2019年11月16日土曜日

コラムは揺らいでいる 8


さてどうしてその時私の頭の中で「ほんの」が出てきて「わずか」に勝ったのだろうか? それは分からない。後になってよく考えると「わずか」の方がよい気がする。それはより文語的で学術的な文章(これでも!!!)にふさわしいからだ。でも先ほど瞬間的に選んだのは「ほんの」であったし、おそらくそちらが選ばれたのは、ほんの出来心、偶然、たまたま、と言うしかない。ちょうど砂の山に砂粒を落としていき、その山のどこから崩れ出すかというのと似たような偶発性が絡んでいたのだろう。つまりは揺らぎなのだ。すなわちそこに働いているのは厳密な意味での快感原則ではない。報酬系の絡んだ選択では最終的に勝利を収めるのは「わずか」の方なのである。ところが瞬間的には「たった」がたまたま勢いで勝ってしまったわけだ。問題は果たしてこれもダーウィニズム的な動きだったのか、ということである。たまたま生じた突然変異により生まれた新しい形質が生き残るのは、はたして「環境に適していた」からだろうか? それともそれこそたまたまなのか、この問題はおそらくジェイ・グールド(著名な進化生物学者)に聞いてもわからない、と答えるだろう。しいて言えば、「どっちもあり」ということになるだろう。
思えば突然変異自体も適者生存とはとても言えない形で保持されていく。一角(イッカク)という奇妙なクジラをご存じだろう。一角が生まれたのは環境に適していたからだろうか? 一角は角のような、しかし実は切歯が異常に長くなったような棒を使い、タラの群れに向かって振り回す、という得意技を持つ。群れに向かってやみくもに振り回した棒は不幸にもそれにあたった数匹のたらを打ち落とす。それを一角は捕食するわけだが、これは適者生存だろうか。それが生存に役に立つのであれば、どうしてほかのクジラや魚たちも以上に伸びた切歯を持たなかったのか? 結局一角の角(というか歯)は、ほんのたまたま突然変異である雄に生じ、それが優先遺伝として受け継がれていっただけではないか? 適者生存というよりはたまたまの要素がかなり入っているのではないか、と考えざるを得ないのだが、大脳皮質における六角タイル軍の勢力争いも、どこかそういうところがあるのだ。
ほかの思考にしろ発話にしろ、楽器の演奏にせよ、時間軸上に展開する(つまりダイナミックな)活動の展開の仕方は、間断なき大脳皮質のテリトリーの奪い合いだ、ということをカルヴィンの本から思い至った時、私はすごく合点がいったのを覚えている。それらのプロセスは概ね無意識的に行われ、そのプロセスを開始する指令を出したり、その結果を受け取ったりするときだけに意識が働くというのが真相なのだ。そして無意識的な活動からどうして文法にかなった文章が出てきたり、あるいは楽譜通りのメロディーが紡ぎ出されるかは、そのダーウィン的な精神活動の進行が、かなりパターン化されていることを意味するのだ。