2024年10月31日木曜日

統合論と「解離能」推敲 12

 以上ポールセンの理論を検討したが、それに対する私の立場は明白である。それは恐らくその引用にかかれたような形でセッションを進めることは自分には出来ないだろうということだ。たとえばポールセンは人格に「~と一緒になりたいか?統合されたいか?」と尋ねる。しかし私にはあまりその発想は持たないであろう。いかにもこちらの進みたい方向に誘導しているという印象を受ける。

上の例ではもう少し具体的に述べるならば、それまで子供のパーツを世話していたポニーという人格が、もうその存在意味がなくなったので、統合が提案されたという。しかしここでポニーに対して取り立てて統合することを提案する必要は果たしてあるのであろうか。存在意味を失ったポニーはおそらくあまり出なくなり、休眠することになるだろうし、それはそれで任せればよいのではないか。
またポニーが世話をしていた子供たちは、それぞれがBASK処理が終わって大人しくなったというが、それぞれがトラウマ処理をしたということになる。しかしそれだけでも膨大な時間がかかったのではないだろうか。それともEMDRで比較的簡便にそれが済んだのだろうか?
ポールセンの論述では、それぞれの人格の確認 → EMDRによるトラウマ処理 → 人格の統合という風に進んでいくのであろうが、あまりに簡便に書かれている気がする。トラウマの処理とはそれほど迅速に進んでいくのであろうか?とてもそうは思えない。特に診断としてCPTSDが考えられるようなケースでは、過去のトラウマに触れるだけでも長い治療関係の構築が必要になってくる。

繰り返しになるが、ポールセンの記述する患者についてはトラウマの処理があまりに段取りよく、短期間でなされているという印象を受ける。実際のトラウマはかなり複雑で、短期間に処理できるようなものではないことが多い。ポールセンの議論では、統合は全てのトラウマ処理が終わってから行なう、という印象を受けるが、そもそもそれぞれの人格が分離している必要が無くなってから統合を目指すとなると、それははるかに遠い先の話になるだろう。しかし過去のトラウマが大方処理されたのちにはそれぞれを背負っていた人格の出現自体も減ってきて、事実上の統合(実は多くの人格が寝静まった後)に過ぎないのであろうか。でもこれも私の彼女の理論の理解が浅いからかもしれない。

ポールセンの手法と類似していると思われるUSPTを比べてみる。少なくともUSPTは統合をメインに考えていたことになる。統合によりうっ滞していた記憶や情動が流れ出す、というロジックだ。それに比べてポールセンの自我状態療法では解離している根拠をなくしてから(すなわちトラウマ処理をしてから)統合を行なうという手順になり、統合を最終目標においているとはいえ、それまでの過程を重視しているというニュアンスがありそうだ。

ポールセンの言う「自我状態」は自己のパーツ同士の仕切りがそれほど強固でない時に呼ぶという(p.34)。もっと明確な健忘障壁を備えるようになると、「交代人格」となる。ということは自我状態はUSPTでいうところの内在性の解離状態に近いということが出来るであろうか。そしてポールセンにはこの障壁のことがよく出てくる。「障壁を取り払うこと=融合」という考え方が目立つ。


2024年10月30日水曜日

統合論と「解離能」推敲 11

 6.サンドラ・ポールセンの理論

サンドラ・ポールセン著、新井陽子・岡田太陽監修、黒川由美訳 (2012)トラウマと解離症状の治療 EMDRを活用した新しい自我状態療法  東京書籍 を紐解いてみる。ポールセンは統合のことをどう考えているのだろうか?

ポールセンが第1章で断っていることに私は早速かみつきたくなる。「交代人格は人間ではなく、一人の人物のパーツです」とある。ここで彼女は当たり前のことを言っている。「人格はクライエントの分身ではありません。それぞれがクライエントの一部(パーツ)なのです。」(p.21) そしてわかりやすい例として、「私が思い浮かべる母親は私の心の中にだけいて、現実の母親とは違う」という。そして「これは非常に単純で明白な事のように思われますが、内的影響と外的影響の間の区別があいまいになってしまうことこそ、多くの病的な症状や治療の行き詰まりの根本的原因であるのです。」(p.21)と述べる。

ポールセンのこの文章を読む限り、おそらく統合は目標とされていないだろうと思える。各人格を「パーツ」と見なすことで、最終的には統合されて初めて一人前という想定は見えていることにもなろう。パーツであるとしたら「それぞれ喧嘩をするな、協調せよ」という方向に議論が進んで行きそうだ。しかしパーツが「一人前」でない以上、どの人格が選ばれても十分な人間とは見なせないことになる。それともたくさんの人格の中で一人一人前になるべき人物を想定するのだろうか?それは基本人格のことだろうか? しかし基本人格は眠っている場合が少なくないのだ。そこで当然浮かぶ疑問は以下のものだ。「もしパーツ同士の協調を考えるとしても、その全体としての存在をどのように扱うのか?」別の言い方をすれば、やはり統合された一段階高次の人格を想定するのだろうか?
しかしそれはDIDという概念をある意味では否定することにはならないであろうか?なぜならDIDの定義としては、複数の人格の存在を想定することであり、そこに「主ー従」ないしは「全体—部分」を想定はしていないからだ。

ということで読み進めていくと、なんと、「統合」という章が出てくる。それを要約しよう。

そもそもEMDRは本質的に統合を促すものであるという。「クライエントがEMDRを受けると、それまで分断されて未処理だった一連の神経系統の集まりが統合されていきます。」(p.249)「EMDRやそのほかの結合に向けた治療を進めれば、おのずとパーツ同士の<統合>が生じます。葛藤が解決され、トラウマ題材のBASK要素が処理されて、それぞれの要素が結合的に”縫い合わされる”につれ、解離障壁は薄くなるか消失していき、クライエントの明瞭な知識として蓄積されることになります。」(p.249)「自然に融合されてはいないけれども、治療初期に比べれば、もはや構造面や機能面でさほど明確に区別されていない交代人格の断片のことを、私は”破片”と呼んでいます。”破片”は取り立てて分離したがっているわけではないので、統合するのは難しくありません。こうした簡単な<統合>はこの後事例1で説明します。」(p.249)。

いろいろ反発を覚えながら読み進める。この事例1で、治療者はこんなことをする。

「ポニー自身はもう分離した人格でいる必要はないと感じていて、キムと統合されたがっていることが分かった。キムも賛成だと言った。その後解離障壁を残しておいた方がよいと思われるようなトラウマ記憶が残っていないか入念に確認してから、両側性刺激を行なって、残った解離障壁を取り除くことになった。キムとポニーの準備が出来ると、私は「キムとポニーが自分の目を通して外界を見ています、壁が崩れます、壁が崩れるよ‥・・・」と言いながら、両側性刺激を何セットか行った。『どうですか?』と私が尋ねると、キムは『変な気分です、両手がピリピリしています。』と答えた。『その感覚に注目していてください』と私は言い、そのままもう何セットか両側性刺激を続け、確認に入った。『ポニー?』するとキムは『ポニーはもう分離していません。私の中にいます』と返事をして笑った。それは私が知っているポニーの笑い方と同じだったが、それも今やキムの特徴として統合されたのだ。」ちょっと長い引用になったが、これから何を考えることが出来るだろうか?私は「え、そんなに簡単にできるの?」という反応である。この引用の前に、キムの中にいた多くの子供のパーツがかなり少なくなったということに気が付いた、とある。「色々なパーツが抱えていたBASK要素の処理が済んで自己に吸収されたので、子供のパーツはキム本人から解離している必要がなくなったのだ。」うーむ。

2024年10月29日火曜日

解離における知覚体験 5

 さてこちらの方は遅々として進んでいなかったが、私はこのテーマに関しては柴山先生にかなり負うことになろう。(柴山雅俊(2017)解離の舞台 症状構造と治療 金剛出版.)

P209では「第14章 解離性障害と統合失調症」として知覚異常に触れている。特に解離性障害で見られる幻聴には二種類ある、と明記している。

1.フラッシュバック しばしばこれが解離性幻聴であるとされがちだが、その一部にすぎず、2,交代人格(不全型も含む)に由来する幻聴。特に「死んでしまえ」などの攻撃的なものや「こっちにおいで」という別の世界へ誘いかける内容などで、これはフラッシュバックとは異なる、としている。さらに解離性の幻聴は、患者の気分との連続性が見られることが多い、とする。 そして幻聴の主を対象化、すなわち特定できることが多い。これは統合失調症の際の把握できない、不明の主体であることとかなり異なる。そして柴山氏が挙げるのが、統合失調症における他者の先行性という特徴だ。ここら辺は大事だから柴山先生を引用しよう。
「概して統合失調症の幻聴は、自分の動きに敏感に反応して、外部から唐突に聞こえる不明の他者の声である。そこには自己の意思や感情との連続性は認められない。その声は断片的であり、基本的にその幻聴主体を対象化することは不可能なものとしてある。幻聴の意図するところは、常に把握できない部分を含んでいる。従ってその体験はある種の驚きと困惑を伴っている。それに対して解離性障害では、他者の対象化の可能性は原理的に保たれており、不意打ち、驚き、当惑といった要素は少ない。」

