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2011年5月15日日曜日

治療論 その8. (改訂版) 「治療者はセッション中にノートを取るべきか?」

治療者はセッション中に記録をとるべきか?これもあまりに色々なファクターが絡んでいるために、白黒を付けられない問題だが、よく学生やバイジーさんに問われる。精神療法に関しては、この種の問題が多い。「いちがいにどちらともいえない」という答えはどの問いに対してもほぼ同様に用意されているのであるが、その理屈が曖昧で、しばしば問われるのである。それに誰に指導を受けているかで大きく変わってくる場合がある。「セッション中にノートをとるべきでしょうか?」という問いは実は、「先生(バイザーのこと)は、バイジーにセッション中のノートの取り方についてはどのようにおっしゃっていますか?私もそのようにいたします(あるいはそうしていることにします)」ということだったりするのだ。ただしいかなる形でもこの種の問題は問われること自体に意味があることが少なくない。この問題について考える機会を与えてくれる、という意味では決して悪いことではないことだからだ。
本当はセッション中にノートをとるべきかどうかなどは、精神分析的な精神療法以外の治療法においてはあまり問題とされない。認知行動療法で「ノートをとるべきか?」を問うならば、もちろんイエス、となるだろう。セッション中に書き入れるフォームもあるくらいだ。ところが精神分析ではそうは行かない。フロイトが「治療者は患者の話を聞きながら、一つのことに注意を払うべからず」ということを言ったことから問題が始まった。フロイトの言葉としてしばしば引用される、治療者は「平等に漂う注意evenly suspended attention」をはらうべし、とはそういう意味であった。フロイトはもちろんノートを取ることへの反対派である。ノートを取るということは、聞いたことをまとめ、書き付けるということで、それが「平等に」ではなく、まさに一つのことに注意を払うことになってしまうからだ。
フロイトによれば、治療者は患者の話をボーっと、漠然と聞いていなくてはならない。それが治療者の無意識という名の「受診装置」(フロイト自身の言葉)により患者さんの話を聞くことだという。うーん、わかったような、わからないような。しかしフロイトと違って凡人の私たちは、ボーっと聞いていると何も思い出せなくなってしまうのだ。ところがそれに対してフロイトだったら、「いや、そういう意味での『ボーっと』じゃないのだ。どこにも注意しないで、でも一生懸命聞くのだ。全体を見渡すようにして聞いているからこそ、後からそのまんま再現できるのだよ」というだろう。
実際にフロイトはノートを取らずに聞いた話を、夜患者さんが帰った後に夜遅くまで再現してノートにつけたという。でもそれってフロイトの記憶力のよさではないか?実際にはセッションでノートを取らずに、後で再現できるかどうかは、個人の能力差が非常に大きくあり、おそらくそれは治療者としての力量とはあまり関係がないというのが私の印象である。
もちろんフロイト流に自由に心をめぐらせながら患者の話を聞いても、大体のあらすじなら十分に頭に入ってくるだろう。しかしそれはその間じっとその話に注意を向けている場合である。ところが時には、そのうち目がトロンとして眠くなってしまう場合もあろう。何もしないで話を聞くというのは、話が十分に興味をひく場合を除いては、集中している時間には限度がある。ふと余計なことを考えているうちに、患者の話しは先を行っていた、というのはよくある話だ。そしてノートを取ることは、時にはそれを防いでくれる。ノートを取るという行為を通して、注意が持続することもある。その場合はノート取りはあとで読み返すため、というよりは注意を持続させ、内容を整理しながら聞くための方法ということになる。それでセッション後の記録の作成の時間も短縮できるなら一石二鳥だ、という発想もある。
ちなみに、アメリカでの精神分析のトレーニングコースで学んだとき、ノートのことが話題になったが、講師であるシニアの分析家がこんなことを言っていた。「フロイトがあんなことを言ったので、皆最初はセッション中はノートを取るまいとするんだよ。でも私の知る限り、その結果は思わしくないね。大体は挫折するものだ。私の場合も、それは無理だとわかるのにあまり時間はかからなかったよ。」これには少し安心した。
ただしここでの話は、セッションのかなり忠実な再現をできるかという話であり、セッション中の山場だけを書くのであれば、ノートを一切取らずに後で思い出すことも問題はないだろう。逐一詳しいノートを取るのは、症例報告やスーパービジョンのため以外には、臨床的な意味はあまり必要はないだろう。実に詳しくノートを取っている心理士さんが多いが、「後で読み返すのですか?」と問うと、たいていは「いや、何となく習慣で。」という答えが返ってくる。
セッションのノートのとり方について現実的な考え方を示しておく。人にはそれぞれ異なる認知パターンがあるし、記憶力の差もある。その個人にとってもっとも適当と思われる方法をとればいい。一番無難なのはセッション中はキーワードのみをノートに書き込み、後はセッション後にその間を必要に応じた詳しさで埋めるという方法だ。これは多くの治療者が実践しているであろう。ただし一セッションが終わってからほぼ再現してノートに起こせる人は、必ずしもトレーニングを積んでいない人の中にも現実にいるのであるから、それらの人たちはセッション中はキーワードさえも書かずに終了後に思い起こして要点を書き残せばいいことになる。
以上の話には例外がある。私たちは時にはバイザーへの報告や症例検討会での報告のために、セッションのほぼ全体を詳しく再現する必要に迫られることがある。その場合記憶力に自信のない人はかなり一生懸命ノートをとることになるだろう。そうなるとノートを取ることに使うエネルギーにより、患者さんとのアイコンタクトをしたり、ノンバーバルなメッセージを逃したり、ということがおきるだろう。いつもと違ってある日急にペンを動かす治療者を見て、患者の側も不思議に思うかもしれない。これは一時的にではあれ患者治療者関係にとって決してよろしくないだろう。でもそれにより再現されたセッションが多くの情報を持つことになり、スーパービジョンや症例検討会にとって役に立つ場合もあるから、一長一短ということになる。
ちなみに症例報告で見事なセッションの記録が報告されたとき、助言者が「ところでこれほど詳しい記録をどうやってとったんですか?」ということを聞くのに出会ったためしがない。ここら辺はビミョーなのだろう。いっそのこと思い切って事情を患者に伝える? 別に隠すことでもないし、間接的に患者のためになることだから?ウーン・・・・
結局治療者がノートをとるかとらないかは、以上のことを加味した上で柔軟に決めよ、ということになる。セッション中にノートをとることは少なくともタブーではない。しかしやはり考慮すべき点は次のことだ。もし自分が患者の立場で何か悩みを治療者に打ち明けたら、治療者が一心不乱に記録を書き始めたら、どんな気持ちがするだろうか? 病院では最近はカルテの記入がコンピューター入力になったところが多いが、初診で患者さんの話から得られた情報を一身に入力していると、患者さんはこんなことを思っているかもしれない。「先生は、私がこんなに一生懸命話をしているのに、コンピューターばかり見て、カチャカチャやるのはやめてください!」 これもウーン・・・・・。

