2015年4月30日木曜日

精神医学からみた暴力 (6)

昨日の話の続き。
1番目はそれがファンタジーやゲームに限定されている場合。もうこの説明はいいだろう。ちなみに脱線だが、最近テレビで、都市型のサバイバルゲームがはやっている。「ウィキ」すると
「サバイバルゲーム(Survival Game/Airsoft[1]とは、主にエアソフトガンBBを使って行う、概ね20世紀以降の銃器を用いた戦闘を模す日本発祥の遊び、あるいは競技。」えー、日本が発祥なの?「敵味方に分かれてお互いを撃ち合い、弾に当たったら失格となるのが基本的なルールとなる。ペイントボールが圧搾空気の力で発射される塗料入りの弾を用いるのに対し、サバイバルゲームはBB弾を発射するエアソフトガンを使用するため、「競技者の失格が自己申告制」「主に実銃を模した用具が使用される」という違いがある。
統一されたルールは存在せず、グループや大会ごとにルールは異なる。サバイバルゲームにおけるルールは一般的にレギュレーションと呼ばれるので、以降の表記は「レギュレーション」に統一する。」

都会でたとえば廃屋になったビルの一部を借りて行ったりする。若者が数人ずつに分かれて、武装して戦いあう。面白いだろうなあ。人を殺傷する実弾の代わりにゴム玉に変わっただけで、「殺し」はこれほど面白くなってしまうのだ。まあ話が脱線しそうなので、
2番目 恨みによる、仕返しによる攻撃の正当化
3番目 相手の痛みを感じることが出来ないことからくる攻撃の正当化
第4番目「キレる」ことによる正当化。あれ4つだったっけ?


恨みを抱いている場合

裁判の例で、相手に憎しみを抱いている場合には、罪悪感のストッパーは簡単に外れるということを示した。自分の愛する人を殺めた人に、刃物を向けることは、精神的に健康な人で当ても、おそらくたやすいことなのだ。これは考えれば恐ろしいことではないか?そして人は様々な状況で他人に恨みを抱くことがある。私が一番懸念するのは、発達上両親に、そして世界に対して恨みを抱きつつ育った人の場合だ。幼少時に虐待的な親子関係にあった人の場合、トラウマの連鎖が起き、きょうだい間でのいじめ、学校でのいじめ、と引き続いていく可能性がある。その結果として自分は恵まれない、世界から求められていない存在であると感じ、自分は被害者であるという感覚が高まり、世界に対して恨みや憎しみを抱くようになった場合。神社仏閣に油を撒くというような愉快犯的な犯罪から始まり、無差別的な殺戮やテロ事件に至る場合がある。すでに述べた秋葉原の事件などは、まさにそのようなことが起きていたと察する。人はこれらの事件を耳にした時、いったい何が起きたのか、と不思議に感じるかもしれない。しかし通常の人々についても、ファンタジーの世界ではいかなる暴力的な行為もごく自然に生じていることを考えれば、特に驚くにはあたらないことになる。



2015年4月29日水曜日

精神医学からみた暴力 (5)

今までのところをまとめると、人にとって自らの動きによる効果(おや、言い換えたぞ)として、他者の苦痛や生死は実はとてもいい素材になってしまう。自分が他者に起こす加害行為は大きな快楽の源泉となる。しかしそれの歯止めになっているのが、他者を害することの苦痛や恐怖なのである。私たちが生きるということはこの両者のバランスを常にとることなのだ。だから罪悪感の生じないような正当化される攻撃なら、私たちは喜んですることが多い。もし自分に害を与えた人との裁判で、自分の証言により相手に無期懲役が下ったとする。あなたは被告側の人生に起きた「不幸」に喜ぶことになる。もちろん誰もそのような原告を非難することはないであろう。

再び、攻撃性は本能ではないのか?

ここまで書くと、「やはりあなたは攻撃性は本能だと言っているのではないのですか?」と言われそうだ。そこでそうではないことを示しつつ、次のテーマに移りたい。
私が示そうとしているのは、人間は自分のせいで世界に起きたある種の効果の大きさに興奮する。そこに自分の能動性を感じるのだ。そしてその効果の大きさとしては、他人の感情があり、それは喜びでも驚きでも悲しみでも苦痛でも構わない。でも不幸なことに、苦痛が一番大きな効果の役割を果たすことが多い。ただしそこには他人を苦しめることへの恐怖や苦痛がある。すると私たちが攻撃性を発揮できるのは、それを正当化できる場合である。これは日常生活ではいくらでも数え上げることが出来る。たとえば猪が畑を荒らす地方では、地元の漁師は「害獣」である猪を「殺害」することに罪悪感がほとんどないだろう。●●家の牛丼を食べるたびに、犠牲となった牛を悼む人など皆無だろう。(これは例としてはあまり関係なかったな。) 部屋の中に迷い込んで自分を悩ませ続けた蚊をピシャリとやった時の心地よさ。あなたが反社会的な、残忍な性格である必要は少しもないのである。ボクサーなら、相手を「意識を失うほど殴りつける」ことの快感が忘れられないのではないか。そして彼はサイコパスである必要はない。このように考えると、攻撃性はそれが正当化されるときには発揮される、という風に整理しなおすことが出来る。健康で体力や知力に問題のない人間なら、人を簡単に破壊し、苦痛を与えることが出来る。ただし通常は大きな歯止めが、ストッパーがかかっているのだ。それを私は以下の3つだけ示そうと思うが、さしあたり問題になるのは、第2、第3番目である。




2015年4月28日火曜日

精神医学からみた暴力 (4)

