たまたま早朝に目が覚めてつけたNHKでやっていた桂米助の「天覧試合」。30分間の巧みな話芸で、言い間違いはただの一度。(9回の裏のことを、表といい掛けただけ。)いくら本人が野球好きといえ、この込み入ったストーリーをここまでスムーズに、しかも間違えずに出来るのはトレーニングか、それとも記憶のよさが関係しているのか? 私にはこの種の能力はまったくないので感心するだけだが、記憶力がいい人は、スルスルと入って、スルスルと出てくるのかもしれない。いやそんなに簡単なものとも思えないが、単なる努力の賜物とも思えない。才能と努力が合致しないと出来ない芸はこの世に多いのだろう。
いつまでもしつこく終わらないこのシリーズ 「怠け病」はあるのか?。いまだにすっきりしていないからである。今日は参考文献として「それは『うつ病』ではありません!」(林公一著 宝島社新書、2009年)を取り上げてみる。
わかりやすい題、テンポのよい書き方。でも最初のほうで「うつ病は治る」と強調しているのは、なぜだろうと思った。治らない(正確に言えば、治るまでの時間があまりに長すぎて、すっきり治ったという印象をとても持てずに何年も経過している、というべきか)患者さんが少なからず存在することは、臨床家だったら知らないはずはないのに。本書ではあとの方に「難治性うつ病」という表現も出てくるので、林先生はそれと「うつ病」を区別しているのかもしれないが、いずれにしてもわかりにくいし、誤解を招きやすい。
そして本書のキーワードでもある「擬態うつ病」。これは林先生が本書を書く以前から用いている概念であるが、ひとことで言えば、うつ病を装うことで安穏とし、責任を回避している人たち、という意味がある。「擬態うつ病のもたらしたもの」として、安住、薬漬けの日々、擬態うつ病の連鎖、とある。全体の主張としては、最近増えてきたうつ病の中には、この「擬態うつ病」が含まれているということだが、それらの人々はそれを隠れ蓑にして甘えている、怠けている、という糾弾の姿勢が感じられる。
例えばこんな記載。「人間関係、過酷な仕事ということで倒れたり、落ち込むのは自然な反応である」(163ページ)。そしてそれは薬よりは、関係の改善であったり、自然の落ち込みはそれに耐えることというわけだ。
ただここでわかりにくいのは、人間関係、過酷な仕事で倒れるのは自然なことだとしても、その中には休養や療養が必要な人もいるであろう、ということを認めるのかどうか、という点である。例えば受験に失敗して深刻に落ち込むのは、「自然」なことだろう。では3日間布団から起き上がれないのは? それもよくある話だとしても、では二週間寝たきりになったらどう?叱咤激励してたたき起こし、新たな受験勉強を強いるべきなのか?それで果たしてうまくいくのか?
ここでうつ病と「擬態うつ病」を分けるとことはよしとしよう。でもそれでは「擬態うつ病」は一種の詐病なのだろうか? それとも治療を必要とする別の精神疾患である可能性はないのか? ここら辺の問題は、林先生の著書を読んだあとも、やはりくすぶり続けてしまう。
2010年12月18日土曜日
2010年12月17日金曜日
シリーズ 「怠け病」はあるのか? その10 一応結論??
結局私の結論は・・・
昨日大学院の私のゼミで話したことが少し助けになり、この「怠け病」の問題に対する一応の結論を導くことができた。以前に同じテーマで考えた際にも至った結論だが、今回また同じになった。
「新型うつ病も、引きこもりも、甘えや怠けではなく、一種の恐怖症 phobia (ないしは不安障害)である。」
パニックディスオーダーになった人の話などを聞くと、ふとしたきっかけで、普段当たり前に出来ていたことが、急に出来なくなることがわかる。例えば電車の中で急に吐き気に襲われたということをきっかけにして、電車に乗れなくなってしまう。それまでごく普通に電車を利用していた人が、その電車で言葉に尽くせないほどの恐怖を体験すると、それに対する忌避反応が生じる。するとそれに関するあらゆることから足が遠ざかるのである。
電車恐怖になった人は、電車に乗らない限りは普通の生活ができるであろう。でも電車を使った外出ができない。そしてそれを恥に思って人に隠すと、「アイツは何だ、いろいろ理由をつけては結局出張を拒否しているけれど、会社では普段どおりじゃないか。仕事をえり好みするなんて、けしからんやつだ。」ということになる。
もちろんこの程度のことなら代償が効く。自動車を使えば遠出も可能だろう。でも代償がきかない場合もある。アメリカのある有名な学者は、自分の町以外の講演をすべて断っている。学会にも出ない。うわさによれば飛行機恐怖症だというが、本人はそれを隠し、かっこつけて、「私は怠け者だから、遠出までして講演をする気になんてなれないし、学会発表もしないのだ。」とか言っている。そして彼は変わり者、欲のないものといわれることに甘んじているのだ。
私が主張しようとしているのは、新型うつ病も、引きこもりも、ある状況に恐れ、それを避けて生きている姿として理解できるであろうということだ。私はこれで新型うつや引きこもりがすべてすっきり説明できるとは思わないが、ひとつの視点として有効だと思う。これらのいわゆる「退却神経症」と笠原先生が命名した状態は、外に出ることへの強い恐怖が存在する。
引きこもりに関しては、これが明らかに言える。ある患者さんは、自分の地元で、昔の学校のクラスメートにでもであったら、それは死を意味する、という類のことをおっしゃる。恐れていることは一つだから、それを回避出来ている時には何でも出来る。ゲームを楽しむことも、遠くの県に旅行だってできる。ところが周囲は、それを怠けとしてしか受け取らない。
新型うつについても似たようなことがおきる。仕事について、会社についてかかわることが怖いし、不安にさせるのである。それでも無理して仕事を続けるから、5時に帰宅する際には思わず開放感に襲われ、表情が和み、趣味に走るのだ。
このように考えると、新型うつは、普通の意味のうつではないと言えるかも知れない。これが昔は、「抑うつ神経症」と呼ばれていたのも理由のないことではないのである。
昨日大学院の私のゼミで話したことが少し助けになり、この「怠け病」の問題に対する一応の結論を導くことができた。以前に同じテーマで考えた際にも至った結論だが、今回また同じになった。
「新型うつ病も、引きこもりも、甘えや怠けではなく、一種の恐怖症 phobia (ないしは不安障害)である。」
パニックディスオーダーになった人の話などを聞くと、ふとしたきっかけで、普段当たり前に出来ていたことが、急に出来なくなることがわかる。例えば電車の中で急に吐き気に襲われたということをきっかけにして、電車に乗れなくなってしまう。それまでごく普通に電車を利用していた人が、その電車で言葉に尽くせないほどの恐怖を体験すると、それに対する忌避反応が生じる。するとそれに関するあらゆることから足が遠ざかるのである。
電車恐怖になった人は、電車に乗らない限りは普通の生活ができるであろう。でも電車を使った外出ができない。そしてそれを恥に思って人に隠すと、「アイツは何だ、いろいろ理由をつけては結局出張を拒否しているけれど、会社では普段どおりじゃないか。仕事をえり好みするなんて、けしからんやつだ。」ということになる。
