「攻撃者との同一化」という概念の問題
ただし、私はここで一つ提言したいことがある。この概念は誤解されやすいということである。しばしば私も含めて誤解しやすいのは、このようにして解離の人の中に黒幕的な人格が形成されるということである。その可能性も否定はできないが、フェレンツィの言っていることを理解するならば、それだけとも言えない。言葉の混乱の翻訳の一部をここに再録しよう(単にコピペだ。)。「大人の圧倒的な力と権威により彼らは黙らされる。しばしば彼らは感覚を奪われるのだ。しかしその恐怖そのものは、それが頂点に達した際は、攻撃者の意図に力づくで自動的に服従させ、攻撃者の願望の一つ一つを予期し、それに服従させる。つまり自分自身をすべて忘れ、攻撃者に同一化するのである。つまり、攻撃者の意のままになる、ということを言っているにすぎない。これは他者を攻撃する人格部分がこのようにして成立するということを言っているわけではないのだ。これはむしろ「あんたはお姉ちゃんでしょ。いい子でいなさい!」と言われて「いい子」になる子供に似ている。別に「攻撃者」でなくても、解離傾向の強い子供は同一化するのだ。やはり攻撃を受けた際に生じることは、私の論じた「第3の経路」に従う気がする。
今準備している本の「ユルイ序章」に書いた部分だ。
ここからは私の仮説である。子供の取り入れの力はおそらく私たちが考える以上のものである。様々な思考や情動のパターンが雛形として、たとえばドラマを見て、友達と話して、物語を読んで入り込む。その中には他人から辛い仕事を押し付けられて不満に思い、その人を恨む人の話も出てくるだろう。子供はそれにも同一化し、疑似体験をするだろう。脳科学的にいえば子供のミラーニューロンがそこには深く関与しているはずだ。こうして子供の心には、侵襲や迫害に対する怒りなどの、正常な心の反応も、パターンとしては成立しているはずなのだ。つまり親からの辛い仕打ちを受けた子供は、それを一方では淡々と受け入れつつも、心のどこかでは怒りや憎しみを伴って反応している部分を併せ持つのである。子供が高い感性を持ち、正常なミラーニューロンの機能を備えていればこそ、そのような事態が生じるだろう。あとは両者を解離する傾向が人より強かったとしたら、それらは別々に成立し、一方は「箱の中」に隔離されたままで進行していくのであろう。実に不思議な現象ではあるが、解離の臨床をする側の人間に必要なのは、この不思議さや分かりづらさに耐える能力なのだろう。