思いつくままに書き進めて行こう。人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら,他人の感情状態に変化は最もよい候補と言えるだろう。人が喜びを味わうことも苦痛を味わうこともその対象となりうる。自分自身か突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの感覚がその証拠になる。それが他人の心に起こることを想像するだけでいい。そのうち私達がしはしば実行するのは他人を喜ばせたり、驚かせたりするという行為である。他人に贈りものをしたり、サプライズバーティを仕かけるなどのことは日常的に行なわれる。それにより他者が喜んだり驚いたりする姿を見ることは楽しいものだ。自分の行動が他人の心に大きな変化を起こすのだ。
 もちろん他人に苦痛を与えたりする場合には話は別である。しかし相手の心に生じた変化という意味ではこれは別格の意味を持つと考えなくてはならない。そして現実を離れた世界では、これは日常的に選択されるのだ。囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、アマチュア棋士たちにとつて,恐らく無上の快感を与えるにちかいない。そこに相手の直接の苦痛が及ばなかったり、それが十分に正当化し得る場そにはそうであろう。あるいはビデオゲームを考えればよい。殆んどのファイティンググームで敵を倒したり,ダメージを与える様なシーンか登場するだろう。この様な例を与えることは、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり,破壊したり殺したりすることが好きかを示している。私はこの文章を書いている時、7年前に起きた秋葉原連続殺傷事件のことを思い出す。報道された翌日の外来では患者さんたちとその話題になることが多かったが、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが犯人の気持ちがわかる.というものであつた。(ちなみに彼らは特別暴力的な傾向を持つことのない抑うつや不安に悩まされている人々である。それだけに私には彼らの反応が意外だったわけである。私はこの時は非常に驚いたが、よく考えれば合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や、器物にダメージを与えることは、むしろ全く普通のことであり、むしろそれを抑えているのは、現実検討でなり、それが実害をともなわないとぃう認定なのである。
この様に与えると私達が暴力をファンタジーのレベルに留める困子が罪悪感であると考えてよいであろう。目の前の実際の他者か:自分の()作為が原因となって苦痛を味わうことの恐怖は恐らく私達が日常十分に思い至ることのない甚大は苦痛なのである.なぜそうなのか?細かい発達論的な文脈には私は詳しくないが (そして恐らくは学問上も不明な点が末だに多いのであろうが)。 



2015年4月27日月曜日

精神医学からみた暴力 (3)

動きmotility こそが快感の源泉である

昔プレイセラピーをしていたときである。2歳の少年が積み木で遊んでいるところにちょっかいを出したことがある。彼がまだうまく積み木を積めない様子を横目で見ながら、私は悠々と5つ、6つと積み上げてみる。それに気が付いた子供は憤慨したようにそれを崩した。私は頭を抱えて大げさに嘆いて、再び積み出す。子供が再びそれを崩し、私が嘆く。そのうちそれが一種の遊びのようになって二人の間で繰り返された。
私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?おそらく。彼は私を攻撃したかったのだろうか? そう言えないこともないだろう。でも積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れるのはそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私にせがみ、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 この子供が体験したのは何だろうか? 自分が積み木をチョンと押すと、世界が変化する。それがごく単純に楽しい。それは自分の体の動きや発声が世界を動かし、コントロールすることの学習のプロセスであり、それ自体が報酬系に作用してその習得を動機付けられる。自らの能動性の確立である。そしてそれは子供の神経系の発達、ニューロンの間の必要なシナプス形成と、おそらくそれとほぼ同時期に起きるシナプスの剪定 pruning とを促進する。もし本能がこの人間の脳の成熟にとって必要なプロセスに密接に結びついているとしたら、自分がAをして世界にBが生じる、というその因果関係の習得はまさに優先されるべき課題であろう。そして子供は嬉々としてそれに取り組むのである。ウィ二コットがその動きmotility の概念を提示した時、まさにそれを論じていたはずだと私は思う。

動きと攻撃性


ここで一番誤解を招きやすいプロセスについて説明しなくてはならない。子供の側の「動き」による効果のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情の変化である。プレイセラピーの子供は私が6つまで積んだ積み木を崩してその効果を楽しんだ。ではもし8個だったら?あるいは塔のように高く積み上げた20個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ興奮も大きいだろう。もし自分が少し動かしただけで、ガラス細工の積み木がガシャーンと音を立てて粉々に崩れたら?きっとその効果ははるかに大きいはずである。しかしそれよりも子供がその変化に一番反応するのは、親の表情や感情かも知れない。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。積み木を崩すことで多少なりとも演技的な父親の悲鳴もそれに加えていいかもしれない。子供が親に同一化し、その感情や快不快をモニターできるようになれば、実はそれこそが自らの動きが最も大きな効果を及ぼすものの一つとなるはずだ。そしてそこに真っ向から拮抗してくるのが、相手の心に生まれる痛みを感じ取るというプロセスである。

2015年4月26日日曜日

精神医学からみた暴力 (2)

このように言えば、人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である、というような主張へとつながりそうな印象を与えるかもしれない。ただし私自身は暴力行為が一部の人間に快感を呼び起こすために繰り返されるという事実は認めても、それが本能とまでは考える必要はないという立場だ。例えば多くの私たちは飲酒を好む。一昔前なら、成人男性は皆タバコを吸っていた。だったら飲酒、喫煙は「人間の本能」かと言えばもちろんそうではない。ただ人の報酬系はそれらの物質を摂取することにより興奮するという性質があるために、それらの行動を追及し、それを断ち切ることが難しいという事実が示されているにすぎない。ある種の暴力行為に快感を覚える人が多いからと言ってそれを本能と結びつける必要はない。例えば人は食行動を営み、夜になったら眠りにつく。それは人間の生理学的な条件に基づいた本能といえる。では人は人を殴らないと精神的に不安定になり、体調を崩すかと言えば、そういうことはないのだ。人は攻撃された場合に相手に暴力で立ち向かうことが一般であろうが、それは防衛本能の一部として理解することにやぶさかではない。しかし自発的な他者への暴力行為、トリガーのない他者への暴行をそこに含むことはできない。そして世の中に生じている多くの暴力行為について、この自発性、無・被触発性(そんな言葉、あるか?)が見られる。だからこそ私たちは不思議に思うし、嘆くのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」 「原因を突き止めなくてはならない。」「二度とこのような事態を起こしてはならない。」それに比べつと酔っ払いが売り言葉に買い言葉から始まり、殴り合いに発展しても、ニュースネタにはならない。あまりにも当たり前で、説明がつき、その生じ方に疑問の余地がないからだ。

