2021年1月31日日曜日

続・死生論 22

  西谷啓治といえば西田幾多郎の弟子という事になるが、その西田が美について考えていることがとても参考になる。どこかにフロイトの臭いがするのだ。参考図書は藤田正勝著『西田幾多郎:生きることと哲学』(以下FM)である。

ちなみに今日のエントリーは井庭崇のConcept Walk という優れたブログを大いに参考にさせていただいた。

どうやら西田の発想は、ベルクソンの「直観」についての考えであったらしい。ベルグソンはの「物自身になって見るのである」という体験を受けて、「我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となって居るのである。」(西田幾多郎『善の研究』)としているのだ。「事柄は外からではなく、事柄自身になってはじめて把握されるという考えは、初期の思想だけではなく、西田の思想全体を貫くものであった。後期の著作のなかでくり返し用いられている「物となって見、物となって考える」という表現がそのことをよく示している。」(FM,p.60

これは世界や対象そのものとなって認識するという事だが、それが芸術に関係していると西田は考える。「事柄は外からではなく、それに没入し、それと一つになることによって初めて把握されるという考えが、西田の「純粋経験」論の根底にある・・・そのような経験のモデルを西田はしばしば芸術のなかに求めている。」(FM.p.62)「たとえば「純粋経験」において主客が人等になっていることを説明するために、「音楽家が熟練した曲を奏する」場合が例として挙げられている。」(Mp.62

しまった。井庭先生のブログの丸写しに近い状態になっている。「行為そのものに没入した境地において究極の芸術が成立するという考えを西田は早い時期から抱いていた。」(p.65

「私は感情というのは精神現象の一方面という如きものではなくして、寧【むし】ろ意識成立の根本的条件ではないかと思う。」(西田幾多郎「美の本質」)←この本は手に入れなくてはならない。
「西田は『善の研究』において、「純粋経験」が何であるかと説明するにあたって、それが「主客の対立」以前の経験であるとともに、「知情意」が一つになった経験であることを述べていた。」(FMp.72

以下は伊庭先生による重要なFMの抜き書き。
「自己の底に徹して、自己を自覚的に把握するとき、われわれは、「絶対無限なるもの」に、つまり自己を超えたものに出会う。しかし、この自己を超えたものは、自己の単なる他者ではない。まさにそこに西田の宗教理解の大きな特徴がある。」(p.151
「一般的には、宗教における絶対的存在は自己の外にあると言われる。しかし、西田は、絶対的なものをそのように単に超越的な存在として捉えることに反対する。・・・われわれがわれわれの自己の底に徹したときに出会われる絶対的に無限なものは、「自己がそこからと考えられるもの」、つまり自己の根底にほかならない。われわれはそこでわれわれを生かしているものに出会うのである。」(p.152

「西田のなかに生きていた東洋思想の伝統・・・・そのような伝統を踏まえて、西洋哲学が前提にしていた思索の枠組みを明るみに出し、それを突破し、事柄そのものに迫るということが可能になったのではないだろうか。あるいはより正確に言えば、東洋と西洋のはざまに立って、西田は西洋哲学を相対化し、それがはらむ問題点を掘り起こしていったように思われる。」(p.161
「日本の伝統的な文化のなかでは、無心ということ、あるいは己れを空しくするということが理想の境地として語られてきた。そのようなことも、西田のものの見方に深く影響を与えたと考えられる。」(p.193
「西田は、西洋文化が「有を実在の根柢と考える」のに対し、東洋文化は「無を実在の根柢と考えるもの」であらるというように、二つの文化を類型化し、対比的に論じている。「無の思想」という言葉で東洋の具体的にはインド、中国、日本の文化に見られる共通の特徴が言い表されているのであるが、しかし同時に、そこに存在する差異にも目が向けられている。西田によれば、インドの無の思想が「知的」な正確を強くもつのに対し、中国の無の思想は「行【ぎょう】的」な正確を強くもつ。それに対して日本の無の思想は「情的」な特質をもつ。」(p.164

「「絶対の無」はもちろん単なる無ではなく、そこには「深い内的生命」、あるいは「無限なる生命の流れ」がある。「場所」が自己のなかに自己を映すということが、ここではこの「内的生命」の自己表現、つまり「生命が生命自身を限定すること」として捉えられている。(p.165

「この「空間的」に、つまり形をもった「有」として固定化できない「無限に動くもの」に目を向け、それを把握し、それを表現しようと試みてきたところに日本文化の特徴がある、というように西田は考えていたと言ってよい。そしてそれを「情的文化」といように言い表すとともに、その特徴について次のように述べている。「情的文化は形なき形、声なき声である。それは時の如く形なき統一である、象徴的である。形なき情の文化は時の如くに生成的であり、生命の如くに発展的である。それは種々なる形を受容すると共に、之に一種の形を与え行くのである。」(p.166
「西田は日本の精神的な伝統の最大の「弱点」を、それが「学問」として発展しなかった点に、言いかえれば、厳密な学問的方法の基礎の上に構築された理論として展開されなかった点に見ている。まさにその弱点を克服するために西田は、日本の精神的な伝統に対して、それ自身を「空間的な鏡」に映し出すこと、つまり、異質な文化との対決ないし対話を通してそれ自身の不十分性を明らかにすること(「自己批評」)を求めたのである。」(p.170
「私は仏論理には、我々の自己を対象とする論理、心の論理という如き萌芽があると思うのであるが、それは唯体験と云う如きもの以上に発展せなかった。それは事物の論理と云うまでに発展せなかった。私は先ず西洋論理と云われるものを徹底的に研究すると共に、何処までも批判的なるを要するのである。」(西田幾多郎『日本文化の問題』)

「『事物の論理』にまえで発展しなかったという仏教思想の限界を、西田はまた「意識的自己の問題に止まって制作的自己の問題に至らなかった」という言葉でも言い表している。」(p.176『西田幾多郎:生きることと哲学』(藤田 正勝, 岩波書店, 2007

 私がフロイトの考えとの共通点を感じるのは、対象や世界と一体となるという考え方がリビドーの撤去や同一化といったプロセスと、発想として共通しているように思えるからだ。

フロイトにおける対象との同一化はある意味では ego-centric な考えではなく、自らの移ろいやすさ transience を前提としたものであると言えるだろう。対象と一体化するという事は、主格合一、そして主はもはや対象との間を移ろう存在となるという事である。その意味ではフロイトのリビドーの撤収という考え方は誤解を呼ぶともいえるだろう。対象が内側に入り込むというだけではなく、自我が外側に出るという現象が同時に生じているからだ。