それぞれが得られた所見を明示する。しかしそれらが示すものは時には矛盾していたり、つじつまが合わなかったりする。それらのデータをどのように理解して、少なくとも治療的な仮説を作り上げるかは、実はそれぞれの臨床家にかかっているのである。そこで以下が私の理解である。

 私が特に注目すべきと考えるのは、いわゆる「マインドフルネス瞑想」に関する研究である。ちなみに瞑想には「観察瞑想」と「洞察瞑想」という事なった瞑想が存在するとされる。観察瞑想は心に湧きおこってくる思考や感覚を観察するという。これはいわばDMNを高める瞑想といえる。そしてそれはマインドフル瞑想、あるいは洞察瞑想と呼ばれるものとは逆の瞑想という事になる。

マインドフルネス瞑想においては、心がある一つのことに注意を向け続けることで、心がそこからフラフラと一人歩きをしていくことへのブレーキをかけることが求められる。ここから表記を簡便にして、MM = Mindfulness meditation)としよう。MMでしばしば注意を向けるように促されるのが、呼吸であり、たとえば鼻から唇にかけて息が吹きかけられるときの感覚などに焦点を向けることが要請される。通常人はそれをしばらくは行うことが出来るが、それはしばしば中断されてしまう。気持ちはそこから逸れて、他愛もない事柄に移っていくのだ。それはある意味では必然的な事であり、心とは実は一定の事柄に注意を集中するという活動と、そこから離れるという活動を交互に行っているのである。これはたとえば何かを注視している際にも、時々瞬目して注視を再開するという運動に似ている。(実際瞬目時はDMNが生じているという研究もあるほどだNakano et al. 2013)。
(Nakano, T, Kato, M, Morito, Y, Itoi, S and Kitazawa,S (2013) Blink-related momentary activation of the default mode network while viewing videos. PNAS 110: 702-706.)

もしDMNが何らかの形で私たちの心的機能にとっての意味を持つとしたら(何しろ脳が使うエネルギーの75%を消費しているというのだから)TPN(課題遂行)はいずれはDMNに戻って行くという事になる。するとマインドフル瞑想が鍛えているのはこのDMNからTPNへのスイッチングという事になる。これは実は脳がDMNTPNの間を本来揺らぐものであり、その揺らぎの在り方をより心身にとってより良いものにするためのトレーニングという事になるだろう。