結局何が言いたいのか?世間をにぎわす暴力行為、そしてとくにまだいたいけな子供が時に見せる暴力行為は、それを一種の本能の暴発と見なす根拠はないということ、それが生じるプロセスをもう少し説明できるであろう、ということである。私は臨床医なので、そのことを精神医学的、脳科学的な知見(と言っても全く大したものではないが)から見直してみたいのだ。そしてその前提として私が言いたいのは、暴力に本能を見出す根拠はないということである。ただし暴力や攻撃性が本能として存在しない、ということの証明は難しい。あることが「存在しない」ことを証明することがえてして困難なことだ。そうではなく、攻撃本能がたとえあったとしても、子供にその原型が見られるような暴力行為は、それ以外で説明されてしまうことがほとんどである、というのが立場だ。そしてそれは例えばウィニコットの立場に近い。私が彼の理論を援用するというのではなく、彼の理論が最もしっくりくる形で私の主張を代弁してくれると感じる。

2015年4月25日土曜日

精神医学からみた暴力  (1)


暴力や攻撃性は本能なのか?

まったく唐突なのだがこのテーマで考えなくてはならなくなった。でも私はこのテーマのエキスパートではない。そこで思いつくままに書いていき、どこに落ち着くかを見なくてはならない。
ところで少し大きな話からだが、暴力は一向に地球から消えてなくならない。もちろん確実に減っては来ている。しかし戦争は決してこの世からなくならないのではないかと悲観的になるくらいに、あちこちで不幸な殺戮が行われている。テロ行為も頻繁だ。米国での発砲事件も、日本での殺傷事件も相変わらずニュースをにぎわしている。先日の旅客機の墜落も、究極の暴力とは言えないだろうか?一人の人間が操縦桿を意図的に倒し続けていることで、150人の命が一瞬に奪われてしまう。

人が人を殺める、暴行するというニュースが絶え間ない一方では、その頻度や程度はおそらく確実に減少している。最近比較的よく読んだ本に「ヒトはなぜヒトをたべたか」(マーヴィン・ハリス、早川ノンフィクション文庫)があるが、印象深いのは古代人の男性はその多くが殺害により世を去っていたということである。多くの遺骨に他者からの暴力の痕跡が見つかる。国家の統治機構が備わり、体裁だけでも民主主義的な政治体制が整う前には、人が人を害するという行為はその多くが見過ごされ、黙認されてきた。(非・民主主義体制では国家による人民の殺害はより一層深刻だろう。北の寒い国やシリアなどの例を見ればわかる。)加害行為の減少は、文明が進み人間の精神が洗練されたというよりは、むしろ個々の犯罪が公正に取り締まられ、DNA鑑定や防犯カメラなどの整備により犯人が特定される可能性が高まったのが一番の原因ではないか?

2015年4月24日金曜日

いまひとつ不満足な「解釈」の原稿

どう考えてもできそこないの論文。でも今は直し方がわからない。まだ「納品」まで二月あるから寝かせておこう。(小文字のまま)


解釈―共同注視の発展形として

技法の概要
解釈は、精神分析理論に基づく概念であり技法である。それは「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に恩われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)と定義される。ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場がある。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと考えられる。一つにはそれが分析的な治療のもっとも基礎的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは解釈以外の介入、すなわちフロイトが「suggestion 示唆(ないし暗示)」と言い表したさまざまな治療的要素が、分析的な治療から退けられたことである。この示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える種々の影響が挙げられるのである(Safran,2009)
Jeremy D. Safran, PhD: Interview with Lewis Aron Psychoanalytic Psychology. 2009, Vol. 26, No. 2, 99–116
Sandler, J., Dare, C .& Holder, A . (1992)The Patient and the Analyst: The Basis of the Psychoanalytic Process. Karnac Books; Rev Ed edition.
藤山直樹・北山修監訳 患者と分析者一一精神分析臨床の基礎知識 誠信審房,第2版、2008.)
技法の解説  そもそも解釈とは技法なのか?

 精神分析の技法としての解釈は、上述の定義にすでに盛り込まれている。しかしそれを実際にどのように行うかについては、さまざまな状況により異なり、一律に論じることは出来ない。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ない。そもそもなぜ示唆はフロイトにより退けられたのか? 本来精神分析においては、患者が治療者から促されることなく自らの真実を見出す態度を重んじる。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」)で次のように指摘している。「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。」治療者が患者に示唆を与えることを避けるべき根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきであろう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針からそれるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけである。
Lines of Advance in Psycho Analytic Therapy1919, SE17 p.164 著作集第9巻「精神分析療法の道」,小此木啓吾訳)
 
今日的な立場からも、解釈は精神分析的な精神療法において中心的な役割を担うことは間違いない。しかしそれと同時に示唆を排除する立場を維持することは、治療者の介入に対して大きな制限を加えることになりかねない。実際の臨床場面では、治療者が狭義の解釈以外のかかわりを一切控えるということは現実的とはいえないからだ。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する打ち合わせや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じる可能性がある。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能である。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるだろう。
 同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ない。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という意味そのものが教示的、示唆的な性質をあらわしているからである。(解釈とはことごとく示唆の一種である― Hoffman, 1992 Hoffman, I.Z. (1992) Some Practical Implications of a Social-constructivist view of analytic situation: Implication. Psychoanalytic Dialogues, 2:287-304.