2011年4月23日土曜日

治療論 その6 (改訂版) 患者の人生の流れは・・・・・の続き

東京はヘンな天気である。突然降ったかと思えば、晴れ間が見える。今日の空模様のように、3月11日以来、現実の「予想のつかなさ」はより実感を持って迫ってきているような気がする。ある記事によれば、南関東に大地震が起きる確率は、この震災以来高まっているという。北の「北上山地」、南の「房総半島東沖」には余計なひずみがかかっているということだ。3月11日は、都心を襲う震災の前触れだったかもしれない。私は自分の年齢からいって、何が起きても甘んじるしかないと思えるが、若い人にはこの種の将来の不安を抱えて生きていくことは可哀想なように思える。関東に住むことは確かにある種の爆弾を抱えて生きていくことなのかもしれない。

さて「患者の人生の流れは、容易には変えることが出来ない」という認識を持った治療者はどのように患者に接するのだろうか? それは患者への関わりに対する自己愛的な思い入れへの反省を、治療者自身に促すことになる。それは端的にいうならば、従来の精神分析における「解釈」に対する考え方を変えることに繋がるといっていい。
フロイト以来、精神分析における解釈とは、治療者がその分析家としての叡智を結集する形で患者に対して行う治療的なかかわりの中でも決定的なもの、最も本質的なものとみなされてきた。古典的な分析理論においては、治療者は解釈以外のことは行わないという了解が不文律としてあった。精神分析的治療が米国に導入されて以来、早くから精神療法における「探索的(表出的)関わり」と「支持的な関わり」との区分が唱えられてきたが、そこでの決め手は、この解釈をめぐるものだった。前者は精神分析を筆頭にした解釈を中心としたかかわりであり、後者は解釈以外の支持的なかかわりや種々の「パラメーター」を混入させたものであった。そして探索的療法の、支持的療法に対する優位性については暗黙の了解があった。それはそもそもフロイトが唱えた「解釈か、(非解釈的な)示唆 suggestion か」、というテーマと、前者の後者に対する優位性に端を発していたといっていい。フロイトは何しろ前者を金、後者を混じり物の入った合金というたとえを用いて紹介しているからだ。前者がより本質的で価値のあるものであるという含みは明らかである。
フロイトの確立した精神分析の最も魅力的な部分は、患者の無意識を治療者が知ることが出来、そしてそれを伝えることで患者の精神の構造が本質的に変わる、という考えである。それが心の治療に関心を持つ多くの人を惹きつけ、トレーニングへと誘い、理論の勉強へと駆り立てる。私自身もそうして精神分析に魅せられ、それを学んできたが、実際の臨床における患者のあり方は、フロイトが想定したものと若干の(あるいはかなりの)齟齬を見せる。患者は治療者の解釈以外のところで反応し、言葉によるかかわりとは少し別の部分(「しばしば関係性」と漠然と呼んでいるもの)から影響を受ける。その中で治療者が実は何をしたいと望んでいるのかを知っておくことが、(患者の人生を変えたいという欲望も含めて)より重要視されるようになってきている。治療者が自分のできることは、高々現実を提供することに過ぎない、という謙虚な姿勢であることは実は非常に重要な点なのである。(ここでの「現実」とは何か、を言い出すとヤヤこしくなるので、ここでは省略。)

