2021年9月13日月曜日

それでいいのか、アメリカ人 14

  今日の文章も試作品、という感じだ。実際に本で用いることはないだろう。

  アメリカ人も人目を気にする 2
 人目を気にするかどうかというテーマは、これが自己愛の問題だと考えるとわかりやすくなるだろう。人はみな自己愛的な満足を求める。自分が他人よりイケている、優れていると思いたい。もちろんこれはデフォルトがそうなわけであり、人より優れることにあまり興味がない人、人より優れると逆に苦しくなるという人もいるという事はすでに話した。しかし褒められてうれしくない人はまれであろうし(というよりかほとんどであったことがない)、それが足りなければ自分で自分をほめている人も少なくないだろう。とすると自己愛的な満足の源泉は人から良く思われること、優れていると思われることである。という事は自己愛的なアメリカ人は常に人の視線を意識しているという事になる。改めて考えれば当然のことなのだ。それでも私たちが「日本人は人目を気にする」と感じるのはどうしてだろうか? 

 ウィッキーさんの話を思い出していただきたい。彼に町にマイクを向けられた日本人は逃げ回るのだった。もしニューヨークで同じことをしたらどうか?ちょっとこれは想像しにくいので、(誰も英語で話しかけられても逃げないだろう)私が体験したパリの街を考えよう。パリでは少なくとも私が暮らした1980年代半ばは英語を話せる人が少なく、話せてもカタコトであった。ちょうど日本人に対する英語のような関係にある。
 そこでウィッキ―さんが同じような番組をフランスで持っていて、そしてパリの街で通りがかりの人にマイクを向けるとしよう。もちろんいろいろな反応があるだろう。しかし彼らのほとんどは逃げることは考えられない。パリ人はマイクを向けられても「なんで私がこんなことをされなくてはならないの?」という怪訝そうな顔でフランス語で押し通すだろうし、少し英語が出来ることを自負している人なら、かなりフランス語なまりで、おそらく聞き取れないような英語を操って押し通すだろう。そこに「あたし恥ずかしいわ」という様なニュアンスは伝えて来ないのだ。日本人がそのような場面で「恥ずかしい」には英語を中学校、高等学校と長い間習っているのに、「喋れなくて情けない」という自己卑下があるとしたら、パリ人はもしそれを感じても表すことはない。結局上手くウィッキ―さんとの会話が成立しなくても、彼らは肩をすくめて「タンピ!(残念ね)」とでも呟いて行ってしまうだろう。
 そこには二つの要素が考えられる。一つにはアメリカ文化に対する蔑視がある。自分たちの文化が優れているという思いが、ヨーロッパ大陸に住んでいる人たちには多い。(もちろん英語は英国人も話すので、人によってはフランス文化第一主義を信じている人はそれほどいないかも知れない。
 もう一つのより本質的な理由は、「恥ずかしい」を表現することへの恥の感覚がある。彼らは恥ずかしいという感情を持つという事を一種の恥と考える。自分の弱さだと考え、それを人前に晒すことは不利だと思うのだろう。
 アメリカ人について考えているのに、ウィッキ―さんをパリにまで送って、パリ人のことを話してしまった。そこで「アメリカ人が人目を気にするか」、という本来のテーマに戻る。私はアメリカ人はフランス人ほど「恥ずかしいことを恥と感じる」ことはないのではないかと思う。しかしそれでもパリ人とある程度は同じような反応をするのではないかと思う。自己愛的な彼らは恥をかくことも大嫌いである。というかそれを致命的なことと考える。人前に表すのはいつも「人前に表す用意のある」自分の姿である。そしてそれ以外が漏れ出ても、それを恥に思ったりするというそぶりは見せない。恥をかいてはならない、という事は恥をかいたようなそぶりを見せない、ということであり、心の中では恥の感情を持っていてもそうなのだ。そしてそうである以上は、彼らは必ず人目を気にしている。
 さてこれを読んでいる読者の中には、私が何を言っているのかわからないと思う人もいるはずだ。(実は私もその一人である。) でも実は何について気にするか、という点での違いがあるのである。日本人の場合には、「自分が優れている、自慢していると思われるのではないか?」を気にするのに対して、アメリカ人の場合は、「自分が劣っている、自分の考えがないと思われるのではないか?」「自分のことをダメな存在と思っていると思われないか?」を気にする、と考えたら少しは整理が付くだろうか。