もちろん無意識内容を伝えることと教示、示唆とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていた。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのだ。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に教示されれたこととは違う、という含みがある。だが私たちが無意識レベルで知っていることと、いまだ知らないこととは果たして明確に分けられるのだろうか?
一つ簡単な例えを用いてみよう。あなたの背中に文字が書いてあり、あなたはそれを直接目にすることができない。治療者はあなたの背後に回り、その文字を読むことが出来るとしよう。治療者がどうすることが、あなたにとって有益だろうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字をあなた伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのだろうか?それとも「示唆的」なものとして回避すべきなのだろうか?
この問いに唯一の正解などないことは明らかであろう。治療者がどうすることがあなたに有益かはケースバイケースだからだ。あなたはすでにその文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。あなたはそれを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、心の準備のために時間をかけて教えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを伝えてほしいかも知れない。
 他愛のない例ではあるが、背中の文字が、あなた自身よりは治療者が気づきやすいような、あなた自身の問題を比喩的に表しているとしよう。すなわちその文字とはあなたの仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいはあなたの耳には直接入っていない噂話かもしれない。この場合にもやはり上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるだろう。
 ただしおそらく確かなことが一つある。それは治療者があなた自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性があることは、ほぼ確かであろうということだ。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど解釈の定義そのものと言っていい。またその文字があなたの全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は「示唆」的であっても、それがあなたにとって有益である可能性は依然としてあるだろう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われているからだ。フロイトの示した治療指針はあくまでも一つの考え方であり、それをより臨床的に用いる際にはさらにきめ細かい臨床的な彫琢が加えられることになろう。ここで解釈をより広く考え、患者自身が視野に入れていない事柄を伝えることの臨床的な可能性を考えることとするならば、それがフロイト的な意味で「解釈」か「示唆」かといった問題に惑わされずに済む。問題はそれが患者にとって有益な体験となるか、だからである。

具体例とその解説

ここで一つの具体的な臨床例を出して考えたい。

ある30代後半の独身女性Aさんは、両親と同居中である。Aさんはパート勤務で家計に貢献している。3歳下の妹はすでに結婚して家を出ている。彼女には結婚も考えている親しい男性がいるが、両親にはそれを話せないでいる。Aさんはここ2年ほど抑うつ気分にとらわれ、心理療法を受けている。そこで治療者に次のように話す。「最近父親が会社を定年になって家にいることが多いので、母への言葉の暴力がすごいんです。何から何まで言いがかりをつけ、時には手も出るんです。私が盾になって母を守ってあげないと、彼女はダメになってしまうんです。」治療者は「お母さんを心配なさる気持ちはわかります。ただご自分の人生についてはどうお考えになっていますか?」と問うと、Aさんは「私の人生はいいんです。私だけが頼りだと言う母を見捨てられない、それだけです。」治療者は少し考え込み、こう問いかける。「お話の意味がまだ十分つかめていない気もします。ご自分の人生はどうでもいい、とおっしゃっているようで……。」それに対してAさんはすこし憤慨したように言う。「自分を育ててくれた母親のことを思うのが、そんなにおかしいですか?」治療者はAさんの話を聞いていて依然として不明な点を感じつつ、そのことを手掛かりに話を進めていこうと思う。

Aさんが家を離れない理由はきわめて複雑であろうし、そこに彼女のどのような心の問題がどのように反映されているかは、治療者にも詳細は分からない。そこで治療者はともかくもAさんの思考のプロセスを一つ一つ共有していくことから始めるしかない。そのために向けるべき質問は、治療者にはまだ見えにくい、しっくりこない部分であり、そこを尋ねていくうちに治療者の理解も整理され、なおかつAさん自身に否認されていたり抑圧されていたりしている部分も見えてくるのであろうと治療者は考えた。


臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得

ここで私の考えを端的に述べたい。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法にも広く役立てることが出来るであろう。ただしそのために、以下のような視点を導入することを提案する。それは解釈を、「患者が呈している、自らについての一種の暗点化scotomizationについて治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえることだ。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄(上の比喩では、背中に書かれている文字に相当する)について、治療者が質問をしたり明確化をしたりすることで、それをよりよく理解することを促す試みである。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いているが(Freud, 1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとする。(“Repression and scotomization”(1926) Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse.
人はある思考や行動を行う時、いくつかの考え方や事実を視野に入れないことがしばしばある。それは単なる失念かもしれないし、忘却かもしれない。さらにそこには力動的な背景、つまり抑制、抑圧、解離その他の機制が関与しているかもしれない。治療者は患者の話を聞き、その思考に伴走していく際に、しばしばその盲点化されたものに気が付く。上の例では「Aさんは一人で母親の面倒を見ようと考えることに疑問を抱いていないのではないか?」「恋人の存在さえ両親に伝えないことの不自然さが見えていないのでは?」「Aさんは私の問いかけ対して非難されたかのような口調で答えていることに気が付いていないのではないか?」などである。治療者がそれらの疑問を自分自身で持っていること自体がAさんには見えていないような様子が、治療者には気づかれる。するとこれらについて直接、間接に扱う方針が生まれる。それを本稿では広義の解釈と考えるのだが、それは精神分析的な無意識内容の解釈より一般化し、そこに必ずしも力動的な背景を読み込まない点が特徴である。
患者の連想に伴走しながら盲点化に気が付く治療者は、言うまでもなく自分自身の主観に大きく影響を受けている。患者の連想の中に認めた盲点化も、治療者の側の勘違いや独特のidiosyncrasy(個人や集団の思考や行動様式の特異性)が大きく関与しているだろう。それはたとえば患者の同じ夢の解釈が、治療者の数だけ異なる可能性があるのと同じ事情である。また治療者の盲点化の指摘も、単なる明確化から解釈的なものまで含みうる。先ほどの例で言えば、「あなただけお母さんの面倒を見る義務があるようなおっしゃり方をなさっていることにお気づきですか?」と言及したとしても、それは、特に患者の無意識内容に関するものではない。しかし「父親のことは別にしても、あなたご自身に母親のもとを離れがたい気持ちはないのですか? 父親から守る、というのはあなたが家を離れない口実になっていませんか?」と言及することは、Aさんの無意識内容への本来の解釈ということになる。ただし患者の無意識のより深いレベルに触れる指摘は多分に仮説的にならざるを得ないことへの留意は重要であろう。それは治療者の側の思考にも独特の暗点化が存在するからだ。ただし分析家はまた「岡目八目」の立場にもあり、他人の思考の穴は見えやすい位置にあるというのもまぎれもない事実なのだ。そしてその分だけ患者はそれを指摘されるような治療者の存在を必要としている部分があるのである。
さてこのような解釈を仮に技法と考え、その習得を試みるにはどうしたらいいだろうか? 筆者の考えでは、この「暗点化を扱う」意味での解釈は、技法というよりはむしろ治療の経験値と、その背後にある指針にその成否が依拠しているというべきであろう。患者の示す暗点化に気づくためには、多くの臨床例に当たり、たくさんのパターンを認識することであろう。しかしそのうえで同時に虚心にかえり、すべてのケースが独自性を有し、個別であるということをわきまえる必要がある。すなわち繰り返しと個別性の弁証法の中にケースを見る訓練が必要となるであろう。そして治療者は自分自身の主観を用いるという自覚や姿勢も重要となる。

