2020年3月23日月曜日

揺らぎ 推敲 23

失敗は二つの揺らぎの複合産物だ

以上の考察から私が導くのは次のことだ。
失敗には二種類考えられる。一つは大体型が決まっていて、それは注意を十分行うことで理論上は防ぐことができる。それはおおむねハインリッヒの法則にしたがい、地震のようにべき乗則に従っていく。しかし地震とは違い、それが理論的にではあれ防ぎうるという点では、その失敗には人災的な要素も絡む。そこで問題となるのは、私たちが物事に対して向けている注意の揺らぎが原因と考えることが出来るだろう。
そしてもう一つはそれこそ自然界の揺らぎ、私たちが第一部で見たような揺らぎにより、それはあらゆる形の事故を生む素地となる。それはまさに予想不可能で、どのような形で起きるかは起きてみないとわからず、まさに現実的な失敗である。そして多くの場合、この二つのタイプが微妙に入り混じっているのである。
例えば2011年の東関東大震災の際の福島原発事故を考えよう。この事故では一方では予想を超えた津波という気象現象が生じ、それは私たちの予想を超えた出来事、自然界の「大揺れ」が生じた。しかし原発の事故を防ぐための最大限の努力をするうえで、地下の電力設備の停止を回避するための十分な方策を施していなかったという意味では、これは一種の人災であったとも言える。
これらの事故のうち特に私たち人間の不注意や注意の揺らぎが大きな位置を占めた場合に私たちはそれを本当の意味での失敗と呼ぶのであろう。そうでない場合はそれらは事故として処理される。それは私たち人間に起きた生理現象や疾病についてもいえる。飛行機のパイロットが突然心臓発作を起こして倒れ、飛行機が操縦不能になったとしたら、これは医学的な事象であり、失敗ではない。ただしここには失敗の要素も交じっている可能性がある。つまりそのような事態が生じることを踏まえて副操縦士を配備しなかったことが問われる際もある。その場合には失敗とも言えるだろう。
失敗の本質は何かと考えた場合、それは結局私たちの注意力の揺らぎではないかと思えると述べた。私たちの注意力は常に一定とは限らない。それは常に揺らぎ、その揺らぎには大きなものも小さなものもある。そしてその注意力が大きく低下した際に失敗が生じると見るべきだろう。そしてその注意力は、覚醒時に求められるだけではない。しばしば眠っている時にも常に問われる。