あれほど日本の政府関係者が「絶対謝らないぞ!」と言ったのだから、中国側からさぞかし反応があるのかと思いきや、そうでもないのだろうか?少なくとも私がチェックしているインターネット上のニュースには出てこない。その代わりに見つけた読売新聞(インターネット版)の記事。こんな風に言ってもらったとき「人に理解してもらえた」って感じるんだろうね。以下はその抜粋。
【ワシントン=小川聡】尖閣諸島沖の日本領海内で起きた中国漁船衝突事件をめぐり、日本政府による中国人船長釈放にもかかわらず強硬な主張をやめない中国に対し、米メディアで批判が広がっている。27日付のワシントン・ポスト紙は、「ますます威嚇的な中国に直面するアジア」と題する社説を掲載。事件について、「中国が国家主義的で領土に不満を抱えた独裁国家のままであることを世界に思い出させた」としたうえで、「中国は船長釈放後もさらに(日本に)謝罪を求めている。こうした振る舞いは、国際的なシステムに溶け込もうという気のある、節度ある国のものではない」と批判した。 ニューヨーク・タイムズ紙も同日付の記事で、米政府当局者が「日本は事態が手に負えなくなることを防ぐために重要なことを行った」が、「中国がこれ以上、何を欲しがっているのか、我々にはわからない」と、中国に不信感を示す様子を紹介した。
ところで二者関係というテーマでまだ改めて書いていなかったことに気がついた。ネット社会が人々の行動様式を変えてきていることは確かなのだろうが、非常に印象深いことがある。それは本当の意味での引きこもり状態というのは少ないということだ。私はネット社会が引きこもりを生んだとはまだ思ってはいないが、引きこもりが遷延する理由のひとつにはなっていると考えている。あるいは引きこもりの人たちの人生に何らかの意味を与えることに貢献している、というべきだろうか?
彼らは人とのかかわりを求めているのである。引きこもっていてもブログは持っている、という人も多い。RPGを通じてネット上の友達を持つ人もいる。直接対面するという形をとるか取らないかは別として、何らかの形で人とかかわりを持ちたい、という願望を持たない人のほうが少数派だろう。うつ状態が深刻になり、話す元気がなくなっても、それでも人は気心の知れた人と話したいという願望を残しているものだ。
二年前の秋葉原事件の犯人加藤智弘は、ネットこそが人生のすべてであるような言い方をしていたように記憶している。自分が何かを発信して、何かの反応を得たい。人嫌いでかかわりを持とうとしないひとでさえ、じぶんのメッセージを誰も聞いてくれないから、という理由でそうなっている可能性が大いにある。自分のメッセージに的確に反応をしてくれる人の存在なら、むしろありがたいのである。
精神療法の基本的な意義を考える際も、そのそのレベルにまで降りる必要があると思う。精神療法の世界では、「何が有効なのか what works?」という疑問に対する答えは依然として出ていない。最近はやりの観のある、関係理論relational theory などは、他人の関係、としか言いようがない、すなわち答えは見出せない、ということに関して開き直った答えを提示しているようだ。
この問題について、いかに精神療法の世界は遅れているか、と考えているよりも、いかにこの問題が複雑なのかを示していると考えるべきだ。人類は非常に具体的でデジタルな思考や解答が見出せることについては、すばらしい成果を遂げている。宇宙がどのようにできたのか、物質は何により構成されているか、などの問題についてこれまで想像もできなかったような詳細がわかりつつある。でも「精神療法はどうして有効なのか?(あるいは、本当に有効なのか?)」に結論が出ないということは、この分野がいまだに未開であり、無限の可能性を占めているということを意味する。この点が不可知論とも結びつくことはご理解いただけるだろう。不可知論が面白いのは、その可能性もまた無限だからだ。
2010年9月28日火曜日
2010年9月23日木曜日
不可知性 その12. 外交は不可知性の極致、二者関係はむしろ予則可能である
昨日は日中の問題で未熟なことを書いたような気がする。私は政治音痴なので、二つの国の間で生じうる事柄がそれこそ不可知性をはらんだ予想不能なプロセスを取るということがどうもピンときていない。しかし実際は、事態は非常に混沌としたものである。二国関係は二者関係と同じように、あるいはそれ以上に不可知的で、あす何が起きるかがわからない。つまりこの場合にはこうする、あの場合にはああする、というパターンがそもそも存在しないのであろう。 「粛々と処理する」のも「強硬路線を続ける」も、「柔軟に対応する」も、どれが正しい解決かは時と場合により異なり、唯一のポリシーなどないということか。私はあたかもそれを求めて昨日の文を書いていた気がする。
そんなことを考える記事を読んだ。(JBpress (日本ビジネスプレス) 尖閣問題で日中関係は再び冬の時代に戻るのか 中国が犯した2つの誤算~中国株式会社の研究~その76) http://clip.livedoor.com/page/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4477
著者はあくまで現実に根をおろしたリアリストである。リアリストにしか書けない内容が随所に見られる。著者の主張によると、内政と外交は表裏一体であり、政治家が外国に向かって発言する内容は、国民にどのような反応を及ぼすかによりほぼ決まってくるという。つまり「日本は船長を無条件で即座に解放せよ」とは、「そのとおりだ!」という国民の声を反映している。その点政治家の発言は極めて計算され尽くしたものでなければならない。つまり中国のメガネをかけた女性報道官に腹を立てても仕方がない、ということか。
政治の世界ではさらに複雑な事情がある。それはリーダーの発言が、逆にある種のムードや世論を引き起こしたり、予想もしないような運動を引き起こしたりするということである。中国のリーダーたちが一番気にしているのは、反日運動を煽った際に起こる運動が、容易に反政府運動に転化するということだ。だから彼らはアクセルとブレーキを同時に踏むような芸当を行っていることになる。あるいは半年前の私たちが経験したのは、「沖縄の人は、米軍の基地の存続についてどう思いますか?」という(余計な?)問いかけにより「絶対に容認できません」という世論を形成してしまったということであろう。