もちろんこの程度のことなら代償が効く。自動車を使えば遠出も可能だろう。でも代償がきかない場合もある。アメリカのある有名な学者は、自分の町以外の講演をすべて断っている。学会にも出ない。うわさによれば飛行機恐怖症だというが、本人はそれを隠し、かっこつけて、「私は怠け者だから、遠出までして講演をする気になんてなれないし、学会発表もしないのだ。」とか言っている。そして彼は変わり者、欲のないものといわれることに甘んじているのだ。
私が主張しようとしているのは、新型うつ病も、引きこもりも、ある状況に恐れ、それを避けて生きている姿として理解できるであろうということだ。私はこれで新型うつや引きこもりがすべてすっきり説明できるとは思わないが、ひとつの視点として有効だと思う。これらのいわゆる「退却神経症」と笠原先生が命名した状態は、外に出ることへの強い恐怖が存在する。
引きこもりに関しては、これが明らかに言える。ある患者さんは、自分の地元で、昔の学校のクラスメートにでもであったら、それは死を意味する、という類のことをおっしゃる。恐れていることは一つだから、それを回避出来ている時には何でも出来る。ゲームを楽しむことも、遠くの県に旅行だってできる。ところが周囲は、それを怠けとしてしか受け取らない。
新型うつについても似たようなことがおきる。仕事について、会社についてかかわることが怖いし、不安にさせるのである。それでも無理して仕事を続けるから、5時に帰宅する際には思わず開放感に襲われ、表情が和み、趣味に走るのだ。
このように考えると、新型うつは、普通の意味のうつではないと言えるかも知れない。これが昔は、「抑うつ神経症」と呼ばれていたのも理由のないことではないのである。
2010年12月15日水曜日
シリーズ 「怠け病」はあるのか? その9
実は怠けかどうかの議論が一番難しいのが、引きこもりの問題である。最近の傾向としては、引きこもりの人のかなりの部分がネットでゲームをするようになっている。私は少し前までは、「引きこもり≒怠け病」派であった。国際医療福祉大学が主催している市民講座「乃木坂スクール」で、和田秀樹先生と私は5年ほど前に精神医学の講座を企画したことがあったが、その中の「引きこもり」の講座の中で、私はこんなことを言った。「引きこもりの人は、インターネットを取り上げてはどうか?そうしたら彼らが部屋から出てくることに少しは貢献するのではないか?」
今から思い起こしてもいささか単純すぎる議論ではあるが、私はかなり本気だった。私もかなり過激な意見をもっていたのだ。
するとそのときに講師をお願いしていた斉藤環氏は、その意見に異を唱えた。彼に言わせれば、引きこもりからネットをとってしまうと、何もしなくなって廃人のようになってしまう、ということであった。彼に言わせれば、引きこもりの人は、決してゲームが楽しくてやっているわけではない、仕方がないからやっているというのである。そして少なくとも、ネットを取り上げることは、引きこもりを部屋から誘い出すことにはならない、と語った。私はその頃、パチンコ依存症さえも病気として捉えず、一種の甘えとして捉える傾向があったので、大きく考えを改める必要があった。
さてそれから、ネット依存の話題が出るようになった。いわゆる「ネトゲ廃人」などについても深く考えさせられるようになり、またしばらくぶりに斉藤先生と話をする機会が訪れた。そこでまた数年前と同じ質問をぶつけると、彼の返答は少かわっていた。彼はネットへの依存症が見られる場合には、ネットに関わる時間を制限するという方針を示した。これもまた納得がいくものであった。
つまりこういうことである。引きこもりが、ある種の中毒、嗜癖を維持するためのものであるなら、それは許容されるべきではないということだ。これはロジックとしてはすごくわかるのである。それにおそらくネットゲーム中毒になっている本人も、もしそれが引きこもりの主たる原因になっているのであれば、それを取り上げられることをアンフェアとは感じないだろう。
ちなみにネットゲームの場合には、その依存症を効率よく治療する方法は、理論上は存在する。それは、ポイントがたまったり、先の段階に進むにつれて、内容がつまらなくなるようにゲームを作っておくということだ。私も実際にやっていないので頓珍漢なことをいっているかもしれないが、ゲームはそれがどんどん先の段階に進むことが興奮を生むために、やめられなくなるということが生じているはずだ。新しい武器を獲得して、次第に高いレベルの力を駆使してより強力な敵を打ち負かし、より大きな満足を体験する、というように。進めば進むほど面白いからこそ人はそこにのめりこむのだろう。だとすれば、進めば進むほど武器が貧弱になり、アホらしくなってきたり、あるいは一定の段階でもうゲームオーバーになってしまうような仕掛けを作っておけば、深刻な嗜癖は抑えられるのではないか。ちょうど飲めば飲むほど味が薄くなるウィスキーのようなものだ。あるいは金儲けをすればするほど税金を取られてしまい、しかも脱税が出来ないような仕組みのようなものである。後者はどちらも実現するのは難しいだろうが、ネットゲームの場合はその内容を法律で規制することで、いわばゲームの「射幸心」を制限するというわけである。(もちろん裏ゲームというのもどんどん作られるだろうが。)
脱線を元に戻すと、引きこもりの場合は、それが怠けかどうかは、引きこもりがそれ自体苦痛なのか、むしろ安楽だったり快楽的だったりするかにより、それが「怠け」の類として理解するべきかが決まるということである。当たり前といえば当たり前かもしれないが。そして私の基本的な立場は、普通の引きこもりも、現代型のうつも、それ自体は基本的に苦痛をもたらすものであるというものなのである。
今から思い起こしてもいささか単純すぎる議論ではあるが、私はかなり本気だった。私もかなり過激な意見をもっていたのだ。
するとそのときに講師をお願いしていた斉藤環氏は、その意見に異を唱えた。彼に言わせれば、引きこもりからネットをとってしまうと、何もしなくなって廃人のようになってしまう、ということであった。彼に言わせれば、引きこもりの人は、決してゲームが楽しくてやっているわけではない、仕方がないからやっているというのである。そして少なくとも、ネットを取り上げることは、引きこもりを部屋から誘い出すことにはならない、と語った。私はその頃、パチンコ依存症さえも病気として捉えず、一種の甘えとして捉える傾向があったので、大きく考えを改める必要があった。
さてそれから、ネット依存の話題が出るようになった。いわゆる「ネトゲ廃人」などについても深く考えさせられるようになり、またしばらくぶりに斉藤先生と話をする機会が訪れた。そこでまた数年前と同じ質問をぶつけると、彼の返答は少かわっていた。彼はネットへの依存症が見られる場合には、ネットに関わる時間を制限するという方針を示した。これもまた納得がいくものであった。
つまりこういうことである。引きこもりが、ある種の中毒、嗜癖を維持するためのものであるなら、それは許容されるべきではないということだ。これはロジックとしてはすごくわかるのである。それにおそらくネットゲーム中毒になっている本人も、もしそれが引きこもりの主たる原因になっているのであれば、それを取り上げられることをアンフェアとは感じないだろう。
