2021年1月26日火曜日

続・死生論 17

 閑話休題。大学の修士論文の審査で7本の力作を読んでいる間、すっかり本テーマの方に手が回らなかった。しかし幸いなことに、転んでもただで起きずに済んだ。というのも死生学について書き足していくうえでの重要なテーマを得ることができた。それは「無」ないし「空 emptiness」の概念の再認識である。ある修士論文が扱っているテーマから、私はこの概念に導かれた。西田哲学に始る善や哲学の文脈で、具体的には西谷啓治の空の思想が「儚さ」ととても近い関係にあることを知った。西谷の著書は海外に広く知られている。彼の英文での著書「宗教と無」Religion and Nothingness (Nanzan Studies in Religion and Culture, 1983)などが広く海外で引用されている。そして肝心なのは、結局空が、無常transience と極めて近い概念であるということだ。私たちが「色即是空」などという表現で知っている「空」は何もないもの、ではなく常ならぬもの、あるいはいずれは消えていくもの、儚きものということだ。岩波仏教辞典(第二版)にも、空とは結局「無常」であると記されているという。

Lehel Balogh という人の2020年の論文 Nothingness, the Self, and the Meaning of Life Nishida, Nishitani, and Japanese Psychotherapeutic Approaches to the Challenge of Nihilism Journal of Philosophy of Life Vol.10, No.1 (July 2020):98-119を読んでみる。西谷は1949年に京都で「虚無主義nihilism」についてのレクチャーを行うことにしたのが始まりだという。そこで強調されたのは京都スクールや森田療法や内観療法がいかに危険な虚無主義から脱出するかを探る上で考え出されたものであるという。そうか、ここら辺はみなつながっているというわけだ。