共同注視の延長としての解釈

解釈的な技法は治療者と患者の共同の営みと考えることが出来るだろう。それはちょうど共同注視 joint attentionのようなものだ。患者が自分の過去の思い出について、あるいは現在の心模様について語る。それは治療者と患者の前に広がる架空のスクリーンに映し出されるが、二人が同じものを見ているとは限らない。治療者にはそれが虫食い状の、極端に歪んだ、あるいはモザイク加工を伴ったものとして見える可能性がある。その一部は患者の暗点化によるものであろうが、それはまた患者の側の説明不足、あるいは治療者自身の視野のぼやけや狭小化や暗点化による可能性がある。治療者はそれを注意深く仕分けしつつ、質問や明確化を重ねていくことで、患者の側の暗点化は少しずつ解消されていく可能性がある。
解釈的な作業を、患者の無意識の意識化という高度の技法とは考えずに、治療者と患者が行う共同注視の延長としてとらえることは有益であり、なおかつ精神分析的な理論の蓄積をそこに還元することが可能であると考える。




2015年4月23日木曜日

精神分析と解離 (17)

ということで次に続けるとなると、すでに書いたもののコピペを部分的に使用することになる。何しろサリバンのことはすでにいろいろ書いたからね。
現代の精神分析における解離理論をけん引するドンネル・スターン先生は言う。「サリバンは古典的な分析家と違っていた。彼は欲動と防衛の衝突という観点ではなく、重要な他者との関係で実際に起きたことwhat had actually happened in relationships with significant othersを見据えていた」。そう、やはりフロイト理論は欲動論との結びつきを強調し過ぎが仇になったわけだ。ただしこのスターンの提言について、「実際に起きたこと」ではなく「実際に体験したこと」とすべきであろう。というのもすべては患者が何を実際に体験したか(何が実際に起きたか、ではなく)にかかっているからである。それが現代的な精神分析の見方である。
「サリバンにとっては、一番の防衛は、フロイトの抑圧ではなく、解離だった。なぜなら一番回避しなくてはならないのは、過去のトラウマの再来だからだ。」(スターン) このように考えると、対人関係学派=トラウマに基づいた理論=解離に基づいた理論という図式がピッタリくる。どうだろう。わが国では「対人関係学派は196070年代にはやった、時代遅れの理論」とみられがちだ(実は私もひそかにそう思っていたところがある。白状しよう。) が、全然違うことになる。これほど時代の最先端を行っている理論はない、ということだ。サリバンは半世紀以上時代を先取りしていたということができるだろうか。
 
サリバンの解離理論


サリバンは解離された自己の在り方を表現し、理論化した。彼の「よい自分 good me,「悪い自分 bad me」そしてこの「自分でない自分」という概念化にそれが表れている。最初の二つはおそらく多くの人が日常的に体験しているであろう。自分という存在に対する意識が、二つの対照的な自己イメージに分極化するという体験は、程度の差こそあれ、私たちの多くにとってなじみ深いはずである。自分の力を順当に発揮でき、「自分は結構やれるじゃないか?」と思えるときのセルフイメージ(「よい自分」)と「自分って全然だめだな」と思う時のセルフイメージ(「悪い自分」)とは、しばしば他人の評価により反転する形で体験されることがある。
 それに比べて「自分でない自分」は、むしろ非日常的でしばしば病的な形で現れる。その時の自分があたかも別の世界に逃げ込んでいるような状態、苦痛や恐怖や屈辱のために心をマヒさせるような形でしか、その体験をやり過ごす事が出来ないような状況において出現するのだ。さらに具体的に彼の言葉を追うならば、彼は「自分でない自分」は「深刻な悪夢や精神病的な状態でしか直接体験できず、解離状態としてしか観察されない」と考えた(Sullivan, 1953)。この時の体験は、それが深刻な苦痛が伴う為に決して学習されず、またより原始的な心性のレベル(彼のいう「プロトタキシック」、「パラタキシック」なレベル)でしか体験されないとしたのである。
 現在では、このサリバンの「自分でない自分」の概念は、トラウマや解離の文脈で再評価されるようになってきている。精神医学、心理学においてトラウマによる心の病理が再認識され、臨床家の注意が向けられるようになったのはここ30年ほどのことである。30年というと非常に長いという印象を与えるかもしれないが、その中で精神医学的、精神分析な考え方が徐々に変革を迫られていることを考えると、その動きは激動に近い。それを考えると、サリバンの治療態度はきわめて患者の側に立った共感的な態度ということが出来る。そしてそれで思い出すのが、フェレンツィなのである。サリバンが米国に訪れたフェレンツィの話を耳にし、自分に近い存在と感じて弟子のクララ・トンプソンをブタペストに遣ったのもきわめて合点がいくのである。
 


2015年4月22日水曜日

精神分析と解離 (16)