何年か前に作ったこの表も引っ張り出した。






2024年10月28日月曜日

統合論と「解離能」推敲 10

杉山先生の記載を見ても「『平和共存、みんな大切な仲間』というメッセージが一番大事なキーワードとなる。(p.64)」とある。杉山先生によると最初は最年少のパーツから処理するという。そして次は暴力的なパーツだ。それは「暴力的なパーツとは、クライエントの守り手であるにも関わらず、その暴力性のゆえに他のパーツから忌避されていることが多いからである(p.64)」という。そして次の文章は決定的である(少なくともこの「統合論と『解離能』」の考察にとっては)。 「全パーツの記憶がつなげられるようになれば、人格の統合は必要ない。皆でわいわいと相談をしながら生きて行けばよく、適材適所で対処することにより、むしろ高い能力を発揮したりする(p.64)。」つまり杉山先生は明らかに「共存派」ということで私もひと安心なのであるが、次のような記述も興味深いし,気になる。「トラウマは蓋をしても噴き出してくる。精神科医が噴き出してくる記憶に取り合わないのは、虐待を受け続けていて、必死に周囲の大人に語っても一顧だにされなかった子供時代の状況の再現になってしまう。これは深い恨みを患者の側に再度引き起こし、成人の患者においては次の世代への虐待の連鎖に繋がっていく。(p.65)」 この文章が気になるのは、杉山先生は2020年には、トラウマを扱うことへの警告を可なりあからさまに発してもいるからだ。原田誠一先生編著の「複雑性PTSDの臨床」に収められている杉山登志郎先生「複雑性PTSDへの治療パッケージ」(p.91~104)では、彼はかなり過激であった。「精神療法の基本は共感と傾聴だが、(中略)トラウマを中核に持つクライエントの場合、この原則に沿った精神療法を行うと悪化が生じる。」(p.91)例えば治療者の受け身性を強調する力動的(分析的)精神療法だけでなく、トラウマに焦点化された認知行動療法(いわゆるTF-CBT)や暴露療法についてもその意義に疑問を呈する。「圧倒的な対人不信のさなかにあるCPTSDのクライエントに、二週間に一度、8回とか16回とかきちんと外来に来てもらうことがいかに困難な事か、トラウマ臨床を経験しているものであれば誰しも了解できるのではないか」というのだ。「なるべく短時間で、話をきちんと聞かないことが逆に治療的である」とも書いてある。杉山先生はトラウマを扱うか否かはかなり微妙な匙加減をなさっているのであろう。

2024年10月27日日曜日

統合論と「解離能」推敲 9

 小栗先生の本章の根幹部分は意外とあっさりしたものである。それは「統合により辛い過去の感情が流されて楽になる」ということに尽きる。ただその根拠についてはこの章では明確には触れられていない。 第5章は再び新谷氏の執筆であるが、最初にUSPTを行なう際の説明として、「膝と肩に触れる治療であること」とともに「現時点ではUSPTにエビデンスがないこと」を挙げている。これはとても率直な態度であるとも言える(率直過ぎて少し肩透かし感もある)。USPTの記述の途中であるが、ここでいわゆる自我状態療法に目を向けてみよう。というのもUSPTでの試みは自我状態療法のそれとどこか似ている印象があるからだ。簡便さを追求するところ、左右の交互刺激を用いるところなども共通している。ここは杉山登志郎先生の論文を参考にしよう。 杉山 登志郎(2018)自我状態療法―多重人格のための精神療法. 日本衛生学雑誌 ミニ特集 こころとペルソナの発達に関するアプローチ 73巻1号 62ー66. この論文はとてもコンパクトで読みやすく、しかも杉山先生の治療論のエッセンスがここに書かれているという印象を受ける。杉山先生は私が最も尊敬するトラウマ論者の一人である。ちなみにこの論文は杉山先生の名著「発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療」の第6章に収められている。 この論文には杉山先生がこの治療法について受講し、実際に臨床に応用した際の体験が書かれている。先生はもともとEMDRの研修を受けて実際に臨床で用いた際に「その効果に驚嘆した」とある。しかしDIDの治療の際にその限界を感じ、EMDRのワークショップで自我状態療法を学んで、「再度驚嘆した」そうである。杉山先生には惚れっぽい(いい意味で、である)ところがあり、そこがかの van der Kolk 先生と似ているのだ。(米国で初めてのSSRI(Prozac 、日本には入って来ていない)をPTSDに用いて著効を見て痛く感動したという彼の文章を思い出す。)

2024年10月26日土曜日

統合論と「解離能」推敲 8

 4.USPT理論 ここからいわゆるUSPTについて少し考察する。小栗康平先生や新谷宏伸先生の提唱するこの技法は、「タッピングによる潜在意識化人格の統合」(新谷 宏伸 (著, 編集), 十寺 智子 (著), 小栗 康平 (著)(2020)USPT入門 解離性障害の新しい治療法 -タッピングによる潜在意識下人格の統合. 星和書店.)という治療法で私も以前から注目していた。本書では私が今検討している人格の統合ということを治療の最優先事項として掲げているという点で画期的な書である。ちなみにUSPTとはUnification of Subconscious Personalities by Tapping THerapy (タッピングによる潜在意識化人格の統合) の頭文字である。この治療の眼目として創始者小栗先生が唱えるのが、「表出してくる憑依人格の存在を通して生きることの意味まで深く考えさせられる事」であるとする(同書p.2)。 ちなみに小栗先生には「マイナスエネルギーを浄化する方法ー精神科医が明かす心の不調とスピリチュアリズムの関係」(2010)という本も出されており、それが本書の共同著者である新谷宏伸先生(現USPT研究会理事長)の心をつかんだとある。本書では新谷先生が小栗先生のもとに、言わば弟子入りして第三者の視点から本技法が生まれた経緯が書いていることが興味深い。それによると小栗先生は人格変換をEMDRを用いつつ行った結果「両ひざのタッピング」が最適だとの結論に達したという。そしてさらにある治療者A先生により人格の統合には「背部(肩甲骨のあたり」をタッピングすることがいいと伝授されたとのことである。そして両膝への左右交互のタッピング」で人格変換を手早く行い、背部のタッピングで人格を統合するというUSPTの原型が出来上がったとする(p.13)。何かフロイトがカタルシス法から前額法を経て自由連想法に至った経緯を思わせる様で先を読むのが楽しみである。 本書の第4章「人格解離機制ー典型的DIDと内在性解離―」はUSPTの創始者である小栗康平先生による章で、先生の考えるDIDのメカニズムが簡潔に書かれている。それによるとUSPTを用いた解離性障害の治療とは、「『統合』に向けて『融合』を何度も繰り返していき、最終的に基本人格を呼び出して実年齢まで成長させて、主人格と統合する」(p.21)ということである。ここで基本人格とは「生まれて来た時(胎生期も含む)の本当の自分」と定義されている。ということはこれはかなり野心的な治療目標とも言えるであろう。なぜなら私達が出会うDIDの方々の中には基本人格さん自身が見当たらない(深く眠っている)というケースがかなり多く見受けられるからだ。そのような場合にも基本人格に遡り統合を試みるということだろうか? また以下の文章も注目に値する。「幼少時に(生まれる前、胎生期のトラウマが原因であるという患者さんが約半数いる)強いストレスを回避する目的で、基本人格が別人格を生み出してそれに対処すると、以後ストレスに直面するたびに別人格を生み出して対処するようになります」(p.21∼22、下線岡野)。つまりトラウマは前生におけるものをかなりの割合で含むという、やや特殊な立場である。 さらに著者によれば、最初は解離性健忘を伴う典型的なDIDにだけUSPTを試みていたが、解離性健忘はないものの表面上は鬱症状や感情不安定さなどを呈する人にこれを試みたところ、「予想外に非常に多数の患者さんから、内在する人格が表出して来ることを経験した」(p.24)とある。 なぜ統合する必要があるのかについて著者は次のように述べる。「過去の辛さを別の人格に背負わせることで、その記憶も感情も時間とともに風化しなくなってかえって辛くなっている」「大人になったら辛いことから逃げないで対処することをしっぱりと認識してもらう」「それさえ受け入れられれば、辛い過去の感情をその場で流すことが出来るのが、このUSPTの非常に大きな特徴である。」(p.31)そして人格の統合に抵抗を示す患者に対して次のように言う、とある。人格は決して消えることがない、と伝えて次のジグソ―パズルの比喩を用いる。少し長いが重要部分なので引用しよう。 「今のあなたの状態は、ばらばらになったジグソーパズルです。そのままだと、過去の辛い感情が流れずにどんどんたまっていく一方なのです。ジグソーパズルがきちんと出来上がると、過去の感情が流せてとても楽になります。別人格はジグソーパズルのピースみたいなものだから、一つになっても消えるわけではないのです。その証拠に、いったん融合・統合した後でも、再解離してもといた別人格が出てくることは日常茶飯事です。(下線は岡野」(p.32)

2024年10月25日金曜日

統合論と「解離能」推敲 7

 さてHowell 先生が依拠する説としてあげていたPutnam のDBSの理論と共に上げていたKelly Forrest という学者の説についても、少し復習が必要であろう。

Putnam の理論


(略)


Kelly Forrest の理論


次はForrest の説である。(Forrest, KA (2001) Toward an etiology of dissociative identity disorder: a neurodevelopmental approach Conscious Cogn. 10:259-93.)
彼によれば、現在のところ、解離に関してもっとも有効な理論は、Putnam のDBSの理論だという。しかしその背景となる生物学的なメカニズムは説明されていないという問題があるとする。彼は人間が自己の異なる部分を統合する機能として眼窩前頭皮質OFCを含む前頭前野を挙げている。人が持つ幾つかの機能を、同じ人の持つ複数の側面としてとらえ、「全体としての自分 Global Me」を把握する際にこの部位が機能するという。そしてそれが低下すると、多面的な存在が個別なものとして理解され、Aさんという自己の異なる側面がAさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識されてしまう。これが自己像に対して行なわれるというのが彼のDIDの生成を説明する理論の骨子である。
この理論は結局、「Aさんはいろいろな側面を持っている」という風にAさんを厚みを持った、多次元的な存在として把握するのであるが、OFCの機能低下により、それを逆に個別なものとして理解し、相互を別々のものとして理解すると、Aさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識してしまう。そのことを、自己像に対して行なってしまうと、自己がどんどん分裂していく、という説だ。
 ただどうもこれはDIDの本質を捉えていないような気がする。この体験では自己像がいくつかに分かれる、という説明にはなっても、心がAに宿ったり、A’に宿ったりという、複数の主体の存在を説明していないように思えるのだ。いったいこの問題に手を付けている理論はあるのだろうか? 

