2015年4月24日金曜日

いまひとつ不満足な「解釈」の原稿

どう考えてもできそこないの論文。でも今は直し方がわからない。まだ「納品」まで二月あるから寝かせておこう。(小文字のまま)


解釈―共同注視の発展形として

技法の概要
解釈は、精神分析理論に基づく概念であり技法である。それは「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に恩われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)と定義される。ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場がある。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと考えられる。一つにはそれが分析的な治療のもっとも基礎的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは解釈以外の介入、すなわちフロイトが「suggestion 示唆(ないし暗示)」と言い表したさまざまな治療的要素が、分析的な治療から退けられたことである。この示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える種々の影響が挙げられるのである(Safran,2009)
Jeremy D. Safran, PhD: Interview with Lewis Aron Psychoanalytic Psychology. 2009, Vol. 26, No. 2, 99–116
Sandler, J., Dare, C .& Holder, A . (1992)The Patient and the Analyst: The Basis of the Psychoanalytic Process. Karnac Books; Rev Ed edition.
藤山直樹・北山修監訳 患者と分析者一一精神分析臨床の基礎知識 誠信審房,第2版、2008.)
技法の解説  そもそも解釈とは技法なのか?

 精神分析の技法としての解釈は、上述の定義にすでに盛り込まれている。しかしそれを実際にどのように行うかについては、さまざまな状況により異なり、一律に論じることは出来ない。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ない。そもそもなぜ示唆はフロイトにより退けられたのか? 本来精神分析においては、患者が治療者から促されることなく自らの真実を見出す態度を重んじる。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」)で次のように指摘している。「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。」治療者が患者に示唆を与えることを避けるべき根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきであろう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針からそれるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけである。
Lines of Advance in Psycho Analytic Therapy1919, SE17 p.164 著作集第9巻「精神分析療法の道」,小此木啓吾訳)
 
今日的な立場からも、解釈は精神分析的な精神療法において中心的な役割を担うことは間違いない。しかしそれと同時に示唆を排除する立場を維持することは、治療者の介入に対して大きな制限を加えることになりかねない。実際の臨床場面では、治療者が狭義の解釈以外のかかわりを一切控えるということは現実的とはいえないからだ。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する打ち合わせや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じる可能性がある。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能である。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるだろう。
 同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ない。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という意味そのものが教示的、示唆的な性質をあらわしているからである。(解釈とはことごとく示唆の一種である― Hoffman, 1992 Hoffman, I.Z. (1992) Some Practical Implications of a Social-constructivist view of analytic situation: Implication. Psychoanalytic Dialogues, 2:287-304.

もちろん無意識内容を伝えることと教示、示唆とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていた。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのだ。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に教示されれたこととは違う、という含みがある。だが私たちが無意識レベルで知っていることと、いまだ知らないこととは果たして明確に分けられるのだろうか?
一つ簡単な例えを用いてみよう。あなたの背中に文字が書いてあり、あなたはそれを直接目にすることができない。治療者はあなたの背後に回り、その文字を読むことが出来るとしよう。治療者がどうすることが、あなたにとって有益だろうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字をあなた伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのだろうか?それとも「示唆的」なものとして回避すべきなのだろうか?
この問いに唯一の正解などないことは明らかであろう。治療者がどうすることがあなたに有益かはケースバイケースだからだ。あなたはすでにその文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。あなたはそれを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、心の準備のために時間をかけて教えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを伝えてほしいかも知れない。
 他愛のない例ではあるが、背中の文字が、あなた自身よりは治療者が気づきやすいような、あなた自身の問題を比喩的に表しているとしよう。すなわちその文字とはあなたの仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいはあなたの耳には直接入っていない噂話かもしれない。この場合にもやはり上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるだろう。
 ただしおそらく確かなことが一つある。それは治療者があなた自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性があることは、ほぼ確かであろうということだ。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど解釈の定義そのものと言っていい。またその文字があなたの全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は「示唆」的であっても、それがあなたにとって有益である可能性は依然としてあるだろう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われているからだ。フロイトの示した治療指針はあくまでも一つの考え方であり、それをより臨床的に用いる際にはさらにきめ細かい臨床的な彫琢が加えられることになろう。ここで解釈をより広く考え、患者自身が視野に入れていない事柄を伝えることの臨床的な可能性を考えることとするならば、それがフロイト的な意味で「解釈」か「示唆」かといった問題に惑わされずに済む。問題はそれが患者にとって有益な体験となるか、だからである。

具体例とその解説

ここで一つの具体的な臨床例を出して考えたい。

ある30代後半の独身女性Aさんは、両親と同居中である。Aさんはパート勤務で家計に貢献している。3歳下の妹はすでに結婚して家を出ている。彼女には結婚も考えている親しい男性がいるが、両親にはそれを話せないでいる。Aさんはここ2年ほど抑うつ気分にとらわれ、心理療法を受けている。そこで治療者に次のように話す。「最近父親が会社を定年になって家にいることが多いので、母への言葉の暴力がすごいんです。何から何まで言いがかりをつけ、時には手も出るんです。私が盾になって母を守ってあげないと、彼女はダメになってしまうんです。」治療者は「お母さんを心配なさる気持ちはわかります。ただご自分の人生についてはどうお考えになっていますか?」と問うと、Aさんは「私の人生はいいんです。私だけが頼りだと言う母を見捨てられない、それだけです。」治療者は少し考え込み、こう問いかける。「お話の意味がまだ十分つかめていない気もします。ご自分の人生はどうでもいい、とおっしゃっているようで……。」それに対してAさんはすこし憤慨したように言う。「自分を育ててくれた母親のことを思うのが、そんなにおかしいですか?」治療者はAさんの話を聞いていて依然として不明な点を感じつつ、そのことを手掛かりに話を進めていこうと思う。