 しかし私の印象では、スキゾイドの議論はフロイトが危惧したであろうようにはならず、もう少し穏当な路線で進んでいったようである。スキゾイドの議論については癌トリップのまとめが一般的に受け入れられているようであるので、それを少しひも解いてみよう。「対象関係論の展開」(小此木、柏瀬訳、誠信書房、1981年、Harry Guntrip (1971)  Psychoanalytic theory,therapy, and the self, Basic Books) 一昔前に何度も読んで、たくさん線が引いてある本だ。
ただしトラウマの観点から読んではいずに、すでに月日がたっている。と言ってもPDF版だけれどね。自炊は便利だね。いつでもどこでも本が読める。それはさておき・・・・・
「第6章スキゾイド問題」を一回ささっと読んで書いてみよう。第一印象としては、トラウマ理論からは離れているということ。ニュアンスとしてはこんな感じだ。「ウィニコットも言っているように、『程よい母親』のケアを受けられないと、子供は偽りの自己ともいえる外面の下に、真の、傷つきやすい自己を分裂させる。これがスプリッティングの本質だ。」
実際にガントリップはこう書いている。
「冷たく、感情を欠いた知的な人物の外的な防衛がもし突き破られるならば、内に秘めた、傷つきやすくて、大変によく深く、しかも恐怖にみちた乳児的な自己が夢や空想の世界に現れてくる。ただし、このような自己は、外的な世界がみている表面的な自己、つまり偽りの自己(ウィニコット)から分裂・排除されている。」(p.178)
こんな風に言えるだろうか。精神分析で始まったシゾイドの議論は、むしろ解離の議論から離れ、準 schizophrenia 状態としての schizoid の方向へとずれていってしまった。そしてトラウマの議論の代わりに、養育不全の問題へと推移していってしまったのである。

結論:精神分析における解離の問題が、トラウマとの関連で再び焦点づけられるには、サリバンの登場を待つしかなかった。(え?第6章読み直すはずじゃなかったの?)

2015年4月21日火曜日

精神分析と解離(15)

フェレンツィのことでずいぶん時間を使ったな。とにかくためになった。ああいう臨床家が存在したということを、改めて興味深く思った。もっともそれこそ30年前の研修医の頃、マイクル・バリントの「基底欠損」にもかなりフェレンチのことが出てきて、とても印象深く思った。しかしフェレンツィが特に解離についてもかなり先取りした考えを持っていることは、はっきり言って自覚していなかったのである。あらためて森茂起先生の著作に感謝したい。
ところで次は

フェアバーン

私はフェアバーンについての特別の知識はほとんどないが、一つ押さえておかないことは、そもそも彼の「スキゾイド」の概念は、結局スプリッティングの概念、解離の議論、ということなのだ。
「ヒステリーの症状を伴う患者の研究により、以下の点に確信を持った。それは「ヒステリー」の解離現象は、自我のスプリッティングを含み、それは私が「スキゾイド」と呼ぶものと、その語源的な意味合いにおいて同一であるということだ。」(P92.
フェアバーンの代表作である、”psychoanalytic studies of the personality” (Routledge, 1952 ) には、「ヒステリー性の解離」という呼び方で、何度か解離に関する言及がある。それを読んでみる。「二重ないしは多重のパーソナリティの本質的にスキゾイドな性質については、ジャネ、ウィリアム:ジェームス、モートン・プリンスらによる多くの症例を通して論じられてきた。」

しかし、では何をスキゾイドと呼ぶのかについては、とにかくよくわからないね。フェアバーンは、彼らには三つの特徴があるという(p.6)。全能感、孤立と超然さisolation and detachment、内的現実への関心の三つ。うーんよくわからない。フェアバーンにはとにかくからゆる病理にこのスキゾイド現象を見ているようだが、他の人には、結局どういうことかよくわからないような。ただ時代背景からいったら、1911年にブロイラーが schizophrenia を提出しているから、潜在的な病理は神経症憲にもたくさんいますよ、ということを言いたいのだろうか?もちろんすでにフロイトはなくなっているが、草場の陰で絶対言っていると思う。「だからさあ、意識が分かれる、という議論はやめようよ。力動的な議論が出来なくなっちゃうし。大丈夫なの?」というくらいか。

2015年4月20日月曜日

精神分析と解離(14)


「攻撃者との同一化」という概念の問題

ただし、私はここで一つ提言したいことがある。この概念は誤解されやすいということである。しばしば私も含めて誤解しやすいのは、このようにして解離の人の中に黒幕的な人格が形成されるということである。その可能性も否定はできないが、フェレンツィの言っていることを理解するならば、それだけとも言えない。言葉の混乱の翻訳の一部をここに再録しよう(単にコピペだ。)。「大人の圧倒的な力と権威により彼らは黙らされる。しばしば彼らは感覚を奪われるのだ。しかしその恐怖そのものは、それが頂点に達した際は、攻撃者の意図に力づくで自動的に服従させ、攻撃者の願望の一つ一つを予期し、それに服従させる。つまり自分自身をすべて忘れ、攻撃者に同一化するのである。つまり、攻撃者の意のままになる、ということを言っているにすぎない。これは他者を攻撃する人格部分がこのようにして成立するということを言っているわけではないのだ。これはむしろ「あんたはお姉ちゃんでしょ。いい子でいなさい!」と言われて「いい子」になる子供に似ている。別に「攻撃者」でなくても、解離傾向の強い子供は同一化するのだ。やはり攻撃を受けた際に生じることは、私の論じた「第3の経路」に従う気がする。
今準備している本の「ユルイ序章」に書いた部分だ。

ここからは私の仮説である。子供の取り入れの力はおそらく私たちが考える以上のものである。様々な思考や情動のパターンが雛形として、たとえばドラマを見て、友達と話して、物語を読んで入り込む。その中には他人から辛い仕事を押し付けられて不満に思い、その人を恨む人の話も出てくるだろう。子供はそれにも同一化し、疑似体験をするだろう。脳科学的にいえば子供のミラーニューロンがそこには深く関与しているはずだ。こうして子供の心には、侵襲や迫害に対する怒りなどの、正常な心の反応も、パターンとしては成立しているはずなのだ。つまり親からの辛い仕打ちを受けた子供は、それを一方では淡々と受け入れつつも、心のどこかでは怒りや憎しみを伴って反応している部分を併せ持つのである。子供が高い感性を持ち、正常なミラーニューロンの機能を備えていればこそ、そのような事態が生じるだろう。あとは両者を解離する傾向が人より強かったとしたら、それらは別々に成立し、一方は「箱の中」に隔離されたままで進行していくのであろう。実に不思議な現象ではあるが、解離の臨床をする側の人間に必要なのは、この不思議さや分かりづらさに耐える能力なのだろう。

