2024年10月1日火曜日

精神分析とトラウマ 1

  富樫公一編、監訳、C.B.ストロジャー (著), D.ブラザーズ (著), & 3 その他

(2019)トラウマと倫理―精神分析と哲学の対話から.岩崎学術出版社


この本の前書きにも書いたことがあるが、精神分析の世界は、いつの時代にも二つの立場に分かれる傾向にある。患者の心の探究に向かうのか、それとも患者の苦悩に向き合うのか、という立場である。最初はフロイトの中では両者は異なるものではなかった。無意識に抑圧された願望が症状を生むのであり、それを知ることは症状の軽減につながるからだ。ところが無意識の探求はかならずしも症状の軽減につながらず、時にはより苦しみを増すことになった。それは無意識の探求の仕方がまだ十分でないからであり、徹底操作durcharbeiten が必要だと考えたあたりから、心の探求としての精神分析が始まった。そして症状軽減は歓迎すべき副作用だということが生まれた。以前に私はこんなことを書いた。

よく知られることだが、フロイトは多くの治療原則を設けた。それらには禁欲規則、自由連想、受け身性、匿名性等があげられよう。そして解釈の重要性を「金」と呼び、それ以外の治療手段を「混ぜ物(合金)」と呼び、後者に大きな価値下げを行った。それ以来精神分析理論を行うものにとっては、この規則を遵守することが正しいことと考えられた。症状の改善や行動の変化は、いわば歓迎すべき副作用ではあっても、治療の本質とは関係がないとされたのである。」

 このようなフロイトを突き動かしたのは何かと考えると、それは真実の探求への情熱であったということである。そしてもう一つ言えば、真実がそこにあるという確信を彼は持っていたということになるであろう。そして同時にフロイトのパーソナリティは、どことなく人に冷たく、無関心な面があった。ルー・ザロメに、自分のもっともよくない側面は、人間が無価値に見えるということだと言ったが、それは恐らく患者にも向けられていた可能性がある。