2019年11月18日月曜日

DMN 推敲 1


デフォルトモード・ネットワークと揺らぎ
 
 脳細胞と揺らぎの関連で述べておかなくてはならないのが、いわゆるデフォルトモード・ネットワークの話だ。前章で、脳の神経細胞は一見何も活動をしていない時にも電気活動を行っているという事実について述べたが、脳全体が一見何もしてない状態、つまりボーっとしている時にも、脳が全体として一定の活動をしていることが分かってきた。これは MRI などの脳の画像技術が発展し、脳の活動をいわばリアルタイムで追うことが出来るようになって分かってきたことである。このボーっとして何もしていないような脳の状態をはデフォルト状態、つまり初期状態と考えられ、「デフォルトモード・ネットワーク」と呼ばれている。これに関する研究は非常に華々しく、沢山の論文や著作が出ている。脳トレや瞑想と盛んに結び付けられやすいテーマだからだ。しかしこのデフォルトモード・ネットワークの正体は容易にはつかめない。私も脳科学者ではないので非専門家と言わざるを得ないが、おそらく脳の基本的なあり方を論じる際に深い意味を持っているということが予測されるのだが、まだまだ謎も多い。
デフォルトモードネットワーク default mode network (以下は省略してDMNと略記しよう)の説明をしようとすると、話は結局脳波を発見したハンス・ベルガーに遡る。もう一世紀も前のことであるが、彼は人間の頭皮に電極を付け、きわめて微小な電気活動が起こっていることを発見した。そして1929年の論文で、「脳波を見る限りは、脳は何も活動を行っていない時にも忙しく活動しているのではないか」という示唆を行った。何しろ脳波を見る限り、極めて微弱ながらも常に細かいギザギザが記録されているからだ。もしこれがフラットになってしまったら、それは脳が死んだことを意味するくらいに、生きている人の脳からは確実に拾えるのである。
しかし世の医学者たちは、たとえば癲癇の際に華々しい波形を示すことに注目したり、睡眠により顕著に変わっていく脳波の変化に注目する一方では、それ以外の時にも絶えずみられる細かい波のことは注意に止めなかった。
ここで皆さんは雑音ないしはノイズについての議論を思い出すだろう。ノイズはそれが揺らぎとして抽出されるまでは、ごみ扱いされるという運命にあり、それは脳波でも同じだったのだ。
脳の雑音という以上の注意を向けられなかったDMNが注目を浴びるようになったのは、すでに述べたとおりCTMRIといった脳の活動を可視化する技術が用いられるようになったことと深いつながりがある。
 はじめは何か明らかな活動を脳が行っている時に、その部分が興奮している様子が見られると考えられた。ところが何ら活動せずにぼんやりしている状態の脳で、かなり活発な活動が行われているという事が分かってきた。ここに示した図(省略)は DMN の際に活動している脳の部位を赤く示したものだが、これらは前頭葉内側部と後部帯状回と呼ばれる部位だ。これらの部位が同時に光るのは、脳が何もせずにアイドリング状態にある時であるが、何か注意を集中させている時には、これらとは別の部位が光るという事が分かり、脳の活動には大雑把にいって3つのパターンがあるのではないか、という事が分かってきた。それらは DMN 以外にも、課題遂行ネットワーク(TPN)、そしてDMN と TPN の間をつなぐスイッチのような主要ネットワーク(SN)がありそうだ、という事が分かり、一気にこの議論は熱を帯びてくるようになった。

