2019年11月27日水曜日

揺らぎと快楽 推敲 1


 読者の中には次のように思う方もいるかもしれない。いい加減であることが人の心の基本的な性質である場合、それはその人にどのように体験されるのだろうか。本来いい加減な性格であればそれでもいいかもしれないが、きちんとした、几帳面な方にとっては、むしろいい加減であることは耐え難いことかもしれない。しかしいい加減さを耐えがたく感じる場合には、かなり生きにくい人生を歩まなくてはならないであろう。と言っても生きにくいと感じるのは当人とは限らない。その周囲の人たちが苦労をすることになるかもしれないのである。この点は後にもう少し詳しく述べよう。
大分昔のことであるが、田口ランディという人のエッセイが書いていたことがいまだに心に残っている。彼女は「いい小説とは、それを読んだ後に、分からないという世界に放り出されるような小説だ」という趣旨のことを書いてあった。それが人間を描いたものであれば、人間がますますわからなくなる。しかしそれが不快さや混乱を招くようではいけない。それが強烈な好奇心を刺激するようなものでなくてはならないのだ。逆に人間とはこういうものだという結論をポンと出しておしまい、では何も余韻が残らず、読者にそこから先を考えさせてくれないだろう。
「事実は小説よりも奇なり」という。イギリスの詩人バイロンの言葉というが、小説にも事実に似たいい加減さが備わっていないと、嘘っぽい作り物という印象を与えてしまうだろう。私は心についても宇宙についても、ゲノムについても、脳についてもとても惹かれているが、それは少し調べていくとどんどん分からなくなっていくところが面白いからだ。それが人を引き付けるのである。そしていい加減さや揺らぎも、それは自分の人生の先が見えないながらもその予測不能さがある種の楽しみとして体験できることに意味があるのだ。それでこそいい加減さは生産的になるのだと思う。
このこととの関連で先ほどのサイコロ振りの話に戻ると、良質のいい加減さはおそらく創造性に結びついていくと考えることが出来よう。というのも何かを決めようと意図しないときにふとおきる行動やふと思い浮かべる表象は、それ自身が何らかの芸術的な価値を持っている可能性があるからだ。良質のいい加減さは、それ自身は問題の解決に結びつかないとしても、創造性に絡んでくると言うのが私の考えである。
私たちは~すべきだ、という人生にふつうは容易には耐えられない。それよりはいい加減であるほうが好きなのだ。それは私たちが自分の将来に未知の部分を含ませることができるからである。そのためにはわからないことを楽しめなければならない。もちろん~すべきだに耐えられる人たちもいる。しかしそれはある種の不安や恐怖に駆られて、それを逃れるために~すべきという人生を送ることになる。その場合は「~すべし」に従うことで安全が確保される。そのつらさと引き換えにある種の保証が与えられるからそれを行っていることになる。ただしそのような人生にはおそらく創造や探求や新奇さによる刺激は望めないであろう。