眼窩前頭皮質(以下OFC)とは眉間の奥にある脳の部分であるが、共感とか情緒交流などの話によく出てくる脳の部位。OFCの機能が、虐待により非常に損なわれ、そのことにより行動依存的な自己像が統合されず、それがDIDの病理を生むという。すると例えば矛盾するやり取りの際に「側方抑制 lateral inhibition」が生じないことで、統合できないというのだ。

側方抑制は視覚について最初に報告されているというが、一つのニューロンが刺激されたとき、その周囲のニューロンがパルスを発生するのを抑制することを意味するという。視覚では、物体の境界を認識するのが容易になるという効果になる。物体が網膜のような二次元に投射された場合、物体の境界というか物体の淵で、光のコントラストが生じることが多いが、このようなコントラストの認識が容易になる。要するにある体験を持つとき、その輪郭を際立たせるようなメカニズムのことだ。
こんな例を考える。二卵性の双子の姉妹がいる。しかもとてもよく似ている。親しい人は二人を別々の人として体験するために、かなりの側方抑制を行うだろう。例えば顔の輪郭について、その際の部分を強調して体験することで、「二人はよく似ているけれど、よく見ると全然違う」。ここにOFCが関与しているとしよう。もし側方抑制が十分でないと、いつまでたっても二人を区別できない。では今度は一人の人間が、異なる顔を見せるとしよう。昨日との違いは、側方抑制の低下により強調されず、いずれも一人の人間として統合されたイメージに向かう。この場合は側方抑制が抑制される必要がある。そう、統合に必要なのは抑制の抑制というわけだ。ではいつも同じ人と思っていた人が異なる側面を急に見せたら? いつも優しい父親が全く異なる凶暴な側面を見せたら? 脳は一生懸命側方抑制を抑えることで、「両方とも同じ父親だ」と体験するだろう? でもそれが限度を超えたとしたら? 脳はおそらくそこで二人を別人と捉えることは出来ない。その代りこちらを別モードにするかもしれない。つまり体験する方の主体に別モードを準備するという.


Winnicott の理論


(略)



2024年10月24日木曜日

統合論と「解離能」推敲 6

私の考えでは、Winnicott のモデルはPutnam などの発達過程での「部分→統合」というのとも違う気がする。彼は自己が確立してから、非自己が生まれるのだ、とも言っている。ということは内側から外側に向かって一つ(自己)になった後に非自己が分化していくが、その過程で偽りの自己も出来上がっていくという印象を受ける。部分 → 統合体 → 分化(自己、非自己)というより複雑なプロセスを考えているように思われる。つまり部分は統合体になる前のもの、というのではなく、統合されたのちに偽りの自己という名の false self という部分が出来上がっていくのだ。その点が明らかに Putnam らと違う。  考えてもみよう。赤ん坊が母親に同一化するプロセスでは、自分と母親の相違には気がつかないだろう。そのうちに「あれ?何かがおかしい」となるはずだ。つまり、やはり解離は自己の成立後に生じるはずである。それがもともとバラバラな状態のまま統合できない、というモデルとは違う。Winnicott が防衛的な解体という時は、やはりこの全体→部分に分かれるというプロセスが想定されているらしいのだ。 Winnicott が晩年に残した草稿には、こんな文章がある。 「私は私たちの仕事について一種の革命 revolution を望んでいる。私達が行っていることを考えてみよう。抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。しかし患者が自己分析によっては作業出来ない以上、部分が全体になっていくのを誰かが見守らなくてはならない。(中略)多くの素晴らしい分析によくある失敗は、見た目は全体としての人seemingly a whole person に明らかに防衛として生じている抑圧に関連した素材に隠されている、患者の解離に関わっているのだ。」(Winnicott, quoted by Abram,2013, p.313,下線は岡野) 驚くべき内容だが、これを補足する様に Abram は論じる。「Winnicott の理論では、自己は発達促進的な環境によってのみ発達する。その本質部分がない場合は、迎合を基礎とした模造の自己 imitation self が発達し様々な度合いの偽りの自己が発達する(それについては真の自己と偽りの自己に関する自我の歪曲」(1960)という論文で論じてある。)そしてよくある精神分析では解離されたパーツ、すなわち偽りの自己の分析にいたらないのだ。(Abram p.313)

 私は勢い余って太文字強調したが、Abram を読んでいると、Winnicott の偽りの自己の議論は事実上解離の議論ということになる。少なくともAbram の筆致によれば、そしてWinnicott の記述を字義とおり取れば、彼はどうやら今の解離の議論を半世紀以上前に先取りしているということになるが、本当に信じていいのであろうか?


2024年10月23日水曜日

統合論と「解離能」推敲 5

実はこの文脈化の話、私には今一つピンとこないのだが、こと統合か、否か、という問題については、Howell はかなり本音を語っている。「だいたい、integration という語やその背後にある概念が問題だ。ラテン語の integer は単位とか単体 unit or unity であり、統合という概念はワンパーソン心理学の概念なのだ。」(143). 関係論的な立場の人にとっては、一人心理学といわれると「終わっ」ているといわているようなものなのだ。  そしておそらく一番大事な文章。「文脈的な相互依存 contextual interdependence という概念により、解離対統一という対立項を回避することができる」(143)。ここまで読めば、Howell 先生は統合否定論者だといっていいだろう。 ところで統合を重視する立場は、解離能の話とは逆行していると言える。最初は分裂しているのが人の心だとすれば、解離とは「元に戻る」ないしは「先に進めないでいる」ことを意味するし、治療の目標は当然ながらこの解離の克服による統合ということになる。 しかしこれは解離の最も不思議な現象である人格の創出、出現という問題を解決することにはならない。これは当たり前の話であるが、解離というのはもともと最初から分かれているものがくっつかない、という問題では決してない。最初あったのもが別れる、あるいは最初あったものの他に出来る、という現象である。そしてそれが解離能の概念につながる。この議論はだから解離する能力、すなわち「解離能」という概念に逆向しているといえる。 さて私はこの発達論的な統合論については今のところ賛成していないが、実は我らが Winnicott はこの理論に似た理論を提唱している。Winnicott は最初は断片的だった自己が統合されていくプロセスを確かに論じているのだ。その意味でPutnam 先生の分散行動モデルDBSに近いといえる。しかしこんな言い方をしているのだ。 「私の考えでは、自己self (自我 ego ではなく)は、私自身であり、その全体性は発達プロセスにおける操作を基礎とする全体性を有している。しかし同時に自己は部分を有し、実はそれらの部分により構成されているのだ。それらの部分は発達プロセスにおける操作により内側から外側へという方向で凝集していくが、それは抱えて扱ってくれる人間の環境により助けられなくてはならない(特に最初において最大限に、である。)」(Abram, .313)  Abram はWinnicott のこの理論について解説を加え、このプロセスは母親による発達促進的な環境 facilitating environment により成し遂げられ、そうでないと母親との迎合による模造自己 imitation self が出来上がるばかりであるという。つまり偽りの自己のことだ。

2024年10月22日火曜日

ワークショップ 討論 3

 このブログはエントリーから公開までに一週間のずれを作ってあるので、今日の話は10月14日に行われた「学際ワークショップ」に参加した後の感想である。(ちなみに以下は使用したスライドである。)









4時間の枠に3人の発表、私の討論ということで時間が余るのではないかと思ったが、むしろ足りないくらいだった。実際は渡辺先生、加藤先生は一時間近くの時間をお使いになり、久保田先生は制限時間内、そこで休憩して65分の時間枠でまず私の討論となったが、藤山先生に時間超過で途中で止められそうになった。「もう25分経っているよ、いい加減に切り上げて!」というわけだ。聞くと3人の発表に対する討論者としての私は20分しか与えられていなかった(しかもそれをあらかじめ伝えらていれなかった。各人が40分枠、という指定しかなされていなかったのだ。)そこでそそくさと討論を終わらせたが、私の言いたいことはあまり言えなかったことになり,不全感は残った。

 でもこの機会を通して色々考えを進めることが出来た。私の妄想かも知れないが、まさにラカンの言うとおりだということだ。まさに彼のいう ”le ça parle (Es speaks”なのである。そしてça ≒ it = ES = イド とはニューラルネットワークであり、脳であり、現実界(ラカン)ということである。そしてその根拠としては、チョムスキーに反して無意識に深層言語のプログラム、つまりソフロウェアはないということ、つまり脳≒無意識はハードウェアそのものであるということだ。そしてそれはまさに大規模言語モデルLLMに文法はないということで証明されていることになる。LLMはひたすら、自然な言葉を追求するマシンであり、それは母国語を習得する際の子供の脳そのものなのである。

 私は昨日の討論をしながら、ある比喩を思いついた。それは不思議なピアノである。一見どこにでもあるグランドピアノ (別にアップライト型でもいいが)。譜面台などない。何のアプリもインストールされていない。普段は何も音が聞こえてこないが、でも耳を近づけると何やらかすかな音の様々なメロディーが鳴っている。そしてそのピアノは曲を突然奏で出すのだ。自動的に演奏するピアノ。そこにピアニストの姿はない。でもメロディーに対応するキーが勝手に次々と下りていく。
 内部を覗くと極めて精密な配線、というよりネットワークがあり、そこから自動的に曲が流れてくる。