ちなみにネットゲームの場合には、その依存症を効率よく治療する方法は、理論上は存在する。それは、ポイントがたまったり、先の段階に進むにつれて、内容がつまらなくなるようにゲームを作っておくということだ。私も実際にやっていないので頓珍漢なことをいっているかもしれないが、ゲームはそれがどんどん先の段階に進むことが興奮を生むために、やめられなくなるということが生じているはずだ。新しい武器を獲得して、次第に高いレベルの力を駆使してより強力な敵を打ち負かし、より大きな満足を体験する、というように。進めば進むほど面白いからこそ人はそこにのめりこむのだろう。だとすれば、進めば進むほど武器が貧弱になり、アホらしくなってきたり、あるいは一定の段階でもうゲームオーバーになってしまうような仕掛けを作っておけば、深刻な嗜癖は抑えられるのではないか。ちょうど飲めば飲むほど味が薄くなるウィスキーのようなものだ。あるいは金儲けをすればするほど税金を取られてしまい、しかも脱税が出来ないような仕組みのようなものである。後者はどちらも実現するのは難しいだろうが、ネットゲームの場合はその内容を法律で規制することで、いわばゲームの「射幸心」を制限するというわけである。(もちろん裏ゲームというのもどんどん作られるだろうが。)
脱線を元に戻すと、引きこもりの場合は、それが怠けかどうかは、引きこもりがそれ自体苦痛なのか、むしろ安楽だったり快楽的だったりするかにより、それが「怠け」の類として理解するべきかが決まるということである。当たり前といえば当たり前かもしれないが。そして私の基本的な立場は、普通の引きこもりも、現代型のうつも、それ自体は基本的に苦痛をもたらすものであるというものなのである。
2010年12月14日火曜日
シリーズ「怠け病」はあるのか? その8
今日は「日本ウェルネット」のご招待で、八王子で「解離性障害入門」の講演。「かいじ」という特急で、八王子から30分あまりで新宿まで帰ってくることが出来た。充実した講演だった。
「新型うつ」(という呼び方をしておく)のうち、一番問題とされるのが、「5時までのうつ」「好きなことにはやる気が出るうつ」となどの特徴である。「うつというからには、何事にもやる気が出ないはずだ。楽しめる活動が一切なくなり、何をやるにも億劫で生きがいを見出せないのが本来のうつである」という主張には説得力がある。というより実は私が知っているうつとはまさにそのようなものだ。普段は楽しいことが出来ないから、時間をすごせなくなる。気を紛らわす手段がなくなるから、毎秒毎秒を刻々と過ごさなければならなくなり、息をしていることさえもつらいと感じるようになる。時間の流れがそのまま痛みになって襲ってくる、と言ってもいい。自殺念慮とは、そのようなどうしようもない苦しさの中から生じてくるのである。仕事になるとうつになる、なんてそんなヘンチクリンなうつなどない、と言いたい。
でも私は臨床経験からは、そのような形のうつもありうることも知っているつもりである。谷沢永一氏の「私の『そう・うつ60年』撃退法」 (講談社プラスアルファ文庫) という本は、そのようなうつについて見事に描写してある。氏によると、彼がうつでない時は、仕事に関する専門書も、それ以外の書も同様に読めるという。ところがうつ期に入ると、仕事上読まねばならない本についてはパタッと手が止まってしまうという。
さて問題はどうしてそのようなうつが「増えたか」ということであるが、これもまた微妙な問題を含む。うつが増えたかどうか、ということは実はとても複雑な問いなのだ。
先週の日曜日、国際フォーラムに向かうために有楽町の駅前を通ったら、「パ●●ル」(抗うつ剤の名前。別に伏字にする必要はないか。)によりうつになる人が増加」とかいうプラカードを掲げている何人かの人々に出会った。そのようなことを報じている大手の新聞の拡大コピーをプラカードにはっていたところを見ると、最近そのような報道が確かにあったのだろう。実際にパキシルに限らずSSRIにより自殺念慮が増したという問題は、ずいぶん前からアメリカで報道されている。SSRIは副作用も少なく、より処方が簡便な抗うつ剤といわれているが、そのSSRIが用いられるようになってから、うつを病む人の数が急増している。でもこれは、抗うつ剤を処方する内科の先生が増えたから、うつの診断を受ける人の数が結果的に増えた可能性も示唆している。あるいは診断を受けている人が身の回りに増えたから、自分もうつであると考えて精神科医や診療内科医のもとに走る人が増えたという可能性も否定できない。
そしてこの件に関する私の主張は以下のとおりだ。SSRIの使用に伴ううつ病の増加は、うつ病の数の水増しであり、本来うつ病でない人がうつ病のふりをしている、ということではないということだ。彼らもまたれっきとしたうつ病に苦しんでいるのである。ただその苦しみの質は、典型的なうつ病のそれとは多少質が違うだけである・・・・。
この点の説明のために、うつから少し離れた例を出したい。不登校や引きこもりである。これらの数は近年確実に増加傾向にある。終戦直後は人々は食うや食わずで、生きることに一生懸命になり、学校嫌いもいなかったし、引きこもりもいなかったというのは、大げさではあるにしてもある程度真実だったのだろう。ということは、今ものが豊かになった現代において数多く表れている不登校や引きこもりは、贅沢病diseases of affluence であり、怠けや甘えのせいだろうか? 答えは否であろう。(続く)
「新型うつ」(という呼び方をしておく)のうち、一番問題とされるのが、「5時までのうつ」「好きなことにはやる気が出るうつ」となどの特徴である。「うつというからには、何事にもやる気が出ないはずだ。楽しめる活動が一切なくなり、何をやるにも億劫で生きがいを見出せないのが本来のうつである」という主張には説得力がある。というより実は私が知っているうつとはまさにそのようなものだ。普段は楽しいことが出来ないから、時間をすごせなくなる。気を紛らわす手段がなくなるから、毎秒毎秒を刻々と過ごさなければならなくなり、息をしていることさえもつらいと感じるようになる。時間の流れがそのまま痛みになって襲ってくる、と言ってもいい。自殺念慮とは、そのようなどうしようもない苦しさの中から生じてくるのである。仕事になるとうつになる、なんてそんなヘンチクリンなうつなどない、と言いたい。
でも私は臨床経験からは、そのような形のうつもありうることも知っているつもりである。谷沢永一氏の「私の『そう・うつ60年』撃退法」 (講談社プラスアルファ文庫) という本は、そのようなうつについて見事に描写してある。氏によると、彼がうつでない時は、仕事に関する専門書も、それ以外の書も同様に読めるという。ところがうつ期に入ると、仕事上読まねばならない本についてはパタッと手が止まってしまうという。
さて問題はどうしてそのようなうつが「増えたか」ということであるが、これもまた微妙な問題を含む。うつが増えたかどうか、ということは実はとても複雑な問いなのだ。
先週の日曜日、国際フォーラムに向かうために有楽町の駅前を通ったら、「パ●●ル」(抗うつ剤の名前。別に伏字にする必要はないか。)によりうつになる人が増加」とかいうプラカードを掲げている何人かの人々に出会った。そのようなことを報じている大手の新聞の拡大コピーをプラカードにはっていたところを見ると、最近そのような報道が確かにあったのだろう。実際にパキシルに限らずSSRIにより自殺念慮が増したという問題は、ずいぶん前からアメリカで報道されている。SSRIは副作用も少なく、より処方が簡便な抗うつ剤といわれているが、そのSSRIが用いられるようになってから、うつを病む人の数が急増している。でもこれは、抗うつ剤を処方する内科の先生が増えたから、うつの診断を受ける人の数が結果的に増えた可能性も示唆している。あるいは診断を受けている人が身の回りに増えたから、自分もうつであると考えて精神科医や診療内科医のもとに走る人が増えたという可能性も否定できない。
