2024年5月31日金曜日

「トラウマ本」男性のトラウマ性 加筆訂正部分 2

 男性の「性愛性」の持つ加害性について、なぜ男性が語らないのか?

  さてまずは男性の性愛性についてあまり男性が語らないのはなぜかについて、幾つかの可能性を考えたい。(ここで男性の持つ性愛性、という言い方をするが、本当は「男性の性性 male sexuality」とでも表現すべき問題である。しかしこのままの表現ではヤヤこしいので、このような表現のまま続ける。)
 それは男性自身が持つ恥や罪悪感のせいだろうか? そうかもしれない。そもそも男性の性愛性は恥に満ちていると感じる。それはどういうことか。
  男性は特に罪を犯さなくても、自らの性愛性を暴露されることで社会的信用を失うケースがきわめて多い。最近とある県の知事が女性との不倫の実態を、露骨なラインの文章と共に暴露されたという出来事があった。またある芸人は多目的トイレを用いて女性と性交渉をしたことが報じられて、芸人としての人生を中断したままになっている。これらの問題について男性が正面から扱うという事には様々な難しさが考えられる。
 彼らは違法行為を犯したというわけではないであろうし、そこで明らかな性加害を働いたというわけでもなさそうだ。しかしそれでも社会は彼らに何らかの形で制裁を加えることになるのである。
 このような問題が特に男性の性行動に関して生じやすいことについては、一つの事実が関係している。それはいわゆるパラフィリア(小児性愛、窃視症、露出症、フェティシズムなど)の罹患者が極端に男性に偏っているという事実である。パラフィリアはかつては昔倒錯 perversion と呼ばれていたものだが、その差別的なニュアンスの為に1980年代にそちらに変更になったという経緯がある。確かに英語で「He is a pervert!」というと、「あいつはヘンタイだ!」というかなり否定的で差別的な意味合いが込められるのだ。
 パラフィリア、つまり以前の倒錯は異常性欲とも呼ばれていたが、その定義はかなりあいまいであり、むしろそれに属するものにより定義されるという所がある。それは盗視障害、露出障害、窃触障害、性的サディズム、性的マゾヒズム障害、フェティシズム障害、異性装障害(トランスベスティズム)、その他である。これらのリストからわかる通り、その性的満足が同意のない他者を巻き込んで達成する形を取る場合には、明らかに病的、ないし異常と言えるだろう。例えばそれは窃視症であり露出症である。
 しかしこのパラフィリアは複雑な問題をはらんでいる。それは最近あれほど叫ばれている性の多様性に、このパラフィリアの話は一切関わっていないようだからである。もちろん窃視症や露出症が性的な多様性に含まれないことは理解が出来る。しかし例えばフェティシズムの中でも無生命のものに恋する人たち(いわゆる対物性愛 object sexuality, objectophilia)が差別的な扱いを受けるとしたら、それに十分な根拠はないのではないか。男性の性愛性が含み得るこれ等のパラフィリックな傾向が、それだけで病的とされるとしたら、それはそれで問題であろう。
 ただしDSM-5などによるこれらの診断には、重要な条件が掲げられている。すなわちその行為を「同意していない人に対して実行に移したことがあるか」、または「その行為が臨床的に意味のある苦痛、または社会的、職業的、またはほかの重要な領域における機能の障害を引き起こしている」かの条件を満たすことで初めて障害として診断されるのである。しかしフェティシズムの様に生きている対象を含まず、誰にも迷惑をかけないし、もちろん当人も困っていない場合に初めて疾患の定義から外れることになる。しかし自ら苦痛に感じているフェティシストなどいるのだろうか。
 いずれにせよ男性の性愛性にはそれが加害傾向を必然的に帯びてしまう種類のものが多いということをお示ししたかったわけである。

