2021年1月27日水曜日

続・死生論 18

 後半を「空」や「無」の話に移行させるということでよさそうだが、そうすると前半のフロイトに関する議論と、後半の前半の部分をうまくつなげなくてはならない。ということで前半部分を読み直す。フロイト以降のいろいろな人の論文を読んだが、結局喪の先取り、ホフマンの弁証法の議論と言うあたりがフォーカスになるという考えは変わらない。そのような心の動きを揺らぎ Fluctuating mode of mindという形で、言い表すことが出来ようか。そこまでどうやってまとめたらいいだろう?

フロイトの「儚さ」に描かれていたのは、喪の先取りの重要さであり、それは対象喪失にも自らの死すべき運命についてもそうであるという論旨でこれまで進んできた。結局はすべては悲哀とメランコリーに語りつくされている、というのがSchimmel の立場であると言っていい。彼の口を使ってそのように語ることができる。そしてそれがホフマンに受け継がれたことについては、Slavin が見事に描き表している。そしてこれがまた美にかかわってくる。Slavin さんがこれをどうして美と結びつけたかについての説明はよく分からないが、おそらくauthenticity と関係しているのだろう。あるものを真正なものとして体験している時、そこには欺瞞が可能な限り捨象されているはずだ。では何が真正さかといえば、人間の有限性finitude ということになる。それが美の感覚につながるというのが一つの仮説として成り立つであろう。死を覚悟した人生の処し方はある種の一貫性や透明さ transparency を有するが上に、美的な価値を生む。

前半部分でやはりどうしても未解決と言わざるを得ないのが、揺らぎと美の関係である。あるいはそれに向かう私たちの志向性ということだ。儚さは美という形での快感を生むから私たちはそのような心に向かうのだろうか。それともベッカー流に、それは心の真実だからだ、人が自分に正直になればわかることだ、と言うべきなのだろうか。そもそも私はどうして人生のこの時期に自然とこのテーマに向かっているのであろうか?