Aさんが家を離れない理由はきわめて複雑であろうし、そこに彼女のどのような心の問題がどのように反映されているかは、治療者にも詳細は分からない。そこで治療者はともかくもAさんの思考のプロセスを一つ一つ共有していくことから始めるしかない。そのために向けるべき質問は、治療者にはまだ見えにくい、しっくりこない部分であり、そこを尋ねていくうちに治療者の理解も整理され、なおかつAさん自身に否認されていたり抑圧されていたりしている部分も見えてくるのであろうと治療者は考えた。


臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得

ここで私の考えを端的に述べたい。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法にも広く役立てることが出来るであろう。ただしそのために、以下のような視点を導入することを提案する。それは解釈を、「患者が呈している、自らについての一種の暗点化scotomizationについて治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえることだ。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄(上の比喩では、背中に書かれている文字に相当する)について、治療者が質問をしたり明確化をしたりすることで、それをよりよく理解することを促す試みである。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いているが(Freud, 1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとする。(“Repression and scotomization”(1926) Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse.
人はある思考や行動を行う時、いくつかの考え方や事実を視野に入れないことがしばしばある。それは単なる失念かもしれないし、忘却かもしれない。さらにそこには力動的な背景、つまり抑制、抑圧、解離その他の機制が関与しているかもしれない。治療者は患者の話を聞き、その思考に伴走していく際に、しばしばその盲点化されたものに気が付く。上の例では「Aさんは一人で母親の面倒を見ようと考えることに疑問を抱いていないのではないか?」「恋人の存在さえ両親に伝えないことの不自然さが見えていないのでは?」「Aさんは私の問いかけ対して非難されたかのような口調で答えていることに気が付いていないのではないか?」などである。治療者がそれらの疑問を自分自身で持っていること自体がAさんには見えていないような様子が、治療者には気づかれる。するとこれらについて直接、間接に扱う方針が生まれる。それを本稿では広義の解釈と考えるのだが、それは精神分析的な無意識内容の解釈より一般化し、そこに必ずしも力動的な背景を読み込まない点が特徴である。
患者の連想に伴走しながら盲点化に気が付く治療者は、言うまでもなく自分自身の主観に大きく影響を受けている。患者の連想の中に認めた盲点化も、治療者の側の勘違いや独特のidiosyncrasy(個人や集団の思考や行動様式の特異性)が大きく関与しているだろう。それはたとえば患者の同じ夢の解釈が、治療者の数だけ異なる可能性があるのと同じ事情である。また治療者の盲点化の指摘も、単なる明確化から解釈的なものまで含みうる。先ほどの例で言えば、「あなただけお母さんの面倒を見る義務があるようなおっしゃり方をなさっていることにお気づきですか?」と言及したとしても、それは、特に患者の無意識内容に関するものではない。しかし「父親のことは別にしても、あなたご自身に母親のもとを離れがたい気持ちはないのですか? 父親から守る、というのはあなたが家を離れない口実になっていませんか?」と言及することは、Aさんの無意識内容への本来の解釈ということになる。ただし患者の無意識のより深いレベルに触れる指摘は多分に仮説的にならざるを得ないことへの留意は重要であろう。それは治療者の側の思考にも独特の暗点化が存在するからだ。ただし分析家はまた「岡目八目」の立場にもあり、他人の思考の穴は見えやすい位置にあるというのもまぎれもない事実なのだ。そしてその分だけ患者はそれを指摘されるような治療者の存在を必要としている部分があるのである。
さてこのような解釈を仮に技法と考え、その習得を試みるにはどうしたらいいだろうか? 筆者の考えでは、この「暗点化を扱う」意味での解釈は、技法というよりはむしろ治療の経験値と、その背後にある指針にその成否が依拠しているというべきであろう。患者の示す暗点化に気づくためには、多くの臨床例に当たり、たくさんのパターンを認識することであろう。しかしそのうえで同時に虚心にかえり、すべてのケースが独自性を有し、個別であるということをわきまえる必要がある。すなわち繰り返しと個別性の弁証法の中にケースを見る訓練が必要となるであろう。そして治療者は自分自身の主観を用いるという自覚や姿勢も重要となる。

共同注視の延長としての解釈

解釈的な技法は治療者と患者の共同の営みと考えることが出来るだろう。それはちょうど共同注視 joint attentionのようなものだ。患者が自分の過去の思い出について、あるいは現在の心模様について語る。それは治療者と患者の前に広がる架空のスクリーンに映し出されるが、二人が同じものを見ているとは限らない。治療者にはそれが虫食い状の、極端に歪んだ、あるいはモザイク加工を伴ったものとして見える可能性がある。その一部は患者の暗点化によるものであろうが、それはまた患者の側の説明不足、あるいは治療者自身の視野のぼやけや狭小化や暗点化による可能性がある。治療者はそれを注意深く仕分けしつつ、質問や明確化を重ねていくことで、患者の側の暗点化は少しずつ解消されていく可能性がある。
解釈的な作業を、患者の無意識の意識化という高度の技法とは考えずに、治療者と患者が行う共同注視の延長としてとらえることは有益であり、なおかつ精神分析的な理論の蓄積をそこに還元することが可能であると考える。