2011年4月21日木曜日

治療論 その6 (改訂版) 患者の人生の流れは、容易には変えることが出来ない

臨床を行っていてしばしば感じることは、「患者の人生の流れを変えることは容易にはできない」ということだ。ただしそう言うと、「では治療者は何も患者に影響を与えられないのか?」と言われそうだ。そこでより正確を期して、次のように言いなおさなくてはならない。「患者が治療者から時々影響を受けることも含めて、その人生の流れを変えることは容易にはできない」。
治療者は時々患者に影響を与えることはある。それには異論はない。しかしその影響は極めて予想不可能であり、また偶発的なものである。治療者が患者に変化を及ぼすことを意図した関わりが、そのとおりの結果を招くことは残念ながら非常に少ない。だから結局は患者の人生の流れを変えることを意図した関わりはなかなか満足の良く結果を招くことが出来ないのである。
ちなみにこのような考え方は、治療的な不可知論であり、いわゆる「弁証法的構築主義 (I. Hoffman,  M. Gill) の考え方とその本質は同じである。
ただしこの私の提言には例外がある。それは治療者が患者に与えるネガティブな、ないしは外傷的な関わりの影響についてである。それらの関わりが一定の程度を超えた場合、その悪影響はかなりの程度に予測可能となる。私たちはその種のかかわりのプロトタイプを子育てに見出すことが出来る。子育ては様々な形を取り、そこにはあらゆる偶発的な出来事が生じる。しかしその関わりが外傷性を有する場合、それが高い確率で子どもの心にネガティブな影響を与える結果となるのである。

2011年4月16日土曜日

治療論 その5 (改訂版) 「自分が患者の立場なら何を望むか」から出発する

しかし福島原発の例を見ていると、失敗学の究極の例という気がする。核兵器の廃絶がおよそ不可能であるのと同様に、原発の廃絶もまったく現実味がない。とすると福島の例は「こんな事故が起きる可能性があるぞ」という失敗例であり、将来に生かすべき重要な教訓を与えている。本来は世界が他山の石としなければいけない事件なのだ。それにしてももし情報公開をあまりしない国(特に例は出さないが)で同様の事件が起きたらどうなっていたのだろうとも思う。


1990年、まだアメリカでの留学を始めて間もないころ、和田秀樹先生とは、留学先で一緒にたくさん時間をすごしたものである。あるとき先生がこんなことをおっしゃった。「自分は治療をするならクライン派的にやると思うけれど、受けるならコフート派的な治療がいい。」
この言葉をよく覚えているのは、ある意味ではこれが精神分析や精神療法を学ぶもののひとつの素直な考えだと思ったからである。
和田先生はそのころアメリカでコフート理論を学び始め、その魅力に取り込まれ始めていた。しかし彼はそれまでは日本でクライン派の先生からスーパービジョンを受けていたという事情があり、クライン派的な考え方に慣れ親しんできた。私がメニンガーで出会った頃は、彼の中でちょうどクライン派からコフート派へと視点が移行し始めていたころだったのだろう。彼はそれから帰国して、わが国のコフートの代表的な研究者の一人として活躍していらっしゃるが、彼の上のような率直な言葉がヒントの一つになって、この「治療論その5」が生まれたのだ。
サービスを提供するあらゆる職業的な関係について、「自分がサービスを受ける立場だったらこうして欲しい」というようなサービスをするのは基本中の基本である。そして心理療法についてもそれがいえるはずなのだが、実はこのロジックを心理の世界に当てはめようとすると、急に複雑な話になってしまうのだ。
まずは私にとっての正論。治療者が目の前の患者に同一化し、自分だったらそう扱って欲しいような仕方でその患者を扱うことは、その治療指針の最たるものだと思う。迷ったらそれを考えたらいい。
ただし必ずしも自分がして欲しい扱いとまったく同じ扱いを相手にする必要はない。「自分には人からこう扱って欲しいという傾向があり、それは多少人とは違う」という自覚があればなおさらだ。ただそこを考えの出発点と考えるということだ。
さてこのようにただし書きをつけて用心をしても、すぐさま反論の矢が飛んでくるものだ。運が悪いと、あっさりと「フロイトの唱えた禁欲原則に反する」と切り捨てられる可能性もある。でも次のような理屈を唱えられてしまう可能性もある。
「もし自分が治療者だったら支持的に扱ってもらいたいかもしれない。でもそれが自分のためにならないということもわかっていて、ほんとうなら洞察的に、すなわち厳しい直面化や解釈を用いて治療して欲しいと思うはずだ。だからこの主張は間違っている。」
でもこれは少しおかしな論理なのだ。
もしこれが事実だとすると、治療者が目の前の患者さんの気持ちに成り代わったときに思うことは、「それは支持的に接して欲しい。でも実は厳しい直面化や解釈が必要だということもわかっている。」これは言い換えるなら、「本当は支持的なだけでなく、洞察的にも扱って欲しい」となる。それが治療者が自分が患者の立場だったらして欲しいことであり、そこを「出発点」とすればいいことになる。
ここにあげた反論の例は、結局人は治療者に支持的に接して欲しいという気持ちと洞察的に接して欲しいという気持ちの双方を併せ持つものだ、ということを示唆している。そしてそもそも「自分が患者の立場だったらなにをして欲しいと思うか?」という思考は重層的だということにもなる。最初に「こうして欲しいだろうな」という考えが浮かんだすぐ次の瞬間には「でもこうしても欲しいな。」という考えも浮かぶ。コフートは共感とは「身代わりの内省 vicarious introspection である」といったが、結局自分の心が重層的であるからこそ、相手の立場に立ったときの思考も重層的になるのだ。そして結局「自分が患者の立場だったらなにをして欲しいと思うか?」に対する答えは決して単純ではありえないということがわかる。だからこそ先ほどから、まず最初に浮かぶ答えを「出発点」だといっているわけである。
最初に浮かぶ答えが出発点であるべき根拠は十二分にある。もし「自分が患者の立場だったらなにをして欲しいと思うか?」に対して最初に浮かぶのが、「黙って聞いていて欲しい」という気持ちであれば、やはり治療はとにかく「黙って聞いている」事からはじめるべきなのである。そしてようやく患者さんの心にある「次の層」が見えてくることになるだろうからだ。

