2021年9月30日木曜日

あるインタビュー 2

 Q. 精神分析学業界について思うことについてお話しください。

 A. 精神分析の世界というのと業界というのでは随分ニュアンスが異なってきて来ますね。業界というと何となくキナ臭くて、どろどろとした感じもあります。そこにインタビューアーの意図がどの程度あるかはあまり問わないことにして、さらっと流す形でこたえたいと思います。

現在精神分析で起きている非常に大きな流れは私は二つ原因があると思います。

   一つは精神分析理論は治療手段であるにもかかわらず、患者の苦しみを軽減する方向へとまっすぐに向いていないことに対する問題意識が高まってきたというのがあると思います。ですからもう少し苦痛を和らげることを考えるべきだという事が論じられるようになったことです。この流れに関しては、いわゆる支持的療法の流れがそれに相当します。洞察だけでなく、患者の不安の軽減といったことも治療の目標として扱われてもいいのではないかという考えが広まり、週4回ではなくても週12回の寝椅子を用いない治療の普及がなされたのが1960年、70年代です。

   もう一つは精神の営み自体が極めて複雑で、精神分析理論がそれを十分に反映していないのではないかという反省が芽生えたという事があります。フロイトが考えた、受け身的中立的な治療者を前にした患者の転移の発展とその解釈による治癒という図式がそれほど単純ではないという事が分かってきて、もっともっと複雑なことが患者治療者の間では起きているのではないかという事が理解されるようになってきました。またもう一つの流れについては、いわゆる対人関係理論や関係精神分析の流れがそれに相当すると言えるでしょう。そこでは治療者と患者の役割はフロイトが考えたような一方通行のものではなく、相互的で流動的で、二方向性を持っているという事です。

 

2021年9月29日水曜日

あるインタビュー 1

 ある企画でインタビューを受けることになった。テーマは私にとってとても話しやすいものが用意されている。

     臨床の楽しさ

日々の臨床が楽しいかと言われると、それよりはむしろ遣り甲斐という言葉がぴったりくると思います。患者さんと限られた時間で会っていくことは楽しいことばかりではありません。実は苦しいこともたくさんあります。まずはそこから行きましょうか。患者さんはほとんどがある種の苦しみを抱えていらっしゃいます。私はそれを何とか軽減したいと思います。それはむしろ当然のことであり、私のもとに受診し、私が話を聞き、薬を処方することで、少しでも助けとなりたいとおもわない医者はいないでしょう。そしてそれが比較的うまくいき、患者さんの苦しみが改善されることは私たちにとっての大きな喜びです。臨床をやっていて楽しいと感じるのはその様な瞬間でしょう。これは外科の先生の話を聞いているとわかります。外科の先生は何時間も手術に集中し、うまく患部を取りきれたと思うと喜び、待合室にいる家族のところに真っ先に報告します。「手術は成功しました。悪いところはみんな取り切りました。」そしてそれを患者さん自身の麻酔が覚めたら報告するでしょう。その喜びがあるから外科医を続けていられるのだ、と率直におっしゃる外科の先生は少なくありません。

ところが心を扱う精神科や心理士の場合、私たちが希望するような回復はすぐには起きません。ある意味ではそれは永久に起きない場合もあるでしょう。すると治療プロセスの多くは必然的に失望を伴っています。すると次の段階として治療者に求められるは一緒に苦しさを背負っていくことであり、苦しみを改善しないことをお互いに理解して受け入れることです。しかしそれがある程度できていると感じた時は、それなりに喜びになるのではないでしょうか。

私は最近思うのは、臨床の楽しみは人との関りの楽しみにも似ているという事です。その秘訣は多くの期待をしないという事です。これは患者さんの病状についても治療者についても言えます。人生における苦しみは期待を抱いてそれが叶わなかったことの失望がその多くを占めます。人生の楽しみ、臨床の楽しみの秘訣は多くの期待をしないという事なのです。しかしもう一つあります。それは現在持っているものをありがたいと思う事でしょう。この二つはとても大事なことだと思います。

少しまとめるならば、治療者としての遣り甲斐は、患者さんの苦しみが和らぐことが必ずしも伴わなくても、精いっぱいそれに貢献した、出来ることはやったという気持ちから来るのではないかと思います。そしてそれはあきらめるべきことはあきらめるというプロセスも入ってくるのです。

    精神分析の学び方

 さてここから精神分析の学び方というテーマに移るわけですが、これは今話したこととちょっと関係があります。先ほどは治療者としての楽しさは患者さんの苦しみが軽減することに関係していると言いました。しかし精神分析とは、ある意味では、「苦しみを軽減する」こととは別、というよりは全く逆のことと考えられる傾向にあります。これは私はある意味では同意し、また別の意味では同意しないところです。精神分析はフロイトがそれを始めたころから、自らの心の闇の部分を解明するという目的がありました。それをフロイトは無意識と呼んだわけですが、この考え方が極めて大きなインパクトを持っていました。フロイトはもちろん無意識の部分を解き明かすことで症状も自然に改善されるのだと考えたのです。ですから精神分析の目的は結局は苦しみを軽減することに繋がっていたわけですが、極端に言えばたとえ苦しみは軽減しなくとも、無意識の解明の方がより本質的だという考えがフロイトの中にはありました。フロイトはなんと言っても科学者ですから、何らかの大きな発見に貢献したいという野心がありました。これは非常に不思議な事であり、フロイト自身は人生で大いに悩み、いくつかの神経症を抱えていましたから、その症状を改善するための薬物、例えばコカインなどの試用にはとても興味を持ったのです。しかしそれの臨床的な応用が失敗に終わり、大きな失望を体験した後、フロイトは心の探求へと向かいました。

フロイトが精神分析において患者の苦しみの軽減に最大の重きを置かなかったことは、私は精神分析が抱えている問題の一つだと考えますが、一つの大きな利点がありました。それは心というものの仕組みや構造を、フロイトが誰よりも詳しく、深く考え、理解しようと試みたことです。それが索引も含めた全24巻のスタンダードエディションにまとめられるわけです。そしてその理論から派生した様々な精神分析理論が発達することになります。そこで精神分析を学ぶことはこの理論的な部分を学ぶことに繋がりますが、それが精神分析の難しさや奥行きの深さの部分に繋がります。

 

2021年9月28日火曜日

大文字の解離理論に向けて 推敲 6

 次になぜこの大文字の解離 Dissociation という概念をことさら精神分析に導入する必要があるかについて、以下の二点を改めて強調しておきたい。一つには私たちが臨床上多く接するDIDは複数の意識の同時的な存在という形をとることが明らかであるため、Dissociation はおそらくDIDのデフォルトのあり方といえるのだ。そして現在精神分析で論じられている通常の解離 dissociation はそれとは質的に異なるのである。大文字表記を強調する Dissociation という呼称には、こちらがある意味で「本質的な」、ないしは「本格的な」「深刻な」あり方であるという点を強調するという意図がある。

もう一点は「精神分析はdissociation だけではなく、 Dissociation もまた考察及び治療対象として扱うべきだ」と呼びかけることで、この病態に対してより多くの臨床家の注意を喚起するという目的がある。というのも、これまで見てきた通り、一人の人間にいくつかの意識が並行して存在しうるという事実そのものを多くの分析的な臨床家が受け入れていない場合が多いという現実があるからである。精神分析においては、複数の意識の共存は認めてはならないというフロイトの声が依然として響き渡っているかのようである。しかしそのような臨床的な事実がある以上、精神分析はそれをいかようにしてでも組み込む必要がある。なぜなら精神分析は「~という病理については存在を認めない」という立場は取るべきでないからである。

この事態を説明するために、過去の例を挙げたい。精神分析においては、統合失調症などの精神病をいかに扱うかという議論はフロイトがすでに行っているのは周知のとおりだ。例えばフロイトは精神病状態においては通常の神経症とは異なり、リビドーが自我に向かっている状態で、そのために転移が形成されないために精神分析の治療が難しいと論じた。すなわちフロイトは精神病という病態をそのものとして認識し、それについての説明を試みた。

ところが多重人格状態においてはこれとは別の事情が生じている。基本的には異なる人格の存在について、精神分析ではそれをタイプ1)として扱い、タイプ2)のような事態はあたかも存在しないかのように扱う傾向がある。つまり多重人格状態をそれ自身として認めず、別のものとして説明するという事を続けているように思われるのである。それは統合失調症をそれ自体として扱わずに神経症の特殊な例として扱うという事と同じである。統合失調症ではきちんとした扱いをしているのに解離ではそうならない一番の理由は、フロイトがそもそも解離を論じないという立場を示したからであろう。また精神分析ではスプリッティングなどの概念が存在し、解離をそれと同列のものとして扱うという理論的な素地が存在することもその理由として考えられるのである。

2021年9月27日月曜日

大文字の解離理論に向けて 推敲 5

 精神分析における大文字の解離理論

最後に精神分析における解離理論のあるべき姿について論じ、Dissociation (大文字の解離)の概念を提示したい。解離に関する理論モデルに関するヴァンデアハートの分類を思い起こそう。タイプ2)は「同時に生じる、別個の、あるいはスプリットオフされた精神的な組織、パーソナリティ、ないしは意識の流れの成立」と定義されるものだ。そして過去の精神分析においては、フェレンチにその可能性が見いだされるだけであった。現在の精神分析においては、依然として心が一つであるという前提は不動のものであり、タイプ2)はその理論基盤においては存在しえないものという事になる。そして精神分析における新しい解離理論として注目されているスターンやブロンバークも、結局は心は一つ、という図式に留まっている。ところが彼らにより解離という現象が精神分析においても正式に扱われるようになっているという誤解を招きやすいのである。
 ここで私は Dissociation(大文字の解離)という概念をより正確な形で提示したい。その大枠はヴァンデアハートの提示した解離の分類のタイプ2)に示されたものであり、そこに異なる人格の複数の存在を想定するものである。ただしここで正確を期すために次の点を強調しておきたい。それはDissociation においては複数の主体が「共意識状態 co-conscious で」存在しうるという点である。たとえ意識Aと意識Bが存在していたとしても、フロイトが描いたような「振動仮説」に従えば、各瞬間にどちらか一方が覚醒している間他方は眠っていてもいいことになり、そのような二つの意識のあり方は「連鎖的 consecutive」ないしは「連接的 sequential」とでも表現できるものとなる。しかしDIDにおいてはこれらの形とは異なり、意識ABは同時に覚醒していることが大きな特徴であることは確かである。
 しばしば臨床場面で見られるのは、人格間の「論争」である。人格ABのある発言を聞いて、それに反論をするということがある。その際は発言するBもそれを聞くAも意識としては共存している(共意識的である)ことになる。柴山 (2007) の言う「存在者としての私」と「眼差す私」もまた共意識状態であり、それだからこそ後ろから見られている感じを抱くのである。ただしもちろん人格Aの覚醒時に人格Bは「眠って」いる場合もあり、常にそれらが共意識的であるという必然性はない。そしてこの共意識的という性質は、いわゆるスプリッティングやスキゾイド・メカニズムなどの分析的な防衛機制と一番異なる点である。