そしてこの件に関する私の主張は以下のとおりだ。SSRIの使用に伴ううつ病の増加は、うつ病の数の水増しであり、本来うつ病でない人がうつ病のふりをしている、ということではないということだ。彼らもまたれっきとしたうつ病に苦しんでいるのである。ただその苦しみの質は、典型的なうつ病のそれとは多少質が違うだけである・・・・。
この点の説明のために、うつから少し離れた例を出したい。不登校や引きこもりである。これらの数は近年確実に増加傾向にある。終戦直後は人々は食うや食わずで、生きることに一生懸命になり、学校嫌いもいなかったし、引きこもりもいなかったというのは、大げさではあるにしてもある程度真実だったのだろう。ということは、今ものが豊かになった現代において数多く表れている不登校や引きこもりは、贅沢病diseases of affluence であり、怠けや甘えのせいだろうか? 答えは否であろう。(続く)
シリーズ「怠け病」はあるのか? その7
新型うつ病、ないしは現代型うつ病とは何か?名前からしていかにも一見新しそうな概念であるが、従来「非定型のうつ病」としてDSMなどに記載されているものと非常に近い。というか同じものといっていいだろう。うつには、メランコリー型と、非定型が分類されている。DSMの今のスタイルはDSM-Ⅲに始まるから、1980年以来、つまりもう30年も前からこの分類があることになる。新型うつ病は、特に「新しい」タイプのうつということでもないのだ。
メランコリー型とは、典型的なうつの性質を備えたもの。朝特に憂うつな気分であり、夕方に向かって気分が上向いていく。食欲がなくなり、夜も眠れない、といった点が特徴だ。正真正銘のうつ。誰もこちらのうつになった人を見て「あなた本当にうつ?」とは聞かないだろう。
それに比べて非定型の欝は、 過食、過眠が特徴である上に、rejection sensitivity という特徴がある。日本語にすると「見捨てられ過敏性」というわけだが、つまり人に拒否されたり見捨てられたりすることに敏感で、グーッと気分が落ち込んでくるのである。こちらが、怠け病と一緒にされる。「うつになりました」、といいながらグーグー寝てよく食べて、人にシカトされると落ち込み、ということは声をかけてもらえると気分を直し、という人は、なかなか本物のうつをやんでいる人として同情されないだろう。
実はこの非定型なうつは、昔は「抑うつ神経症」と呼ばれていたものだ。つまりは性格によるうつ、と見られていたという歴史がある。「あの人のうつ、というのは性格の問題だから」、といわれるようなうつと考えられていたということだ。
メランコリー型とは、典型的なうつの性質を備えたもの。朝特に憂うつな気分であり、夕方に向かって気分が上向いていく。食欲がなくなり、夜も眠れない、といった点が特徴だ。正真正銘のうつ。誰もこちらのうつになった人を見て「あなた本当にうつ?」とは聞かないだろう。
それに比べて非定型の欝は、 過食、過眠が特徴である上に、rejection sensitivity という特徴がある。日本語にすると「見捨てられ過敏性」というわけだが、つまり人に拒否されたり見捨てられたりすることに敏感で、グーッと気分が落ち込んでくるのである。こちらが、怠け病と一緒にされる。「うつになりました」、といいながらグーグー寝てよく食べて、人にシカトされると落ち込み、ということは声をかけてもらえると気分を直し、という人は、なかなか本物のうつをやんでいる人として同情されないだろう。
実はこの非定型なうつは、昔は「抑うつ神経症」と呼ばれていたものだ。つまりは性格によるうつ、と見られていたという歴史がある。「あの人のうつ、というのは性格の問題だから」、といわれるようなうつと考えられていたということだ。
2010年12月12日日曜日
シリーズ「怠け病」はあるのか? その6
今日は東京フォーラムで国際トラウマ解離学会の日本コンポーネントの会があった。いろいろ刺激になった。また別の機会に書こう。その後会場の隣のレストランで忘年会。最後は柴山雅俊先生にいろいろな先生方の似顔絵を描いてもらった。私も一枚描いていただいたのでここに掲載する。「女性の場合には慎重に、男性の場合にはテキトーに描く」、ということだ。でもすごくうまく出来ているように思う。
(承前) 怠け病のもう一つ重要な要素がある。それはあたかも症状を誇張して表現しているかのような印象を与えるという点である。「本当はたいしたことがないのに、病気のフリをしているのではないか?」「他人の同情を買おうとしているのではないか?」という疑いがそれに対して向けられる。「熱っぽいので、仕事を休ませてください」という電話に対して、「甘えているんじゃないのか?」という疑いを持つことは、自分があきらめ・怠けモードにあることを正当化するために、その根拠を周囲に過剰に申告しているのではないか、と問われることをも含むわけである。
そこで最終的に問いたいのが「現代型うつ病」についてなのだが、告白すれば、私はこの「現代型うつ病」というのがわからないのだ。しかし確かなのは、このうつ病が最近急増している、と考えられるらしいこと、そしてこれが実はうつ病モドキという扱いを受けていること。一種の怠け病という疑いをかけられる傾向にある、ということである。怠け病はない、という私の主張を当てはまるならば、「現代型うつ病は、本当のうつ病である」という結論に至るはずだが、本当にそうなのだろうか?
一度実はこのことについて思考をめぐらせたことがあるが、一応そうなった。しかしちょっと複雑な理屈が絡むのである。そのことについて少しゆっくり考えてみたい。

そこで最終的に問いたいのが「現代型うつ病」についてなのだが、告白すれば、私はこの「現代型うつ病」というのがわからないのだ。しかし確かなのは、このうつ病が最近急増している、と考えられるらしいこと、そしてこれが実はうつ病モドキという扱いを受けていること。一種の怠け病という疑いをかけられる傾向にある、ということである。怠け病はない、という私の主張を当てはまるならば、「現代型うつ病は、本当のうつ病である」という結論に至るはずだが、本当にそうなのだろうか?
一度実はこのことについて思考をめぐらせたことがあるが、一応そうなった。しかしちょっと複雑な理屈が絡むのである。そのことについて少しゆっくり考えてみたい。
2010年12月11日土曜日
シリーズ 「怠け病」はあるのか? その5 うつの話に行く前に
今日は岩崎学術出版社の「精神分析学事典」をPDFにした。高価な事典である。生前小此木先生が心血を注ぎ、2万円以上もする高価で大部(690ページ)の事典として出版されたが、バラバラにされて見るも無残なごみになってしまった。でもその代わりどこにでも持っていけるファイルに生まれ変わったことは嬉しい。丁寧にカラースキャンをして、圧縮しなかったら、たらなんと500メガバイト(0.5ギガバイト)の巨大なファイルになってしまったが。ただし私がこの事典を過去の数年間ほとんど開いたことがないのは、単に重いから、持ち運びが不便だから、というだけではない。不勉強だからだ。ということは、せっかくPDFにしても、意味がなかった?・・・・。やっぱりこれは罰当たりな行為だろうか?本を大切にするという立場の人は、悪夢にうなされるのではないか?