2011年4月10日日曜日

治療論 その3 (改訂版)  助言やアドバイスは簡単には汎化されない事を肝に銘じよ

今日の私の話には、私の子育て体験が相当関係しているように思う。息子に小言を言うということが多くの場合お互いにとって消耗でしかないことを、私はかなり早い時期に気がついたように思う。その早い気づきは、少なくとも私のためにはなったと思うし、彼にとってもよかったと思う。(彼にとってはどうでもよかったって?そこが問題の核心なのだ。)


治療論2からの延長の意味を持つテーマである。スーパービジョンにおける助言のあり方について考えてみる。もちろんスーパービジョンにおいて、バイザーからバイジーに与えられる助言と同類のものは、精神療法において療法家から患者に与えられることも少なくないであろう。漫然と行われる精神療法は、単なるおしゃべりとあまり変わらないからね。ただし多くのまじめな療法家は、通常の精神療法において、療法家の主たる役割が助言やアドバイスであるという捉え方をしている人は少ないであろうから、ここではスーパービジョンにおける話に主として限定しておく。
ここで私が問いかけるのは、なぜ助言やアドバイスがなぜ意図されたほどに効果を発揮しないかという問題である。この問いにはやや悲観的な響きが伴うかもしれないだろうし、それは多くのバイザーの方々には共有されないかもしれない。というのも精神療法のバイザーの多くは、口をすっぱくしてバイジーに助言を与え、叱り、小言を言うということが多くの場合効果を発揮しないということには無頓着なように思えてならないからだ。私の主張は治療論2で唱えているとおり、人を変えるのは主として現実との遭遇であるということである。もちろんこの現実には、現実の治療者とのかかわりが含まれてもいい。逆に言えば、バイザーからの助言やアドバイスは、残念ながらその現実を構成していないことが多いことに、バイザー自身も、そして多くの場合バイジーの側も自覚していない場合が多いのだ。
結論から言えば、バイザーや親のメッセージの多くは、残念ながら般化される運命にはない。そのとき聞いておしまい、という形をとる運命にあるのだ。
ここであるバイザーとバイジーの関係を考えよう。時間に厳しいバイザーである。ほんの1、2分だけ遅れでスーパービジョンに現れたバイジーに、「セッションにはどんなことがあっても決して遅れてはなりませんよ。たとえスーパービジョンのセッションでも同じですからね!」と叱りつける。そして「遅れる、ということは相手を軽視していることにつながりますからね。きっとあなたは患者さんとのセッションにも遅れてくることがあるんじゃないんですか?」バイジーはうっかり、時々患者さんを待たせてしまうことがあることを認めてしまう。するとバイザーはさらに声を荒げるだろう。「私の教育分析家は、5年間、ただの一度たりとも時間に遅れることはありませんでしたよ。」「いつも先に治療者が来ている、ということが安全な治療構造を成立させる上での基本ですからね。」と言葉を継ぎ、時間を守ることが治療的な環境においていかに大切かを解くだろう。確かに若干時間にルーズなバイジーはうなだれ、しきりにバイザーに頭を下げる。こうしてバイザーはバイジーに時間を守ることの大切さを教え込んだ・・・・はずである。ところがバイジーに時間を守る大切さはおそらくあまり伝わらない。「どうしてほんの少し時間に遅れたことをそこまで咎められなくてはならないのだろう?第一バイザーとの関係では、私はむしろサービスを受ける側だし。時間を守るよりもっと大切な事だってあるだろう。」 しかし彼はバイザーの手前、その教えが伝わったことにするだろう。でもおそらく彼が学んだのは、バイザーからの小言の汎化されたもの、すなわち「時間に遅れるべからず。」ではない。「このバイザーにとっては、時間厳守は極めて重要であり、バイジーである以上自分もそのつもりにならなくてはならない」ということしか学んでいないのである。つまりこのバイジーとどのように付き合っていくか、しか学んでいないのである。(ただしこのバイザーとの時間に遅れては大変なことになる、というのは現実として体験している。だからそれは習得したのだ。)このバイジーが時間厳守を肝に銘じる様になるためには、おそらくさらに現実的な体験を経る必要があろう。多くの患者やバイザーたちから繰り返し同じメッセージを受け取ることで、そのバイジーは最終的にそのメッセージを汎化させ、自分のものとして取り入れることにするかも知れない。しかし他のバイジーからは全く別のメッセージを受けることで、時間厳守よりもっと大切な事を学ぶバイジーもいるだろう。「時間なんかあまり気にしなくてもいいんだ」という逆の教えを受ける可能性もありうるのだ。どこかで「セッションの時間に遅れることでこんなに大きな問題を引き起こしているのだ」という体験が本当の意味で身にしみる必要があるのだ。ここで大切なのは、時間厳守を教え込んだつもりのバイザーは、バイジーに単に余計なストレスを与えるだけに終わってしまっているということだ。バイジーは真理を伝えられて正しく導かれる代わりに、自分なりの真理の追究を続けるだろう。しかし表向きはバイザーからそれを学んで身につけたものとして振舞うのである。これは一種のfalse self の形成ということになる。そのような場合はそのバイザーを離れたら、バイジーはその学んだはずのこととは別のことをおこなう可能性が高い。多くのバイジーが、実際の治療ではバイザーに言われたことと逆のことを行うと言われるのもそのせいだ。同様のことは、親に叱られて様々なことを学んでいく子供についても言える。親は子供を教え導き、正しい行動を教え込んでいるつもりである。ところが多くの場合、子供にとっての教訓は、「~すべきである」ではなく、「この親の目の前では、~すべきである」でしかない。そしてそれを続けることを強要されることは、子供にとってほとんど外傷的な意味を持つことすらある、といったら言い過ぎだろうか?