2021年9月26日日曜日

大文字の解離理論に向けて 推敲 4

現代的な精神分析理論における解離
 さて1980年代ごろから米国では解離に関する関心が再び高まったが、これらは本来は精神分析のコミュニティの外部で議論されていたことであった。ただし精神分析においても盛んに解離を論じたのが、ドネル・スターンとフィリップ・ブロンバーグであった。
 スターンの基本的な姿勢は、やはり解離を防衛としてとらえるというものであった。彼は以下のように述べている。「解離はトラウマに関する文献で様々に概念化されているが、解離についての理論は人生における出来事が耐えがたい時の自己防衛のプロセスという概念をめぐっている (Stern, 2009, p. 653)。」彼の言うように、いろいろな個人差はあるとしても、解離の理論は防衛モデルとして描くことが出来るのは確かであろう。
 ブロンバーグはスターンの考え方に歩調を合わせ、トラウマの問題は人の心にとって決定的な重要性を持ち、そこでは解離は極めて重要な役割を持つとした。彼によればトラウマは発達段階のどの段階でも常に生じている。彼はハリー・スタック・サリバンの教えに大きな影響を受けつつ次のように言う。「解離は極めて共存不可能な感情や知覚が同じ関係の中で認知的に処理されなくてはならない時に生じる。」(Bromberg, 1994, p. 520).
 ブロンバーグが明言しているのは、葛藤という概念は神経症的な人にとっては重要だが、解離的な患者は、それを持つことがないことが問題なのだということだ。しかし彼は解離が抑圧のないところで起きるとは考えていない。彼によれば、トラウマにより、サリバンの言う「ノット・ミー not me 」の部分が大きくなり、「安全であっても安全であり過ぎないような環境」(2012, p. 17),において、「ノット・ミー」の部分はシステムに統合されるというのだ。ブロンバーグの業績は、エナクトメントを解離の文脈に持ち込んだことであり、それにより精神分析的な分野における解離の理解の幅が広がった。
 エナクトメントを通して、解離されたものは体験されて自己に統合される。治療関係において、治療者は患者によりエナクトされた部分を体験すると同時に、治療者により解離されてエナクトされたものは患者により体験される。このように基本的にブロンバーグは解離を対人関係的な現象であるととらえる(Bromberg, 1996)。しかしこの理論が依然として前提としているのは、解離されたものはその人の心の中のどこかに存在するということだ。解離された部分は「象徴化されていないその人の自己の部分」が投影のようなメカニズムにより他者に伝わるというのだ。別言するならば、ブロンバーグの解離の対人モデルは、やはりヴァンデアハートのタイプ1)に属することになる。
 それに対して最近「解離的な転回 dissociative turn 」を訴えるエリザベス・ハウエルやシェルドン・イスコヴィッチは、新たな地平に言及していると言えるだろう (Howell, Itzkowitz 2016, 2015)。彼らは二つの意識の同時的な存在を示唆しているものであり、上述のタイプ2)に属するものを想定している可能性がある。(紙数の制限の為に本稿では詳述を避ける。)

2021年9月25日土曜日

大文字の解離理論に向けて 推敲 3

 精神医学の中での解離理論の位置づけ

フロイトがそこまで苦心して守り続けた立場、すなわち心は常に一つであるというとらえ方は、その後も精神分析において受け継がれていく。しかし精神分析外では、多重人格や意識の多重性は特にタブーとなることなく論じられていった。つまり多重人格や重篤な解離症状を認めるか否かについて、精神医学と精神分析学の間に乖離が生じて行ったのである。これについて解離性障害についての第一人者といえるヴァンデアハートは、次のように述べている (van der Hart, 2009)

「精神分析においては解離は防衛機制と考えられ、自我のスプリッティングを主として扱うのに対して、精神分析外では、次の二種類の用いられ方をする。
1). 統合されていた機能がストレスにより一時的に停止してしまうこと。 
2
. 同時に生じる、別個の、あるいはスプリットオフされた精神的な組織、パーソナリティ、ないしは 意識の流れ。」
  ヴァンデアハートのこの分類では、精神分析は1)の意味での解離だけを扱っていることになる。それに比べて2)の場合の「もう一つの精神的な組織」とは、トラウマ的な出来事により形成された、知覚的で心理的な要素であり、このパーソナリティの組織は個人の意識外で働き、そこにアクセスできるのは催眠や自動書記によってであるとされる。
 このヴァンデアハートの分類はおおむね妥当なものと言えるが、実は精神分析の歴史では、1893年のブロイアー、フロイト以外で、この2)に属する解離について論じた分析家がいたと考えられる。それがサンドール・フェレンチであり、「大人と子どもの間の言葉の混乱 ― やさしさの言葉と情熱の言葉(1949/1933」に描かれた解離現象である。この論文には解離状態においてあたかも新たな心が生み出され、自律的な機能を有することへのフェレンチ自身の驚きが描かれている。(以下は森、大塚ら訳から)

「私たち分析家は、強直性発作を起こしている患者に対してもいつもの教育的で冷静な態度で接しますが、そうして患者とつながる最後の糸を断ち切ってしまいます。患者はトランス状態のなかでまさしく本当の子どもなのです。」(同p.143、下線は筆者)
 この記述は子供の人格状態に対してはそれを個別の人格そのものとして扱うというフェレンチの姿勢が表れているであろう。彼は以下のようにも述べる。
 「次に、分析中のトランス状態において起こる現象をつぶさに見ていくと、衝撃や恐怖があれば必ず人格の分裂の兆候があることがわかります。人格の一部が外傷以前の至福に退行することで外傷が生じないようにすることにはどの分析家も驚かないでしょう。驚くのは、そんなものがあるとは私などもほとんど意識していなかつた第二のメカニズムが同一化にさいして働くのを知ったときです。衝撃を受けることで、それまでなかった能力が、魔術で呼び出されたかのように前触れもなく突然花開くのです。日の前で種から芽を出させ花を咲かせてみせるという魔術師の魔法を思い起こさせるほどです。」 (pp. 147-148,下線は筆者) このようにフェレンチは解離において新たな別個の人格が新生されるといった現象を驚きを持って描いている。こうして新たな人格が生まれていく現象を、フェレンチは原子化 atomization と呼んでいる。
 その後も解離やスプリッティングの概念は、英国の対象関係論や米国のサリバンなどにより扱われたが、おおむねそこでの議論はバンデアハートの分類では1)に属するものに限られていたと言ってよい。 

2021年9月24日金曜日

大文字の解離理論に向けての推敲 2

  そのブロイアーが特に熱を入れてフロイトに語ったのが、有名なアンナ O. (本名ベルタ・パッペンハイム)のケースである。彼女は明確な多重人格、今の呼び方では解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下DID)の症状を示していた。フロイトは当初はこのケースに強い関心を寄せたことは間違いない。そしてそのブロイアーと「ヒステリー研究」(Breuer, Freud 1895)を著すことになったのであるが、フロイトは、治療者であったブロイアーのアンナO.についての説明に最初は納得していたはずである。ブロイアーの考え方はいわゆる「類催眠状態 hypnoid state」を想定することであった。アンナO.はしばしば催眠にかかったような、もうろうとした解離状態を示し、その後に様々な症状を呈したのである。ブロイアーは、ある種のトラウマを体験した人はこの類催眠状態になり、いわばもう一つの意識の流れが出来上がると考えた。しかし「ヒステリー研究」の後半では、フロイトはブロイアーの類催眠状態というアイデアについて異を唱え始めている。
 フロイトとブロイアーの考えの違いを追ってみると、そもそもフロイトはヒステリーの原因を一つに絞る上で、ブロイアーの類催眠—解離理論を捨てたという経緯があったことがわかる。フロイトは自分自身はこの類催眠状態を見たことがないとし、代わりに内的な因子であるリビドーを中心に据えた理論を選択した。しかしフロイトはこの多重人格という不可思議な現象のことを本当に忘れたわけではなかった。

 実はフロイトはこんなことを1936年に書いている。「離人症の問題は私たちを途方もない状態、すなわち『二重意識』の問題へと誘う。これはより正確には『スプリット・パーソナリティ』と呼ばれる。しかしこれにまつわることはあまりにも不明で科学的にわかったことはほとんどないので、私はこれについては言及することは避けなくてはならない。」(Freud, 1936. p245) ところがフロイトはそうは言いながらも、この多重人格状態に関する仮説的な考えに触れていたのだ。1912年の「無意識についての覚書」の中でフロイトは多重人格について、いわば「振動仮説」とでもいうべき理論を示している。「意識の機能は二つの精神の複合体の間を振動し、それらは交互に意識的、無意識的になるのである」 (Freud, 1912p.263) 。また1915の「無意識について」でもやはり同じような言い方をしている。「私たちは以下のようなもっととも適切な言い方が出来る。同じ一つの意識がそれらのグループのどちらかに交互に向かうのである。」(Freud, 1915, p.171.
  
ここで注目されるべきは、「ある一つの同じ意識 the same consciousness」という言い方だ。同じ一つの意識がそれらのグループのどちらかに交互に向かうのである。」つまり結局意識は一つであり続けるという事になる(Brook,1992)。

2021年9月23日木曜日

大文字の解離理論に向けて 推敲 1

 大文字の解離」概念に向けて

はじめに

近年解離性障害への関心が高まりを見せ、海外のみならずわが国でもこの障害に関する考察が多くみられるようになってきている。しかし様々な臨床所見についての数多くの理論化がなされる結果として、概念上のさらなる混乱が生じることが危惧される。精神分析の世界でも解離は昨今論じられることが多いが、スキゾイド現象やスプリッティング、抑圧などの防衛機制との違いなどについての明確な議論がいまだに待たれる。
 筆者がこの論文で試みるのは ”Dissociation” とでも表記すべき「大文字の解離」という概念の提示である。これは必然的にdissociation、すなわちそれ以外の、いわば「小文字の解離」とでも表現すべきもの、ないしは現在の精神分析で一般的に用いられている概念との区分を意図したものである。この概念の趣旨は後に詳しく論じるが、その前段階として、フロイトをはじめとする精神分析に関わる先人たちの足跡をたどる必要がある。解離をめぐる様々な議論や誤解はやはり精神分析の淵源と深いかかわりがあったのだ。
 精神分析の創始者であるシグムンド・フロイトはジョゼフ・ブロイアーやジャン‐マルタン・シャルコーの影響を受け、現在では解離性障害として理解されているヒステリー、すなわち現在でいう解離性障害への関心を深めた。しかしその後フロイトは解離現象の関心を失ったかの如く抑圧とリビドーの理論の方に向かっていった。その際にフロイトが放棄したのは、解離に関する理論的な素地だけではない。過酷でトラウマに満ちた人生を送った患者を理解し、治療的にかかわる機会も逸したのである(Howell)。そしてそれ以降精神分析においては解離を正面から扱わないという傾向は、現在にまで至っているのである。

ポリサイキズムとフロイトの「振動仮説」

 そもそも精神分析を含む精神力動学が始まった19世紀には、様々な理論が存在し、そこには「ポリサイキズム polypsychism」、すなわち一人の人間に複数の人格が存在するという理論もありえたのである(Ellenberger,1972)。話はそのようなポリサイキズム的な考えを有していたブロイアーとその後輩フロイトとの関係にさかのぼる。ウィーン大学のエルンスト・ブリュッケ教授のもとで神経解剖学の修業をしていたフロイトは、1880年代になり、開業をするにあたりブロイアーから様々な影響を受けた(Aron, 1996)。

Aron, L. (1996). From Hypnotic Suggestion To Free Association: Freud As A Psychotherapist, Circa 1892–1893. Contemp. Psychoanal., 32:99114.