2019年11月17日日曜日

コラムは揺らいでいる 9


人の脳はほとんど常に臨界状態

さてここで重要な点は、大脳皮質の表面でダーウィン的な競争が行われるということは、そこではいわば臨界状況が常に生じているということだ。逆に言えば、臨界にないときの人の心にはダーウィン則は必ずしも働かないということだ。では私たちの心が臨界になるのはいつで、いつではそうではないか、という難しい問題に直面する。
ここで臨界、ということを思い出そう。臨界とは、ある一つの相からもう一つの相に移行する間際の状態ということだ。瀬戸際、ギリギリ、というニュアンスでいい。たとえば水をゆっくりと冷やしていく。静かな状態に保っている水は、過冷却 supercooling を起こし、なんとマイナス10度くらいまで凍らずに水で留まるという。そして少しの刺激で一瞬にして凍りつく。臨界とはおそらくこの凍りつく直前の状態ということが出来る。そしてその凍りつく直前の水分子を顕微鏡で見ると、そこには小さな氷の粒から大きな氷の粒までの様々な氷の粒が、冪乗則に従って存在する、というわけだ。ということはべき乗則に従っている世界というのは、ゆっくりと臨界状況を続けているというわけだ。
この理屈から言えば、私たちの心はほとんどの時間臨界状況にあると言える。なぜならそれは思考やイメージを絶えず生み出しているからだ。ボーっとしている、いわゆる「デフォルトモード」の時も、昔のことを回想している時にも、ある種のタスクを行っている時も、ある意味では私たちの心は臨界状況にある。
しかしある種の課題を必死になって遂行しているときの臨界と、ボンヤリとしたデフォルトモードでの臨界状況ではかなりその在り方が異なっている。課題遂行モードにある心として典型的なものを想像して考えよう。常に脳を一定の状態で活動させなくてはならない作業、たとえば書かれたものを朗読している時を考える。これは工場での検品作業に似ている。ベルトコンベヤーの上を次々と製品が送られてくる。たとえばそれが出荷前のワインで、ボトルにきちんとラベルが張られているかどうかを調べる検品作業だとしよう。おそらくその種の作業はロボットにとっくの昔にとってかわられているかもしれないが、まあひと昔の話としよう。あなたはそこで朝から晩までボトルを一つ一つ手に取り、ラベルの位置や角度を確かめるという事を繰り返す。ラベルを張る作業をする人たちも一定のスキルを備えているので、99.9パーセントは問題が見つからないだろう。しかしボトルはコンベヤーに載って結構な速さで送られてくるので、作業を迅速に行わなくてはならず結構緊張を要する。それでもあなたは決まった手順での作業を次々とこなしているとしよう。
その時皮質で起きていることは、視覚野での情報処理と同時に、その時調べているボトルが合格か不合格かの判断である。そして大抵は「合格」の判断を下す。これをカルヴィン流に考えてみよう。大脳皮質ではたいていのボトルに対して「合格!」のタイルの範囲がワーッと広がり、大勝利を収める。「不合格」のタイルたちは大抵はごく少数派にとどまり、勢力を拡大することが出来ない。ところがごくまれに、この少数派のタイルがあっという間に勢力を伸ばし、「合格」のタイルたちを圧倒してしまう。それはラベルが上下逆に張られている、といった明らかなミスの場合だ。
この様に考えると皮質ではダーウィン的な競争が起きているとしても、一気に決着がつくような類のものだ。まああまり面白くもない勝負。絶対王者のボクサーが四回戦ボーイとやりあうようなもので、ゴングが鳴って数秒後には勝負が決まってしまう。水がマイナス4度のいわゆる氷冷状態に置かれ、みずから氷の状態になるまでのあらゆる層が見られる臨界を形成する間もなく、液体窒素に注ぎ込まれて一瞬で凍ってしまうようなものだ。臨界状況は一瞬で終わってしまう。
ただしワインボトルの品質管理でも、とても頭を使うケースに出会うこともあるだろう。ラベルがほとんど気にならないほどに微妙に曲がっている状態。これを不合格として出したら、その日の担当の上司Aからは「さすが○○ちゃん」と褒められるかもしれないが、上司Bからは「○○ちゃんのこだわりでしょ!これを不合格にしたら他のはどうするの!」と怒られるかもしれない。今日はどっちの上司だろう。それにしてもどうしよう…。ここであなたは途方に暮れてしまうのだが、この途方に暮れる状態は頭の中でさいころを転がしている状態であり、一瞬ではあれ、あなたの手は止まって目は天井のどこか一点に向かっている。つまりデフォルトモードにかなり近くなっているのだ。
こう考えると脳の活動は基本的には臨界が常に生じており、それがどの程度継続されるかに違いがあるということになるだろうか。そして臨界が生じるのは、一つの課題の遂行に時間がかかっている状態に典型的にみられるのであろう。例えばある人の名前を思い出そうとしている時。作曲をしている時。棋士が次の一手を考えている時。俳句をひねり出そうとしている時。あるいは夢を見ている時。その時脳はいくつかの要素の組み合わせを行い、そのうちどれがベストかを、ダーウィン的な競争のシステムにより割り出そうとしているのだ。そこで起きているのはある種のサイコロ振りであり、運を天に任せる、といった状態である。なぜなら私たちはそのような時はそうする以外にどうしようもないからだ。それは基本的に無意識過程だからである。
例えばある人の名前が出てこない。その時その人の顔を思い浮かべ、その人と交わした会話を思い浮かべ、後は心をデフォルトにすることで、その人の名前が降ってくるのを待つといった状態なのである。あるいはメロディーを考える時も、ある種のイメージを心に思い浮かべながら、課題遂行とは明らかに異なる心の状態にする。そしてそこで起きていることは、ダーウィン的な競争なのである。
デフォルトモードの際に脳で起きていることは、画像技術によりある程度分かっている。それはいわゆる正中線領域の興奮であり、内側前頭前野や後部帯状回、そして扁桃核、海馬の興奮である。これはいわば脳の全体に広がるネットワークと言え、いわば脳はその皮質の広範な領域を賦活させたうえで放っておくというわけだ。すると後は大脳皮質が自然とダーウィン的な競争を行ってくるのだ。