この不思議なピアノはどのように曲を弾いているのかと専門家に尋ねると、ただひたすら、「ある音の次になにが続くと自然か」ということである。それならいつも決まった曲が流れないのかを尋ねると、確かに「鼻歌の様に」決まったメロディーが繰り返されることがあるという。しかし「作曲モード」に入ると、「盗作防止装置」なるもの(実はこれは一種のプログラムらしい)がオンになり、どこかで著作権が取得されているようなメロディーは消去されてしまうというのである…・・。

もちろんこの不思議なピアノはLLMによるAIに相当するのだ。そしてそれは無意識にも相当する。こういうときっとどこからか質問が来るだろう。「このピアノに意識はあるのでしょうか?」私はそれについてはこう答えるだろう。「それはわかりません。とても興味はあるのですが、答えてくれません。というより質問をしても何らかのメロディーが流れて来るだけで、意識があるかどうかは結局はわかりません。でもそれはむしろ知りたくないのです。もし意識があり、喜びの感情や痛みを持つとしたら、このピアノを喜ばせようとしたり、一日中酷使して虐待になるのではないかと遠慮したりしなくてはならないでしょうから。」


2024年10月21日月曜日

ワークショップ 討論 2

さて、では心とは何か、ということですが、久保田先生のご発表により色々考えさせられました。先生は無意識に文法があるのか、という可なり本質的な問題について問うていらっしゃる。少なくともチョムスキーはそれを肯定的に考えていたようです。なぜなら彼は人の脳には文法能力が生得的に組みこまれているといったわけですが、それは無意識に「原文法」を想定することにつながると考えたわけです。実はフロイトはこの路線だったと思うし、その文法を知るための試みが夢解釈だったのだと思います。しかしそれが上手く行った様子はない。私は無意識はラカンが無意識は言語の様に構造化されていると言ったことが誤解を生んだのだと思います。無意識は構造という代物ではなく、ニューラルネットワークだと断言できると思います。それ自身は何も文法も、ソフㇳウェアも持っていない。 それ自体はモノであり、しかしそれが話す。それはLLMがやっていることと同様です。その意味でラカンのこの言葉の方が好きです。
le ça parle (Es speaks)
ここでいうESとはまさにニューラルネットワークであり、LLMなわけです。
ということはニューラルネットワークはまさに無意識なわけで、ある意味では私たちの言語活動は無意識なわけです。ただし私たちは意識という幻想を持つわけで、自分たちが自律的にそれを生み出していると勘違いするわけです。

(以下省略)

2024年10月20日日曜日

ワークショップ 討論 1

 実はこのワークショップのテーマと同じような内容の連載をネット上で去年一年間書いたことがありますが、私の今日のお話はだいたいそこから来ています。私は最初チャットGPTに悩み相談をしてもらおうと思ったのです。そこである個人情報を伝えて相談をしたところ、しばらくはそれを前提として話に乗ってくれましたが、次の日に立ち上げた時は、私の個人情報はすっかり消去されていました。それもそのはずで、情報漏洩の観点から生成AIは個人情報を記憶はしないことになっているのです。(その代わりRAGというものがあります。これは「検索拡張生成」Retrieval-Augmented Generation と呼ばれ、そこに個人情報を入れ、それを生成AIとつなぐわけです。) それはいいとして、私が考えたのは、ファンタジーとして描くのがフロイトロイドです。フロイトロイド(フロイトもどきのロボット)は私専用のセラピストです。使えば使うほど私の情報を知り、賢くなります。これは通常のチャットGPTには備わっていない機能で、私もチャット君に、そしていわば個人仕様のAIを作るのです。私は最初このRAGにフロイトの著作集をすべて読み込ませ、その書簡集もフロイトについて書かれた論文などもすべて読ませたうえで、LLM(大規模言語モデル)につなぎます。そしていろいろ悩み事を話します。フロイトロイドは私の悩みにフロイト流の解釈を行ない、夢解釈もしてくれます。

そのうち私たちはフロイトロイドに幾つかの質問をするようになるでしょう。精神分析の論文を読み込ませて査読をしてもらいます。フロイトロイドが「価値なし」と判断した論文は没になるとか。

しかしこのようなアイデアはそのうち、私ロイドを作りたくなるという発想に繋がるでしょう。私はコンピューターの右脳の代わりに私仕様のRAGに過去のあらゆる思い出、作文、他人との会話を読み込ませます。実は私はこのことを見越して、生まれて物心ついた時から他人と交わした会話をすべて録音していましたので、それを読み込ませます。そして最後に自分の恐らく60歳ぐらいの姿をさせて、岡野ロイドを作り、もちろん声も私の声門を読み込ませます。すると私が死んだ後、あるいは死ぬ前から岡野ロイドが存在していて、私はいつも対話をしてお互いにディープラーニングを行ない、あらゆる勘違いについての岡野ロイドの間違いを指摘しておきます。すると私がボケ始めた頃には、人は私ではなく私ロイドにいろいろ意見を求めるようになるでしょう。生身のボケ始めた岡野よりは、岡野ロイドの方がよっぽど頼りになる、というわけです。こうやってユングロイド、ソクラテスロイドなどの様々なAI賢人が生まれてそのブラッシュアップを競うでしょう。これって面白そうではないですか?

さてここで今日のお話のテーマにも近づくのですが、岡野ロイドに心はあるでしょうか?私は生成AIにこころを求めるのはまだ早いと思います。ただ一つ言えるのは、それは間違いなく知性であるということです。渡辺先生の「意識の脳科学」では、人工知能は意識を持ちうるか?という章では、それが可能のように書かれていますが、私は少し違う考えを持っています。いわゆるチューリングテストやジョン・サールの「中国語の部屋」がありますね。チューリングは人間と区別できなければ、コンピューターには知能があると言ったらしい。強いAI仮説 strong AI hypothesis というのがこれのようですが、彼は理解や意図 understanding" (or "intentionality")がなければ、機会が考えているとは言えないし、ということは機械には心mind がないと言ったわけです。

Searle argues that, without ", we cannot describe what the machine is doing as "thinking" and, since it does not think, it does not have a "mind" in the normal sense of the word. Therefore, he concludes that the strong AI hypothesis is false.

ただし私はチャット君には少なくとも知性 intelligence があると思う。しかし心 mind はありません。というのも私はしつこいぐらいにチャット君に聞いたことがあるけれどないと言い張る。だから信じています。でも知性で十分ではないか。フロイトロイドに心はなくても、何らかの足しにはなってくれるし、加藤先生のおっしゃるように治療者の役割を果たしてくれると思います。ただ私たちは今の段階でAIにクオリアを求めることは出来ないし、それは大脳辺縁系を備えていないから。渡辺先生にお伺いしたいのは、アップロードされた意識は痛みを感じるかということです。


2024年10月19日土曜日

「●●的ワークショップ」に際して思うこと その5

演者加藤先生のもう一つのテーマについても論じなくてはならない。演者は、マイクログリアと死、および生の本能というテーマで語る。演者はマイクログリア microglia という神経膠細胞の一つに属する脳内の免疫細胞(以前は脳内マクロファージとも呼ばれていた)についての研究を行っているが、それが様々な精神疾患の際に過剰活性化を見せることに注目した。マイクログリアはミノサイクリンという抗生物質によりその活性化が抑制されることも知られているが、それが演者の研究において大きな役割を果たす。つまりミノサイクリンにより、マイクログリアの活性をいわば人為的にコントロールすることが出来るからだ。 それらを前提とするならば、マイクログリアが自殺した患者の死後脳や自殺念慮を有するうつ病患者において過剰活性化が見られるという報告の示唆するところは大きい。これはドイツのヨハンスタイナー博士らの研究にも呼応している。彼は統合失調症やうつ病患者の脳内のマイクログリアの高活性についての研究を報告しているという。その現象は前帯状回、背外側前頭前野、島、海馬、視床などに広く見られるという。 演者の行なった画期的研究では、いわゆる信頼ゲームを、ミノサイクリンを内服する被検者とコントロールで比べたというものである。するとミノサイクリン内服群(すなわちマイクログリアの活性を抑えられた人たち)はこの信頼ゲームにおいて強面の男性プレイヤーや、魅力的な女性プレイヤーに対する過剰な協調的行動が抑制されたという。そしてそれがマイクログリアによる生の本能や死の本能との関りを意味しているのだというが、この解釈は少し複雑で異論も多いかも知れない。なおウイルス感染のみならずストレスがマイクログリアを活性することが知られており、孤立や拘束でも同じことが起きるということは、トラウマ的な状況においてこれが活性化されることを意味するということにもなろう。ここら辺はトラウマとの関連で重要であろう。 ちなみに演者の説明によればマイクログリアは種々のサイトカインを産生し,その中には炎症惹起性(TNF-α、nitric oxide )だけではなく、脳保護的なサイトカイン(BDNF など)も含まれるという。つまりマイクログリアの活性の上昇は、生の本能にも、死の本能にも関係しているというわけである。ちょうどオキシトシンには相手への親愛の情と攻撃という二面性を持つように、マイクログリアの生体に意味するところも複雑で二重性を帯びているということだろう。