それにしてもつくづく思うのは、政治にしても経済にしても、私たちは不可地の渦の中で生きているのだ。その中でどのようにポリシーをもち、それを守っていくのかの見当が付きにくい。
それに比べて私は対人関係ははるかに予想可能であるという気がする。これは極端に聞こえるかも知れないが、決してそうではない。二国間の関係と二者関係は、前者が次元が高い、というかそこに絡む変数の数は計り知れないほどに多い。それに比べて二者関係は不可知性をはらむと同時に予想可能性も存在する。少なくとも私にとってはそうである。それは例の win-win の原則である。この原則に従えば、大概うまくいく。それが最大の予測可能性である。
Win-win 則とはつまり、常に他者の利益と自分の利益が同時に得られる道を模索せよ、ということだ。念のため。この原則が正しく作動するためには、常に他人の利益を優先している、というくらいの自覚でちょうどいい。それは人間はことごとく我田引水の傾向を持つからだ。無私でいよう、と思っていてようやく利己的な面が若干抑えられる、という感じだろうか。
もちろんwin-win は容易ではない。しかしそれに従おうとする(従う、というのは実は無理だ。そのつもりになっているだけで上等だろう)ことで気持ちは平穏になる。それは少なくとも対人関係において自分から荒波に漕ぎ出してはいないという安心感をあたえる。またこの原則は自分のしたいことを犠牲にする必要はないということをしめしてくれているのだ。他人にXの量を与えたら、自分にもXを与えていいのである。
もちろんwin-win が上手くいかないことはいくらでもある。人は思わぬところで誤解を受け、恨みを買い、人を傷つけてしまう。しかしWin-winに従うことは、それらの危険をかなり回避することに役に立つ。
もちろんこの原則を生来身につけているとしか思えない人もいる。そのような人にはこのような原則は必要ないだろう。つい自分のことばかりに目が行く私のような人間には特に肝に銘じておくべき原則ということかも知れない。
そんなことを考える記事を読んだ。(JBpress (日本ビジネスプレス) 尖閣問題で日中関係は再び冬の時代に戻るのか 中国が犯した2つの誤算~中国株式会社の研究~その76) http://clip.livedoor.com/page/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4477
著者はあくまで現実に根をおろしたリアリストである。リアリストにしか書けない内容が随所に見られる。著者の主張によると、内政と外交は表裏一体であり、政治家が外国に向かって発言する内容は、国民にどのような反応を及ぼすかによりほぼ決まってくるという。つまり「日本は船長を無条件で即座に解放せよ」とは、「そのとおりだ!」という国民の声を反映している。その点政治家の発言は極めて計算され尽くしたものでなければならない。つまり中国のメガネをかけた女性報道官に腹を立てても仕方がない、ということか。
政治の世界ではさらに複雑な事情がある。それはリーダーの発言が、逆にある種のムードや世論を引き起こしたり、予想もしないような運動を引き起こしたりするということである。中国のリーダーたちが一番気にしているのは、反日運動を煽った際に起こる運動が、容易に反政府運動に転化するということだ。だから彼らはアクセルとブレーキを同時に踏むような芸当を行っていることになる。あるいは半年前の私たちが経験したのは、「沖縄の人は、米軍の基地の存続についてどう思いますか?」という(余計な?)問いかけにより「絶対に容認できません」という世論を形成してしまったということであろう。
それにしてもつくづく思うのは、政治にしても経済にしても、私たちは不可地の渦の中で生きているのだ。その中でどのようにポリシーをもち、それを守っていくのかの見当が付きにくい。
それに比べて私は対人関係ははるかに予想可能であるという気がする。これは極端に聞こえるかも知れないが、決してそうではない。二国間の関係と二者関係は、前者が次元が高い、というかそこに絡む変数の数は計り知れないほどに多い。それに比べて二者関係は不可知性をはらむと同時に予想可能性も存在する。少なくとも私にとってはそうである。それは例の win-win の原則である。この原則に従えば、大概うまくいく。それが最大の予測可能性である。
Win-win 則とはつまり、常に他者の利益と自分の利益が同時に得られる道を模索せよ、ということだ。念のため。この原則が正しく作動するためには、常に他人の利益を優先している、というくらいの自覚でちょうどいい。それは人間はことごとく我田引水の傾向を持つからだ。無私でいよう、と思っていてようやく利己的な面が若干抑えられる、という感じだろうか。
もちろんwin-win は容易ではない。しかしそれに従おうとする(従う、というのは実は無理だ。そのつもりになっているだけで上等だろう)ことで気持ちは平穏になる。それは少なくとも対人関係において自分から荒波に漕ぎ出してはいないという安心感をあたえる。またこの原則は自分のしたいことを犠牲にする必要はないということをしめしてくれているのだ。他人にXの量を与えたら、自分にもXを与えていいのである。
もちろんwin-win が上手くいかないことはいくらでもある。人は思わぬところで誤解を受け、恨みを買い、人を傷つけてしまう。しかしWin-winに従うことは、それらの危険をかなり回避することに役に立つ。
もちろんこの原則を生来身につけているとしか思えない人もいる。そのような人にはこのような原則は必要ないだろう。つい自分のことばかりに目が行く私のような人間には特に肝に銘じておくべき原則ということかも知れない。
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