2019年11月16日土曜日

コラムは揺らいでいる 8


さてどうしてその時私の頭の中で「ほんの」が出てきて「わずか」に勝ったのだろうか? それは分からない。後になってよく考えると「わずか」の方がよい気がする。それはより文語的で学術的な文章(これでも!!!)にふさわしいからだ。でも先ほど瞬間的に選んだのは「ほんの」であったし、おそらくそちらが選ばれたのは、ほんの出来心、偶然、たまたま、と言うしかない。ちょうど砂の山に砂粒を落としていき、その山のどこから崩れ出すかというのと似たような偶発性が絡んでいたのだろう。つまりは揺らぎなのだ。すなわちそこに働いているのは厳密な意味での快感原則ではない。報酬系の絡んだ選択では最終的に勝利を収めるのは「わずか」の方なのである。ところが瞬間的には「たった」がたまたま勢いで勝ってしまったわけだ。問題は果たしてこれもダーウィニズム的な動きだったのか、ということである。たまたま生じた突然変異により生まれた新しい形質が生き残るのは、はたして「環境に適していた」からだろうか? それともそれこそたまたまなのか、この問題はおそらくジェイ・グールド(著名な進化生物学者)に聞いてもわからない、と答えるだろう。しいて言えば、「どっちもあり」ということになるだろう。
思えば突然変異自体も適者生存とはとても言えない形で保持されていく。一角(イッカク)という奇妙なクジラをご存じだろう。一角が生まれたのは環境に適していたからだろうか? 一角は角のような、しかし実は切歯が異常に長くなったような棒を使い、タラの群れに向かって振り回す、という得意技を持つ。群れに向かってやみくもに振り回した棒は不幸にもそれにあたった数匹のたらを打ち落とす。それを一角は捕食するわけだが、これは適者生存だろうか。それが生存に役に立つのであれば、どうしてほかのクジラや魚たちも以上に伸びた切歯を持たなかったのか? 結局一角の角(というか歯)は、ほんのたまたま突然変異である雄に生じ、それが優先遺伝として受け継がれていっただけではないか? 適者生存というよりはたまたまの要素がかなり入っているのではないか、と考えざるを得ないのだが、大脳皮質における六角タイル軍の勢力争いも、どこかそういうところがあるのだ。
ほかの思考にしろ発話にしろ、楽器の演奏にせよ、時間軸上に展開する(つまりダイナミックな)活動の展開の仕方は、間断なき大脳皮質のテリトリーの奪い合いだ、ということをカルヴィンの本から思い至った時、私はすごく合点がいったのを覚えている。それらのプロセスは概ね無意識的に行われ、そのプロセスを開始する指令を出したり、その結果を受け取ったりするときだけに意識が働くというのが真相なのだ。そして無意識的な活動からどうして文法にかなった文章が出てきたり、あるいは楽譜通りのメロディーが紡ぎ出されるかは、そのダーウィン的な精神活動の進行が、かなりパターン化されていることを意味するのだ。