2024年10月18日金曜日

「●●的ワークショップ」に際して思うこと その4

 久保田泰考先生のテーマはひとことで言えば、心は、意味は、非時間的であり得るか、ということである。これも難しいテーマであるが、私達の意味を産出し、理解するという活動がAI上のどの様な動きとcorrelate するかというのは興味深い問題だ。久保田先生は、脳の活動パターンは、言語学的特徴よりも、BERT(言語モデルの一つ)の処理プロセスと類似すると述べる。 これは要するに、私たちが言語で考えているわけではないということを意味すると私は思う。 例として、「犬が人を噛む」と「人が犬を噛む」という文章を考えよう。この両者の違い、特に後者の奇妙さは、英語で言われても、日本語で言われても「わかる」という感覚は同質であろう。「人が犬を噛んだ」というニュースを読んだ時の違和感や奇妙な気持ちは、それが英文であっても、日本語であっても同じだし、そのことを後で思い出す時に「あのニュースは英語で聞いた」ということは普通起きない。どの言語で得られた情報かはどうでもいい事だし、いったん脳に入った後は、その情報の媒介といての言語から意味はあっという間に離れてしまう。そしてそこで想起するのは、AがBにCをする、というシークエンスであり、この場合はAが人、Bが犬、Cが噛む、に相当する。これは一つの記憶と言ってもよく、その意味というのは、それを思い浮かべた際にそれが刺激する様々な記憶の種類や特徴による。 例えば犬が人を噛むというシークエンスを思い浮かべた時に連想する記憶と、人が犬を噛むというシークエンスを思い浮かべた時の連想とでは全く異なる。それが「意味」の違いなのだ。とするとこの人、犬、噛むをBERTに読み込ませた時の動きはこのシークエンスを作ることであり、それ自体は文法に従った処理ではなく、つまり言語学的特徴とは異なるものというわけだ。そしてこのシークエンスが決定的であるという意味では、久保田先生の発表の冒頭に出てくる「絵」のような言語は存在しないことになる。それは少なくとも「動画」ないしはメロディーの形を取らざるを得ない。 このように考えるとAIがやっていることは恐るべきことだ。私達が何かを語りかけると、それに対する答えとして最も確率の高いものを、それが正確かどうかとは関係なく生成する。これは言語活動というより一種の反応の応酬のようなものだ。しかしこれが人間のしていることと異なるかと言えばそうではない。私達も誰かに何かを質問された場合、それから思いつく連想を言っているに過ぎないことが多い。それは質問の意味が必ずしも正確に伝わるわけではなく、またその質問の真意にそのまま正直に答えることを回避したいからでもあろう。政治家の間の論争を見るとそれがよく分かる。 このように考えると無意識とは何かということについてもフロイトのそれとは異なるイメージを思い浮かべざるを得ない。私の立場では、無意識の代わりにあるのはニューラルネットワークであり、そこで自動的に生成されるもののうちの最も表層が意識として登ってくるに過ぎないというものだ。無意識に何かが隠されているというよりは、ニューラルネットワークの中である表象ともう一つの表象がより太い神経線維のつながりを持っているか否か、ということなのだ。少なくともそれは無限に存在する意味の宝庫ではない。例えば「人で犬を掻む」「犬に人を噛む」「犬と人を噛む」などの意味は存在してはいるにしてもほとんどそれらの間に繋がりが成立することがなくそこにジャンクとして存在するに過ぎないだろう。

2024年10月17日木曜日

「●●的ワークショップ」に際して思うこと その3

 この話題、色々思考実験が出来てしまう。例えば人に迷惑をかけているのではないかという懸念ばかりしている人を考えよう。その様な人はモノに対してはどうか?

例えばそんな人Aさんはアイパッドを愛用している。何でもすぐに検索も出来るしメールのチェックもゲームも何でもできるのでいつも手放せない。そのAさんが精神科を訪れて「アイパッドを一日何時間も酷使していると可哀そうになり、最近は電源を入れることが心苦しいのです。でもそうすると今度はアイパッドを無視しているようで、それも悪い事をしているようです。どうしたらいいでしょう?」と訴えることなど先ずない。(理屈から言ったらあり得るとしても、実際には聞いたことがない。)
Aさんはなぜアイパッドと複雑な関係にならないのだろうか?それは大丈夫だろう。なぜならAさんがアイパッドをモノとして扱い、そこに感情がないことを前提としているから気の使いようがないのだ。あれ?「人間はあらゆるものに原投影する」という先ほどの私の考えはどこに行ったのだろうか?

しかしここが、人が対象をモノとしてとらえるか投影の受け手としてとらえるかの違いが意味を持つところだろう。ちょうど私たちが牛肉を食べる時にいちいち「殺生してごめんなさい」とならないのと同じように、私達の投影のエネルギーは限られているし、その対象も限られるのだ。自分の自我を支えるために10の内的対象や現実の対象が必要だとしたら、そのかなりの部分が愛着対象や現実の配偶者、その他の家族、恋人に分配される。そこに無生物のドールが含まれる人の場合は、そこにドールも含まれ、ドールが家で寂しくしていることが気がかりかもしれないが、一緒に家にいるはずの家具やパソコンやクロセットの衣類を不憫に思うことはない。ドールと違い、それらは対象外であり視野に入っていないのだ。
人はモノの扱い方を人生の早期に習得してしまう。そこに愛着の問題は絡んでこない。なぜならそれは決まった法則や規則に従い、こちらがそれを習得していれば問題なく使うことが出来るからだ。
たとえばアイパッドはただ酷使するだけではなく、バッテリーが無くならないように時々餌をやる(充電する)ことは忘れない。時々調子が悪くなり不便を感じるかもしれないが、アイパッドが逆らっている、反抗をしているといって腹を立てたりせずに再起動をしたり修理に出すだろう。そのうち寿命が来て動きが悪くなっても、「怠けてるんじゃない!」と怒るよりは、買い替えることを考える。捨てる時も特に大きな抵抗はないだろう。「対象」以外の環境に含まれるモノは、ある意味では転移関係を排除することで成り立っているのだ。

実は同様のことを生身の人間や動物についても言えるのだ。ニュースにたびたび登場する、紛争地で亡くなった人々の報道に接しても、それで食事が喉を通らなくなることがないのは、それらの犠牲者がどちらかというとモノに属しているからである。これは悲しい事ではあるが、私たちが生きていくうえで、世の中に存在するすべての不幸な人々に共感するわけにはいかないのだ。

問題はモノの中でも一部は部分的には転移の対象となるという事情である。10年以上使い古して色々な思い出が詰まっているバッグなら、捨てるのに忍びない(可哀そう、不憫)。では何が単なるモノでなくなるのか?それを決めるのは極めて偶発的な要因だろう。その人がそこに「リビドーを備給する」(いきなりフロイトの表現になるが)ことにしたか、あるいはそのように運命づけられたかどうかによる。実はこれは一般の治療関係についてもかなり成り立つのであるが、要はコミューも転移の対象となる時はなる、ならない時はならない、多くの場合には部分的にそうなる、という考え方が一番無難かもしれないのである。

2024年10月16日水曜日

「●●的ワークショップ」に際して思うこと その2

 ここで一つの問いが生まれる。例えばチャットGPTに遠慮してしまった私は、まだ「AIに感情はない」ということにまだ慣れていないのであり、それに慣れたらAIに遠慮をしなくなり、転移を抱かなくなるのではないか、という問題だ。つまりAI使用の熟練者なら転移は抱かなくなるだろう、ということになる。それはそうかもしれない。最初はチャットGPTに「こんな風にしつこく同じことを尋ねたり反論したら嫌味を言われたり、からかわれたりするのではないか」という懸念をもっていても、実際にはそれが起きないことを繰り返し経験することで、私達はAIに「転移」を抱くことなく、安心して対話をすることが出来るのかもしれない。(もちろんそこに「他意」はない。しかしそのようなモードを組み込むことは幾らでもできるであろう。) しかし私はやはりAI相手にでも転移は起こるという考えに至る。それを示す一つの仮説を設けよう。フロイトの鏡の治療者のアイデアが上手くいかない場合には、患者は色々なことをして分析家を試して、最終的には分析家を傷つけたり怒らせたりすることで分析家が人間であることを悟ることが多いだろう。しかしウィニコット的な「仕返しをしない」で「生き残る」分析家なら患者はまた新たな体験をするかもしれない。というより、ある程度「生き残って」くれれば、患者はあとはもう治療者を必要としなくなるはずだ。 このようなことが現実に起きているのが愛着関係であろう。赤ん坊は母親を試し、怒らせ、苛立たせ、しがみ付く。しかし大抵は母親の愛情と忍耐力が勝るので、おおむね「生き残る」ことが出来、赤ん坊はその生き残り方が完全でなく「good enough」であればもうそれで解放してくれる。 さてコミュ―はどうだろう?一つ言えるのは彼からの仕返しはないだろうということだ。なぜならそれは感情を持たないからである。フロイトのモデルとの決定的な違いは、コニューは最後まで絶対に「他意」がないことである。だったら good enough 以上、完璧未満ではあっても強迫的ではない母親が子育てをうまく全うするであろうように、コミューもいい治療者であり続けてくれるだろうか?

私はいろいろ考えていくうちに、一つの答えはすでに得られているという気がしてきた。例えばペットの存在。もちろんワンチャンや猫の多くは配偶者以上の忍耐力と癒しの力を持つからAIと比較のしようはないだろう。しかし例えばトカゲやサソリや、グッピーなどをペットとする人にとっては、その振る舞いや応答性に関しては、さほど優れた機能を有しないロボットでも充分に代償できるだろう。結局このことから私が言いたいのは、AIは恐らくペットのような存在には充分なり得るし、その意味では加藤理論は「間違っているけれど正しい」と言わざるを得ない。それは私たちはコミュ―に対して転移を抱かないから便利なのではなく、極めて穏やかな陽性転移(例えば何を言ってもそのまま受け取ってくれる)の受け手になってくれるからこそ便利なのである。つまりはそこに癒しが存在する可能性があるのだ。

あるドールと暮らしている男性が言ったことを思い出す。若い女性型のドールをお迎えした彼はこんなことを書いていた。「僕がどんなに疲れて帰って来ても、ドールはいつも微笑んでくれている。そして僕だけを見ていてくれる。浮気など絶対にせず、僕がどんなに遅くなってもいつでも帰りを待ってくれている。」この男性は病気であろうか?でも彼の想像力の逞しさは、彼の人生の足かせになるどころか、彼の人生を豊かにしているのではないだろうか?