2024年5月30日木曜日

「トラウマ本」男性のトラウマ性 加筆訂正部分 1

  読者の皆さんは、この「トラウマと男性性」という章の出現に戸惑われるかもしれない。しかしそれが本章のテーマである。私は男性と自認しているが、社会において男性がいかに他者に対してトラウマを与えているかということについて、同じ男性目線から何が言えるのかについて、この際自分自身の考えを掘り下げてみたいのだ。

 まず問題意識としては、過去および現在の独裁者や小児性愛者や凶悪犯罪者およびサイコパスのほとんどが男性であるのはなぜか、という疑問がある。これほど明確な性差が見られる社会現象が他にあるだろうか。そしてそれについて男性自身による釈明は十分に行われていない気がする。これは大いに疑問だろう。

臨床上のなやみ 

 このテーマについて、私は一つの臨床上の問題を体験している。私は男性による性被害にあった女性の患者に会うことがとても多いが、その被害状況で実際に何が起きていたかについて患者と一緒に辿ることがある。もちろんそうすること自体が再外傷体験に繋がりかねないから十分な注意が必要だが、その中で一般論としての男性の加害的な性質が話題になることも少なくない。「一体男性はその様な状況でどうしてそのような言葉や行動をとったのだろうか?」ということについて検討するというわけである。そしてその際、男性の性のあり方についてどのように説明したらいいかについて常に悩むのである。説明の仕方によっては患者の心の傷を深めることさえあるのではないかと考える。
  ある一つの事例を提示しよう。

       (省略)


 Aさんは私との外来で、その先輩の行動について意見を求められた格好になった。私は言葉に詰まったが、それはその男性の行動の説明がつかないから、というのではなく、どのような答え方をすればAさんにとってある程度納得がいくものになるかが想像できなかったからである。それでも私は何らかの返答をする必要があると思い、「男性がそのような場面で豹変することがあり、困った問題である」という内容の説明をした。
 もちろん私自身にもその答え方がベストだとは思えなかったが、それに対してAさんはこう答えた。「『男はみなオオカミだ』、と先生も言うわけですね。それを男性は一種の免罪符のように用いるのですね。」と言われて返す言葉がなかった。

この時のAさんの反応を受けた私の反応としては、「どうして逆効果になりかねないことしか言えないのだろう?」情けなさと、「ではどうやったら説明できるのだろうか?」という気持であった。 私としては男性の有する性衝動の強さが性加害性に大きな影響を及ぼすという事実は広く認められているものの、同時に性被害の当事者には受け入れ難いという事情とどのように折り合いを付けることが出来るのだろうか、と深く考えさせられた。そしてその疑問がそのまま本章のテーマとなったのである。


2024年5月29日水曜日

のび太~スネ夫 並べてみた

 並べてみた

(出典)佐藤健二さんのブログより ← 素晴らしい

https://blog.goo.ne.jp/kenken1347/e/9004c75fe564a6336f667e03de29e562





2024年5月28日火曜日

PDの臨床教育学 1

  本稿のテーマはあくまでも「PDについての教育の仕方」である。つまりPDとは何か、ということではなく、PDとは何かをどのように注意して若手医師に教育すればいいのか、ということである。つまりは教え方のポイントということだ。しかし書いていて紛らわしい。これは企画として成立するのだろうか?

PDのエッセンスとは何か
 まず私は人に何事かをレクチャーする時、そのテーマの本質についてなるべくわかりやすく、簡潔に伝えることを心がける。その意味でPDの議論の本質は、PDとは症状を伴う精神疾患ではなく、何らかの認知、感情、対人関係の問題あるパターンについて扱うという点である。だからそれは「困った傾向を持つ人」ということで言い表される。(こんなことを書くと、「お前さん自身が困った人ではないか。そんな偉そうに書くな!」という突込みが自分の中に入る。)
 DSMのPDでA,B,C群に分かれていたのが象徴的だ。アメリカでは、A群はmad,B群はbad,C群はsadに分かれると教わった。「PDはマッド、バッド、サッドだ」と。A群はスキゾイドPDなどに象徴される思考過程の特異性を伴ったPD、B群はBPDや反社会性などの対人関係に問題を抱えたPD,そしてC群は回避性PDなどの、感情面での問題を抱えたPDということになる。
 DSMではこれに沿って10のひな型が提示されていた。例えばボーダーライン特性を持った人(BPD)自己愛的な人というと比較的直ぐに「あ、ああいう人か?」これをピジョンホールモデル、あるいはカテゴリーモデルという。ピジョンホールとは鳩が一羽ずつ入っている穴のことだ。これでいいのではないか、と言われるかもしれないが、実はこの問題がいろいろ指摘されている。というのもどれにも属さない、あるいはいくつかが混じっているという診断が沢山出てきてしまうからである。少なくとも個々の患者についての診断には直感的に役立つものの、PD的な問題が臭うものの診断できない、というケースも沢山出てくるのである。