2011年4月9日土曜日

治療論 その2(改訂版) の続き

大きいフォントが読みやすいのはわかるが、やはりどう考えても内容からいえば出来るだけ小さいフォントで掲載したい。まったくたいしたことのない内容だからである


絶対読者を置いてきぼりにしているだろうなあ。どうでもいいテーマだろうなあ。マアいいか。不可知性というテーマでは、このブログで十数回続いたシリーズを組んだこともあるが、その中で2010年8月15日日曜日の「不可知性の7. 人を対象と見るか、モノと見るか? 」が今日のテーマに近いだろう。
人を理解するということは、その人が不可知であるということを少なくとも頭でわかるということと関係している。(どうして頭でわかるだけでいいのか?不可知である相手のことを心でわかることなど出来ないではないか!!)そしてもちろん自然も不可知である。誰が東日本大震災を予知してブログに書いたり、ツイッターで流したりしただろう?(これはもう確実なことである。これだけの人口がいて、あれだけの不幸をもたらす大惨事を誰も予知してツイッターで流すことがなかった。もし流していたら、このネット社会であるから確実にそのことが話題になったろうからだ。これほど自然は予知ができないのだ。人の予知能力はそんなもんである。)脱線気味だなあ。
かつて私の患者に、非常に言葉が丁寧な人(Aさん)がいた(半分はフィクション)。 その人の言葉はあまりに回りくどく、フォローするのが大変であり、時にはいらだたしさを感じたのである。そしてそれをAさんに伝えるべきかを考えていた。そして私はある時「もうちょっと普通の言葉で話していただけますか?丁寧語が多すぎて意味がよくわからないときがあるんですけれど。」といってみた。Aさんは一瞬驚いた様子で、「そうですか?先生が丁寧な言葉なので、私はもっと丁寧な言葉で話さなければ失礼だと思っていました。」と言った。
それからAさんの言葉つきはあまり代わらなかったが、私のほうにいらだたしさが若干消えたことを覚えている。私は治療がさらに進んで後に、その会話以来Aさんの丁寧な表現があまり気にならなくなったことを告げたことを覚えている。
よくある治療場面の一こまである。私は取り立てて治療者としてAさんの助けとなることはしていない。少し気の聞いた上司や友人ならそんなコメントをすることもあるかもしれない。ただAさんはおそらく私からは予想もしない形で私からの「丁寧な言葉使い」についてのコメントを聞いた。これは一種の直面化としての意味を持っていただろう。ただしそれは「自分は過剰に丁寧語を用いて、治療者に慇懃無礼な口のきき方をしていたのだ」という類のものではない。自分の言葉使いがそのような反応を及ぼすことがあるのだ、という現実なのである。彼の言葉使いが客観的に馬鹿丁寧なのか、慇懃無礼なのか、という問題とはまったく無関係ではないにしても、基本的には異なる問題だ。ただそのような反応を一人の人間(すなわち私)に生んだ、というただそれだけのことなのである。彼が将来他の人から同じような反応を受けるかはわからない。また私のほうも彼の丁寧な話し方に、何か私自身の問題でそのような反応をしていたのかもしれない。でも私の中のいらだちもまた私にとっての「現実」なのである。(そう、この場合は現実に治療者の反応、も含んで考えている。ヤヤこしい。)私は私の反応が正しいかどうかという判断とは別に、それを口にしてみた。そこからAさんとのこの件に関するやり取りがすこしだけあった。私は少なくとも彼の丁寧な言葉は、私の側の過剰な?丁寧さから来ている可能性を知り、またその後に彼の話し方に対する印象が変わった。そしてそれを彼に伝えた。私のほうの変化はどこから来たのか?わからない。彼のほうが実際に話し方を変えたのか?私のほうで、彼に話し方についてのコメントをしたことで一種の後ろめたさが残ったからか?それとも私の話し方の影響だったのだ、という説明に納得したのか? もちろんこれらの仮説は浮かぶが、本当のところは・・・・・・わからないのである。おそらくそれでいいし、そのまま先に進むしかない。ただ彼の中に私とのこの短いインターラクションが起こり、それにより彼自身の見え方がほんの少し変われば、それでいいのだろう。
ここで少し牽強付会的なことをいうならば、この種の現実を安全に提供できる状況に、おそらく治療者はあるだろう。それは治療関係性のなせる技である。Aさんの体験した現実は、実は自分の話し方についての反応、ということにはとどまらなかった。私がそれについて少し不満を口にし、しばらく後にそのことを撤回したこと。そういう人間と、関わったこと。それらはことごとく現実であり、それが一応は安全に体験されたということ。それはまったくどうでもいい体験としてAさんにほとんど何も残らなかったかもしれないし、結構インパクトを持っていたかもしれない。それを治療者はあまり決めることは出来ない。あえていえばAさんが私をどれだけ重要な人間と勘違いしていたか(転移を向けていたか)により決まってくるのであり、それを治療者側は基本的に操作できないのだ。ただそれを一定の枠組みの中で提供するということ。しかしそのくらいのことしか治療者は出来ないともいえるのである。(これで一応終わり。まったく改訂になっていない。新たにまとまりのない文章を付け加えるだけになってしまった。)