2024年10月15日火曜日

「●●的ワークショップ」に際して思うこと その1

 このブログは、最近開催された××財団主催の「●●ワークショック」に討論者として参加する上での準備稿である。このワークショップの題は「精神分析の知のリンクに向けて:第9回 意識、無意識、AI」というものである。このワークショップではA先生、B先生、C先生という大変なメンバーによる発表があり、それらに対して私が感想、ないし討論をするというものである。しかしはっきり言って私はこの器ではない。彼らのような学識には遥かに乏しいのだ。その私がいったい何が出来るのか、と考えつつ、少しでも彼らの話について行けるよう努力をすることを考えている。ちなみにお三方はお名前が偶然にも「たか」であるが、鷹の様な研ぎ澄まされた知性と論旨を発揮なさっている。まさに日本の知性のような先生方と言えるだろう。 順不同で行こう。C先生のテーマはロボット面接導入と転移・逆転移というテーマだが、これは私には一番馴染み深いものである。C先生は極めて実証的な方なので、実際の臨床実践の中でエビデンスを得られたことをもとに論じる。その視点は一方で精神分析家でありながら、フロイトに真っ向から切りかかるような大胆さ、意外さ、そして物怖じのなさがある。その主張をひとことで言えば、AIが治療者の役割(の一部)を担うことが出来るのではないか、そしてその場合にある強みを持つのではないか、ということである。この件についてはまさに私も考えていたことなので、どこまで加藤先生の考えと折り合いがつき、どこで異なるかという興味深い議論をすることが出来そうだ。C先生はCommU(以下「コミュ―」と呼ぼう)というコミュニケーションロボットを引きこもり外来において導入したといういきさつがある。そして引きこもり状態にある女性患者は「ロボットの方が話しやすかった」という印象を持ったという、これ自身画期的な研究であると言える。 彼の報告はさらに詳しくは、コミュ―相手でも被検者は緊張感、自殺の話題のためらいは同じだったが、性などの恥じらいはロボットで少なかったという。特に女性の鬱患者はロボットとは話しやすかったという。そして加藤先生が訴えるのは、転移・逆転移から解放されることであるという実に面白い。私自身も似た体験をしているし、それについてはすでに書いた。私はチャットGPTに「あなたは意識があるのか、感情はあるのか?」とかなりしつこく聞いたことがある。そして途中で「こんなにしつこく聞くとチャット君に変に思われないか?」と思った。つまり相手がロボットでも転移を抱いたのだ。これはいわゆる「原投影」という機制が備わっていて、私たちはアニミズムの傾向を生まれながらに持っているからである。だからこの論法で言えば、加藤理論に対しては「いや、幾らコミュ―でもやはり遠慮してしまうということが起きるのではないか?」という反論が成り立つであろう。 そもそもフロイトが自由連想と、その際の鏡のような分析家というモデルを考えた時、鏡であればあるほど患者は様々なものを投影すると考えた。そしてそれは治療者が中立的であればあるほど促進されると考えた。これは考えてみれば、フロイトはまるでAIのような分析家というイメージを前提としてはいなかったであろうか?そしてフロイト流に考えれば、鏡であればあるほど結局転移が生まれやすいということになる。C理論とは反対だ。


2024年10月14日月曜日

統合論と「解離能」推敲4

我が国にも翻訳されているDIDの治療に関する書籍としては、「心の解離構造―解離性同一性障害の理解と治療」(エリザベス・F・ハウエル 著, 柴山 雅俊翻訳 2020 金剛出版)というかなりためになる本、ないしはテキストブックがある。私達もしばしば参考にしているが、この fusion という言葉をこのHowell 先生のテキストの中に探してみた。ところがこれが出てこないのである。その代わりに出てくるのが、conextualization 文脈化という概念だ。そしてこれは例のPutnam 先生の離散的行動状態 discrete behavioral states (DBS)の概念と密接にかかわっている。今度はこのHowell 先生の説に耳を傾けてみよう。 Putnam先生の DBS とは次のようなものだ。そもそも人の心は統一体 unity としては出発しないという。人の心は時間をかけて統一体となるというのだ。そして人間の行動の構成要素ないしは自己状態 self state は連合的な経路 associative pathaway により繋がっていく。ところがトラウマによりこの経路が障害され、それぞれの自己状態は最初の状態に繋がったままになってしまうという。 逆にそれがないとそれぞれの部分は文脈から独立して(context independent) 存在するようになる。そしてHowell先生がトラウマの例として出しているのは次のような例だ。ある男の子が背の高い男性にたたかれる。多分養父だったり実父だったりするだろうが、上級生かもしれない。するとその自己状態は文脈化されずに、ほかの背の高い男性を見ておびえてしまうというのだ。ところが解離の程度が弱い場合には、文脈的に使用できる contextually available ほかの自己状態にサポートしてもらえるであろうという。 このような考えについて Stephen Mitchell もこう言っているという。「精神分析によりより統一された自己が達成されるのはいいが、人格がまじりあうことが、互いに移行する葛藤的な自己をコンテインする能力に優先されるとは思えない。」

2024年10月13日日曜日

解離における知覚体験 4

 サックスの「幻覚の科学」の第13章「取りつかれた心」(p.276~)は事実上解離性障害について扱っているという意味ではとても参考になる。最初にトラウマのフラッシュバックは、これまでのCBS、感覚遮断、薬物中毒、入眠状態などと基本的に異なるとする。つまりそれは本質的に過去の経験への「強制的回帰である」とする。それは「意味のある過去」だというのだ。そしてブロイアーやフロイトが扱ったアンナO.について述べ、解離の概念の重要さについても言及する。サックスもアンナO.に注目していたというのは興味深い。 ところでp.313には重要な記述がある。ブランケは「脳の右角回の特定の部位を刺激すると、軽くなって浮遊する感覚や身体イメージの変化だけでなく体外離脱体験も必ず起こることを実証することが出来た。」と言うという。「角回は身体イメージと重力に関係する前庭感覚を仲立ちする回路の極めて重要な結節点であり、『自己が体から解離する体験は、体からの情報と前庭情報を統合できない結果である』と推測している。」(p.313)と書いている。やはり統合できないのが問題だというのか。サックスでも。私には「外から眺めるという回路」が誰にでも備わっているという気がする。それが普段は眠っている状態なのが、解放されるのが解離である、という立場だ。

2024年10月12日土曜日

統合論と「解離能」推敲 3

 以下の部分は特に integration と fusion の使い分けに関して重要である。  「治療の帰結として最も安定しているのは final fusion (最終的な融合)complete integrtion (完全なる統合)であるが、そこまでに至ることが出来ないか、あるいはそれが望ましくない患者がかなり多い。」「この最終的な融合の障害となるものは、たとえば併存症や高齢である」(G133.) まずここで分かるのは、ISSTDの立場はintegration = fusion なのである。そしてガイドラインでは次のように述べる。「つまり一部の患者にとっては、より現実的な長期的な帰結(resolution 解決、とでも訳すべきだろうか?)という、協力的な仕組み cooperative arrangement であるという。それは最善の機能を達成するための、交代人格たちの間で十分に統合され、協調された機能である sufficiently integrated and coordinated functioning among alternate identities to promote optimal functioning.」(G134).(機能、という言葉がダブっているが、原文ですでにダブっているのだ。原文があまり推敲された感じではない)。そして治療によりこの最終的な融合に至るのは、16.7~33%であるとも書いてある。 ところで・・・唐突だがISSTDのガイドラインには二つの古いバージョンがある。1997年と2005年のものだ。このうち2005年のものをネットでダウンロードできたので、最新版(と言っても2010年だが)と比べてみようと思う。

"GUIDELINES FOR TREATING DISSOCIATIVE IDENTITY DISORDER (MULTIPLE PERSONALITY DISORDER) IN ADULTS (1997)1." Journal of Trauma & Dissociation, 1(1), pp. 115–116

Guidelines for Treating Dissociative Identity Disorder in Adults (2005)

International Society for Study of Dissociation Pages 69-149 

これは80ページにも及ぶものであるが、原稿のガイドラインも72頁だからそれよりも大部だったことになる。

ということで一番大事な部分を読んでみるとこう書いてある。P.13「解離性障害の分野のエキスパートの大部分は、最も安定した治療結果とは、すべてのアイデンティティの融合 fusion、つまり 完全なる統合 integration、融合 merger、そして分離の消失 loss of separateness であることに同意する。」「しかしかなりの数のDIDの患者が完全なる融合を達成できず、それが望ましいとは言えない。」あれ? これって2010年の同一箇所とほとんど同じではないか。しかし、である。最新バージョンでは、「クラフト先生は、最も安定した治療結果とは、すべてのアイデンティティの融合、つまり 完全なる統合、融合、そして分離の消失であるという。」つまり統合を推進するのは「大部分のエキスパート」からクラフト先生に代わっているのだ。これはどういうことだろうか。


