2015年4月26日日曜日

精神医学からみた暴力 (2)

このように言えば、人間にとって暴力や攻撃性は根源的なものであり、本能の一部である、というような主張へとつながりそうな印象を与えるかもしれない。ただし私自身は暴力行為が一部の人間に快感を呼び起こすために繰り返されるという事実は認めても、それが本能とまでは考える必要はないという立場だ。例えば多くの私たちは飲酒を好む。一昔前なら、成人男性は皆タバコを吸っていた。だったら飲酒、喫煙は「人間の本能」かと言えばもちろんそうではない。ただ人の報酬系はそれらの物質を摂取することにより興奮するという性質があるために、それらの行動を追及し、それを断ち切ることが難しいという事実が示されているにすぎない。ある種の暴力行為に快感を覚える人が多いからと言ってそれを本能と結びつける必要はない。例えば人は食行動を営み、夜になったら眠りにつく。それは人間の生理学的な条件に基づいた本能といえる。では人は人を殴らないと精神的に不安定になり、体調を崩すかと言えば、そういうことはないのだ。人は攻撃された場合に相手に暴力で立ち向かうことが一般であろうが、それは防衛本能の一部として理解することにやぶさかではない。しかし自発的な他者への暴力行為、トリガーのない他者への暴行をそこに含むことはできない。そして世の中に生じている多くの暴力行為について、この自発性、無・被触発性(そんな言葉、あるか?)が見られる。だからこそ私たちは不思議に思うし、嘆くのである。「なぜこのような残虐な行為をするのだろうか?」 「原因を突き止めなくてはならない。」「二度とこのような事態を起こしてはならない。」それに比べつと酔っ払いが売り言葉に買い言葉から始まり、殴り合いに発展しても、ニュースネタにはならない。あまりにも当たり前で、説明がつき、その生じ方に疑問の余地がないからだ。

結局何が言いたいのか?世間をにぎわす暴力行為、そしてとくにまだいたいけな子供が時に見せる暴力行為は、それを一種の本能の暴発と見なす根拠はないということ、それが生じるプロセスをもう少し説明できるであろう、ということである。私は臨床医なので、そのことを精神医学的、脳科学的な知見(と言っても全く大したものではないが)から見直してみたいのだ。そしてその前提として私が言いたいのは、暴力に本能を見出す根拠はないということである。ただし暴力や攻撃性が本能として存在しない、ということの証明は難しい。あることが「存在しない」ことを証明することがえてして困難なことだ。そうではなく、攻撃本能がたとえあったとしても、子供にその原型が見られるような暴力行為は、それ以外で説明されてしまうことがほとんどである、というのが立場だ。そしてそれは例えばウィニコットの立場に近い。私が彼の理論を援用するというのではなく、彼の理論が最もしっくりくる形で私の主張を代弁してくれると感じる。