2021年9月22日水曜日

それでいいのか・・・・打ち切りのお知らせ

 本当に、これでいいのか・・・

  半ば予想していたことが起きた。この「これでいいのか、アメリカ人」(仮題)は、出版社から「これでは本にするのはちょっとキビしい」とのことで出版の計画はボツになった。ということで昨日まででお終いである。
 ボツになった経緯は9月19日のこのブログで予想していた内容そのものである。編集者がこれまでの20回のブログを読んだうえでそのような結論に至ったということである。(というかこちらからお伺いして、そのような返事であった。)この出版計画は編集者が計画を立てて、編集会議で承認されたもの、と聞いていた。あとは私が書くだけ、という体制であった。ふつうはこのまま進行し、よほどひどい内容でもない限りは出版されるのであろう。ただ書いている私の方で、「このテーマで意欲をもって書き続けることには自信がない」という気持ちがあり、私の方から「出版OKということですが、こんな内容(下書き段階だが)になりそうですが、本当にいいですか?」と尋ねたところ、「そうですね、キビしいですね」ということになった。(ところでどういう意味でキビしいかのコメントは聞いていない。)もっと私が気を入れて覚悟をもって、ブログに下書き段階を出さずに進めていたら日の目を見ていたのかもしれない。ある意味では私の気弱さのせいといってもいい。これまでの20日の努力(といっても大してしていないが)が、出版社の「やっぱりいりません」という一言でふいになる、というのも不条理の気がするものの、やはり起きるべくして起きることであった。私の力不足のせいである。
 「死」についての出版計画だったら私はここまで弱気ではなく、もっとモティベーションをもって書いていたであろう。「死」のテーマは私が追っているものでもあり、他の本や論文でも書いているものなのでつながりがある。それだけ思い入れのあるテーマなわけだ。
 20冊以上本を出していると、一回ごとに「やった、出版できた」という感激はない。(最初の12冊目はあった)。だから出版することそのものが目的化することはない。私にそれを書く用意(準備、モティベーション、その問題に関する基礎知識そのほか)があるかどうかの問題であり、今回の「これでいいのか、アメリカ人」にはそれがなかった。そこでボツになってもショックはない。それに書いているうちに自分でも面白いと感じていた部分もある。こんなことを書く人間はあまりいないかもしれないなあ、とも思えた。もちろんそれは錯覚だったのかもしれないが、だからと言って無駄だったとは思わない。しかしやはり一冊の黄色のカバーの新書として店頭に並ぶには値しなかったのだ、という自己愛の傷付きは結構ある。ただしあまり自分に期待はしていなかったので、ちょっと気が抜けた、という方が近い。
 ということで明日から再び、読みにくくて何を言っているのかわからない(時々英語の)文章に戻る。

2021年9月21日火曜日

それでいいのか、アメリカ人 22

 アメリカはナル社会

昨日「アメリカはナル社会」という事を断りなしに書いたが、そのことを書かなくてはならない。「アメリカはナルシシスト(自己愛者)の社会である」という時、私はアメリカ人は皆傲慢で鼻持ちならないという事を言おうとしているのではない。アメリカ社会では、人は自分が何を強さや特技として持っているのか、どのような主張を持っているのかなどについて表に出して生きているという様な意味だ。
 昨日は「矛の柄」の話が出たが、皆自分の矛の柄の長さを外部に示すのがアメリカでのルールだ。ナル社会とはその様な社会であると私は言っているのである。ナルシシズムは文化を超えてすべての人が持っている。「俺ってイケてる」という気持ちは皆持っているのだが、イケていると思う根拠を皆が周囲に示し、ある意味ではお互いにある程度はそれを納得しているのである。
 この様に書くと、それって自然界と同じではないか、という事になる。たしかに鹿は角の立派さを競い、鳥は囀りの声を競う。カブトムシなら角の大きさや強さを競う。それは弱肉強食の世界では当たり前のことだ。よく「ジャングルの掟」という言い方をするが、ジャングルでは強いものが弱いものを捕食する。あるいは弱いものは自然と死に絶えていく。もちろん単なる力の強さだけではない。うまく擬態を使って天敵から身を護るという技量も「強さ」の一つである。ともかくも、アメリカ社会の単純明快さは、この弱肉強食のルールの明快さに通じているのだ。
 自らの力を表に表すことはジャングルに生きる生命体にとって一つの重要な意味がある。おそらく「矛の柄」の長さを明らかにすることで、無用な争いは避けられるであろう。動物や昆虫は、自分が戦って勝ち目がない天敵からは身を守り、安全な場所に身を隠す。毒々しいキノコには警戒し、それに手を出さないことで生き延びていく。
 さてこのようなナル社会で生まれ、その中で生き抜くこと、叩き上げられることは、比較的単純な規則に従う事を意味する。強いものには屈し、弱きものにはその上に立つ。要するに矛の柄の長さに応じて生きていくことになる。大抵は矛の柄は成長に従って自然と伸びていく。明らかに相手が上ならば、ひれ伏し、迎合する。相手が下なら逆である。段々長くなるに従い、諂う相手は減っていき、支配する人は増えていく。それを徐々に体験していくのだ。すると争いが起きるのは丁度同じくらいの矛の柄の長さを持つ者同士という事になる。「こちらの方が長いから相手は自分を強者として遇するはずだ。しかしそうならずに逆にこちらを従わせようとする。ケシカラン!」 そこで両者は一戦を交えることになる。
 自然界でその戦いが生じる時、動物たちは恐らく「怒って」いるはずだ。自分が備えている中枢神経系の一部が興奮し、覚醒度と注意力が増し、血流が筋肉に充満し戦うのに最適になる条件を「怒り」は生む。もちろんボクシングの試合中の選手のように、戦いが終わったら抱き合う様子からも、彼らは「怒って」はいないだろう。しかし動物の場合はどちらかが白旗を上げることでゴングが鳴らされるまでは、相手を殺すつもりで戦っているのであろうし、そこには「怒り」というトリガーがどうしても必要になる。この様に考えると自己愛憤怒は実は自然界における弱肉強食の争いを見事にカバーしているとは言えないだろうか。
 さてここでアメリカ人の問題だ。私の印象では弱肉強食の掟が徹底しているために、無用な「自己愛憤怒」が起きる余地もそれだけ少ないと感じる。無用なつばぜり合いや意地の張り合いはむしろ日本社会に多いのではないか。日本社会はアメリカのような弱肉強食ではない。ある意味では平和な社会である。
 この間竹田恒泰チャンネルで竹田先生が日本の建国についてお話しになっていたが、2671年前に日本が建国されて以来皇室が125代も続いているという事が世界で他に類を見なく、しかもそもそもの国づくりが戦争ではなく、豪族たちの間の話し合いで行なわれたことが例外的であるという。もちろん日本でも戦国時代のように群雄割拠の時期を経てはいるが、そもそもがお互いに妥協して平和的な解決策を講じる傾向にあるのが日本社会である。
 しかしそれは矛の柄の長さにこだわらない、というかそれをあからさまにしないという傾向とも関連し、雌雄を決しないで共存するという傾向を生む。それがどういうことかと言えば、ちょっとしたつばぜり合いがいたるところで生じるという事でもある。そしてそこでは自分の矛の柄の長さを自覚しない者同士の「自己愛憤怒」のぶつかり合いという事になるのだ。

2021年9月20日月曜日

それでいいのか、アメリカ人 21

 アメリカ人と日本人、どちらが怒りっぽいのか?

私にとっては怒りとは「自己愛憤怒」である。まずこのことを説明しなくてはならない。人は自己愛の風船というものを持っている。自分はこのくらいできることが自慢である、とかこのように遇されてしかるべきだ、という一種のプライドである。昔「矜持(きょうじ)」という言葉があったが、以下のような意味だという事である。「矜持の由来は、かつて戦の際に兵士が携えていた「矛の柄(ほこのえ)」だという説が有力で、古代中国の武士にとって、矛の柄を持つことは誇りだったという。」なんだかよく分からないが、とにかくそれを持っていることで自己愛が安定する。ほっておくと俺の矛の柄はすごいんだ、と想像の中で肥大していくので、それを風船にたとえたわけだ。
 さてある兵士が自分なりに立派だと思っている矛の柄を馬鹿にされたり、傷を付けられたらどうだろう。人はハラを立てる。それがいわば人間の怒りの基本形で、実は私たちが日常体験している怒りのほとんどがこれに属するというのが私の意見だ。これはもう、これに属さないものを考えることが難しいほどだ。これに属さないものと言えば、例えばいきなり自分のパーソナルスペースに侵入してきたものに対する反射としての怒り、くらいのものだと思う。
 例えば街を歩いていていきなりある暴漢に殴られたら腹が立つだろう。これも自己愛憤怒か、と問われるかもしれない。その通りだ。これは最後に述べた反射の可能性があるが、しっかり自己愛憤怒の要素が入っている。例えば自分は一人前の社会人のつもりでいる男が、誰かに殴られて無様に道に倒れるとしたら、これはかなり自己愛的な傷つきを伴うだろう。これはそうでない場合を考えれば納得がいく。奈良の街を歩いていて、道に迷い出た鹿が警邏中の警官に追いかけられてたまたまあなたの体にぶつかってきたらどうだろう。その部位や衝撃の大きさが暴漢に殴られたのと同じ衝撃でも、貴方の反応は全く違うはずだ。「し、鹿にやられた・・・・・。運が悪かった・・・・。」となるくらいで、暴漢に殴られた時のような怒りは体験されないはずである。「鹿の分際で俺を馬鹿にするのか!」と怒り狂う人も稀にいるかもしれないが、たいていは人は鹿には容易にプライドを傷つけられないからだ。
 読者の方もいくつか怒りの場面を想定して欲しい。結局はこの「プライドを傷つけられた」という自己愛憤怒の問題に息つくことに気が付くはずだ。自己愛憤怒の理論は、アメリカの精神分析家ハインツ・コフートが示したもので、大概の人は彼の自己心理学の理論に出てくる、特殊な形の怒りの理解の仕方だ、と思っている。ところがどっこい、これはすごい理論なのだ。何しろ人の怒りの原型を喝破した理論だからである。
 さてここまでが前提でアメリカ人の怒りについてである。結論から言えば、アメリカ人はこの種の自己愛憤怒は日本人ほどは見られない気がする、というのが結論だ。つまり自分のプライドが傷ついて腹が立つ、という反応をあまり目にすることがないのである。それはなぜかと言えば、彼らはある意味では「鍛えられて」いるからなのである。それはどのような意味でであろうか。
 私は一度「自己愛の人は叩き上げだ」という文章を書いたことがある。ナル人間の社会の住人は、自分の自己愛を発達させる中で、まずはもともとナルな人たちの中に投げ込まれる。子供のころ、最低学年の頃の話だ。年上は、先輩はみな自分より大きな矛の柄を持っているのだ。自分のなんて大したことはない。「なんてちっちゃい矛の柄なんだ」とバカにされても、おそらく怒りはわからない。なぜならそれは何よりも自分の目に明らかだからだ。ナル社会のアメリカでは特に皆が矛の柄を人目に見せている。日本の場合は隠していたり、「私の矛の柄は大したことありません」などとしおらしいことを言うが、アメリカでは最初から矛の柄はドーンと見せるのが了解事項である。
 とするならば自己愛憤怒は自分の矛の柄の立派さをあまり遠慮して示さないながらもそれなりにプライドを持っているような人たちの集団である日本において、より起きやすいということになるのではないか。