以前この話について書いている時にドラえもんの話になったことを思い出す。去年5月31日に書いた内容だ。


以下の絵は、佐藤健二さんのブログより ← 素晴らしい

https://blog.goo.ne.jp/kenken1347/e/9004c75fe564a6336f667e03de29e562


  パーソナリティ障害personality disorder (以下PD)に関する議論は大きく様変わりをしているし、またその様な運命であるという印象を受ける。DSMにおいて多軸診断が廃止されたのはその表れと言えるのではないか。PDがいかに分類されるべきかという問題とともに、そもそもPDとは何かという、いわばその脱構築が問われるような動きが起きているのではないか。


 かつて私が論じたのは、以前のような意味でのPDはその一部が次々と別のものに置き換わる可能性があるということである。そもそもPDとは思春期以前にそのような傾向が見られて、それ以降にそれが固まるというニュアンスがある。その意味でPDと呼べるものはあまり残っていないのではないかという印象を持つ。

 以下は私の印象である。もっとも筆頭にあげられるべきBPDはいったん置いておこう。従来それと同列に扱われることも多かったスキゾイドPDについては、それと発達障害との区別はますます難しくなってきた。スキゾタイパル、スキゾフレニフォルムなどはDSMでは統合失調症性のものとして改変されている。

 また自己愛性PDについては、それが置かれた社会環境により大きく変化して、あたかも二次的な障害として生まれてくる点で、従来定義されているPDとは異なるニュアンスがある。 

 更にはDSM-5やICD-11 に見られるいわゆるディメンショナルモデルへの移行がそもそもPDの脱構築に大きく貢献していると言わざるを得ない。もしこの議論に従うとしたらPDはそれぞれの人間が持っている、遺伝的な素因にかなり大きく左右されるような要素の組み合わせということになり、カテゴリカルな意味はますます薄れる。
 カテゴリカルな診断の例として、ドラえもんの登場人物を考えよう。ジャイアン,のび太、スネ夫という登場人物が出てくる。それぞれが癖のあるキャラである。そこでジャイアン型PD,のび太型PD,スネ夫型という明確なカテゴリーを思い描くことが出来るであろう。

 しかしいざ実際の人々を分類して行ったら、典型的なジャイアン型もすね夫型も意外と少ない。それでもこのモデルに従って分類しようとすると、結局はジャイアン30%、のび太30%,スネ夫30%付近の人ばかりになり、結局は「ドラえもん混合型」PDの人ばかりになってしまう。(実際には混合型PD)それならその通りそれぞれの%で記載していった方が合理的になるが、結局「ジ30の30ス30PD」というのが一応ディメンショナルモデルの原型というわけだが、さっそく問題がある。その人のプロフィールを直感的に思い描けないという問題になるのだ。トンガリとは「キテレツ大百科」という漫画に出てくるキャラらしい。

(図はのび太50%+スネ夫50%=トンガリという説。)https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2208/24/news143.html

ただしここでスネ夫的素質、のび太的素質というのは、人間が固有に持つ要素なのか、ということになる。


 私は個人的にはカテゴリーモデルを捨てきれないが、その候補として残るのは恐らくBPD,NPD,反社会性、回避性くらいということになり、これはまさしくDSM-5 の代替モデルで最終的に提唱されたカテゴリーに近いということになる。