2015年4月19日日曜日

精神分析と解離(13)


この後、攻撃者の大人は攻撃の事実を否認し、極度に道徳的になる。そして「どうせ子供だから何もわからないだろう」と思う。子供は母親に助けを求めるが、相手にしてもらえない、という記述が続く(以上、同論文298299ページ)。そしてこの記述。
「この観察の科学的な価値は、十分に発達していない子供のパーソナリティは、突然の不快に対し、防衛ではなく、脅してくる、ないしは攻撃してくる人物への同一化と取入れであり、それは恐れに基づいた同一化である。The scientific importance of this ovservation is the assumption that the still not well-developed personality of the child responds to sudden unpleasure, not with defense, but with identification and itrojection of the menacing person or aggressor, identification based on fear.
ここまでの印象だって? う~ん。フェレンツィはすごい。なぜなら現代的なトラウマの考え方をすでにほとんど先取りしているからだ。なぜそういうことができたのか?それは臨床素材をしっかり見ていたからだ。レーベンフックが光学顕微鏡を用いて観察を発表したのは1600年代の後半だが、もし100年前にその顕微鏡を手に入れた人がいたら、同じ植物の細胞の画を描いただろう。フェレンツィもすでに1930年代に、現在のトラウマ論者と同じものを見ていたということになる。
私はフェレンツィのこの論文を部分的に訳してみて、何も付け加えることはない。攻撃者との同一化、取入れという考えは今でも生きていると思う。



2015年4月18日土曜日

精神分析と解離(12)

攻撃者との同一化について

アンナフロイトが提出したといわれているこの概念。実はフェレンツィによるものだという。事実この論文(「言葉の混乱」)に出てくるわけであるが、はたして年代的などうなんだろう?
「[暴行を受けた子供の]最初の衝動は、拒絶、憎しみ、嫌悪、そして力による抵抗であろう。『いやだいやだ、こんなのいやだ、強過ぎて痛い!あっちに行って!』である。極度の恐れにより麻痺させられるのでなければ、これかそれに似たものが直接の反応であろう。子供は身体的に精神的にどうすることもできず helpless 、彼らがたとえ思考によってでも抵抗するにはあまりに彼らのパーソナリティは不十分にしか固まっていない。Their personality is still too insufficiently consolidated for them to be able to protest even if only in thought. 「大人の圧倒的な力と権威により彼らは黙らされる。しばしば彼らは感覚を奪われるのだ。しかしその恐怖そのものは、それが頂点に達した際は、攻撃者の意図に力づくで自動的に服従させ、攻撃者の願望の一つ一つを予期し、それに服従させる。つまり自分自身をすべて忘れ、攻撃者に同一化するのである。Yet the very fear, when it reaches its zenith, forces them automatically to surrender to the will of the ggressor, to anticipate each of his wishes and to submit to them; forgetting themselves entirely, to identify totally with the aggressor.」「 攻撃者の統一化のことを取り入れと呼ぶとすれば、その結果として、攻撃者は外的な現実としては姿を消し、精神外界的ではなく、精神内界的になる。しかし精神内界は、あたかもトラウマ的なトランス状態のように、夢のような状態において一次過程に従属し、つまりそれは快感原則に従い、それは陽性ないしは陰性の幻覚に形を変える。As a result of the identification with the aggressor, lt us call it introjection, the affressor disappears as external reality and becomes intapsychic instead of extrapsychic; however, the intropsychic is subject to the primary process in dreamlike state, as is the traumatic trance, that is, in accordance woth the pleasure principle, it can be shaped and transformed into a positive as well as negative hallucination.」「ともあれ攻撃は動かしがたい外的な現実としては姿を消し、子供はトラウマ的なトランスの中で、以前のやさしさの状態を維持するのである。In any event, the assault ceases to exist as an inflexible external reality, and the child, in his traumatic trance, succeeds in maintaining the former situation of tenderness.」「 しかし何といってもこの攻撃者への同一化、すなわち恐れに基づく同一化が引き起こす子供の情緒生活の最大の変化は、大人の罪悪感の取入れなのだ。そしてそれが子どもの遊びの中に、処罰すべき行動を表す。Yet the most important transformation in the emotional life of the child, which his identification with the adult partner, an identification based on fear, calls forth, is the introjection of the guilut feeling of the adult, which gives hitherto innoncent play the appearance of a punishable act.
「子供はそのような攻撃から回復した後、極度に混乱し、事実すでにスプリットし、同時に無垢でかつ罪悪感を持つ。When the child recovers after such an attack, he feels extremely confused, in fact already split, innocent and guilty at the same time.


2015年4月17日金曜日

精神分析と解離(11)