2021年9月19日日曜日

それでいいのか、アメリカ人 20

 このまま書いていっていいのか。

さて私のブログは常に試行錯誤である。というよりは下書きである。今20回ほど続いているのは「これでいいのかアメリカ人」(仮題)という本の下書きである。ただしこの本はまだバーチャルである。書けるかどうかをここで試しているわけだ。私の計算から言うと、新書でそれなりのボリュームのある量を書くためには、10万字、原稿用紙で250枚程度は必要だ。ここで毎回書いている文章を1700字くらいだとすると、60回分で一応完成という事になる。まだ20回だから、本で書く量の三分の一を書いたことになる。ここで問題がある。

一つにはこんな内容で本にしていいのか? という疑問だ。私はほとんど一筆書きのように、一回を30分くらいで書いて見直しをしていない。ごく軽い内容になっている。でも誰でも思いつきそうな、特別興味深い話を書いているという実感はない。すると果たしてこれを読む人がいるのか、という疑問が自分自身にも生じる。

「死について」というテーマなら全く違ったと思う。私はなるべく濃い内容のものをゆっくり時間をかけて書こうとするだろう。その様な本を出すことには大きな意味を感じる。しかし「これでいいのか、アメリカ人」は私がどうしても書きたい内容ではない。ただしありがたくもその様なオファーを戴いているから試し書きをしているのである。でもそれを仕上げるにはそれなりのエネルギーが必要だし、時間もとられる。その時間を使って他のことをやりたいという気もする。

という事であとは編集者に見てもらうことになる。「こんな感じでいいんじゃないですか?」かも知れないし「これじゃちょっとモノになりませんね。」それによってこの「これでいいのかアメリカ人」が継続されるのかどうかが決まるのだ。

私が書いていて思うのは、週刊誌の連載物だ。売れっ子作家の連載物のエッセイなどは何百回も続いているものが多い。明らかにネタは尽きていて、それでも無理やり絞り出しているのが読んでいてわかる。内容が薄いし、その分読みやすい。売れっ子作家だと何本も連載を抱えていたりして、それこそ一本に費やす時間はわずかだろうし、そのために資料を集めたり、取材に出かけたりという事はないだろう。私の30分と同じである。もちろん技量の差は歴然であろうが、なぜもっと時間を掛けないかと言えば、私の場合はそれ以上に時間をかけてもその内容が特別重くなるようなテーマではないからである。という事で、事情によってはこの連載はパタッと止まるかもしれない。そうなったらそのような事情が背景にあることになる。

2021年9月18日土曜日

それでいいのか、アメリカ人 19

 ガイジンのいないアメリカ

 米国で暮らしていて常識とは異なることがよく体験される。1987年私はニューヨークのマンハッタンを生まれて初めて訪れた。「ここがニューヨークか!」私はパリに初めて降り立った時ほどではないが、感動を覚えた。私は完全なお上りさんだが決してそうは見せないようにと気を引き締めて街を歩いてみた。自分が身につけているものがいつ掠め取られないかに注意をしながら、周囲に警戒の目を向けながら歩いていたのだ。すると変なことが起きた。私に道を聞いてくる通行人がいたのである。「え?ガイコク人に道を尋ねるってどんな神経をしているんだろう?」もちろん向こうに私が英語のよく分からない外国人であるという事が分かるわけはない。日本にいる時のように、「この人はガイジンだから道を聞いてもわからないだろう」などという事を人は考えないのだ。そのうち私は徐々に理解するようになった。この国にガイコク人なんていないんだ。ある意味ではみんな外国人感覚なんだ…・・。
 この時私はパリで一年間かなりつらい時を過ごした後だった。異邦人とはどのように扱われ、どのような目を向けられるかをかなり直接的に味合わされた。パリ人にとって、アジア人を含めた有色人種は差別の対象になる。何人、という事よりは有色人種であるという事だけで、である。日本人の留学生の仲間には、「このベトナム人!」とつばを吐きかけられたと悔しそうに語った人もいたが、これは日本人なのにベトナム人と間違えられた、という様な問題ではない。日本人もベトナム人もどちらも有色人種で、差別の対象なのである。
 私がこのことを知ったのは、パリからニューヨークのラガーディア空港に降り立った時に、不思議な空気を感じた時である。「あれ、彼らは自分を普通に見てくれているんだ。」 私はパリでの一年を経験して、アメリカでも同じような体験をするのではないかと心配していたので、一安心した。この国にはしばらくいてもさほどシンドイ思いをしなくて済みそうだ…・・」
 そう、一言で言えばアメリカ人は皆ある意味でよそ者であり、ガイジンであり、だから人をガイジンと見なす、という習慣がそもそもない。白人だって1620年にイギリスからメイフラワーで訪れたガイジンの生き残りである。この感覚を知った時私はアメリカの長期滞在の心の準備が出来たのである。
 ところで外国人は英語で foreigner だが、アメリカで暮らしていて、誰が foreigner か、自分はforeigner か否か、という議論があまり成立しない。この章の題を「外人のいないアメリカ」としたが、まさにその通りなのである。よほどアメリカの片田舎の人の流れが滞っている町でもない限り、出会う人は皆姿かたちが違う。髪の色も皮膚の色も、体格も違う。日本なら出会う人は大抵日本人である。するとこんな特徴がある、あんな特徴がある、関西弁を話す人だな、等と細かい点に基づきさらに識別する。そして日本人というカテゴリーに属さない人は、かなり乱暴に「外人」として括る。ところがアメリカ人は皆異なるから、細かい識別はむしろしなくなる。みなバラバラなのだ。すると例えば人種、年齢と言った括りをする。するとガイジンかどうか、という識別はあまり意味を持たなくなるのだ。
 アメリカを訪れる日本人はこのことを知っておくと損はないであろう。アメリカではそれぞれが異なることが前提であり、もう少し言うとそれぞれが異なってよく、外見で差別はしなく、お互いに平等に遇するという決まりを共有しているという事が前提となる。あとは基本的には英語でコミュニケーションをするという事か。そしてもう一つは表現されないものは存在しないものとして扱われるという事だろうか。逆に言えばこれらの共通認識を持っていれば、アメリカに行ったらアメリカ人になるのである。逆にこれらの認識がなく、アメリカにいる人は何て呼ばれるのだろうか? エトランゼ、stranger 変わった人、という事になるのだろう。そしてアメリカと相当異なる文化的な背景を背負った日本人は、アメリカの世界に入ってまずはストレンジャーとして存在するのではないか。ちょうどニューヨークの街で道を聞かれて当惑した私の状態なのである。

2021年9月17日金曜日

それでいいのか、アメリカ人 18

 英語はタメの世界 ②

 英語について書いていくと、必然的に日本語の話にもなる。私はつくづく両方の世界を知っていてよかったと思う。さもないと自分の体験を相対的にみることが出来ないからだ。アメリカ人の単純さ、英語の単純さを考えることは同時に日本語のややこしさ、複雑さを知ることになる。
 2004年に帰国した時に、やはり私はどこかおかしかったのだろうと思う。その頃初診であった患者さんは今でもいらしているが、その頃の私は言葉が少しヘンだったという。そんなはずはない。家族とは日本語で話していたのだから。でも傍目にはやはりそうだったらしい。そしてそれが証拠に、その頃は日本人同士のお互いの呼び方も私には違和感ばかりであった。
 その頃私が音頭を取って作った研究グループが今でも続いているが、私はそこでお互いに「~さん」と呼ぶことを提案した。ため口で語り合えるような関係がいいだろうと思ったからだ。これは特に問題なく受け入れられた・・・・かのように見えたが、eメールの交換の時点で途端にうまくいかなくなった。会で会う時は通常「さん」付けでお互いに呼び合っている間柄なのに、メールを交換するときはやはり「~様」、ないしは「~さま」、となってしまう。最初は私も言い出した手前、「~さん」と返していたが、やはり私も違和感を覚えだした。私は研究会では一番年上だからメンバーに「~さん」と呼ぶことにさほど抵抗がなくても、メンバーにとっては年上の私は「~先生」となる。すると一人だけ私が彼らに「~さん」とメールで呼びかけるのは、とてもゴーマンな感じがするではないか。現在私がメールで「~さん」と呼びかけるのは親しいバイジーさんや大学での学生さんである。
 このように考えると、米国で皆がファースネームで呼び合い、メールを出し合うのは驚くべきことのように思える。よくぞそのような習慣が成立したものだ。しかもファーストネームで呼ばないと、よそよそしく、ある意味で失礼というニュアンスすらあるようだ。「みんなそうしているのに、なぜあなただけそうしないんだ?」となってしまう。このファーストネームで呼び合うという習慣こそが、欧米社会での偉大なるequalizer という気がする。

しかしそんなアメリカで、ラストネームによる呼び方に決まっているような関係性がある。それは博士号を取得した人に対する呼び方であり(これも何回か書いたことだが)心理士のリズは博士号が授与された次の日から「ドクター・サマービル」などと呼ばれるようになる。(ちなみに同じドクター持ちだと、その間ではファーストネームで呼び合うことになる。)
 私が特に面白いと感じたのは、精神科の州立病院の小児病棟に配属されていたの体験であり、そこではスタッフはみなミスター、ミズ付きで呼ばれていた。しかしそれだけではない。子供たちもみなミスター、ミス付きだった!! 私がいた州立病院だけの習慣かも知れないが、お互いに敬意をこめて、患者とスタッフはみな、ラストネームで呼び合っていたのである。
 しかしそれにしても・・・・・。少なくとも日本ではよほど親しい仲でもなければ、ファーストネームで呼び合うことなどあり得ないことを考えると、とんでもない文化差を感じる。私が両国の文化差を一番痛切に感じるときである。ただしこれは文化差、というよりは言語の差だろうか?私は日本滞在が長く、日本語が流ちょうな人と会話をすることがあるが、例えば米国育ちのA先生とは、日本語で話す時は「A先生」と呼ぶが、英語になると、「ビル」などと呼ぶことになる。いったいどうなっているんだろう?