2011年4月8日金曜日

治療論 その2 (改訂版) 続き 「不可知的な現実」とは?

私は基本的に人間は自分自身のことが見えないようにできているものだと思う。いや、見えては困るのかもしれない。今を生きる、ということは自省する、ということとは相容れないのだ。 車を運転している人間は、まず運転席から見える視界に全神経を集中する。その自分の姿がバックミラーにどう映っているかなどは、当面はどうでもいいのである。なぜなら自分の車がほかの車や通行人と接触することなく、されることもなく、安全に走行できることがまず重要だからだ。
私たちが生きているということについても同様のことが言える。私たちは各瞬間にいかに痛みや苦痛を避けるかを判断し、できることなら心地よさや快感を求めつつ世界の中をナビゲートしていく。何を回避し、何を求めるかは、大抵はとっさの判断にゆだねられる。
他方その人を助手席に座って見ている教習所の教官(一応治療者、スーパーバイザーの比喩である)は、様々なことを考えるだろう。「ぎこちない運転をしているな」、と感じるかもしれない。「何であんなところで急にハンドルを切るんだろう?」と思うかもしれない。実は運転者はちょうど視界の端に映った歩行者が飛び出す予感がして、それを無意識に避けようとしたのだ。その瞬間には本人にとっては理由や必然性のある行動が、周囲には無駄だったり意味のない動きに見えたりすることもある。しかし教官は、助言をするのが自分の仕事だと思っているから、目に付くところはどんどん指摘していく可能性がある。それが運転者にはぴんと来なかったり、指摘される必然性を感じられないことだったりする。教官が「仕事で」助言を与えたり、駄目出しをする分だけ、「うるさい、ほっておいてくれ」、と感じることもあるだろう。
それでは運転者にとってもっとも大切で、インパクトのあるものはなにか。それは体験そのものである。飛び出そうとする歩行者にハンドルを切ったおかげで、こんどは対向車に急接近してしまい、怖い思いをした、など。自分の運転のある種の癖やパターンが及ぼす結果を、現実の体験は教えてくれる。そこからの教えを、運転者は守らざるを得ない。そうすることが危険や恐怖の回避に直接的につながってくるからだ。
では教官=治療者は何もしないのか? 実はその路上実習に誘っているのは教官だったりする。知らない間に高速道路の入り口に入りそうになったら教えてくれるのも彼だろう。時にはこのまま行くと横から突っ込んでくるトラックと正面衝突というときには補助ブレーキを踏んでくれるかもしれない。でも初めての路上実習に出る際の緊張をやわらげてくれるのもまた教官かもしれない。教官は横で、実はいろいろなことを考え、運転者の心中を推し量っているのかもしれない。別に技法があるわけではなく、一見ただそこにいるだけ、に見えるかもしれないが、運転者がのびのびと運転を学ぶのに案外大切な存在だったりするのである。教官もまた「現実」の一部である限りにおいて。(続く・・・・かな?)