(承前)うつの話が一応メインなので、そこに行く前に寄り道。
人の心には常にある種のプロトティピカルな弁証法が働いている。それは特に葛藤状況で表れ、心の中では二つのモードが綱引きを演じる。一つは「あきらめ・怠けモード」。「もうたいがいにしようよ。」「あきらめて楽な道を行こうよ。」もう一つは「イケイケ・モード」。「ほら、頑張れよ。」「そんなことでくじけてどうする。またあとで後悔するぞ。」という感じだ。
私の得意な卑近な例。私は毎日通勤電車に乗るときにこの綱引きを繰り返している。地下鉄のホームに向かう階段の下から、いま列車を降りた風の乗客がパラパラと階段を上ってくる。こういうときが通勤客にとって一番悩ましい。走れば間に合うかもしれず、しまりかけるドアをかいくぐって列車に滑り込み、達成感を味わう。これがイケイケ・モードだ。他方あきらめ・怠けモードだと、「のんびりと行こうぜ。どうせ間に合わないよ。」しかしホームに着けば、明らかに少し急げば間に合ったタイミングであったことがわかり、行けば出て行ったばかりの電車を見送るむなしさを味わう。じゃ、イケイケで行くべきだったのか?でも走るのは億劫だし、血相を変えた初老の男がホームに駆け下りるのに出会う人たちも不快だろう。どちらにも一長一短ある。そんな時このモードが戦っている。よく考えればキャノンの「闘争・逃避反応」もこれに相当するのでは。動物界は、みなこの綱引きれを無意識的にやっているのかもしれない。
電車を捕まえるというときの卑近な例を出したが、人生も同じだ。風邪をひいて仕事に行くべきか迷う。この葛藤だ。このモードがどうして典型的かといえば、迷っている彼にアドバイスを求めると、たいていこの二つしかでないからだ。
さてこの二つのモードのどちらが優勢を占めるかは、その個人のおかれた環境がおそらく非常に大きな影響を与えるだろう。大体どちらかにプラスの価値が与えられる。格好を気にする場合には、「あきらめ・怠けモード」に軍配が上がる可能性がある。例えば進学校でなければ、学校の勉強を一生懸命することは、結構ダサいはずだ。進学校だって、期末テストを前に、「期末の準備?ゼーンゼン。昨日も12時間寝ちゃったよ」というのは圧倒的におしゃれだろう。
でもそんな不勉強男が放課後の部活に入ると、たちまち厳しい先輩が待っているはずだ。わずか一年先に入学しているだけの先輩に「お前ら、着替えが遅かったな。たるんでるぞ。校庭を3周走って来い。」といわれて、たちまちイケイケモードの世界に入る。そして日本では社会に出るということはこのモードに入ることだ。
(承前)うつの話が一応メインなので、そこに行く前に寄り道。
人の心には常にある種のプロトティピカルな弁証法が働いている。それは特に葛藤状況で表れ、心の中では二つのモードが綱引きを演じる。一つは「あきらめ・怠けモード」。「もうたいがいにしようよ。」「あきらめて楽な道を行こうよ。」もう一つは「イケイケ・モード」。「ほら、頑張れよ。」「そんなことでくじけてどうする。またあとで後悔するぞ。」という感じだ。
私の得意な卑近な例。私は毎日通勤電車に乗るときにこの綱引きを繰り返している。地下鉄のホームに向かう階段の下から、いま列車を降りた風の乗客がパラパラと階段を上ってくる。こういうときが通勤客にとって一番悩ましい。走れば間に合うかもしれず、しまりかけるドアをかいくぐって列車に滑り込み、達成感を味わう。これがイケイケ・モードだ。他方あきらめ・怠けモードだと、「のんびりと行こうぜ。どうせ間に合わないよ。」しかしホームに着けば、明らかに少し急げば間に合ったタイミングであったことがわかり、行けば出て行ったばかりの電車を見送るむなしさを味わう。じゃ、イケイケで行くべきだったのか?でも走るのは億劫だし、血相を変えた初老の男がホームに駆け下りるのに出会う人たちも不快だろう。どちらにも一長一短ある。そんな時このモードが戦っている。よく考えればキャノンの「闘争・逃避反応」もこれに相当するのでは。動物界は、みなこの綱引きれを無意識的にやっているのかもしれない。
電車を捕まえるというときの卑近な例を出したが、人生も同じだ。風邪をひいて仕事に行くべきか迷う。この葛藤だ。このモードがどうして典型的かといえば、迷っている彼にアドバイスを求めると、たいていこの二つしかでないからだ。
さてこの二つのモードのどちらが優勢を占めるかは、その個人のおかれた環境がおそらく非常に大きな影響を与えるだろう。大体どちらかにプラスの価値が与えられる。格好を気にする場合には、「あきらめ・怠けモード」に軍配が上がる可能性がある。例えば進学校でなければ、学校の勉強を一生懸命することは、結構ダサいはずだ。進学校だって、期末テストを前に、「期末の準備?ゼーンゼン。昨日も12時間寝ちゃったよ」というのは圧倒的におしゃれだろう。
でもそんな不勉強男が放課後の部活に入ると、たちまち厳しい先輩が待っているはずだ。わずか一年先に入学しているだけの先輩に「お前ら、着替えが遅かったな。たるんでるぞ。校庭を3周走って来い。」といわれて、たちまちイケイケモードの世界に入る。そして日本では社会に出るということはこのモードに入ることだ。
2010年12月9日木曜日
シリーズ 「怠け病」はあるのか? その4
(承前)
このように考えると、「怠け病だ」という糾弾は、日本人のきまじめさ、勤労精神に反する行為に向けられるのであり、つまりは日本人の勤勉さの表れ、ということになるだろう。ただそれだけではない。仕事を休む人に向かって「それは怠け病だ」という人の中に、私は一種の悪意さえ読み取る。否、悪意とまではいえなくても、ある種の怨嗟の念を感じる。「みんな真面目に働いているのに、なぜあなただけそれを免除されるんだ!」 というわけだ。自分だって苦労しているのだから。確かにこのロジックは強力だ。社会生活の中で、このような主張は常に勝つことになる。それも日本だけではない。
さて「怠け病」といわれる本人の体験はどうか?これが実に複雑なのだ。たとえば今日は朝から何となくだるい。熱を計ると36.9度。ビミョーである。何となくのどに鈍痛があり、風邪の引きはじめという気がしないでもない。そこで職場に電話を入れて、今日は休ませで欲しいと告げる。すると上司が「君に休まれるとこまるんだよ。みんな頑張ってでてきているんだよ。」「・・・・・・・・」「どうしたの、よほど具合が悪いの?」「家、熱が少し・・・・。といっても7度はないんですけれど・・・」「何だ、そんなの病気でもなんでもないよ。怠けじゃない?」
そう言われたあなたは、本当にこれが甘えではないか、といったんは思うのだ。自分はなんでもないことをさも大変そうに言って、楽をしようとしているのではないか?自分のいつもの悪い癖が出て、手を抜こうとしているのではないか?