2021年9月16日木曜日

それでいいのか、アメリカ人 17

 英語はタメ語の世界

  アメリカ人は年齢を問題にしない。これは本当に拍子抜けするくらいである。もちろん何かのついでに、「ところであなたいくつ?」となることはある。人はみな違う背景を持ち、違う外見をし、違う主張をする。もちろん歳は違うだろうがそれを知りたいなら、どうして相手の出身地や宗教や趣味を知ろうとしないか、ということにもなる。でもそんなことを一つ一つ明らかにしていかないとその人と付き合えないということもないだろう。
 このように考えると日本人の間柄で相手の年齢を真っ先に知ろうとする理由は明らかだ。それはどのように話しかけたらいいかを知る必要があるからだ。要するに敬語か、タメ語か、という話である。相手が年上なら敬語調の話し方になる。年上を相手に「あー、そうなの?」とはならない。どんなに親しくても「あー、そうなんすね?」とぎりぎり敬語を使う。
 つい最近のことだが物騒な事件が起きた(20218)。ある男性が知人の男性に振り返りざま硫酸をかけたというトンデモない事件だ。ネットでは「硫酸男」というだけですぐ出てくるが、大学生のころ、サークル活動で一学年下だった相手から敬語ではなくタメ語で話されたことがトラブルの発端であったという。もちろんこの事件では、「相手からバカにされていた」という恨みはほかの原因も絡んでいたのかもしれないが、いまさらながら日本での先輩後輩の区別の重要さを考えさせられる。
 さて英語の世界での話である。英語はタメ語の世界だ。初対面の人と話し始めるとき、敬語を用いることも謙譲語を用いることも考える必要がない。そもそもそのような違いはないし、私はI, あなたはyou 以外の何物でもない。相手の出身地を訊くのに、”Where are you from?” 以外の言い方などあろうか? ところが日本語では「どちらのご出身ですか?」などから始めるであろうし、相手が年上ならこの「~ですか?」は半永久的に続く。(もちろん「~っすか?」となっても結局続いていくところが聞いていて面白い。)
 このように考えるとアメリカ人の単純さは、敬語や謙譲語や丁寧語を考えなくていいという要素が極めて大きいということに思い知らされる。少なくとも言葉のレベルでは障害物がパッと取り払われて、平等になってしまうのだ。英語は素晴らしいequalizer (平衡装置)ということになる。留学などで英語の世界に入って体験する妙な気楽さは確実にここからきていると思う。
 これを書いていて思い出すのは、私の先輩にあたるある精神科医A先生のことだ。私と留学の時期が重なっていたのだが、一家そろってのアメリカ生活で、二人の小学校低学年の双子ちゃんの兄弟も現地校に入った。すると英語で四苦八苦をしている両親をしり目に、3か月ほどすると二人は家でも英語でペラペラと話すようになる。子供の語学力はすごいものだ。するとある日息子の一人がA先生に向かって「ヘイ、ユー !」と話しかけてきて、先生は激怒したという。「何を言い出すかと思った」と先生はおっしゃっていたが、教育熱心で、親への態度にことさら敏感だった彼の当惑を思うと少しおかしくなってしまう。
 タメ語であり、年齢にこだわらない英語の性質は、例えばbrother ,sister という言い方にも表れる。要するに、兄、弟、姉、妹があいまいなのだ。そしてこれは同様の区別をしない欧米語一般に言えることにもなろう。もちろんolder brother とか younger sister などといって区別することも多いが、いちいち面倒くさい。そのうちにこの兄、弟という表現なしにbrother, sister と呼ぶという習慣は、結局兄弟でさえ、タメ、平等ということを意味することに気が付く。「お兄ちゃんでしょ。弟に譲りなさい」的な言い方は、ないわけではないが、日本語ほどではない。歳は違ってもやはり同様に自己主張するし、同様の責任を負うという雰囲気が英語にはある。
 というわけで英語の世界にしばらくいると、相手の年齢はかなりあいまいでわかりにくくなってくる。相手が年上だから言うことを聞いておこう、逆らわないでおこう、などという考えが削がれていく。そしてどれだけ自分を持っているのか、どのような性格で何を大事にしている人か、というところに直接向かっていく。これってすごくないだろうか?アメリカは実力社会であるが、そこでは「歳など全く関係なし」という了解は重要なのだ。そして当然ながら「性別も全く関係なし」ということと同じだ。そう、タメ語の世界における英語は、差別防止のための装置としても働いているというわけである。
 それでいいのだ、アメリカ人!

2021年9月15日水曜日

それでいいのか、アメリカ人 16

 アメリカ人の鈍感力 2

 アメリカ人の単純さと鈍感力の続きの話である。アメリカ人とのコミュニケーションで拍子抜けすることがある。それは一つは前回にも書いた、贈り物の話が関係している。アメリカ人にモノを送るとき、その受け取り方に躊躇が感じられない。それは例えば誉め言葉にしてもいえる。「それって素敵だね」に対して「サンキュー」というシンプルさと同じである。言われて「アレッ?」と拍子抜ける単純さがある。
 もちろんその単純さには約束事、というニュアンスもある。贈り物をされたら、まずはサンキュー。というよりはこちらに多少なりとも引け目が生じるような場合は、とりあえず「有難う」といってしまうというところがある。しかしいったんそれが約束事として決められると、もうそれ以上考えないということにより結局は本当に「単純」な頭の働かせ方しかしなくなることがあるだろう。
 贈り物をする、ということは実は複雑な作業だ。それは例えばあいさつの葉書一枚にしてもいえることだ。なぜなら少なくとも日本人の常識としては、それに対する返事、返礼をする必要性が付いて回るからだ。贈り物をするということは、その人がその商品をどこかでお金を出して購入していることを意味する。それは金銭、時間、あるいは手間といった相手の負担を伴っているのだ。すると貰う側は、それを感じ取る敏感さがあるとしたら、それに対して申し訳ない、後ろめたいといった感情が湧くのはある意味では当然なはずだ。そして贈り物をした側は、それに対するある種の慰労を求めているだろう。そしてそれはもらった側としては、単純な言葉での慰労では済まないかもしれない。だから「スミマセン(済みません)」となる。すると今度は送った側は「いやいや、ほんのツマラナイものです。お口汚しかもしれませんが…」などとなり、一種の謝罪の応酬が始まる。日本人の贈り物はこのような「合わせ鏡」の構造を基本としているのだ。すると「サンキュー」で終わらせられることは拍子抜けして、極端な場合はいらだちさえ覚えるかもしれないのだ。
 さて私はこのアメリカ人の、というよりは英語の持つ単純さは嫌いではない。というのは合わせ鏡は面倒くさいからだ。それに「差し上げます」「サンキュー」にはこの上ない単純さと同時に、贈り物の原点が込められていると思うからだ。私たちがお歳暮やお中元のような儀礼的な形ではなく、人にモノをプレゼントするとき、一番期待するのは相手の喜ぶ顔である。カミさんなどの話では、デパートでいろいろな商品を見て歩くと「あ、これ○○さんにあげたいな」と思うことがしばしばあるという。品物を見ると、たとえ自分自身の好みではなくとも、誰かの顔が浮かぶという。これは素敵なことではないか。純粋な愛他性というよりは自己満足の混ざったものではあるが、人の心の純粋さを示しているような気がする。そしてそれを購入して贈るとき、おそらくそれに対する返礼をされることは全く期待していない。というよりは相手が「あ、これに対するお礼をいつかしなきゃ」という一種の義務感を感じるとしたら、それはむしろ残念なことだろう。そしてその贈り物の行為が成功裏に完結するのは、贈られた人にとってドンピシャの商品であり、「こんなのが欲しかったの!」という一言なのだ。もちろんその人がその感謝の気持ちを持ち続けて、同じような行為を相手に自然に返したくなるとしたら、それはおそらく一つの理想だろうが。とすると、ホラ、やはり「サンキュー」というアメリカ人の反応は正解なのだ。しかしやたらといわれると「何だかなぁ」、と思うが。
 ということで私は贈り物に伴う「サンキュー」という反応を肯定する。しかしただし一つ厄介なことがあり、それは贈り物はその場で開封するという習慣が伴うからだ。贈り物をもらうと、人はその包み紙をあけ、中のものを見て「サンキュー」となる。それはそうだ。何をもらったかを確認しないで「サンキュー」というわけにはいかないからだ。そして「サンキュー」には「素敵ねI like it!」という言葉がふつう続くので、余計中身の確認は必要となるのだ。しかしこれも面倒くさい。あげた方としては「うちでゆっくり開けてね」と思ってしまう。本当に「ツマラナイもの」と思われたとしたら、それを目の当たりにしたくないではないか。それに贈り物って、包まれているときの方が数倍魅力的ではないか。ところがこの開けるという単刀直入な行為はそれを無にしてしまうような気がする。その意味での単純さは、やはりいただけない。

2021年9月14日火曜日

それでいいのか、アメリカ人 15

 アメリカ人の鈍感力 1

 アメリカ人も人目を気にする、という私の主張の趣旨はある程度分かってもらえたかもしれない。そのうえで私がぜひ書いておきたいのがアメリカ人の鈍感力という問題である。
 ここで「鈍感力」と書くのは一種のリップサービスになっている。要するに「鈍感だ」ということである。この問題について書くのは勇気のいることではあるが、やはり私がアメリカで17年間考えた結果得られた重要な結論の一つなのである。