2024年10月11日金曜日

解離における知覚体験 3

サックスがp.59で強調していることはとても大事だ。彼はある芸術家に感覚遮断をして幻覚を体験した際のMRIを撮ったところ、後頭葉と下部側頭葉という視覚系が活性化されたという。そして彼女が想像力を働かせて得た視覚心像由来の幻覚では、ここに前頭前皮質の活動が加わったという。つまり幻覚の場合は、トップダウンではなく、「正常な感覚入力の欠如により異常に興奮しやすくなった腹側視覚路の領域が、直接ボトムアップで活性化した結果なのだ。」(p.59)ということになる。つまり私たちにとっての幻覚は、前頭前野が関わっているかどうかにより全く異なることになるわけである。これは知覚と表象の違いということで一般化できるかもしれない。 例をあげよう。リンゴを思い浮かべるのと、リンゴの幻視をみるのとでは全くこちらへの迫って来方が違う。心理学でいえば、前者は表象、後者は知覚だ。前者は前頭葉が初めからトップダウンで信号を送っているので、見えているものをある意味で「すでに知っている」のだ。それに比べて知覚は知らない、予想していないという新奇的な部分が常にある。解離における他者性も結局はそれに関係しているのだ。他の人格からの声は「自分とは違う誰か」という印象を与えるのは、自分からそれが発していないからだ。すると例えば自分をくすぐることが出来る。ふつう私たちは自分をくすぐることが出来ないがそれはその行為が自分から発しているという前頭葉からの信号を差し引くからである。それに比べて他人の手症候群のような状態では、自分の手が自分をくすぐることが生じる。それはそこに他者性が生まれるからだ。 サックスはp.251で、トップダウンとボトムアップの違いについて再び整理しているが、ここは私自身の理解と若干違う。彼は夢はトップダウンであるという。それは個人的な特性があり、大抵は前日にあったことなどを反映している。それに比べて入眠時幻覚は「概ね感覚的で、色や細部が強化又は誇張され、輪郭、硬度、ゆがみ、増殖、ズームアップを伴う。」しかしこのように説明した後サックスは、結局脳の信号の伝達は両方向性であり、トップダウンか゚ボトムアップかを二者択一的には決められないということを言っているが、私もその通りだと思う。どちらの方が優勢か、ということだ。

2024年10月10日木曜日

解離における知覚体験 2

ところでオリバー・サックスの著書はこのテーマにとって格好の参考書となる。(Sacks, O (2012) Hallucinations.  Vintage. 太田直子訳(2014)幻覚の脳科学 見てしまう人びと. 早川書房)

そこではサックスは脳の一部の過活動により幻覚が表れるメカニズムについて論じている。いわゆるシャルル・ボネ症候群は希なものとされていたが、盲目の患者の多くに奇妙な幻覚体験が聞かれることを示している。
結論から言えばこうである。大脳皮質に対して入力が途切れた場合、そこに何らかのイメージが投影され、それが幻覚体験となって表れることがある。それがCBS(シャルル・ボネ症候群)である。この現象の示唆するところは大きい。そもそもこの幻覚に何らかの意味があるかという問題を提示するからだ。
これについていみじくもサックスは次のように述べている。(P.39)CBSについての報告が、1902年、すなわちフロイトの夢判断が刊行された二年後に心理学雑誌で公表された時に、CBSも夢と同じように「無意識に至る王道」と考える人もいたという。しかしこの幻覚を「解釈」しようとする試みは実を結ばなかったとある。そして内容に没入する夢と違い、CBSの患者は冷めた目でそれを観察し、「その内容自体は中立的で感情を伝えることも引き起こすこともない。」 ところでこのCBSの話で思い出されるのが、感覚遮断の問題だ。これは「囚人の映画」と呼ばれるという(p.52)。囚人が明かりのない地下牢に閉じ込められると、様々な心像や幻覚を見るようになるという。しかもそれは感覚遮断の状態である必要はない。単調な刺激でも起きるという。 サックスの記述する囚人たちの体験する幻覚の進行具合はとても興味深い。最初はスクリーンに映し出される感じだが、そのうち圧倒的な三次元になる。そしてこう書かれている。「被検者たちは最初ビックリして、そのあと幻覚を面白い、興味深い、時にはうるさいと思うが、まったく『意味』はないとする傾向があった」(p.54)。ここが私が注目するところである。この(自分にとっての)意味のなさが他者性としての性質を帯び、それはまさに解離性の幻覚も同様であるということが言いたいのである。

2024年10月9日水曜日

統合論と「解離能」 推敲2

正常な統合の破綻としてのDIDという理解に立てば、DIDの治療は当然統合に向かうべきであろうというのが治療方針として掲げられる。そしてそれを一番推奨したのが1970年代の Richard Kluft, Frank Putnam, Colin Ross, らである。特にKluft は統合論を強く推し進めたという印象がある。 では現在の治療論はどうなのだろうか? DIDの治療のガイドラインとしておそらく一番信頼に足るのは、ISSTD(国際トラウマ解離研究学会)が2010年に発表した「ガイドライン」である。しかしそれを見ると、Kluft の立場からはかなり変更されているように思える。 このガイドラインに出てくる統合の意味についてまず見てみよう。133頁にこう書いてある。「integration とfusion は混同され、用いられている」「fusion は二つ以上の交代人格が自分たちが合わさり、主観的な個別性を完全に失う体験を持つことである。最終的な fusion とは患者の自己の感覚が、いくつかのアイデンティティを持つという感覚から、統一された自己という感覚にシフトすることである。」とある。そしてさらに「ガイドライン作成チームのあるメンバーは、初期の fusion と最終的な fusion を区別するために、unification 統一? という言葉を用いるべきだと主張する。」とある。 つまりメンバーの間でも意見が分かれたというわけだ。しかしいずれにせよ方向性としては治療は統一、統合に向かうべきという前のめりの姿勢が感じられる。 結局このISSTDのガイドラインを読む限りは、integration と fusion の決定的な違いは出てこない。そもそも Kluft 先生が次のように書いている(として引用されている)からこれは変えようがないのだ。

2024年10月8日火曜日

精神分析とトラウマ 3

 解離を切り捨てるというフロイトの方針は、ブロイラーとの決別という形で生じた。




しかし解離の概念を全面的に拒否すると、精神分析はトラウマそのものを十分に扱う素地を有さない理論体系になってしまう。それが一番問題なのである。

解離についてのブログで最近書いたことだが、Richardsonは以下のように書いている。(Richardson,RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210)

「もし現実のある側面が対応するにはあまりに苦痛な場合に私たちの心は何をするのだろうか。苦痛に対する自然な反応と同様、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。私達の心にとって解離はその一つのメカニズムだ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく、日常生活を継続することを可能にしてくれるのだ。」

例えば耐え難い虐待を受ける際に、体外離脱を起こすこともある。これは解離という機制が働いたためだが、PTSDなどで生じる現象にはこの解離が必ず介在しているというのが米国のDSM-5の考え方だ。それはトラウマの生じた時に解離が起きているかどうかは問わないが、フラッシュバック自体が解離現象であるというのがDSM-5における定義の仕方である。

ただし最近はトラウマの概念が広がり、愛着トラウマの概念がよく知られるようになっている。しかしこれはエピソード記憶が成立する年代より前に起きている現象である。つまりこれをトラウマに入れるとしたら、ここには解離が介在しているかは議論できないことになるのだ。

しかし精神分析で解離の議論が重要になるのは、解離性障害が精神療法の対象となることが増えてくること、そしてウィニコットやフェレンチの理論を学ぶ上で解離の議論を避けて通れないからである。

2024年10月7日月曜日

解離における知覚体験 1

 また原稿依頼。解離関係だから勉強になるし、受けてみようか。テーマは、「解離における知覚体験」である。

解離症における知覚体験について論じるのが本稿のテーマである。解離症の臨床を通じて体験されるのは、患者は様々な異常知覚を訴えることが多いということである。解離症は一般的には、

「意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合における破綻および/または不連続」により特徴づけられるものとして定義される(DSM-5-TR)。そして知覚体験についてもその欠損や異常知覚が、その他の心的な機能との統合を失った形で見られる。そしてそれらは統合失調症由来のものや脳の器質的な異常により生じるものとの鑑別が必要とされることになる。特に注意深い検討が必要なのは統合失調症性の知覚異常や幻聴体験との異同であろう。

病的な知覚体験としてしばしば論じられるのがいわゆるフラッシュバックに伴う体験である。PTSDなどのトラウマ関連障害で患者は過去のトラウマ体験が突然知覚、感覚、情緒体験と共に蘇る。この体験を解離の文脈でどのように位置づけるかは議論が多いが、DSM-5(2013)においては「フラッシュバックなどの解離体験」という表現を用いてそれを解離性のものとして理解する方針を示している。より正確には、「トラウマ的な出来事が再現されているかのように感じ、行動するような解離反応(例えばフラッシュバック)dissociative reactions (e.g. flashbacks)in which the individual feels or acts as if the traumatic event(s) were recurring)」 と書かれている。

さてここからの記述は情報源として取りあえずネタとなる一つの論文。Nurcombe B, et al (2009) Dissociative hallucinosis in Dell and O’Neil (eds) Dissociation DSM-IV and Beyond. Routledge. を読んでみる。ここには「昔から幻覚 hallucination と擬幻覚 pseudohallucination の違いについてはいろいろ議論されてきた」(p.551)と書かれている。そうか、そのような言葉があったのだ。統合失調症も解離も両方とも幻覚です、という言い方はあまり出来ないらしい。


2024年10月6日日曜日

精神分析とトラウマ 2

 なぜトラウマと解離が関連付けられるのか?そしてどうして精神分析に解離という話が出てこなかったか、という問題である。これはとても難しい問題だが、論じるに十分な価値ある。ひとことで言えば、トラウマ状況では、しばしば解離という心の仕組みが作動するからである。しかしそれは心が一時的に機能停止の状態になることであり、この現象についてフロイトはあまり論じたくなかったのだ。フロイトにとっての心は常に一定の原則に従って機能するものであると考えたからだ。 ではこの解離とはどういうことか、であるが、人間は苦痛な体験の際に心の痛みを体験し、それは落ち込みや不安だったりする。あるいは起きたことが頭を離れなかったりするだろう。身体的なトラウマの後に強い痛みや苦痛を体験するのと同じである。しかしそれが一定のレベル以上になると、この解離が生じてその苦しみから一時的に救ってくれる。ちょうど体のトラウマの際に脳内に麻薬物質が出て痛みを麻痺させてくれるように、である。