2019年11月15日金曜日

コラムは揺らいでいる 7


陣取り合戦にも揺らぎが絡む

以上の議論から読者の方々は、次のようにお考えかもしれない。「大脳皮質上の陣取り合戦の勝敗を決めるのは、どちらがより報酬系の刺激をより強く引き起こすか、であり、その意味では決定論的なプロセスである」。つまりそこに揺らぎとかいい加減さとかは存在しないことになってしまう。しかし実はそこには膨大な揺らぎが存在するということをこれから私は主張したいのだ。
そこでカレーとハヤシライスの例に戻る。私たちはどちらかを選ぶように迫られる。何しろ訪れたのはどうしようもないほどにシンプルなレストランで、メニューには、「1.カレー、2.ハヤシ、以上。」としか書いておらず、あとはサンプルの写真が載っているだけだ。その時あなたは1,2のどちらかを選択する際、どうするだろうか? あなたはいちおうそれらを頭の中で比べるだろう。おそらく一つ一つ思い浮かべることもできるが、そんなときには神経ネットワークにダーウィニズムはあまり働かない。「カレーの方は総合評価5だ。そしてハヤシは3.5くらいだろう。だからカレーのほうを選ぶ」など理論的な思考を行っているだけであり、実際の陣取り合戦はおそらく起きないのだ。
しかしその選択を一瞬で行っている時は、1,2の可能性を同時に比べており、二つの候補のうち、例えばカレーがそのテリトリーを奪ってしまうのだ。それが無意識的に行われていればいるほど、そこでの決定はダーウィン的なのだ。ではどちらが選ばれるのかについての規則はないのか、ということになり、先ほどの報酬系の話が出てきた。報酬系により訴える選択肢がグングン陣地を広げていくのではないか、という仮説である。
しかし報酬系はダーウィニズムが働く際の一つの駆動ファクターでしかない。おそらくそれ以外の、偶発的、恣意的、あるいは明確な理由のない選択も多く行われていく。それも瞬時のことなのだ。そうでないと人間が日常生活で行っている膨大な情報処理に追いつかない。そしてそこに揺らぎの問題が介在している。
ここにもう一つのわかりやすい例を挙げよう。言葉を話すということだ。私たちが用意された原稿を読むのではなく、言葉を選択しながら話すとき、おそらくかなり高速で頭の中で文章が構成されていく。発話される文章は、そのほんの0.5秒前には脳の中で既に出来上がっていることだろう。さもないと流暢な発話は不可能だ。ではいったいどのようにして構成されるのか。それはおそらくほとんどが無意識レベルでの仕事である。するとそこで適当な単語が選ばれるプロセスはダーウィニズムを他に考えられない。
たとえば私は「ほんの0.5秒」と先ほど表現した。その時「ほんの」が出てくるのに一瞬時間がかかったことを覚えている。それは「わずか」でも「たった」でもよかったのであるが、選ばれたのは「ほんの」であった。その瞬間私の大脳皮質のある場所(ブローカ野?)では六角形のタイルの間の争奪戦が起き、結果として「たった」が優勢となり決着がついたということになる。