私たちの大部分は、日ごろの仕事や勉強を半ばいやいやながら、それでも自分に鞭打って行っているというところがある。よほど好きでやっていることでもない限り、私たちの日常の活動は、半ば義務感で、そしてある程度の楽しみも感じつつ行っていることばかりである。サボりたい、休みたいという願望と、手を抜くな、頑張れ、という声の両方を聞きながら何とか義務をこなしているのだ。
仕事ではないが、義務という観点からダイエットをする時を考えよう。読者のほとんどが何らかの経験を持っていることと思う。少し気を抜くとすぐ一日のカロリー摂取量が増える。するとそんな自分を叱るもうひとつの声が、「気を抜くな」という。これらの両方の声に揺れ動きながら私たちはダイエットを続けている。だから「手抜きではないか?」、「サボりではないか?」という考えはいとも簡単に私たちの心の中に響き、それに同一化しようとする。そしてほとんどの場合、「怠けだ」「甘えだ」、という声は正解である。いつも自分を両方向から引っ張る声のひとつだからだ。そしてほんの一部は、不正解である可能性がある。休みたい、しんどい、という願望は「怠け」ではなく、それにしたがって仕事を休まないがために心身に負担が及ぶ。こうして本物のうつが進行していくのである。
このように考えると、「怠け病だ」という糾弾は、日本人のきまじめさ、勤労精神に反する行為に向けられるのであり、つまりは日本人の勤勉さの表れ、ということになるだろう。ただそれだけではない。仕事を休む人に向かって「それは怠け病だ」という人の中に、私は一種の悪意さえ読み取る。否、悪意とまではいえなくても、ある種の怨嗟の念を感じる。「みんな真面目に働いているのに、なぜあなただけそれを免除されるんだ!」 というわけだ。自分だって苦労しているのだから。確かにこのロジックは強力だ。社会生活の中で、このような主張は常に勝つことになる。それも日本だけではない。
さて「怠け病」といわれる本人の体験はどうか?これが実に複雑なのだ。たとえば今日は朝から何となくだるい。熱を計ると36.9度。ビミョーである。何となくのどに鈍痛があり、風邪の引きはじめという気がしないでもない。そこで職場に電話を入れて、今日は休ませで欲しいと告げる。すると上司が「君に休まれるとこまるんだよ。みんな頑張ってでてきているんだよ。」「・・・・・・・・」「どうしたの、よほど具合が悪いの?」「家、熱が少し・・・・。といっても7度はないんですけれど・・・」「何だ、そんなの病気でもなんでもないよ。怠けじゃない?」
そう言われたあなたは、本当にこれが甘えではないか、といったんは思うのだ。自分はなんでもないことをさも大変そうに言って、楽をしようとしているのではないか?自分のいつもの悪い癖が出て、手を抜こうとしているのではないか?
私たちの大部分は、日ごろの仕事や勉強を半ばいやいやながら、それでも自分に鞭打って行っているというところがある。よほど好きでやっていることでもない限り、私たちの日常の活動は、半ば義務感で、そしてある程度の楽しみも感じつつ行っていることばかりである。サボりたい、休みたいという願望と、手を抜くな、頑張れ、という声の両方を聞きながら何とか義務をこなしているのだ。
仕事ではないが、義務という観点からダイエットをする時を考えよう。読者のほとんどが何らかの経験を持っていることと思う。少し気を抜くとすぐ一日のカロリー摂取量が増える。するとそんな自分を叱るもうひとつの声が、「気を抜くな」という。これらの両方の声に揺れ動きながら私たちはダイエットを続けている。だから「手抜きではないか?」、「サボりではないか?」という考えはいとも簡単に私たちの心の中に響き、それに同一化しようとする。そしてほとんどの場合、「怠けだ」「甘えだ」、という声は正解である。いつも自分を両方向から引っ張る声のひとつだからだ。そしてほんの一部は、不正解である可能性がある。休みたい、しんどい、という願望は「怠け」ではなく、それにしたがって仕事を休まないがために心身に負担が及ぶ。こうして本物のうつが進行していくのである。
2010年12月8日水曜日
シリーズ 「怠け病」はあるのか? その3
(承前)さて体の調子をちょっと崩して仕事を2,3日休むことを決めた人に対して、その家族や同僚はどうして「甘えだ」「怠け病じゃないか?」と責めることが多いのだろうか?その理由は余り明らかではないが、いくつか思っていることがある。一つには文化的なことがあるだろう。
日本の文化においては、皆が一生懸命働くということが、相変わらず美徳とされる。町を歩いていると、宅配便のお兄さんたちが、カートを走って押してお届け物をしているのを見かける。きっと彼らは「配送の際は小走りで」、というインストラクションを本社から受けているはずだが、それにしても誰も見ていないのに手を抜いて歩みを止めるということもせず、凄いな、と私は思う。私は十数年も、はるかにのんびりとしてあくせくしない(そしてあまり努力もしない?)アメリカ人を眺めてきたから、その違いはすごくよくわかる。
患者さんたちの語る彼らの職場の様子も、一生懸命は日本人にとって至上命令であるかのようだ。もちろん最近の若い世代では違ってきているのかもしれない。もっと自由を謳歌し、それ以外には手を抜く、という傾向が生まれているのかもしれない。しかし若者がマイペースになり、ハングリー精神を失っている、という懸念や指摘は、私が「若者」だった頃もあった。でも学生時代は散々遊んでいても、就職の時期を迎えれば、同級生たちは見事に変身して行った。今の若者も、就職のときはさすがに茶髪を黒に染め戻してリクルートスーツを身にまとう。結局すごくまじめになって社会人になるのだ。そのギャップが大きくなってきているというだけだろう。
そしてこのまじめさ、一生懸命さはおそらく日本文化を長年依然として支えているのだろう。日本製品の品質は工芸品から電気製品、農産物も含めて依然として極めて高い。最近では電化製品では韓国に大きく水をあけられたりしているといっても、中国や韓国のように国がてこ入れをして競争に力を入れる結果として一時的に生産性があがっているのとは、歴史が違う。日本人は根のまじめさや勤労精神から品質を高め、競争力を培っていると思う。
ではそのような文化を支える一生懸命の精神とは、その力を緩めようとするあらゆる傾向に対して警鐘を鳴らし、それを道徳的に糾弾するという姿勢だ。つまり「怠けじゃないの?」という疑惑の視線というわけだ。
私自身根っからのまじめさという文化をどうしようもなく受け継いでいるところがある。夏の間の「パリ留学記」を少しでもお読みになった方は、私の病的なほどのまじめさが表れているのを感じていただけたかもしれない。(自分で言うのもナンだが。)そしてその一部は、たとえば母親のまじめさ、そして自分がいかに小さい頃から熱心に勉強し、いかに苦労してきたかという話に影響を受けている。「昔は夜は電気がなかったからね、暗闇の中で広告の裏に昼間学校で教わったことをビッシリ書くのよ。次の日見たら真っ黒になるまで書いてあったのよ。」などという話を聞いたものだ。「努力しなくてはいけない」という超自我が心の中にデン、と据付けられたようなものだ。(まだ続く)
日本の文化においては、皆が一生懸命働くということが、相変わらず美徳とされる。町を歩いていると、宅配便のお兄さんたちが、カートを走って押してお届け物をしているのを見かける。きっと彼らは「配送の際は小走りで」、というインストラクションを本社から受けているはずだが、それにしても誰も見ていないのに手を抜いて歩みを止めるということもせず、凄いな、と私は思う。私は十数年も、はるかにのんびりとしてあくせくしない(そしてあまり努力もしない?)アメリカ人を眺めてきたから、その違いはすごくよくわかる。