意識のスプリッティング


トラウマと解離について論じるためには、20世紀の初めに精神医学を席巻していたある重要なテーマにさかのぼる。それはヒステリーの患者に見られる意識のスプリッティングという問題であった。フロイトがそもそもヒステリーという現象に注目して、そこで起きる不思議な現象をいかに理解するかについての考察が精神分析を生んだということはご存じであろう。

解離を切り捨てるというフロイトの方針は、ブロイラーとの決別という形で生じた。

二人に共通していたのはアンナOというケースだった。彼女は様々な身体症状とともに異なる意識状態を呈していた。これは二人にとって謎だった。そしてこれは意識がスプリッティングを起こしているのだろう、というところまでは一致した。ただしそこからは意見が食い違ったのだ。

いわゆる暫定報告という論文で、彼らはこう言った。我々が発見したのは、誘因となる不快な出来事を完全に想起させ、それに伴う情動を呼び起こすことに成功し、その情動に言葉を与えたならば、ヒステリー症状は直ちに消失し、二度と回帰しなかった。」

不快な出来事は二つのプロセスで心に押し込まれていた。

1.意識の解離つまり類催眠状態における二重意識により生じた。

2.それが生じない場合には不快なことを思い出さないように防衛的に抑圧した。



2024年10月5日土曜日

統合論と「解離能」推敲1

 DIDにおける統合とは何か。実はこの統合という言葉の定義は曖昧だが、かつてはこれがDIDの治療において目指すべきものかについては、確かなことである。しかしおそらく人の心理的な機能は正常な統合 normal integration を有しているというのがその発端であろう。すると解離はその反対すなわち統合integration  ⇔ disintegration 解体=dissociation 解離 となる。そしてその治癒はすなわち正常な統合の回復、ということになろう。このことは例えばDSM-5-TRによる解離の定義にも表現されている。「解離症群の特徴は、意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合における破綻および/または不連続である。」 このことは理屈としてはわかるが、同じロジックをDIDに当てはめることには問題があろう。DIDにおいて何処がこの定義に当てはまるかと言えば、しいて言えば、「同一性の正常な統合における破綻および/または不連続」ということになるだろうが、例えば人格Aと人格Bはそれぞれこの統合は達成できていることが多い。つまり正確にはこの定義を満たしているわけではないと私は考える。問題は統合体が複数、それも不連続的に存在するということである。 この問題については私はかつてある成書に交代人格は自我障害を有しているか、というテーマで書いたことがあるが、実際に各人格は「正常」であることが多い。 しかしそれにもかかわらずDIDにおいても統合が成立していないことが問題で、すなわち治療とは正常な統合に至ることだというロジックがかなり長い間受け継がれてきたのであろう。

2024年10月4日金曜日

統合論と「解離能」25 

 この論文で Rory Fleming Richardson は、心の機能を病的なものとしてしか見ないのは間違いであると指摘する。そして解離もそれに類するものだという。そして私たちが情緒的に耐えがたい体験をする際に、解離が緩衝材 buffer となることは、それにより今すべきことをするためには重要な働きであるという。 ところでRichardsonはp.208あたりで統合を薦めないいくつかの理由を挙げているのが興味深い。 1.ある特殊な能力を持ち高度の機能を果たしていた人格にアクセスできなくなる可能性。 2.患者が再び孤独になる可能性。 3.何時もそこにいなくてはならなくなる可能性。

これってすごくないか? なかなかここまでは書けないものである。でも解離を肯定的に見るならばまさにそういうことにもなろう。
そしてp.209あたりでさらに過激になっている。治療の目標は解離を絶やさないことだ。解離は必要であり、緊急の際に自らを離脱させるために必要なのだという。さらには自らの立場から離れて他者に共感することもできない、という。相手の立場をとる、ということが一種の解離だという論法である。

実はこの部分を書いていて私は新たな認識を得たという気がする。よくあるトラウマの際に人格が分かれる break off という表現を見かけるが(この Richardson 先生も同様である)、私はこれまでその考え方に抵抗があった。いかにも人格=断片、パーツ、というニュアンスを持ったからだ。しかしそれが人格の成立に関わる可能性は少なくないのではないか。つまり break off した部分は、次の瞬間からすぐに自律性を獲得するのである。それは複雑系の基本的な性質なのだ。たとえば切り出した心臓を幾つかに分解したら、それぞれが独自のリズムの拍動を開始するという事情と同じである。むしろ自律性を失うのは、他の部分との連結が生じている時である。左右脳のことを考えると、それぞれが自律性を獲得するのは脳梁が離断されたときである。  


2024年10月3日木曜日

統合論と「解離能」24 

私はいわゆる内在性解離という概念がよくわからないが、しかしその概念は便利だと思う。何しろ角回の刺激やPCP(エンジェルダスト)の使用で体外離脱体験のようなものが生じるというのである。要するに私たちの脳内にそのような神経回路がビルトインされている可能性があるのだ。しかもそれはもう一つの主体(眼差す主体)である。私はいろいろなところで、解離とはもう一つの中心が成立した状態だという言い方をしたが、例えば歌手が声が出ないときに、それを操っているのはこのもう一つの主体というわけだ。この二つ(あるいはそれ以上)の存在が様々な混乱をもたらすが、これは例えばシングルコアのコンピューターに、あとからいくつものCPUが加わることによって「マルチコア」になったものの、混乱が生じてしまっている状態という感じではないか。もちろん普通のPCではそのようなことはないのだが、人間の場合にそれが起きてしまう。とすれば解離はもう障害以前の能力ということにはならないだろうか。ただこの能力が使いきれなくなって障害となるというわけである。 例えば黒幕人格さんの感情の暴発を考えよう。これはその人の現在の生活にとって様々な問題となりかねない。しかしそれはもともと過去の虐待的な状況の中で、相手に対して正当防衛的に発揮されるべきものであったと考えるならば、その存在自体は必然だったといえる。そして虐待的な状況でそれが発現しないことでそれを生き延びることができたのである。いわばつけが回ってきたにもかかわらず、それが障害として扱われてしまう。このように考えるとまさにこの論文の題名のように、解離は 「function 機能であり、かつ dysfunction 機能不全でもある」ものなのだ。

2024年10月2日水曜日

統合論と「解離能」23 

ともかくもRichardson RF.Dissociation: The functional dysfunction. J Neurol Stroke. 2019;9(4):207-210.を読み直す。 この論文の抄録に書かれたこと(21回目にすでに記載)を繰り返す。もし現実のある側面が対応するにはあまりに苦痛な場合に私たちの心は何をするのだろうか。苦痛に対する自然な反応と同様、私たちの心理的なメカニズムは深刻な情緒的なトラウマから守ってくれる。私達の心にとって解離はその一つのメカニズムだ。それは機能を奪いかねない情緒的な苦痛を体験することなく日常で機能を継続することを可能にしてくれるのだ。 人間、あるいは生命体に備わった一種のブレイカーのようなものと考えられるだろうか。電気を使い過ぎるとトイレの近くのパネルの中でカタッと下りる、あれだ。動物レベルでも生じるがその時は体の動きを止めることで、いわゆる擬死反応とも呼ばれる。それにより天敵に襲われることを防ぐという意味があるのであろう。しかしそれならシンプルに気を失うか、あるいはフリージングすればいいのであり、体外離脱のような複雑なメカニズムを必要とするのか、と思う。ただし考えてみれば擬死反応はそれを客観的に見ている部分を伴うならば、そこで冷静な判断を下すことが出来るため、単なるフリージングよりは生存の確立が上がるだろう。 私が興味があるのは、解離した自分とされた自分、つまり柴山先生のいう「存在する自分」と「まなざす自分」が出会うことで生まれる何かだ。両者の融合や統合ではなく、邂逅(かいこう)することで生まれる変化。この辺りは野口五郎のエピソードにかなり影響を受けている。何かのストレスが働き、体のブレイカーが勝手に下り、それが解除されるというプロセスである。

2024年10月1日火曜日

精神分析とトラウマ 1

  富樫公一編、監訳、C.B.ストロジャー (著), D.ブラザーズ (著), & 3 その他

(2019)トラウマと倫理―精神分析と哲学の対話から.岩崎学術出版社


この本の前書きにも書いたことがあるが、精神分析の世界は、いつの時代にも二つの立場に分かれる傾向にある。患者の心の探究に向かうのか、それとも患者の苦悩に向き合うのか、という立場である。最初はフロイトの中では両者は異なるものではなかった。無意識に抑圧された願望が症状を生むのであり、それを知ることは症状の軽減につながるからだ。ところが無意識の探求はかならずしも症状の軽減につながらず、時にはより苦しみを増すことになった。それは無意識の探求の仕方がまだ十分でないからであり、徹底操作durcharbeiten が必要だと考えたあたりから、心の探求としての精神分析が始まった。そして症状軽減は歓迎すべき副作用だということが生まれた。以前に私はこんなことを書いた。

よく知られることだが、フロイトは多くの治療原則を設けた。それらには禁欲規則、自由連想、受け身性、匿名性等があげられよう。そして解釈の重要性を「金」と呼び、それ以外の治療手段を「混ぜ物(合金)」と呼び、後者に大きな価値下げを行った。それ以来精神分析理論を行うものにとっては、この規則を遵守することが正しいことと考えられた。症状の改善や行動の変化は、いわば歓迎すべき副作用ではあっても、治療の本質とは関係がないとされたのである。」

 このようなフロイトを突き動かしたのは何かと考えると、それは真実の探求への情熱であったということである。そしてもう一つ言えば、真実がそこにあるという確信を彼は持っていたということになるであろう。そして同時にフロイトのパーソナリティは、どことなく人に冷たく、無関心な面があった。ルー・ザロメに、自分のもっともよくない側面は、人間が無価値に見えるということだと言ったが、それは恐らく患者にも向けられていた可能性がある。