2020年3月17日火曜日

揺らぎ 推敲 17


フロイトは科学者志向だった

フロイトのものの考え方は、ひとことで言えば、決定論的であったと言える。決定論、お分かりだろうか? つまり物事は理論的に説明でき、それにより過去の出来事を解明することができ、また将来を予測することもできるという考えだ。もしそれができないのであれば、それはデータが不足していて、また十分な方法論が確立していないからというわけである。そしてそのような志向はフロイトが生きた19世紀後半の科学者が典型的な形で持っていたものであった。現在の科学者はもちろん決定論的な考え方を皆がするわけではない。ただ当時は皆そのような決定論的な考え方をしていたのだ。
特に1800年代の終わり頃は、ヨーロッパではいわゆるヘルムホルツ学派の考えがとても優勢だった。心も物理学や生理学の様な法則に従って展開していく、と考えがこの学派の特徴である。それはいわゆる実体主義 positivism と呼ばれる考え方だった。実体のあるもの、明確に存在して分節化され得るもの以外にはあまり価値はなかったのだ。
そもそもフロイトは、医者になるために医学部を選んだのではなく、あくまで自然科学者を目指していた。フロイトがウィーン大学で過ごした1870年代は、実証主義科学としての医学が確立した時期であり、フロイトの師となった医学者もそうした厳密な実証主義者であった。大学時代のフロイトは動物学の講義を熱心に受講し、フランツ・ブレンターノの哲学の講義を受講していた。医学生時代にフロイトが発表した論文はヤツメウナギの幼生の神経細胞に関するものであり、脊髄の微細な切片を顕微鏡で観察し、末梢からの刺激を伝える感覚神経がどのように脊髄につながっているのかを明らかにしようとする。それは根気強く丹念な手仕事を持続させる研究であった。そして、この論文の背景には進化論があった。フロイトにとって進化論は観念としてあったのではなく、観察によってそれを実証しようとしていたことをこの章で明らかにした。
フロイトが師事したエルンスト・ブリュッケはそのヘルムホルツ学派の一人に数えられる生理学者であり、当時の学界の権威であった。ブリュッケはそれ以前の生気論を否定し、生命体には物理、化学的な力しか作用していないという立場に立った。生気論とはすなわち生命体を霊魂に似た性質のものとして説明する立場であり、それ自体がとても時代錯誤的なものだったが、生命を生理学的、ないしは物理、化学作用により説明するという立場もまた極端なものであった。しかし当時はその考え方が一世を風靡したのである。
フロイトはプリュッケ教授からそうした生理学の精神を徹底的にたたき込まれていた。ブリュッケの講義録には、精神分析の根本につながる見解を見いだすことができる。また、生理学研究所におけるプリュッケの後継者エクスナーの考察は、ヨーゼフ・ブロイアーに受け継がれ、さらにフロイトヘと継承される。こうした意味でも、ウィーン大学生理学研究所は精神分析の一つの始点であった。