ただしその中でしぶとく生き残るのがBPDなのだ。


2024年5月27日月曜日

「トラウマ本」共感とトラウマ 挿入部分

  共感のトラウマ性

 これまで共感について、それを基本的には人間にとって必要なもの、有益なものとしてとらえて論じた。その理論に従うならば、共感を得られないことがある体験のトラウマ性を増すことになる。多くの患者にとって自分の話を信じてもらえなかった、分ってもらえなかったという体験は大きな心の痛手になる。逆に言えばトラウマとなりうる体験も、それを話し、分かってくれる相手と出会うことで、深刻なトラウマ体験となることが回避されるのである。もとアメリカ大統領のバラク・オバマは「現代の社会や世界における最大の欠陥は共感の欠如である」といったという(「反共感論」 p.28)。
 彼の言葉を代弁するならば、「独裁者が少しでもわが子を送り出す自国の兵士の親や、敵国の被災者の気持ちに共感できるのであれば、あのような無慈悲な攻撃をすることはないであろう。」

ということが出来るだろう。

 ところが共感の負の側面も論じられるようになってきた。そのことを何よりも考えさせてくれるのが、すでに紹介したPaul Bloomの「反共感論」(白揚社、2018)という著書である。

Bloomは言う。「共感とはスポットライトのごとく、今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。他方では共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるように誘導し、共感の対象にならない人々、なりえない人々の苦難に対して盲目にする。」(「反共感論」p.17)

 考えていただきたい。誰かが「〇〇教徒(☓☓人種でもいい)はけしからん、この世から追放すべし!」と叫び、それが多くの人の共感を集め、その結果として〇〇教徒や☓☓人種が差別をされたり蹂躙されたりするという事がなんと多いことか! 安易な共感はまた凶器に繋がると言ってもいい。

 ただし私は本章では共感そのものには良し悪しはない、という立場に立ちたい。それは私達が何に共感するかで異なる意味を持つであろうと考えるのである。


2024年5月26日日曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正部分 2

 解離とトラウマ記憶の問題

 本章の最後に解離とトラウマ記憶の問題について述べたい。蘇った記憶や過誤記憶について考える際、トラウマ記憶の問題は特に重要である。私たちがトラウマ、すなわち心的な外傷となる出来事を体験した際に、その際の記憶は通常の記憶とは異なる振る舞いを見せることが知られている。それはトラウマの臨床、すなわちPTSDや解離性障害などの症状の治療に携わる者にとってはなじみ深い。ただ本章でこれまで論じてきたような一般心理学の立場からはその点が十分に把握されているとは言い難い。では一体トラウマ記憶は通常の記憶とどのように異なっているのであろうか?そしてそこに解離の機制はどのように関与するのであろうか?