 アメリカ生活を始めてまず気が付くのは、「おいしいものがない」ということだろうか。アメリカではもちろん食品産業は盛んである。しかしどこに行っても同じ味がするという感覚がある。やたらとボリュームはあるのに味が濃いだけでおいしくない。アメリカで何か食事をとろうとすると、結局はフランチャイズのレストランに入ることになる。どこの都市を訪れても、空港にも、マクドナルドやケンタッキー・フライド・チキンやタコベルや・・・・といった見飽きたフランチャイズの店が並ぶ。尋ねた地元でお店を出している「~屋」などという店は本当に少ない。すぐに淘汰されてしまうのだろうか。(もちろん有名レストランなどは別である。)
 アメリカ人は結局それらのファーストフードの店の一つに入り、同じような味のものを食べて満足する。日本に住む私たちのように、「あそこのお店ではあのメニューがあり、こんなにおいしい」という体験を持てないのがアメリカ社会である。
 あるいはコーヒー一つとっても味の薄いただの茶色い飲み物と思いたくなるようなものしか飲めない。またスナック菓子についても同じことが言える。これでいいのか、と思うようなデザインやどぎつい色のお菓子がスーパーの棚に大袋で並んでいる。すべてが画一的でバラエティーに欠ける。
 書き出すときりがなくなってくる。文房具もそうだ。可愛い、特徴のあるメモ帳とか付箋とか、すべすべの書き味のボールペンなど見当たらない。彼らは書き心地ということを考えていないのかと思うような筆記用具しか見つからない。どうして、何もかもこんなに心のこもっていない、使い心地の悪いものしかないのだろう?と常に思っていた。だから17年の間、年に12回学会などで日本に帰ってくると、立ち寄るごく普通のコンビニはそれこそお花畑に見えたくらいである。
 そして最終的に至ったのは、食べ物に関しては「彼らアメリカ人は味覚が分化していないのだ」というミもフタもない結論であった。しかしアメリカで売られている商品全般について言えることだとしたら、彼らは触覚も、嗅覚も、視覚もすべて鈍感だからではないかという結論に至らざるを得なくなる。そして冒頭に述べた「鈍感力」の話になってくるのだ。
 それにしてもひどい話ではないか。アメリカ人はそれほどことごとく鈍感なのか? だったら人の心の機微は?審美眼は?それらについてことごとく日本人が優れているということなどあり得るのだろうか?
 おそらくある側面についてはそれが真実なのであろう。だから日本で私たちが普通においしいと思っている食べ物が海外に出て行ってやたらと受け入れられる。寿司にしても天婦羅にしても、ラーメンにしても、日本の味がこれほどもてはやされるということはアメリカ人たちが「本当に味のする」食品を与えられて、舌が肥えてきたということなのだろう。
 さてこのことと「アメリカ人も人目を気にする」ということとどう結びつくのだろうか?それはこういうことだ。彼らは人からどう見られているかをもちろん気にする。しかしその精度とか微妙なニュアンスについてはあまり問題にしていない可能性があるのである。例えば「人目を気にする」にはいろいろなレベルがある。「あの人はどう思っているだろうか?」は、実はその階層のみにとどまらない。様々なメタレベルが存在する。「あの人は私があの人を見ていることを意識しているだろうか?」とか「あの人は私があの人について思っていることをどの程度察知していて、そのうえでどう思っているのだろうか?」「あの人は私があの人が私のことをどう見ていてそのうえでどう感じているかを私が気にしているということに気が付いているだろうか?…」 ひととの関係性は合わせ鏡 infinity mirror のようなところがある。そのどの層にまで分け入るかについては、おそらく日本人とアメリカでかなりの差がある気がする。アメリカ人なら最初の12層以上は踏み込まないという感じがる。(しかしここまで言っていいのだろうか?)

 

2021年9月13日月曜日

それでいいのか、アメリカ人 14

  今日の文章も試作品、という感じだ。実際に本で用いることはないだろう。

  アメリカ人も人目を気にする 2
 人目を気にするかどうかというテーマは、これが自己愛の問題だと考えるとわかりやすくなるだろう。人はみな自己愛的な満足を求める。自分が他人よりイケている、優れていると思いたい。もちろんこれはデフォルトがそうなわけであり、人より優れることにあまり興味がない人、人より優れると逆に苦しくなるという人もいるという事はすでに話した。しかし褒められてうれしくない人はまれであろうし(というよりかほとんどであったことがない)、それが足りなければ自分で自分をほめている人も少なくないだろう。とすると自己愛的な満足の源泉は人から良く思われること、優れていると思われることである。という事は自己愛的なアメリカ人は常に人の視線を意識しているという事になる。改めて考えれば当然のことなのだ。それでも私たちが「日本人は人目を気にする」と感じるのはどうしてだろうか? 

 ウィッキーさんの話を思い出していただきたい。彼に町にマイクを向けられた日本人は逃げ回るのだった。もしニューヨークで同じことをしたらどうか?ちょっとこれは想像しにくいので、(誰も英語で話しかけられても逃げないだろう)私が体験したパリの街を考えよう。パリでは少なくとも私が暮らした1980年代半ばは英語を話せる人が少なく、話せてもカタコトであった。ちょうど日本人に対する英語のような関係にある。
 そこでウィッキ―さんが同じような番組をフランスで持っていて、そしてパリの街で通りがかりの人にマイクを向けるとしよう。もちろんいろいろな反応があるだろう。しかし彼らのほとんどは逃げることは考えられない。パリ人はマイクを向けられても「なんで私がこんなことをされなくてはならないの?」という怪訝そうな顔でフランス語で押し通すだろうし、少し英語が出来ることを自負している人なら、かなりフランス語なまりで、おそらく聞き取れないような英語を操って押し通すだろう。そこに「あたし恥ずかしいわ」という様なニュアンスは伝えて来ないのだ。日本人がそのような場面で「恥ずかしい」には英語を中学校、高等学校と長い間習っているのに、「喋れなくて情けない」という自己卑下があるとしたら、パリ人はもしそれを感じても表すことはない。結局上手くウィッキ―さんとの会話が成立しなくても、彼らは肩をすくめて「タンピ!(残念ね)」とでも呟いて行ってしまうだろう。
 そこには二つの要素が考えられる。一つにはアメリカ文化に対する蔑視がある。自分たちの文化が優れているという思いが、ヨーロッパ大陸に住んでいる人たちには多い。(もちろん英語は英国人も話すので、人によってはフランス文化第一主義を信じている人はそれほどいないかも知れない。
 もう一つのより本質的な理由は、「恥ずかしい」を表現することへの恥の感覚がある。彼らは恥ずかしいという感情を持つという事を一種の恥と考える。自分の弱さだと考え、それを人前に晒すことは不利だと思うのだろう。
 アメリカ人について考えているのに、ウィッキ―さんをパリにまで送って、パリ人のことを話してしまった。そこで「アメリカ人が人目を気にするか」、という本来のテーマに戻る。私はアメリカ人はフランス人ほど「恥ずかしいことを恥と感じる」ことはないのではないかと思う。しかしそれでもパリ人とある程度は同じような反応をするのではないかと思う。自己愛的な彼らは恥をかくことも大嫌いである。というかそれを致命的なことと考える。人前に表すのはいつも「人前に表す用意のある」自分の姿である。そしてそれ以外が漏れ出ても、それを恥に思ったりするというそぶりは見せない。恥をかいてはならない、という事は恥をかいたようなそぶりを見せない、ということであり、心の中では恥の感情を持っていてもそうなのだ。そしてそうである以上は、彼らは必ず人目を気にしている。
 さてこれを読んでいる読者の中には、私が何を言っているのかわからないと思う人もいるはずだ。(実は私もその一人である。) でも実は何について気にするか、という点での違いがあるのである。日本人の場合には、「自分が優れている、自慢していると思われるのではないか?」を気にするのに対して、アメリカ人の場合は、「自分が劣っている、自分の考えがないと思われるのではないか?」「自分のことをダメな存在と思っていると思われないか?」を気にする、と考えたら少しは整理が付くだろうか。

2021年9月12日日曜日

それでいいのか、アメリカ人 13

 アメリカ人も人目を気にする

 よく「日本人は人目を気にする」と言われる。しかしこれを誰が言い出したのだろうか? それは外国に接した日本人たちが自らそう考えたことなのであろう。なぜならアメリカ人は自分が人目を気にするかどうか、という問題意識をあまり持っていないからだ。
 私たちは社会で生きている以上当然人にどう思われるかに注意を払う。人にどのように思われるか、というのはとても大事なことである。人目を気にしない方がおかしいのだ。ところが日本人は人目を気にすることを何か後ろめたい気がするのだろう。ということは「日本人は人目を気にする」というのは一種の自作自演であり、日本人が自意識過剰になりそのような性質を持っているという説を唱えだしたのだろう。
 しかし私は「日本人は人目を気にする」 という考えを確かに持ってアメリカに渡ったし、自分を保ち、人目を気にしないアメリカ社会に慣れて、自分もそうなろう、などということも心の底に持っていたのだ。そして今は「アメリカ人も人目を気にする」と思うようになってくる。他人と自分を比べ、他人から自分はどう見られているかを気にするのは社会で生活を営む人間なら共通して持つ性質なのだ。そしてその思いを強くしたのは私のアメリカの精神科の思春期病棟での経験である。彼らはいかに他人と同じでいるか、いかに一人だけで浮いていることで馬鹿にされないかということをそれこそ日本の思春期の少年、少女と同じように意識していたのである。
 アメリカ人の集団に流れる原則があるとすれば、それは「私は~と思う」「私は~と感じる」を常に表明する用意がある、ということだ。そしてこれは~と思ったり、~と感じたりすることが特になくても、それをある事のように見せかけ、問われたら答えられるようにしておく、ということだ。逆にそのようなものがないと思われないように注意する、ということである。そしてこのことは彼らが立派に「人目を気にしている」ということである。そしてそのことは彼らが思春期に達する時には特に重要な意味を持ち始める。
 アメリカでは高校の卒業間近にプロムという行事がある。これは男子生徒が女子生徒を誘ってペアで参加するダンスパーティである。車社会のアメリカでは16歳で免許を取ったり、学校に行くためだけの免許を取得して、車でパートナーを迎えに行くということまでやる。そこで一番問題になるのは、女子生徒にとっては「誰かが私を誘ってくれるかしら?」もちろん男子生徒は「あの子が僕の相手になってくれるだろうか?」もちろんダンスをちゃんと踊れるだろうか、人前で恥をかかされないだろうか、といった心配もある。これらはアメリカ人たちが思春期に体験する最大の試練と言っていいが、これほど人目の意識を強要される機会があるだろうか? しかも彼らはそれを、あたかも大人がやるように平気な顔をしてやらなくてはならないのである。
 さらには プロムほどではないが、ミドルスクールでもすでにダンスパーティが開かれ、まだ背も伸び切っていない男の子や女の子が、誰がダンスに誘ってくれるだろうかと緊張を迫られるのだ。
 それに比べて日本の学校生活はのんびりしたものだ。少なくとも中学生から異性との関わりを人目にさらされる形で行わなくてはならないことはない。せいぜい運動会でオクラホマミキサーの曲に合わせて、意中の異性と十数秒ほど手をつなぐ、というだけだ。

