結局解離は人間ないしは生命体に備わった一種のブレーカーのようなものと考えられるだろうか。動物レベルでも生じるがその時は体の動きを止めることで、いわゆる擬死反応とも呼ばれる。それにより天敵に襲われることを防ぐという意味があるのであろう。しかしそれならシンプルに気を失うか、あるいはフリージングすればいいのであり、体外離脱のような複雑なメカニズムを必要とするのか、と思う。ただし考えてみれば擬死反応はそれを客観的に見ている部分を伴うならば、そこで冷静な判断を下すことが出来るため、単なるフリージングよりは生存の確立が上がるだろう。とすれば疑似反応はフリージングの進化バージョンと言えるのか。 私が興味があるのは、解離した自分とされた自分、つまり柴山先生のいう「存在する自分」と「まなざす自分」が出会うことで何が生まれるのか、ということだ。両者の融合や統合ではなく、邂逅(かいこう)することで生まれる変化というべきか。この辺りは野口五郎のエピソードにかなり影響を受けている。彼の場合、何かのストレスが働き、体のブレーカーが下り、それが解除されるというプロセスが生じたことになる。 私はいわゆる内在性解離という概念がよくわからないが、しかしその概念は便利だと思う。何しろ角回の刺激やPCP(エンジェルダスト)の使用で体外離脱体験のようなものが生じるというのである。要するに私たちの脳内にそのような神経回路がビルトインされている可能性があるのだ。しかもそれはもう一つの主体(眼差す主体)という意味を持つのだ。 私はいろいろなところで、解離とはもう一つの中心が成立した状態だという言い方をしたが、例えば歌手が声が出ないときに、それを操っているのはこのもう一つの主体というわけだ。この二つ(あるいはそれ以上)の存在が様々な混乱をもたらすが、これは例えばシングルコアのコンピューターに、あとからいくつものCPUが加わることによって「マルチコア」になったものの、混乱が生じてしまっている状態という感じではないか。もちろん普通のPCではそのようなことはないのだが、人間の場合にそれが起きてしまう。とすれば解離はもう障害以前の能力ということにはならないだろうか。ただこの能力が使いきれなくなってしまうから障害となるわけである。
例えば黒幕人格さんの感情の暴発を考えよう。これはその人の現在の生活にとって様々な問題となりかねない。しかしそれはもともと過去の虐待的な状況の中で、相手に対して正当防衛的に発揮されるべきものであったと考えるならば、その存在自体は必然だったといえる。そして虐待的な状況でそれが発現しないことでそれを生き延びることができたのである。いわばつけが回ってきたにもかかわらず、それが障害として扱われてしまう。このように考えるとまさにこの論文の題名のように、解離は 「function 機能であり、かつ dysfunction 機能不全でもある」ものなのだ。
Richardson はその論文の中で、心の機能を病的なものとしてしか見ないのは間違いであると指摘する。そして解離もそれに類するものだという。そして私たちが情緒的に耐えがたい体験をする際に、解離が緩衝材 buffer となることは、それにより今すべきことをするためには重要な働きであるという。
ところでRichardsonは統合を薦めないいくつかの理由を挙げているのが興味深い(p.208)。
1.ある特殊な能力を持ち高度の機能を果たしていた人格にアクセスできなくなる可能性。
2.患者が再び孤独になる可能性。
3.何時もそこにいなくてはならなくなる可能性。
これらはなかなかここまでは書けないものである。でも解離を肯定的に見るならばまさにそういうことにもなろう。
そしてp.209あたりでさらに彼の主張は過激さが増す。「治療の目標は解離を絶やさないことだ。」「解離は必要であり、緊急の際に自らを離脱させるために必要なのだ」という。さらには自らの立場から離れて他者に共感することもできない、という。相手の立場をとる、ということが一種の解離だという論法である。
実はこの部分を書いていて私は新たな認識を得たという気がする。よくあるトラウマの際に人格が分かれる break off という表現を見かけるが(この Richardson 先生も同様である)、私はこれまでその考え方に抵抗があった。いかにも人格=断片、パーツ、というニュアンスを持ったからだ。しかしそれが人格の成立に関わる可能性は少なくないのではないか。つまり break off した部分は、次の瞬間からすぐに自律性を獲得するのである。それは複雑系の基本的な性質なのだ。たとえば切り出した心臓を幾つかに分解したら、それぞれが独自のリズムの拍動を開始するという事情と同じである。むしろ自律性を失うのは、他の部分との連結が生じている時である。左右脳のことを考えると、それぞれが自律性を獲得するのは脳梁が離断されたときである。