2011年4月7日木曜日

治療論その2 (改訂版)    直面化を促すのは、不可知的な「現実」である

禁欲規則に関するテーマで重要なのが、では誰が患者やバイジーに、直面化を迫ったり、耳の痛い助言をするのか、ということだ。「あなたは~についての意識化を避けていますね。」というコメントや、「あなたのやったことはこういう点で問題だったね。」「ここはこうした方がよかったですね。」という直接的な助言はいかに伝えられるべきかという問題だ。いくらその言葉を飲み込んでも、いずれは伝えなくてはならない場合がある。そうでなければ治療者やスーパーバイザーとしての役目を果たしたことにはならないことにもなるだろう。
こんな例を考えてみよう。私がある患者Aさん(30歳代後半の男性、とでもしよう)と治療関係にある。彼は常にあるジレンマに悩んでいるとしよう。(ちなみにこれは創作である。私の現在のクライエントさんの誰も、自分のことを言っていると思われないような例にする。)Aさんはいつも自分の身の丈より一歩高い目標を持ち、それが実現するつもりになり、実際に挑戦しては失敗して失望することを繰り返す。そして「自分はどうせ駄目なんだ、取るに足らない存在なんだ」と落ち込む。その挑戦とは、たとえば就職活動でも、論文を応募するのでも、異性に声をかけるというのでもいい。いつも期待をふくらませては失敗し、死にたくなってしまうという繰り返しのAさんは、自分を見つめ直したくて私との治療を開始したとする。
治療者として週に一度Aさんと会っていると、おそらく彼のこのパターンが繰り返されていくのを私は目のあたりにすることになる。彼は理想的な自己イメージを思い浮かべ、失敗をして落ち込むというプロセスを、セッションの中で実況中継のように報告するかも知れない。その際、分析的な立場に立ち、禁欲規則に従った治療はどのようなものになるだろうか? おそらくAさんの話を聞き、彼が陥っている病理、例えば現実の自己像を否認する傾向、それにより他人を見下したい願望や、一気に立場を逆転させて勝者になりたいという願望を指摘することになるだろう。その際Aさんが夢を追う姿を評価したり、失望した際の気持ちを汲み、慰めの言葉をかける、ということはむしろ避けるべきであろう。分析的な精神療法の教科書的は、そのような治療態度を推奨するはずだ。
さてAさんの治療者としての私はどうするだろう?おそらく20年前ならこの禁欲規則に従った治療を行ったかも知れない。でも今なら違う。どのように違うかはよくはわからない。ただ禁欲原則とは全然違う関わりを持つであろうことは確かだ。
そもそも30歳代後半まで繰り返したAさんの行動パターンは、治療などで大きく変わりはしないと考えたほうがいい。治療者との出会いがよほど大きなインパクトとなり、彼の人生観を変えるに至るのでない限りは同じことが続くだろう。そして私がAさんに「また同じ過ちを繰り返そうとしていますね。」と指摘することは、おそらくそれが直接間接に周囲から指摘され、そして何よりも彼自身がそれを自分自身に呟いているであろうから、あまり新しいメッセージとして彼の心に響く可能性は少ない。
私はおそらくAさんの行動パターンをいろいろな角度から見ようとするであろう。Aさん自身も、周囲の誰も思いつかないような説明の仕方を試みるかも知れない。そのプロセスでAさんが本当は人から評価されたことがなく、その為に他人をあっと言わせたいと思い、本来は自分が不得手なことにまでも力を注いでいるということが見て取れたら、私はAさんが自分らしさを自然に発揮できるような能力を一緒にさがそうとするかも知れない。彼が評価してもらえなかったことを評価することもあり得るだろう。そしてもちろん彼がどうしても見ようとしない問題点があったら、そのことも指摘するだろう。要するに…… 治療はとても「禁欲規則」で縛られてしまうべきものではないのである。
一つここで明確にしておきたいのは、Aさんが自分の行動パターンを変えるほどのインパクトを与えるのは、残念ながら治療者の言葉ではない可能性が高いということである。治療中にあっても、Aさんは同じ問題を行動に映し続けるであろう。彼はAさ結局は同じ行動パターンを繰り返しながら、現実と行き当たって学ぶことを通して変わっていくのである。治療者はそのプロセスを一緒に体験し、考えることしかできないというのが正直なところなのだ。
このAさんの代わりに、民主党の小沢さんが治療を受けているという状況を想像してみる。(まず彼がカウンセリングに通ってくるということはありえないだろうが、何故かそれが起きていると仮定するのだ。) 彼がしばしば示す民主党を壊しかねないような行動を抑えることなどカウンセラーには不可能なのであろう。彼は現実に突き当たってもうこれ以上動けないところまで突き進み、何かを掴みとり、そして何かに失望する。カウンセラーはおそらくそれを見守ることしかできない。でも治療者が患者の人生を変えようと思うことそのものが、僭越と言われても仕方がないことなのだ。
ところで「これじゃ治療者の役割などないのではないか!」と言われそうである。その人にはこういう言い方をすることにしている。治療者としての関わりが「現実」となれば、それは治療的なインパクトを持つ可能性があるのだ。 ではこの「現実」とは一体なんだろう?(続く)