2021年9月11日土曜日

それでいいのか、アメリカ人 12

 アメリカ人はシャイである

 私は若いころに海外に出ることがどうして自分にとってそれほど重要だったのかを、よく考えることがある。もちろんいろいろな理由はあったのだろうが、基本的には好奇心が強かったからというのが大きいだろうか。自分が海外に出たらどうなるか、という好奇心ももちろんあったが、西欧人はいったいどのような生態を持っているのか、どのように生きて生活しているのかということにとても興味があった。ちょうど動物学者がゴリラやチンバンジーの生態を観察しにアフリカの奥地などにフィールドワークに入るのと少し似ているかもしれない。
 その中でもアメリカ人は果たしてシャイなのか、というのは比較的大きな関心を持っていたテーマである。日本でガイジンを興味津々で観察していた私にとって、彼らは同じ人とは思えないような積極性、勇気、自己主張の強さを持っている存在と感じていた。私が精神科医になった1980年代は、まだ対人恐怖は日本人に特有の病気であるという考え方が主流であった。「菊と刀」を表し、日本文化を「恥の文化」ととらえた米国の社会学者ルース・ベネディクトの理論は多くの日本人にとってなじみ深いであろう。自分の行動を決める際に罪の意識を基本に置くか、恥の意識を基本に置くかという区別に基づいた彼女の理論は比較的無批判に日本人に受け入れられているというところがある。それを単純に当てはめるならば、西欧社会では人は自分の行動に罪悪感を抱きやすいのに対して、日本人は恥を抱きやすいということになる。すると例えば人がごみを捨てないのは、「そうすることはいけないことだから」と考えるのが西欧人で、「そうするところを人に見られると恥ずかしいから」という説明になる。するとこの議論は「では日本人は人が見ていなければ悪いことをする」という結論に結び付けられてしまい、道徳規範を西欧人のように本当の意味で身に着けていない日本文化は遅れている、という風に決めつけられてしまう。
 私はこのロジックには大問題があると思うが、(馬鹿にするなよ、と言いたくなる)その本質部分についてはまた別の機会に論じるとして、「日本人が恥の意識を持ちやすいのに比べて、西欧人はそうでない」という前提はいったいどうなんだろう、ということは漠然と疑問に思っていた。しかし「おそらくそうであろう。アメリカ人は人のことを気にしない人種なのだ」程度の認識でアメリカに渡ったのだ。つまり「アメリカ人はシャイではない」説を持っていたのだ。でも長年暮らした結論としては・・・・・、彼らも結構シャイなのだと考えざるを得ない。
 気恥ずかしいシーンを二つ考えてみよう。一つは長い廊下を向こうからやってくる人が知り合いだった時の反応。もう一つは、旅立つ人を見送りに電車のホームに来ている人と、車窓の中の見送る相手が、電車が動き出すまでの間にどのように時間をやり過ごすか。いずれも気まずさを体験する状況である。たいていは人は目をそらせて、一定の距離、ないしは別れまでの時間が訪れるまで目を合わせたり手を振ったりはしないものだ。そういう状況での日本人とアメリカ人の反応は全く変わらないのである。ちなみに物心がつき、自意識が芽生える以前の子供はタフである。遠くからこちらを見つけていろいろなサインを送ってくる。あるいはホームではいつまでも目を合わせて手を振り続ける。子供はなんとタフなのか、と感心するほどだ。
 アメリカ人は例えばエレベーターの箱に知らない同士乗り合わせたりすると、あるいは細い道ですれ違ったりすると「ハイ」とあいさつを交わすのが普通だ。日本ではそんな時、例えば同じマンションの住人と分かってエレベーターに乗り合わせたら一声かけるかもしれないが、大概はしっかりと無視する。日本人のシャイさが一番顕著に表れていると感じるが、それとは大違いである。(ちなみにこれは私の暮らしたアメリカの田舎では普通だが、ニューヨークの都会などではお互い知らんぷり、ということもあるらしい。)そして私の考えでは、この「ハイ」という声をかけるという習慣はアメリカ人がそれだけシャイだからと思う。最初からその予防をしているのだろう。
 これとの関係で私が英語はうまくできていると思うのが、「ハイ、アゲイン」という挨拶なのだ。「こんにちは、のお代わり」というわけだが、これは同じ部署などで、朝一度会ってあいさつを交わした人と再び出会う時なとで用いる。二度も三度も顔を合わせるのは気恥ずかしい状況だが、アメリカ人はこれをうまく扱う実にうまい表現があるわけだ。(一度「さよなら」と言った人と出くわしたら「グッバイ、アゲイン」というのだろうか?これは聞いたことがない・・・・・。)

2021年9月10日金曜日

それでいいのか、アメリカ人 11

 アメリカにもいるナル人間

このように書くと、ではアメリカ人は自分のことをありのままに話しているだけであり、自己愛的なわけではないという風に思われるかもしれない。しかし実際はそのようなアメリカ人の中にも自己愛的な人間、ナル人間は存在するのである。(本書では、自己愛的、ナルシシスティック(略して「ナル」)という言葉は同じ意味を持つとお考えいただきたい。その時の感じで使っているだけである。)
 こう考えていただきたい。人は自分が周囲に比べると優れているということを認識することで快感を覚えるよう傾向を大概持っている。中にはそれは快感ではなく、むしろ後ろめたいという人もいるかもしれない。しかしそれは一瞬味わってしまう快感があるがゆえに、そのことに罪の意識を覚えるというわけである。
 ただし人より優れていることがそれほどうれしいと感じられないという人もいる。むしろ自分が安全な状況にあるのか、自分の存在がちゃんと保証されているか、ということの方がはるかに重要な人もいる。誰だって場合によってはそうなるであろう。自分が重篤な病に侵されたなら、人より優れているか、とか会社の中での序列などということは一時的にではあれどうでもよくなってしまうはずだ。そしてその意味では人より優れていることを喜び、劣っていることを嘆くのはむしろぜいたくな悩みということが出来よう。
 ともかくも自分の身の安全が確保された比較的恵まれた環境に置かれた私たちは、とたんに周囲と自分を比べ始める。そして大概の場合は自分をより大きく見せて周囲との格差を感じて満足する。これは人間の本性と言えるだろう。するとそのような機会をより多く持つのがアメリカ社会であり、そこに暮らすアメリカ人ということになる。何しろ彼らは自分を表現するチャンスをふんだんに持つ、というよりは持たされているからである。そしてその意味ではナルになるチャンスがたくさんあり、実際にナルになっている人もたくさんいるのである。
 ところで自己愛的、とは結局どういう状態なのだろうか? かつて私は「ナルな人たち」という本で相当この点について突っ込んで論じた。そこで論じたのは人は自分についての自己愛的なイメージを持ち、それは風船のようなものだと論じた。それは制限されなければ自然と膨らんでいく傾向にある。その風船の大きさを他者と比べるのだ。それが多くの人間が持っている自己愛傾向というわけである。例えばある思春期の青年が、鏡に映った自分を「イケてる!」と思ったとしよう。「自分はクラスでもかなり頭もよく、スポーツもできる。見た目もかっこいい」と思う。もちろん自分の鏡に映った姿を見てそう思える人はかなり限られたおめでたい人だが、人は一般に人は自然と自分を平均以上であるとみる傾向があるのは確かだ。米国の統計だと思うが、普通の大学生の80パーセントは自分は平均以上に優れていると思うという。だから等身大の自分があるとすれば、みなその周りに少し膨らんだ風船をまとっていることになる。そしてその風船は、例えば鏡を見てにやにやしているのを見た母親が「オレ、イケてるな」という息子のつぶやきに同調して、「そうね。少なくともお父さんの若い時よりはずっとイケてるね」と言ってくれたりすると、その風船はさらに膨らむ。(実際にそのように息子に声をかける母親は、実は全く想像できないのだが。)そしてクラスのあこがれの女子生徒に接近しては全く無視されるということで、その風船のふくらみは止まったり、しぼんだり、破裂したりもするというわけだ。
 さてこの自己愛傾向は、基本的には文化の差はないものと認識している。そしてそれは人がどれだけ自己欺瞞をしうるかという傾向に関係していると考える。人は平均的な自分を採点すると、偏差値50のはずなのに55をつけてしまうという時点でどこかで自分を偽っているわけであるが、それは人間がそのようなものだからなのである。そこでナルの人は日本人にもアメリカ人にもいるという結論になるわけだ。
 ただしアメリカ人のナルはやはりより現実的であり、単なる自慢ではないという傾向は、日本人と比較して見られると私は考えている。そこで出てくるのが例の単純さのロジックである。アメリカ人はナルどうしが比較し、実力を照合をする機会をふんだんに与えられている。ナルはナルですぐに身の程を知らされる。自己愛の風船はその膨らみすぎを修正されるのも早い。
 それに比べると・・・・ということで結局日本人のナルの傾向のことを論じることになってしまうが、日本人のナルは静かに潜航することが多い。日本社会ではナルは自己の実力を誇示する必要がない。黙っていれば大御所として扱われ、年齢がいけば祭り上げられる一方ではだれも正面切って挑戦する人が少ない。そこで増々勘違いしてしまい、その結果として例えば政治の世界や実業界で隠然たる力をふるったりすることになる。

2021年9月9日木曜日

それでいいのか、アメリカ人 10

 アメリカ人が自慢をしても嫌われないのはなぜか?

  アメリカ人は自慢をしたがるのか?よくわからない。自己主張したがるのか? 多分。こちらの方はよくわかる。私はアメリカ人があのように振舞うようになっていく過程をじっくり観察していたつもりである。彼らを子供のころから追っかけることが出来たからだ。アメリカ生まれの息子はシャイだけれど人懐っこくひょうきんな性格からか、幼稚園から小学校、中学とクラスメートに多くの友達がいた。いろいろな友達が家に呼んでくれるので、そのたびに車で送り迎えする。米国は物騒だから、幼い子供が一人で友達のところに遊びに行く、ということは普通はしない。必ず親が送り迎えをするのが決まりだ。そして向こうのうちで子供たちが一緒に遊ぶのを眺めることで彼らの育ち方を学ぶのだ。アメリカの子が小さいころから学ぶのは、何も主張しなければ存在しないも同然といった扱いをされるということである。いやそれは正確ではないかもしれない。むしろ不思議な存在、不気味な存在なるのである。

話はそれるが私は米国で日本人の留学生がグループの討論に参加をして黙っている様子を何度も見たことがある。というよりは私もはじめのころはそうだったのだ。すると彼らは黙っているメンバーを見て、「いったい何を考えているんだろう?」と猜疑的になっていくことが多い。何かを考えているなら、それは口に出して表現するだろう。それをしないということは、口にできないことを考えているのだろうか?」と皆は心の中で思うのだ。そうとは知らず、「部外者みたいだからおとなしく目立たないようにしていよう」と思っている日本人は逆に目立ってしまっていることに気が付かないのだ。

話を元に戻すなら、自分の考えを伝えるということはとても大事で、さもないと誤解されたり、自分は何も望んでいないと勘違いされるのだということを、ごくごく小さいころから教わるのである。それは親からも教わるし、友達付き合いの中でも叩き込まれるのであろう。これは別のところで書いたアメリカ社会における「単純さ」という話ともつながっている。