2019年11月14日木曜日

コラムは揺らいでいる 6


ここまではカレーが勝ったという想定で論じたが(しつこいようだが、別にハヤシでもいいのだが)、なぜそうなったのであろうか? 実はここは心を考えるうえで一番謎めいた部分なのである。つまりテリトリー同士の争いの勝者は何を獲得するのか、という点が難しい議論だ。その答えを私たちは知っているのであるが、なぜそうなるかはわからない。しかしとりあえずその答えを示すとしたら、それは「快」である。つまりあなたがカレーを食べることを想像することがより快を体験することにつながったからである。心のダーウィニズムは、より本人に快を感じさせるものが勝利を修めるという法則に従うのだ。では何が快を感じさせるのか。それよりもそもそも快とは何か。それが大問題なのかについては、私が一昨年に出版した著書(「快の錬金術」)にも書いたものである。大雑把にいえば、それがその個体の生存可能性を高めるような体験には、この快が結びつくということになる。この点について私は以下のような内容の文章を書いた。
そもそも線虫がダーウィンの原則に従って生き残っていくとしたら、そこにはどのような条件が整っているのか。その線虫は格別に力が強く、他の線虫との戦いに勝つかもしれない(体長わずか1ミリ以下の線虫同士の格闘、もつれ合っての腕自慢など想像もできないが、おそらくそんなことも実際にあるかもしれない)。あるいは頭脳明晰で、敵の裏をかいたり、だましたり出来る線虫もいるかも知れない(まさか!) しかし何よりも重要なのは、その個体の生存にとって必要なのは、自分にとって有益なもの(餌匂い?)に向かって突き進むことが出来ることであり、また危険を巧みに回避するからだろう。つまり栄養豊富な餌を摂取した時に強い快を体験し、危険へ強い嫌悪を体験するような個体だ。快に向かい、不快を回避する。その結果としてそれをよりよくなし得た個体が生き残っていく。
しかしこれは考えると何となく理屈に合わない。線虫の個体は、どうして自分が快を感じるものが自分の生存の可能性を高めることを知っているのだろうか? おそらく論理が逆なのである。生存可能性を高めるものを快と感じられる個体が生存していくのだ。
話をわかりやすくするために、線虫があるAという物質を摂取した時に、それだけ生存率が上がる、と仮定しよう。もちろん線虫はAを美味しい(快感を味わう)とは体験していないかもしれない。しかしAという物質に対してより積極的に向かっていく個体が生き残るとしたら、その線虫は「主観的」にはAを美味しいと感じている方がはるかに合理的である。でもこの快は必ずしも必須ではない。線虫が快を体験している時その神経系はある状態に置かれる。それは非常に特殊な状態で、線虫の行動はその状態を再現するためには他のあらゆることを犠牲にするのである。これを自然が生物一般に与えたある種のポジティブな意味でのアラーム装置と考えてもいい。それはドーパミンという物質により作動する装置で、それがその個体が生存する確率が高いものに対して、主観的には快として体験されるような中枢神経系の状態を作り出すのだ。そしてそのアラームは、線虫にとって体にいいものにより鳴り響くように仕組まれているのである。
この様に考えれば快というのは全くの幻であっても構わない。快もたとえば薔薇の赤い色、と同じようなクオリアであるとすれば、その実体はなくてもいいことになる。ただそれにしては生命体には報酬系というアラームシステムがなぜかしっかり備わっているのであり、そこに何らかの実態があるような気がしてしょうがないと私たちは思う。しかしこれも証明のしようのない話だ。
結局私が言いたかったのは、ダーウィン的な適者生存とは、生命体に関しては(いちおう自ら運動することのない植物は除外しておこう)報酬系が機能することで成立するという事である。ただしもちろん、ちゃんと機能する報酬系でなくてはならない。たとえば痛み刺激を快に変換してしまうような報酬系を持つ生命体は、早速自らを傷つけることで、あっという間に滅んでしまうのである。あるいは麻薬により強烈すぎる快感を味わう場合にもその個体は身を持ち崩しかねない。しかし大まかに言ってその個体の生存にとって一般的に有効なものを快と感じ、その逆を不快と感じるような個体は、それだけ生存競争を勝ち抜くと考えていいだろう。

2019年11月13日水曜日

コラムは揺らいでいる 5


決断もまた脳の同期化である

カリヴィンの主張は、脳におけるタイルの勢力争いが、あたかもダーウィニズムのような適者生存の様相を呈するというものであるが、それを例示するものとして、決断のプロセスを考えよう。たとえばあなたがレストランのメニューを見ながら、カレーにしようか、ハヤシにしようかと迷う。(ずいぶん単純なメニューのようだ。)それぞれが、たとえばカレーライス、とかハヤシライスとかの色に染まる。最初は迷っていたが、結局ハヤシだ!と決まった時は、六角形のタイルの大多数が最終的にハヤシを支持し、地滑り勝利を修めた時だ。丁度臨界点にあった水の表面が氷結してしまうような現象である。
そんなことってあるだろうか? でもこれは私が昔から疑問に思っていたことを言い当てているのである。私は昔から自分の心がサイコロを転がしていると感じていた。そう、揺らぎと同じ発想である。そしてある思考が生まれるまでの自分の心には、本当に取り留めのない思考の断片が浮かんでは消えている。それが思考として結晶化した時に、初めて自分はそれを意識化したり、言葉にしたりすることが出来るのだ。カルビンはそれを言い当てているようだ。
さてその六角形のことだ。私たち精神科医はその基礎知識として、大脳皮質はただ漠然と神経細胞が並んでいるだけではなくそれらの単位が目まぐるしく勢力争いをしながら思考が形成されるとはどういう事なのか?
この説明のためにはもう少しカルヴィンの話に耳を傾け、彼の言うダーウィニズムについて理解しなくてはならない。
カルヴィンにとっては、ダーウィニズムは生命体が営むあらゆるシステムに埋め込まれていると理解される。彼が例に挙げるのは免疫システムである。ある抗原に暴露されると、動物は極めて迅速に抗体を作り上げる。これはとてもトップダウンで起きるプロセスではない。抗体は様々な分子を組み合わせることで抗原に対応していく。決して新たに抗原と出会って、一から作り直されるわけではない。しかし免疫システムでは、いくつかの分子の組み合わせが自動的に生じてその抗原に適した抗体だけが選択されて増殖していくという仕組みが出来ている。そしておそらくそれと同じようなことが脳のプロセスにおいての生じていると考えたわけだ。
さて抗原抗体反応なら、選択された抗体は、特定の抗原にフィットし、それを攻撃するという特性を持っていることで選ばれるわけだ。しかし思考についてはどうだろう? たとえば先程のカレーか、ハヤシかをめぐっての攻防だ。たとえばレストランで注文を聞かれて即座にどちらかを決めなくてはならなくて、心の中でサイコロを振るという様な事態ではないとしたら、あなたの心は結局カレーかハヤシかを選ぶにあたって、実際に食べているのを想像するだろう。あるいはメニューに載っている写真を見て、どちらかが特に美味しそうに見えるかもしれない。その他のいろいろな条件が重なって、カレーの方が少しずつ良さげに見えてきて、ついにある時点で「カレーに決めた!」となるはずだ。(別にハヤシでも構わないが)。
その時起きているとカルヴィンが主張するであろうことは、カレー派とハヤシ派に分かれていた六角形のテリトリー同士の勢力争いが起き、最後に勝った方が選ばれるというプロセスが大脳皮質で起きているという事なのだ。