2011年4月6日水曜日

治療論 その1 (改訂版) 昨日の続き

ちなみに「洞察や理解は別のところか訪れる」ということの意味について。私には罪悪感に関する持論があり、それは「罪悪感は、基本的には『許され型』である」というものである。罪悪感に関して、精神分析では「処罰型」と「許され型」という分類の仕方をする。前者は悪いことをした時に罰せられることではじめて罪悪感が植えつけられるという考えで、後者は人に許されて初めて罪悪感が芽生えると考える。前者がフロイトのエディプス理論にたった罪悪感の生成のされ方、ということになるから、分析理論の中では常識の部類に入る。
しかしこの問題も当たり前に考えれば、後者が本来の罪悪感の生成のされ方だということになる。だって悪いことをして、罰せられることで得られるのは、「こんなことをしたら、処罰されるんだ。」という学習であって、罪悪感そのものではない。(もちろん罰せられることで、自分がしたことが罪深いことであったという自覚が生まれる、という場合は別である。)罪悪感は相手が苦痛を味わっていて、自分が何の報いも受けていない(ないしは許されてしまう)という状況で自発的に起こってくる感情だからだ。すると治療でもスーパービジョンでも、「厳しいこと」や「叱責」によって得られるのは、「こんなことをしたら怒られるんだ」という学習効果でしかない。いやそれならまだいいが、「こんなことをしたら、この先生は怒るんだ」という学習だとしたら、もっと悪い。「この先生の前ではこれはしないでおこう」ということであり、決して汎化されない学習でしかない。「この先生の観ていないところでは堂々とやろう」というのとあまり変わらないからだ。
私は世の中で起きる叱責、説教、小言、アドバイスの大半がこのような形で無意味に行われていると感じる。そしてそれは残念ながら、精神分析における「解釈」にも当てはまってしまう。解釈の内容がいかに真実をついていても、いや真実をついているからこそ聞く人に痛みを持って体験され、その結果として叱責と同様の意味を持ってしまう。そしてその大半は無効なものとなってしまう。こんなことをしていて空しくないはずはないのだ。
私はフロイトの「禁欲規則」が意味のないものとは考えない。むしろ彼がこれを言い出したことで、考える材料を豊富に与えてくれていることに感謝するべきであると思う。ただしフロイトはあまりに人を理想化し、「人間は苦痛に耐えても真実を求める」ということを自分以外にも当てはまるものと勘違いしていたように思う。
では洞察はどういうときに生まれるか。他人から許されたときに、治療者が一番肝心なところに触れなかったときに、そこに安心感が生まれ、心の余裕が生まれる。その時に人はやっと自省する力を取り戻す。防衛に使われていたエネルギーが使用可能になるからだ。その時に実は他の人から見れば明らかであり、自分だけが否認していたような何かが見える。「自分ってなんて意地を張っていたんだろう?」とか「相手の痛みをあまり考えていなかったんだな。」などの素朴な発想が可能になるわけだ。

2011年4月5日火曜日

治療論 その1 (改訂版) まずは「禁欲規則」について真剣に考えよ

精神療法はいかにあるべきかについて考える際には、フロイトの「禁欲原則」について、特にその功罪について真正面から捉える必要がある。
ある高名な分析家の先生なら、精神分析の技法論には次のようなことを書くはずだ。「精神分析においては患者の願望を満たしてはいけない。すなわち患者に愛情を与えたり褒めたりすることは慎まなくてはならない。治療者は患者が見ることを避けていた無意識内容に直面化するのを手伝うことが、その本分なのだ。」。いわゆるフロイトの禁欲規則 rule of abstinenceの考え方である。でもこれって、治療本来のあり方だろうか?何かが違う。それが私の出発点といって言い。
この禁欲規則、どうでもいいと思っている治療者も多いが、私には無視できない問題である。というかこの問題に真剣にこだわっていない治療者は、私としては力不足の表れだといいたい。
精神分析を一生の仕事と考えていた私としては、治療とは何か、人を助けることとはどういう事かについて常に考えてきたが、このフロイトの禁欲規則をどのように捉えるかはもう30年来の重大な問題である。フロイトが100年前に提案した規則など、どうでもいいのではないかと思うかも知れないが、治療者の中にはこの規則をかたくなに守ることで、本来の治療者としての力を発揮できない場合が多いのであるから、この問題は深刻なのである。
日常生活での体験も、学生やバイジーさんとの体験でも、ましてや治療場面でも、私は厳しいことをほとんど言わないし、また言えないでいる。言う資格がないと思うことも非常に多い。でも彼らを正直な気持ちで評価したいようなことがあれば、おそらくかなり頻繁にそれを口にすると思う。つまり禁欲規則とは逆のことをしているのである。そこにやましさはない。それはなぜだろうか?
 もちろん学生やバイジーさん、患者さんに注文したいことは時々ある。「それはちょっとどうかな」と思うことも実はよくある。それを言わないとすれば、その一番の理由は、その「どうかな」という判断が実は非常に怪しいことを知っているからだ。上司に指導を受けたり注文をつけられたりという体験を少しでもお持ちの方は、それがかなり恣意的で理性的には受け入れがたいものであることが実に多いことをよく知っているであろう。私がバイジーさんの報告内容を聞いて「えっ、それってどうかな?」と思う際、そのかなりの部分が、実は私の側のバイアスや好みに起因しているものであることがわかっている。
ただしもちろんバイザーとして、先輩として明らかに注文をつけるべきことも当然あるだろう。(それはそうである。だからバイザーの役割を負っているのである。)そこでその言葉を飲み込む二番目の理由。それにより患者やバイジーが落ち込んでしまうからだ。もちろん患者さんが一時落ち込むことは、その後の成長につながるかも知れない。でもそれが一種の抑欝的な反応を引き起こし、その間患者さんの精神的な活動が冷え込んでしまうことの方がより問題なのである。他方長所を指摘し、評価することは彼らに生きるためのエネルギーを与え、彼らが自らを見つめるための精神的な余裕を持つことにも繋がる。そう、治療とは相手の自己愛をいかに守りつつ治療者としてのメッセージを伝えるか、という綱渡りなのである。禁欲規則とは、そこら辺の微妙な問題をかなり大胆に切り捨てた規則なのだ。
言葉を飲み込む第三の理由。人は注意されたことはたいてい聞かない。聞いているふりをすることは多いが。私自身がそれをこれまでやってきている。洞察や理解は、おそらく全然別のところから訪れることが多いのだ。
さて以上の三つの理由が解消されていると感じた場合、私は意見を言うことになる。おずおずと、あるいは注意深く。それでも後で言われてしまう。「あの時は先生にずいぶん怒られました。」

だから怒ってないって。