2021年9月20日月曜日

それでいいのか、アメリカ人 21

 アメリカ人と日本人、どちらが怒りっぽいのか?

私にとっては怒りとは「自己愛憤怒」である。まずこのことを説明しなくてはならない。人は自己愛の風船というものを持っている。自分はこのくらいできることが自慢である、とかこのように遇されてしかるべきだ、という一種のプライドである。昔「矜持(きょうじ)」という言葉があったが、以下のような意味だという事である。「矜持の由来は、かつて戦の際に兵士が携えていた「矛の柄(ほこのえ)」だという説が有力で、古代中国の武士にとって、矛の柄を持つことは誇りだったという。」なんだかよく分からないが、とにかくそれを持っていることで自己愛が安定する。ほっておくと俺の矛の柄はすごいんだ、と想像の中で肥大していくので、それを風船にたとえたわけだ。
 さてある兵士が自分なりに立派だと思っている矛の柄を馬鹿にされたり、傷を付けられたらどうだろう。人はハラを立てる。それがいわば人間の怒りの基本形で、実は私たちが日常体験している怒りのほとんどがこれに属するというのが私の意見だ。これはもう、これに属さないものを考えることが難しいほどだ。これに属さないものと言えば、例えばいきなり自分のパーソナルスペースに侵入してきたものに対する反射としての怒り、くらいのものだと思う。
 例えば街を歩いていていきなりある暴漢に殴られたら腹が立つだろう。これも自己愛憤怒か、と問われるかもしれない。その通りだ。これは最後に述べた反射の可能性があるが、しっかり自己愛憤怒の要素が入っている。例えば自分は一人前の社会人のつもりでいる男が、誰かに殴られて無様に道に倒れるとしたら、これはかなり自己愛的な傷つきを伴うだろう。これはそうでない場合を考えれば納得がいく。奈良の街を歩いていて、道に迷い出た鹿が警邏中の警官に追いかけられてたまたまあなたの体にぶつかってきたらどうだろう。その部位や衝撃の大きさが暴漢に殴られたのと同じ衝撃でも、貴方の反応は全く違うはずだ。「し、鹿にやられた・・・・・。運が悪かった・・・・。」となるくらいで、暴漢に殴られた時のような怒りは体験されないはずである。「鹿の分際で俺を馬鹿にするのか!」と怒り狂う人も稀にいるかもしれないが、たいていは人は鹿には容易にプライドを傷つけられないからだ。
 読者の方もいくつか怒りの場面を想定して欲しい。結局はこの「プライドを傷つけられた」という自己愛憤怒の問題に息つくことに気が付くはずだ。自己愛憤怒の理論は、アメリカの精神分析家ハインツ・コフートが示したもので、大概の人は彼の自己心理学の理論に出てくる、特殊な形の怒りの理解の仕方だ、と思っている。ところがどっこい、これはすごい理論なのだ。何しろ人の怒りの原型を喝破した理論だからである。
 さてここまでが前提でアメリカ人の怒りについてである。結論から言えば、アメリカ人はこの種の自己愛憤怒は日本人ほどは見られない気がする、というのが結論だ。つまり自分のプライドが傷ついて腹が立つ、という反応をあまり目にすることがないのである。それはなぜかと言えば、彼らはある意味では「鍛えられて」いるからなのである。それはどのような意味でであろうか。
 私は一度「自己愛の人は叩き上げだ」という文章を書いたことがある。ナル人間の社会の住人は、自分の自己愛を発達させる中で、まずはもともとナルな人たちの中に投げ込まれる。子供のころ、最低学年の頃の話だ。年上は、先輩はみな自分より大きな矛の柄を持っているのだ。自分のなんて大したことはない。「なんてちっちゃい矛の柄なんだ」とバカにされても、おそらく怒りはわからない。なぜならそれは何よりも自分の目に明らかだからだ。ナル社会のアメリカでは特に皆が矛の柄を人目に見せている。日本の場合は隠していたり、「私の矛の柄は大したことありません」などとしおらしいことを言うが、アメリカでは最初から矛の柄はドーンと見せるのが了解事項である。
 とするならば自己愛憤怒は自分の矛の柄の立派さをあまり遠慮して示さないながらもそれなりにプライドを持っているような人たちの集団である日本において、より起きやすいということになるのではないか。