2019年11月12日火曜日

コラムは揺らいでいる 4


この脳波の同期という現象は、実は私たちがある事柄について深く理解する際にきわめて重要な役割を演じる。たとえばAさんについて知るということはAさんの姿、特に顔のつくり、声の質、話し方、Aさんと交わした会話、Aさんから聞いた過去の生い立ちなどをすぐに思い出せることを意味する。そしてそれはそれらの記憶や表象が容易に同期化しやすい、共鳴しやすい、ということを意味する。それだからこそAさんという名前や表情を思い出すことで一気に興奮し、容易に結び付けられるようになる。
その際、たとえばBさんという他人の情報はそこに加わりにくいようにできているのであろう。それはAさんについての神経細胞が興奮するときにはむしろ抑制され、同期化されないという仕組みを脳が備えているはずだ。さもないとAさんとBさんとの混同が常に起きてしまうことになる。
しかしこの脳波の同期という問題にも揺らぎが関与する。例えばAさんについての情報で自分に自信が持てないものについてはどうか。Aさんの子供時代についてのある逸話を聞いた気がするが、それはもしかしたらBさんの話だったかもしれないという様な内容だ。つまりAさんについての同期化しやすいネットワークの周辺には、同期化するかどうかについてファジーで曖昧なネットワークが存在する。それはAさんについて思い出している時になんとなく同期する様子を示すが、それはやや曖昧で、今度はBさんについての様々なことを思い浮かべた際もなんとなく同期する様子を示す。この様にある事柄についてのネットワークの周辺には、かなりファジーで曖昧な部分を従えていることになる。
この様に考えると、「わかる」ということと同期化がより理解しやすいであろう。物事をより深く理解することとは、Xというテーマに関わっているさまざまな記憶や表象が一気に結びつくことを意味する。それにくらべてXについてよくわからないという状態は、Xに関連すること、結び付けられることとして記憶されたはずの事柄がなかなか同期化しづらいという現象が生じているということを意味する。たとえばXに関係していると言われるY理論は、たとえばXだからYなのだ、という納得のいく理屈があることで容易にそれに媒介されて共鳴、同期化するようになる。ところがZ理論に関しては、XだからZなのだ、という理屈が納得が行かない(つまりはその理解が脳に定着しない)ためにXと同期しづらいという事情があり、X,Y,Zが深く結びついて成立しているという体験を持つことが出来ないため、X理論が今ひとつわからない、という体験を生むのである。