患者さんたちの語る彼らの職場の様子も、一生懸命は日本人にとって至上命令であるかのようだ。もちろん最近の若い世代では違ってきているのかもしれない。もっと自由を謳歌し、それ以外には手を抜く、という傾向が生まれているのかもしれない。しかし若者がマイペースになり、ハングリー精神を失っている、という懸念や指摘は、私が「若者」だった頃もあった。でも学生時代は散々遊んでいても、就職の時期を迎えれば、同級生たちは見事に変身して行った。今の若者も、就職のときはさすがに茶髪を黒に染め戻してリクルートスーツを身にまとう。結局すごくまじめになって社会人になるのだ。そのギャップが大きくなってきているというだけだろう。
そしてこのまじめさ、一生懸命さはおそらく日本文化を長年依然として支えているのだろう。日本製品の品質は工芸品から電気製品、農産物も含めて依然として極めて高い。最近では電化製品では韓国に大きく水をあけられたりしているといっても、中国や韓国のように国がてこ入れをして競争に力を入れる結果として一時的に生産性があがっているのとは、歴史が違う。日本人は根のまじめさや勤労精神から品質を高め、競争力を培っていると思う。
ではそのような文化を支える一生懸命の精神とは、その力を緩めようとするあらゆる傾向に対して警鐘を鳴らし、それを道徳的に糾弾するという姿勢だ。つまり「怠けじゃないの?」という疑惑の視線というわけだ。
私自身根っからのまじめさという文化をどうしようもなく受け継いでいるところがある。夏の間の「パリ留学記」を少しでもお読みになった方は、私の病的なほどのまじめさが表れているのを感じていただけたかもしれない。(自分で言うのもナンだが。)そしてその一部は、たとえば母親のまじめさ、そして自分がいかに小さい頃から熱心に勉強し、いかに苦労してきたかという話に影響を受けている。「昔は夜は電気がなかったからね、暗闇の中で広告の裏に昼間学校で教わったことをビッシリ書くのよ。次の日見たら真っ黒になるまで書いてあったのよ。」などという話を聞いたものだ。「努力しなくてはいけない」という超自我が心の中にデン、と据付けられたようなものだ。(まだ続く)
2010年12月7日火曜日
シリーズ「怠け病」はあるのか? その2
「怠け病」とミュンヒハウゼン病、詐病の区別をつけていないので、話は見えにくいかもしれない。三本の糸はまだ絡まったままである。書きながら解いていくつもりであるが、その方向性はある程度定まっている。それはミュンヒハウゼン病、詐病は存在するが「怠け病」は存在しない、ということである。あるいは私はこれまでそう言いつづけて来た。人が病気を得ると、そして特に精神科的な病気になると、精神科医が診断を下す間に、真っ先に家族につけられるかもしれないのが、「怠け病」である。
うつ病を考えよう。このごろ何となく気分が乗らない。浮かない。これまでできたことが急に億劫になっている。でもうつの初期はまだ笑顔は出るし、好きなことなら出来る。しかしこれまで義務でやっていたことは急に体が動かなくなるのだ。そこで仕事も休みがちになる。
「なんとなくダルいなあ。今日は仕事(別に学校でもいい)を休んじゃおうか。」すると周囲、特に親や配偶者などのは、「そうやって怠けてるんじゃないの?」という反応になることが多い。
もちろんそれ以外の反応もある。「まあ、あなたらしくないね。仕事を休むなんて余程のことじゃない? 医者にでも診てもらえば?」とむしろびっくりされることもある。このほうはむしろラッキーである。自制心力が強く、頑張り屋の性格の人は、運がよければこうやって優しい言葉をかけてもらえるかもしれない。しかし環境があなたの頑張り屋を当然のものとし、むしろがんばればがんばるほど仕事を任せられた場合、これまでの頑張りは「当たり前」とみなされ、それが出来ないと「怠けてんじゃないの?」となる。あたかも人はいつも怠け、手を抜いてしまおうという願望を常に持ち続けていて、それを実際に満たしている状態が「怠け病」とでも言いたげなのだ。である。だから「怠け病」はその病名を就けられた人ではなく、むしろつけた人の問題をあらわしていると言うわけだ。
「怠け病」はない、という主張はつまり、「怠け病」という言葉を使う人に見られる独特の視点へのアンチテーゼというわけである。もちろん私の立場自体が極端すぎる可能性はある。しかし私にとっては精神科医であるということと、このアンチテーゼを掲げているということは、かなり密接に結びついている。結構この問題に関してはムキにならざるを得ない。
ところでこの「怠け病」とほぼ同義の、ものすごく強い概念がある。それが「甘え」である。土居先生に敬意を表し、「甘え」を基本的にはポジティブなものとするならば、「甘え病」といったほうがより性格ということになる。
では「怠け病」はない、とはどういうことか? それは人は好き好んで怠けるのは難しいということだ。これまで熱心に通っていた仕事を怠けるようになる、とはどういうことか?それは仕事を行う意欲をなくした状態といえる。しかし人は健全な場合は、ひとつのことに意欲や興味をなくすだけには終わらない。興味は別の方向に向かう。それがより安易で快楽的な活動に向かうか、より困難で苦しみを伴うものなのかはわからない。前者はたとえば、しかし普通は「何もしなくなる」(怠ける)方向には向かわない。それはたとえば趣味やゲームに熱中したり、酒や女におぼれるという形をとるかもしれない。もし後者なら突然山に修行に出かけたり、四国にお遍路さんに出かけたりするだろう。いずれもこれらは「怠ける」という風には形容されない。身を持ち崩すとか、突然悟りを開いたり、第二の人生を歩み始めたとかいわれるだろう。いずれにせよ私が言いたいのは、人はひとつの活動をやめても、他の運動やそれにより得られるような快感刺激を求めるのがより自然だからだ。
だからもし純粋に「怠けている」様に見えるとしたら、それはその人の活動レベルが、それまでに高すぎ、いったん休む必要が生じたということになるが、そうなるとこれは怠けではなく必要な「休息」ということになる。
結局「怠け病」といわれる状態はたいていは、欝や身体の不調による活動低下という、それ自体が疾患に伴うものであることが多い。それでも人は活動が落ちて仕事や通学が出来なくなった人々を「怠け病」や「甘え」と真っ先に決め付けてしまう。これはなぜなのだろう?(運よければ続き。)
うつ病を考えよう。このごろ何となく気分が乗らない。浮かない。これまでできたことが急に億劫になっている。でもうつの初期はまだ笑顔は出るし、好きなことなら出来る。しかしこれまで義務でやっていたことは急に体が動かなくなるのだ。そこで仕事も休みがちになる。
「なんとなくダルいなあ。今日は仕事(別に学校でもいい)を休んじゃおうか。」すると周囲、特に親や配偶者などのは、「そうやって怠けてるんじゃないの?」という反応になることが多い。
もちろんそれ以外の反応もある。「まあ、あなたらしくないね。仕事を休むなんて余程のことじゃない? 医者にでも診てもらえば?」とむしろびっくりされることもある。このほうはむしろラッキーである。自制心力が強く、頑張り屋の性格の人は、運がよければこうやって優しい言葉をかけてもらえるかもしれない。しかし環境があなたの頑張り屋を当然のものとし、むしろがんばればがんばるほど仕事を任せられた場合、これまでの頑張りは「当たり前」とみなされ、それが出来ないと「怠けてんじゃないの?」となる。あたかも人はいつも怠け、手を抜いてしまおうという願望を常に持ち続けていて、それを実際に満たしている状態が「怠け病」とでも言いたげなのだ。である。だから「怠け病」はその病名を就けられた人ではなく、むしろつけた人の問題をあらわしていると言うわけだ。