そんな社会だから自分が何らかの役割を担うような場面では、立候補が常識だ。人が自分を推薦してくれるだろう、という期待はあまり持たない。立候補をしないとしたら、積極的にはやりたくないけれど勧められたらやるという立場を示していることになるし、そのように扱われる。

アメリカでは例えば研究会などに参加をしても積極的に質問しない、ということはあまり理解を得られない。参加をする、というのは「参加したい」「そこで何かを学びたい」という意思表示と同じである。するとそこに出て質問を求められてそれが出てこないということはないはずだし、そこで話を聞かずに居眠りをすることはありえない、ということになる。したがって発表者が終わった後にだれからも質問が出ない、ということはありえないし、もしそうだとしたら内容に不満だったり、内容が分かりにくかったりすることになり、それはそれで何らかの形で発言されなくてはならないのである。

ということでアメリカ人が機会あるごとに、自分のこれまでの業績を話し、アピールをするのは、自慢をしているというのとはかなり違う。そうすることで人とのやり取りが成立するという前提に従っているだけなのだ。そして自慢と一番違うところは、自分が実際に知らなかったり、体験がないことまで誇張するということは原則としてないということである。それは嘘をつくということになり、それがゆえに人から余計な期待をされたり、責任を負わされたりするかもしれない。それを彼らはおそらく望んではいないのだ。すると自分ができること、体験したことを積極的に表現するということになる。そしてそこには「自分のことをベラベラいうのははしたない」という懸念も例によってあまりない。皆が自分の能力を誇張せずに明らかにし、同様に他者の能力の表明についてもそのものとして受け取る。それで成り立っているのだ。

しかし、である。ここからがおそらく大事だ。

(つづく)

 

 

2021年9月8日水曜日

それでいいのか、アメリカ人 9

褒められると、どうして「サンキュー」なのか? 「アメリカ人は単純で分かりやすい」はこの本での私の口癖である。本当にそのように思う。それとの対比で論じている日本人は単純ではない。おわかりのように、これは単に「単純か複雑か」というのとは違う。アメリカ人は物事を単純化させるような複雑な手続きを踏んでいるといえなくはない。少なくともアメリカ人はコミュニケーションの際にそこに人が余計なエネルギーを用いなくてもいいように、わかりやすく意図や気持ちを伝えようとしていることは常に感じる。というか、英語はそのような意図を十分に反映した言語である。 私がアメリカ人の単純さに感動に近いものを覚えるのは、ごくごく日常的な会話においてである。例えば職場にキャロルが新しい、少しおしゃれなドレスを着て現れる。もう周囲の反応は決まったようなものだ。「素敵なドレスね!I like your dress!」直訳すると、「私はあなたのドレスが好きよ」となる。ここでよく似合っているわね、など込み入ったことを言おうとはしない。だって似合っていないかもしれないじゃないか。でも似合っているかどうかは別として、ドレスが素敵だったらこう言えば嘘をついていることにはならない。 そう、ここで噓を言わないというのはとても大事なことだ。キャロルのドレスを素敵とも思わないのにお世辞を言うことは「単純さ」の追及に反するではないか。奇抜すぎたり、趣味が悪かったりしたら、おそらく人はドレスのことは何も言わないのである。お世辞を言うのは噓になる、というより面倒くさいことになりかねない。キャロルが似合っていると勘違いしてそのドレスを着続けるとしたら不幸なことだし、それはキャロルが真実をそのまま受け取るという単純さに逆行することになろう。 さて私がさらに感心するアメリカ人の、というよりは英語の単純さは、褒められた時の反応である。キャロルは「素敵なドレスね」と言われたら、「サンキュー(ありがとう)」と答えるのである。これが日本ならどうか?さすがに「素敵ね」と言われた人は素直に「ありがとう」と返すかもしれないが、大抵は「そんなことないわよ」などとゴニョゴニョ言うことも多いだろう。素直でないのだ。日本人(メグミさんということにしよう)はもちろん自分のドレスを素敵だと思ってほしいだろう。しかし褒められた時の反応はきわめて複雑だ。なぜだろう? 「ありがとう」と言うことは、「あなたが言ったように、私は自分のドレスを素敵だと思っていますよ。」と言っていることになり、これは日本人には耐えがたいのである。嬉しいはずなのに。 このような時の日本人の心にほぼ間違いなく浮かんでいるのは、「自分のドレスを褒められて喜ぶ姿を見せるのはきっとはしたなく思われてしまう」である。ここでありがとう、なんていうと人から何と思われるかわからない。それこそ妬み、嫉みの対象になるかもしれない。そう、日本人は周囲からの見た目を気にするのだ。でもアメリカ人だって妬みや嫉みの感情があるはずではないか! 実は私はこの問題を17年間時々考え続けてきた。その結果私の中で出た結論がある。それはアメリカ社会では他人が優れていることをそのまま受け入れるということの単純さ、シンプルさを大切にするということを、おそらくその文化の中で刷り込まれているのである。 ここのところをうまく説明できるかはわからないが試みてみよう。例えばキャロルと職場で一緒のアンが、その職場のチームリーダーに昇進したとする。キャロルはひょっとしたら面白くないかもしれない。「アンよりあたしのほうが優れているのにどうして!」となってもおかしくない。そして確かにアメリカ人だって他人への妬みや嫉みは当然体験するはずだ。でも同時にアンが確かに優れていると感じられるのであれば、嫉妬や羨望などの余計な感情はなるべく持たないようにすることの大事さをキャロルは知っている。 ただしこう書くと「でも自分とアンの実力の差をどうしてキャロルは客観的に知ることができるの?」となるだろう。確かにキャロルとアンに大した差はないのかもしれない。その差を客観的に示す指標などだれも持っていないかもしれない。ただしアメリカ社会ではその差とは、ある意味では明白なのだ。そしてその半分以上はアピール力なのである。もしキャロルもアンと同じくらいにチームリーダーの座を望んでいたとしよう。キャロルは当然そのためのアピールを周囲に対して示す必要がある。キャロルは「アンより私のほうが優れているから、アピールはしなくても大丈夫」とは決して思わないであろう。アメリカはそういう社会ではないからだ。だからキャロルはアンとその座をオープンな形で競うことになるであろうし、それをしないでウジウジと「どうしてアンなんかが…」とはなりにくい。これってとても単純で分かりやすくないだろうか? ともかく話を元に戻そう。アメリカでは優れたものは周囲がそれを受け入れ、余計な嫉妬や羨望は持たないということの重要さをどこかで身に染みているのだ。だから褒められたらそれをそのまま受け取ってもそれはさほど危険なことではないから、「サンキュー」はアメリカ社会では正解なのである。

2021年9月7日火曜日

だいじょうぶか、アメリカ人 8

 アメリカでは泣く子も黙る「ドクターズアポイントメント」

 アメリカ人は確かに単純である。(アメリカ人の方、ごめんなさい!!!) そしてわかりやすい。そのわかりやすさが妙に懐かしくなることがある。それは個人個人の最低限の権利はみなが尊重しあうということだ。もちろんそれだけアメリカ人が協調と博愛の精神に満ちているからというわけでは必ずしもない。皆が自分の権利を尊重してもらいたいから、結果としてそのような社会システムが作られるというわけだ。そしてその中にはどう考えても日本社会の方がおかしいと思いたくなることがある。
 日本に帰ってきて臨床を初めてたくさんのカルチャーショックを味わったが、以下のようなものがあった。患者さんがたとえばパニック障害で薬物療法が必要になる。「これからひと月に一度は通院していただくことになります。」という話になる。するとある患者さんは困った顔をするのだ。「実は今仕事を探しているんですが、月に一度通院するとなると、仕事が探しにくいんです・・・・」。
 最初は私はその意味がつかめなかったが、よく聞くとこういうことらしい。私の外来(例えば月曜日と金曜日)に来るとなると、月に一度、例えば月曜日に仕事を抜けてくることになる。ところがそうなると「定期的に休むんだったら、ウチはいりません」というようなことを言われるというのだ。もちろん月曜は仕事がない日という契約なら問題はない。しかしそうでない場合に「どうして月曜日に時々来れないのか?」と問われてしまい、そうなると精神科の通院のことも伝えなくてはならず、ややこしくなるというのだ。もちろん雇う側には仕事に応募してきた人たちのプライバシーに侵入する権利はない。きちんと決められた時間に仕事をすればそれでいいはずだ。ところがそういうことまでこだわる雇い主が日本には多いらしい。

 それに、である。人はみな病気になり医者や歯医者に通うということは当然ありうるのだ。そのために月に一度通院のために仕事を休むことのどこがいけないのだ!!そんなことを言ったら仕事を持っている人は医者にかかることすらできなくなってしまうじゃないか!!
 書いているうちに憤慨して来た。こんな問題はアメリカではなかった。例えばキャロルが月曜日の午後2時から医師の予約が入っているならば、「じゃ、ドクターズアポイントメントなので失礼します。4時までには戻ります。」と言って仕事を抜ければそれでおしまいである。もちろん彼女がその日の午後に外出することはあらかじめ上司には了承済みで、そのために仕事の全体に支障を来すことにはならないだけの準備をしておくのは当然だ。そしてその分の時給は差し引かれるのも当然である。ただしアメリカには「シックリーブ」という制度がどこにでもあり、例えば月に3日間、つまり24時間までは病院の受診その他のために有給で使うことが出来るという制度がある。キャロルはその月でまだ残っているシックリーブの時間をそれに充てるのである。
 ドクターズアポイントメントは「誰でも病気になると医師を受診しなくてはならないし、その時間はもっぱら医者の都合で決まることだから、堂々と仕事を離れていいのだ」というお互いの認識がある。そこで後ろめたさを感じる必要は一切ないのである。
 アメリカでもう一つ「泣く子も黙る」ものがある。それは「ファミリーエマージェンシー(家族に生じた緊急事態)」である。これも私は大好きだ。例えば家族が病気になり駆け付けなくてはならない場合、職場はそのような事情のある同僚をこころよく送り出さなくてはならない。子供が熱を出したと保育園から連絡があったとしたら、若いお母さんは「ファミリーエマージェンシー」を理由に堂々と退出するのだ。誰も文句を言わないのは、だれもが同じ立場で仕事場を抜けることがあるからである。
 アメリカで当たり前な「ドクターズアポイントメント」や「ファミリーエマージェンシー」が存在しない日本は、なんてヘンな国だ、ということになる。その極めつけは日本人がよく口にする「仕事ををやめたくても、やめさせてくれないんです!」という訴えである。「私が行かないと仕事が回らない、と上司に言われるんです。『皆頑張っているのに、なんであなただけ仕事を辞めるなんて言えるの?』と言われると、何も言い返せないんです。」これはゼッタイに、ゼッタイにおかしいと私は声を大にして言いたい。雇う側が労働者を補給するのは彼自身の責務である。人を雇う側とはそういうものだろう。

でも・・・・・。私には日本人のそのような気持ちもわかる。「つらいのはあなただけじゃない」というセリフに日本人はみな弱いのである。