2020年1月13日月曜日

ポリヴェーガル 3

悩ましい「ジリツシンケイ症状」
ここで私はある造語を試みる。「ジリツシンケイ症状」というやつだ。実は精神科、心療内科、そして内科一般にとって実に悩ましい問題がある。それは、体の症状があるが、その原因がわからない、という状態だ。先ほどの、自律神経、ストレス、あるいは気のせい、心の病、という言い方を全部ひっくるめた言い方だ。それらは時に「自律神経ね」と片づけられるので、それをやや皮肉の意味を込めて、こう呼ぶことにする。
これらの症状に対して、従来の識者は心の問題の体への変換、ないしは身体化だと考えた。それがいわゆる転換性障害 conversion disorder, 身体化障害 somatization disorder と言われてきたものだ。転換症状という表現はフロイトの言葉で、要するに無意識的な葛藤が体に象徴的に表れる、と考えた。例えば便秘は、ものをため込んで、排出したりあきらめたりすることに対する葛藤を体で表現している、などと説明した。しかし精神分析にあまりなじめない専門家たちは、症状にそこまで象徴性を見出さないまでも、「心の問題が体に現れるものである(身体化する)」というもう少し大雑把で漠然とした理解で済ませようとして現れたのが、身体化障害、というわけである。そうなると「いったい何が体に現れたのか?」と問われるので、これもかなり漠然と「それは精神的なストレスでしょう」ということになる。そう、「ストレスのせい」というのはこうしてここに絡んでいる。「身体化」するためには何らかの心の側の理由が必要となる。すると心にある種の無理が働く、負荷がかかるというニュアンスを伝えるために、ストレス、というのは格好の用語ないしは概念なのである。
こうして結局「医学的に原因のつかめない身体症状 ≒ 自律神経の失調によるもの ≒ ストレスによるもの≒精神科や心療内科で扱うべきもの」が一括して、ふさわしい呼び名を与えられることなく、今私がジリツシンケイ症状と命名した状態が存在し続け、医学も精神医学も進んだ現在でも、この心身の関係性の問題はあまり大きな進歩は見られていなかった(これから説明するポリヴェーガル理論はその意味では例外的ともいえる)。
このジリツシンケイ症状の考えにはいくつかの重大な問題が隠されていることは間違いない。一つにはそもそも医学的な検査が詳細な異常を検出できないでいたという事情もあった。つまり医学の限界の問題を、医者たちは人の心の問題のせいにしていた可能性が大あり、というわけだ。例えば突然人が倒れてけいれんを起こす癲癇発作も、その発作のあいだは意識を消失して全身が震えるメカニズムが、脳波が発見されて明らかになるまでは、このジリツシンケイ症状として収まっていたことになる。(その頃はヒステリーの症状の一部と考えられていたはずだ。)
もう一つの問題はさらに患者さんを悩ますことになる。それは先ほどの等式である「医学的に原因のつかめない身体症状 ≒ 自律神経の失調によるもの ≒ ストレスによるもの≒精神科や心療内科で扱うべきもの」は、さらにあらぬ方向に向かう可能性があるからだ。それは「精神科や心療内科で扱うべきもの ≒ 心の問題によるもの ≒ 気のせい ≒ 考え過ぎ ≒ 自作自演 ≒ 演技 ≒ 詐病」とつながっていく可能性である。これは病の犠牲者としての患者が何と他人に迷惑をかける人、加害者という方向にまで誤解を受ける可能性を示唆している。
さてこのジリツシンケイ症状を、「自律神経のせい」にするのが「スマートだ」と先ほど言ったが、「でも体の問題だからね」と釘を刺しておくという意味を持っていたからだ。それによりジリツシンケイ症状が演技や詐病という誤解を受ける可能性を最小限に食い止める役割を果たす可能性があるのである。
ただし2013年のDSM-5,昨年のICD-11はジリツシンケイ症状の問題にかんして、ある画期的な進歩をもたらしたと言っていい。それはこれらの身体化障害、転換性障害という呼び方を止めて、「身体症状を伴う解離性障害」、あるいは「身体的苦痛障害 disorders of bodily distress or bodily experiences」、と言ったきわめてシンプルで、そのまんまの呼び方を採用しているということだ。つまりこれらの病名が示すのは、「(原因不明ながら)体の症状を示す病気」というそのまんまの、他意を差し挟ませないような考え方なのである。
ところで今日のブログでなぜこんな長々とした文章を書いているか自分でもわからないが、言いたいのは次のことである。「私たちの体の症状は実に様々で、その中には原因が見つからないものも多い。それらの一部は自律神経のバランスが崩れることや、ストレスに関係しているらしい(けれどその確証はない)」