「怠け病」はない、という主張はつまり、「怠け病」という言葉を使う人に見られる独特の視点へのアンチテーゼというわけである。もちろん私の立場自体が極端すぎる可能性はある。しかし私にとっては精神科医であるということと、このアンチテーゼを掲げているということは、かなり密接に結びついている。結構この問題に関してはムキにならざるを得ない。
ところでこの「怠け病」とほぼ同義の、ものすごく強い概念がある。それが「甘え」である。土居先生に敬意を表し、「甘え」を基本的にはポジティブなものとするならば、「甘え病」といったほうがより性格ということになる。
では「怠け病」はない、とはどういうことか? それは人は好き好んで怠けるのは難しいということだ。これまで熱心に通っていた仕事を怠けるようになる、とはどういうことか?それは仕事を行う意欲をなくした状態といえる。しかし人は健全な場合は、ひとつのことに意欲や興味をなくすだけには終わらない。興味は別の方向に向かう。それがより安易で快楽的な活動に向かうか、より困難で苦しみを伴うものなのかはわからない。前者はたとえば、しかし普通は「何もしなくなる」(怠ける)方向には向かわない。それはたとえば趣味やゲームに熱中したり、酒や女におぼれるという形をとるかもしれない。もし後者なら突然山に修行に出かけたり、四国にお遍路さんに出かけたりするだろう。いずれもこれらは「怠ける」という風には形容されない。身を持ち崩すとか、突然悟りを開いたり、第二の人生を歩み始めたとかいわれるだろう。いずれにせよ私が言いたいのは、人はひとつの活動をやめても、他の運動やそれにより得られるような快感刺激を求めるのがより自然だからだ。
だからもし純粋に「怠けている」様に見えるとしたら、それはその人の活動レベルが、それまでに高すぎ、いったん休む必要が生じたということになるが、そうなるとこれは怠けではなく必要な「休息」ということになる。
結局「怠け病」といわれる状態はたいていは、欝や身体の不調による活動低下という、それ自体が疾患に伴うものであることが多い。それでも人は活動が落ちて仕事や通学が出来なくなった人々を「怠け病」や「甘え」と真っ先に決め付けてしまう。これはなぜなのだろう?(運よければ続き。)
2010年12月6日月曜日
シリーズ 「怠け病」はあるのか?
事典項目【ミュンヒハウゼン症候群】について書いていてわからなくなってしまった。ミュンヒハウゼン症候群に代表されるいわゆる虚偽性障害は、詐病(病気のフリをすること)とは違う。詐病の場合は、病気のフリをすることで実利を得ることを目的とする。だから詐病は実は「病気」ではない。DSMもそこら辺は考えているようで、「V65.2」というコードを与えられ、「臨床上注目される状態」となっている。どうでもいいようだが、とても大事なテーマだ。 虚偽性障害は詐病とは違い、一応病気として扱われる。どうして同じように病気の不利をしているのに、詐病だと病気ではなく、虚偽性障害は病気扱いされるかというと・・・・・・。これが実はよくわからない。一応理屈からいうと、虚偽性の場合には、病気の不利をするが、別に実利を追求しない、というところが・・・・・・病的なのだ。普通はしないことだからということである。病気のフリをして病院に入り、ケアをしてもらうことをなぜ人はしないか、というとそれが何の特にもならないだけではなく、むしろ不利になるからだろう。
その意味ではミュンヒハウゼン症候群は、自傷行為にも似ている。自分の手を切る、髪の毛をむしるということは自己を痛めつける行為であり、普通の人はやらない。それと同様に、自ら進んで自分に病気の状態を作り、病院に入るのも普通の人はやらないことだから、病気として扱うというわけだ。それはそうだろう。誰だってバイキンの混じった水を自分に注射したり、捻挫をわざとしては救急を訪れるのは、普通はいやだ。自分に痛いことをする人はよほどの変わり者、正常とはいえない状態、つまり病気だということになる。
さてここからがわからないところだ。病院に入り、包帯を巻いてもらい、三食を出されることは自傷行為に本当に似ているのだろうか?むしろ詐病に似てはいまいか?つまり虚偽性障害の中で、それほど「痛くない」状態があり、それは明らかな虚偽性障害と詐病の中間くらいに位置することになる。こんな感じになる。
典型的な虚偽性障害 ・・・・ 明らかに「痛い」こと、たとえば傷口を汚い手で触ってわざと化膿さ
せて病院でケアをしてもらう、など。
典型的な詐病 ・・・・ あまり痛いことはせず、もっぱら病気であると申し立てて、傷病手当をもら
う、など。
中間の状態 ・・・・ あまり痛いことを自らにせず、病院でケアをしてもらうこと。
つまり中間な状態とは、実はそこに「実利」に少し近いことがあたかも報酬のように与えられ、それでも普通の人は満足しないにもかかわらず、当人はそれをよしとしてしまう状態だ。
わかりやすくいえば、病院という場所が好きでしょうがない人、看護婦さんに包帯を巻いてもらうことが喜びである人の場合、その虚偽性障害は詐病とほとんど変わらなくなってしまうのではないか、という問題が生じてくるのだ。
さてこれほど長々と前置きをしたが、この「中間の状態」は冒頭の「怠け病」に近づいてくるのである。そして怠け病とは、現在極めて増加しているといわれている「新型うつ病」の一つの見え方なのである。(続く。そりゃそうだろう。)
その意味ではミュンヒハウゼン症候群は、自傷行為にも似ている。自分の手を切る、髪の毛をむしるということは自己を痛めつける行為であり、普通の人はやらない。それと同様に、自ら進んで自分に病気の状態を作り、病院に入るのも普通の人はやらないことだから、病気として扱うというわけだ。それはそうだろう。誰だってバイキンの混じった水を自分に注射したり、捻挫をわざとしては救急を訪れるのは、普通はいやだ。自分に痛いことをする人はよほどの変わり者、正常とはいえない状態、つまり病気だということになる。
さてここからがわからないところだ。病院に入り、包帯を巻いてもらい、三食を出されることは自傷行為に本当に似ているのだろうか?むしろ詐病に似てはいまいか?つまり虚偽性障害の中で、それほど「痛くない」状態があり、それは明らかな虚偽性障害と詐病の中間くらいに位置することになる。こんな感じになる。
せて病院でケアをしてもらう、など。
典型的な詐病 ・・・・ あまり痛いことはせず、もっぱら病気であると申し立てて、傷病手当をもら
う、など。
中間の状態 ・・・・ あまり痛いことを自らにせず、病院でケアをしてもらうこと。
つまり中間な状態とは、実はそこに「実利」に少し近いことがあたかも報酬のように与えられ、それでも普通の人は満足しないにもかかわらず、当人はそれをよしとしてしまう状態だ。
さてこれほど長々と前置きをしたが、この「中間の状態」は冒頭の「怠け病」に近づいてくるのである。そして怠け病とは、現在極めて増加しているといわれている「新型うつ病」の一つの見え方なのである。(続く。そりゃそうだろう。)
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