2021年1月21日木曜日

続・死生論 12

 ホフマンの論点に戻るならば、彼はフロイトは「儚さについて」の論文において、明示的にではないが、死についての議論を実存的なレベルで扱っているという。そこでのキーワードは喪の前触れ foretaste of mourning という概念だ。やがて失われる対象に対してあらかじめ喪の作業を進めることの必要性を説いたのである。しかしそこでは愛する対象の喪について論じていながら、事実上自分の死についても論じているとホフマンは考える。つまりこの論文はそのままフロイトにとっての事実上の死生論なのだ。無意識の時間性を主張したフロイトは、しかしこの喪の先取りの問題において、明らかに時間性を持ち込んでおり、それはフロイトのそれ以外での機械論的な議論とは一線を画している。
 人が有限性に直面した時に生じる価値の問題について扱うという実存的な姿勢は、人間の本質的なあり方であるとベッカーは主張するが、フロイトの「儚さ」には確かにそのような傾向が見られる。ただそれによってフロイトは実存主義を超えた、ということはとてもできないとホフマンは言う。そしてここも強調されている点だが、(ホフマン、拙訳、p.95)フロイトは有限性について3つの態度を個別に述べているが、それらが共存するという実存的なあり方をしっかり論じていない。つまり花がいずれ枯れてしまうということを認識することは、物事の価値を奪う恐れと、それを高める可能性の両面を含んでいるという実存的な体験の在り方をとらえてはいないというわけだ。それぞれがあたかも別々に扱われている。それがフロイトの「諦めればいいではないか」というあっさりした態度に表れている。
 ところが人間は実存的な存在であるというキルゲゴールのような立場からは、フロイトの立場はあきらかに強がりであり、無理であるというわけだ。つまりジレンマを扱っていないという意味で、なのである。
 しかし私の見解では、そのことをやがてフロイトは気が付いたのだ。それは「喪は完遂出来る」という立場から、「それは永遠に終わらない作業である」、という立場の変化によってあらわされている。そしてその結果として彼が至ったのは、「喪失からくる精神的な苦痛を回避しないこと、それに直面することが人生に喜びを与えるのだ」というフロイト自身の結論だったというわけである。
 ところでホフマンのフロイトに関する見解は、もちろん彼の提唱する弁証法的構築主義の考えに行き付く。このテーマに関してのSlavin の論文は秀逸である。(Slavin, MO. (2013) Meaning, Mortality, and the Search for Realness and Reciprocity: An Evolutionary/Existential Perspective on Hoffman’s Dialectical Constructivism. Psychoanalytic Dialogues, 23:296–314, 2013.