フェレンツィの「言葉の混乱」の論文に戻る。(これはある意味でいわくつきの有名な論文だが、おそらく日本語にはなっていないと思う。Masson の本の付録についてくるが、ネットではタダで原文が拾える。”Confusion of tongues between adults and the child”)そこでフェレンツィが「含羞」系であったことを示す記述が、「職業的な偽善」ともの。(Masson, P294)「私たちは丁寧に患者に挨拶をして連想を始めるように言う。・・・しかし私たちには、患者の内的、ないし外的な特徴を耐えがたく思うこともあろう。あるいは私たちは分析の時間を、職業的、個人的なより重要な用事を中断するものと感じるかもしれない。私はその理由を探し、患者とそれを話し、それが可能性のあるものとしてだけでなく、事実であることを認めること以外に解決の方法を見出せない。」エーっ?続けよう。「驚くべきことは、私たちがこれまでは回避することができないと考えていたそのような「職業的な偽善」を捨てることで、患者は傷つけられるのではなく、明白な安心感を得るのだ。もし外傷的―ヒステリカルな反応が起きるとしても、それはずっとマイルドなものである。過去のトラウマ的な出来事は、再び情緒的な平衡を崩す代わりに、思考の中で再現されるのだ。阻止絵患者のパーソナリティのレベルはかなり上昇するのである。」「どうしてこんなことが起きるのだろうか?それ以前には医者と患者の間には言葉にできない、不誠実なものがあったが、話すことで、いわば患者の舌が解放されるのだ。… Discussing it loosened, so to speak, the tongue of the patient. ここの「舌 tangue」というのはこの論文のタイトルが、「言葉の混乱・・・confusion of tangues…」だから特別英語表記しておく。「分析家が誤りを認めることで、患者からの信頼を勝ち取ることができるのだ。だから時々間違えることにはアドバンテージがある。それを告白することができるのだ。同でなくても私たちは過ちを犯すのだし。」ここら辺の雰囲気、最近の関係精神分析家たちのそれに近いといえるのではないか。しかしそれにしてもフェレンツィはラジカルだね。こんなことも書いている。「分析家が偽善を維持することは、患者が幼いころにこうむったトラウマを再現することになる。」そこまで言うかな?
「分析で私たちはよく幼児期への対抗、というが、それがいかに正しいかを自覚していない。パーソナリティのスプリットということを言うが、それがいかに深刻なものかを理解していないのだ。私たちが教育者ぶった冷たい姿勢を、強直反応を示している患者に対してさえ崩さないとしたら、それは患者との間に残された最後のきずなを断ち切ることになる。無意識状態の患者は、そのトランスの中では、本当の子供なのである。その患者は知性的な明確に答えることができず、母親的な温かさにこたえることの出来る子供なのだ。後者がなければ患者は孤独で、そのスプリッティングが起きた時の、その病気を生んだような耐え難い子供の状態に置かれることになる。」「患者は演技的な同情の表現 theatrical phrases expressing compassion の表現にではなく、真の共感 genuine sympathy に反応するのだ。」ここら辺はロジャースとも雰囲気が近いことがわかるだろう。

2015年4月16日木曜日

精神分析と解離(10)

久しぶりに晴天で暖かな気持ちの良い朝。その日の気分に天気が影響するのは紛れもない事実だろう。


John Gedo はコフートの高弟だったが、彼がコフート理論を進めたうえで提出した概念(「構造体としての自己」という概念)を剽窃したとして、「ruthless egocentric person っ容赦のない自己チュー人間」と非難したという。コフートは、弟子の理論を自分は否定しながら、それを黙って借用するというところがあった。そしてそれはおそらく彼が多くのヒントを得たはずの過去の分析理論、例えばウィニコットについてほとんど引用しないという傾向にも表れていた。このように考えると、コフート理論は恥の理論と結びつくと同時に、恥を徹底して否認する傾向をも内包していたということになるだろう。
要するにコフートは「含羞の人」の逆だったわけである。私にとって含羞の人とは常に(場合によっては必要以上に)へりくだり、自分が相手にどのような迷惑を及ぼしているかを気にしている人である。しかしコフートはその点お構いなしに、自分のことを一方的に相手に伝える性質があり、その場合相手の迷惑を考えていない(それが見えていない)ところがある。これは上述の Terman が一度コフートと学会の際にウィーンで午後を共にした際、コフートがあまりに自分の知識をひけらかすので、しまいには実際に吐き気がしてきた、と語っているという。しかしこの Terman はまた、学者として、バイザーとしてのコフートを、おそらく弟子の中では最も評価しているというところがある。しかしそれは患者の病理を説明することにおいてであり、Terman を勇気付けたり、どのように実際に扱うべきかなどについてはアドバイスがなかったという。
実はこのコフートの自己欺瞞は彼の人生を通して言えることかもしれない。彼は分析の世界で名を成すために、本当は伝統的な分析理論に満足していなかったことを明らかにせず、あえて「ミスター・サイコアナリシス」であり続けたというところがある。少なくとも1970年あたりまでは。私はコフート理論を高く評価しているが、それと人間コフートの理想化とは無関係である。というか、誰もそんなにエライ人間などいない、というのが面白いではないか。

2015年4月15日水曜日

精神分析と解離(9)


 実はこうして書いている間に、一つの「事件」が起きた。と言っても私の心の中でのことだ。少し大げさだが、ある種の発見である。題して「コフートの人格問題」である。
発端はこうだ。私はフェレンツィについて書いているが、結局はこれはある学会での発表の準備である。そこで精神分析と解離の関係について話すのだ。そして同時にとある分析セミナーでコフートの話をするために、Strozier のコフートの伝記を読み進めているが、フェレンツィとコフートがある意味で正反対であるという点を「発見」したのである。私の印象では、フェレンツィは嘘がつけない人間である。少なくとも意図的には。おそらく多くの欺瞞を抱えていただろうが、少なくとも大っぴらに人を欺いたり嘘をついたりできない人。だから分析家の上から目線が自分でも許せず、患者との相互分析などに走ったのである。しかし同じ「ロマン派」の分析家でも、コフートはかなりそこら辺は割り切った、かなりあからさまな欺瞞がみられた人としてStrozierは描いてるのである。題して「コフートの人格問題」としよう。
例1        コフートは自分の病気についてかなりあからさまな「嘘」を患者についていた。学生からの「癌ではないですか?」との問いに、心臓病から二次的に来た感染症が治っていないのだ、という言い方をした。
例2        David Terman の処遇。彼はコフート自身よりはるか前に、エディプス葛藤が自己心理学の一部として説明できるという説を提唱していたが、コフートはそれを採用しなかった。しかしのちのコフート自身の著述(1984)で、同様の論述を展開しながら、Termanの理論的な先取りについて一言も触れなかったという。
例3        パーティでは自分が話の中心でないと満足しなかった。他方では自分が望まない自己開示は一切しなかった。

例4        ある弟子(Gedo ゲドー)は、コフートの自己愛的な性格のために疎遠となった。