2021年1月28日木曜日

続・死生論 19

 どうして儚さの問題が美につながるのか。それはフロイト流に言えば、喪のプロセスにより対象は内在化されると同時に、リビドーが撤去されることに伴う快感ということか。外的な対象に備給されていたリビドーが解放されるのが快感という風に考えれば、フロイトの欲動論にも合致することになる。また系統発生論的に言えば、喪の先取りをすることを快楽とする人が生き残ったのか。自分の運命を冷静にとらえられる人(というかそのような思考への志向性のある人)は子孫を結果的に生みやすい?しかしともかくも芸術はそれに接することで内面化、内在化が生じ、それが美の感覚と符合しているという可能性がある。「儚さと美」を理解するカギはそういうことなのか。

内在化が快を生むというのは芸術の一つの特徴と言えるのではないか。ある曲やある絵画を鑑賞するということは、それに感銘して心を動かされることがあればあるほど記憶に残り、すなわち内在化されるであろう。

実は儚さと美を求める傾向は北山論文に見られる、ということで日本の話に結びつけるのが自然だろうか?それはこんな風に書きだすことができる。
 フロイトと同様にtransience について精神分析の文脈で扱った論考の中で、日本の分析家北山の論文は欠かせない。日本文化の中に儚さに美を見出し、そこに失われるものを投影するという伝統が存在することについて論じる。移ろいやすいものは私たちの何かを強烈に投影する。それはフロイトの言うように、時間の流れにおける希少さが価値を生むからだ。北山は特にそれが日本人のマゾキズムと連動している点に注目する。日本人は最後が別離で終わる物語を好む傾向があるとし、こう述べる。「この抑うつ的な傾向は示唆に富んでいるように思われよう。しかしこれは病的なまでに自己破壊的で、自分自身の命も含めたすべてを儚いものと感じることにつながる。

北山論文(Transience: its beauty and danger, 1998).の中で美に関する記述を抜き書きしよう。In my opinion, transition can be just joyful but it is often accompanied by a sense of transience or transiency that is more or less painful sentiment, sometimes even involving an artistic sense of beauty as well as sense of sadness, emptiness and depression.(p.940)

北山はこう言い切っているわけだが、その根拠は示していない。浮世絵などの美術作品を見れば明らかではないか、ということだろう。でもこれをマゾキズムとするならば、少なくともそれに伴う快感の説明は示されていることになる。

つまりこうだ。日本文化においては自らを消すことによる美をことさらに追及する傾向があり、それはマゾヒズムに関係しているであろう、と。私自身も受け身的で、行動を起こさないことが、逆説的にある種のアピールや誘惑としての意味を持つ可能性について論じた。このような世界観は日本の伝統に根ざしていると言えることを論じた。それが羽裏に表れる。羽裏は表れていると同時に隠れている。来ている人の心には内側の華麗な絵が見え隠れしている。そしてそれは自分の中で完結している。それと同じように自らの死すべき運命も自らの中で完結しているのだ。しかしそれはベッカーの言う祈りや信仰にもつながる傾向なのだ。