2019年11月11日月曜日

コラムは揺らいでいる 3


分かることとは脳がシンクロナイズ(同期化)すること

ここで一つ補足説明が必要かもしれない。脳の活動を理解する際に、ひとつの決め手はそこで生じている脳波がどの程度同期化しているかどうか、ということだ。脳波計は大脳皮質で起きているさまざまな信号を拾うのであるが、普通はそれぞれの部位がバラバラな活動をしている。ところがある事柄について、それを一つのもの、ないしは同じものと見なすという現象は、脳のある部分が一緒になって同時に活動していることを意味する。例えばABが、実は同じ物体だということが分かった時、両者に関する信号は同期化するのである。
このことをもう少しわかりやすく説明しよう。私たちがある遮蔽物の上下で動く物体をみるとする。その際上下の物体は互いに別々の方向に動いていると認識されるため、視覚野においてそれぞれに反応している部位は、ばらばらの信号を出す。ところがその遮蔽物を通して、上下のまるがつながっていることが分かった場合、視覚野における上下の物体に反応した部位は、同期化する。つまりは脳波の位相(山と谷の位置)が一致するのである。(これに最適の図をどこかの本で見たが、あいにく見つからないので省略。)
同期している coherent とは位相が一致すること

もう少し身近な例を出そう。小さいころ親しくしたAさんという友達がいるとしよう。そして20年後にたまたま出会った人と話しているうちに、それがAさんであったということを知ったとする。すると幼少時のAさんに関する記憶と、目の前でそれまで別人と思って話していたAさんに関する記憶は突然重なるのであるが、その際脳波は位相を揃え出すのだ。その時私たちは「あ、そうかEureka!」という体験を有することになる。すべての事柄がつながったという感覚、それまでバラバラにしか認識できなかったことが一つにまとまった体験。刑事事件でそれまで断片的であった証拠が、ある犯人が特定されることですべて繋がった時の感覚。これを人はたとえば「ジクソーパズルのピースがはまった」という言い方をするが、感覚的にはその通りなのである。

2019年11月10日日曜日

コラムは揺らいでいる 2


神経ダーウィニズムという名のゆらぎ理論

大脳皮質はこのような敷石から構成されるのか。
カルヴィンの説を参照しよう。彼は上記のコラムを、六角形のタイルのように喩える。確かに上述のようなコラムがびっしりと大脳皮質を覆っているとしたら、それはあたかも下の写真に見るような、六角形の敷石のように見えるだろう。ただし実際にはかなり縦長の六角円柱の形を取るはずだが。
 
 そして大脳皮質での神経の活動は、ちょうどこの六角形のタイルが勢力争いをするようなものだと考える。というのもこのタイル内はある一定の情報を扱う、一種の素子と考えることが出来るからであるという。これは神経の活動を個々の神経細胞の活動と捉えるよりはずっと効率的である。それぞれの神経細胞は幾つかのまとまった集団として行動をすることが多い。その単位がコラムであり、それは神経細胞が1万個ほどにより構成されている。これらがいわば
グループとして活動するのだ。ちょうど地震を考える時に、それを個々の砂粒の相互作用と考えるよりは礫、小石の間の相互作用
柱状節理:むしろこちらか?
と考えた方がより現実的であるのと同じである。何しろ岩盤を構築している最小の単位は砂であるとしても、それらはさらさらと個別に動くのではなく、いくつかが固まった小石の様な単位で動くであろうからだ。
(地殻がサラサラな砂で構成されているとしたら、それはむしろ流体としての性質を帯びるであろうし、すると地震など起きないであろう。むしろ砂による津波のようなものかもしれない。それはちょうど太平洋に蓄えられた水分子の巨大な集合が、いくつかに分かれてお互いにズレたり割れたりしないのと同じなのだ。)
さてカルヴィン先生のいう、大脳皮質でのこのタイルの勢力争いの話である。このことをもう少しわかりやすく表現しよう。脳の活動は刻一刻と変化する。そしてその時々で、「わかった!」とか「ヤバい!」とかの大きな体験をすることがある。その時、大脳皮質ではたくさんのタイルが参加した巨大な結晶構造が作られると考える。いわばその全体が同期している状態なのだ。