 2001年にPorter & Birtは  “Is Traumatic Memory special ?” (トラウマ記憶は特別だろうか?) という論文で、通常の記憶とトラウマ記憶にどのような差がみられるかについて研究を行った(Porter & Birt, 2001)。  彼らは306人の被験者に対して、これまでの人生で一番トラウマ的であった経験と、一番嬉しかった経験を語ってもらったという。すると両者の体験の記憶は多くの共通点を持っていた。つまり双方について被験者は生々しく表現できたという。またよりトラウマの程度が強い出来事ほど詳細に語ることが出来た。  それをもとに彼らはそれまで一部により唱えられていた説、すなわち「トラウマ記憶は障害されやすい」という説はこの実験からは否定される、とした。さらにトラウマ記憶についてはそれが長期間忘れられていた後に蘇ったのはわずか5%弱であり、嬉しかった記憶についても2.6%の人はそれが忘れられていた後に蘇ったという。  この研究ではまた長期間忘れていた後に想起されたトラウマに関して聞き取りをしたところ、それらの記憶の大部分は無意識に抑圧されているわけではなかったという。それらはむしろ一生懸命意識から押しのけようという意図的な努力、すなわち抑制suppressionという機序を用いたものであったというのだ。  この学術的な研究からは、トラウマ記憶が抑圧され、後に治療により回復される、という理論は概ね誤りであるという結論が導かれることになる。  しかし実は一時的に失われていた記憶が治療により、あるいはそれとは無関係に蘇るという現象は、精神科の臨床では稀ならず見られる。それはトラウマを扱う多くの臨床家にとってはむしろ常識的な了解事項とさえいえる。これはいったいどういうことであろうか?
ここで一つの臨床事例を提示しよう。ある20代の男性Aさんは、仕事場での業務が量、質ともに過酷さを極めた為に、身体的な異常をきたした。そしてとうとう自宅療養を余儀なくされたのである。しかし実はその自宅療養に至る前の数か月間、彼は職場で上司から深刻なパワハラを受けていた。ただ休職に至った時点では過去数か月間の記憶もかなりあいまいになっていたのである。
 Aさんは職場からのストレスから解放されて自宅での療養生活を始めたころから、見慣れない景色や体験した覚えのないエピソードを夢に見たり、あるいは覚醒時に突然それらに襲われたりするという体験を持った。それを手繰っていくにつれて、それらが過去数か月の間に起きていたことの断片らしいことが判明した。そしてその内容は後に客観的な証拠(同僚の証言や本人が書いていた行動記録のメモなど)により実際の出来事に合致していることが分かった。つまり彼は数か月間に起きたトラウマ的な出来事を「忘れて」いたことになる。そしてこのような例は実は臨床ではかなり頻繁に出会うのだ。すなわち先ほどのPorter & Birtの結論は間違っていると言わざるを得ない。えー!どうするの?

2024年5月25日土曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正部分 1

 自己欺瞞

人はかなり頻繁に、自分自身にとって都合のいい嘘をつく。そしてそれをいつの間にか真実のこととして処理してしまう傾向もある。これをここでは自己欺瞞による虚偽記憶と呼ぼう。この問題について、私は別の著書で論じたことがある(岡野,2017、p.126~7)。心理学者Dan Arielyは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みつつ論じている。
  Arielyは、従来信じられていたいわゆる「シンプルな合理的犯罪モデル」(Simple Model of Rational Crime, 以下、SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決める、というものだ。つまり露見する恐れのない犯罪なら、人はごく自然にそれを犯すのだ、という考え方である。このSMORCは人間の性悪説に基づく仮説であり、以前から存在していた。
 しかし Arielyのグループの行った様々な実験の結果は、このSMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらい、その正解数に応じた報酬を与えるという実験を行った。その際第三者により厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告された。つまり自己申告では2だけ水増しされていることがわかったという。
 さらに正当数に応じた報酬を高くした場合には、それにより後ろめたさが増すせいか、虚偽申告する幅はむしろ減少したという。また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば「虚偽の申告をしないように」、という注意をあらかじめ与える、等) それによっても虚偽申告の幅は縮小した。その結果を踏まえて Arielyは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじて保てる水準までごまかす」

そしてこれがむしろ普通の傾向であると主張したのである。
 もう少しわかりやすい例をあげよう。あなたが釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、あなたはさほど良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に「自分は6尾釣った(ということは釣った2尾は逃がした、あるいは人にあげた、と説明をすることになる)」と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」するというのだ。
 話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と人に聞かれれば、私たちの多くは「すごく良かった」というだろう。食レポなどを聞くと、「すごくおいしい!」などと、この傾向はさらに顕著であろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でもその様に言うものである。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。そしてこれは日本文化に限ることではない。
  このような、いわば社交辞令としての「盛り」以外にも、私達は日常のエピソードを話す時は、「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきであろうか。そして Arielyの「魚が6尾(本当は4尾)」はその類、あるいは延長上にあるものと考える。
  この様な自己欺瞞による嘘は、単なる嘘とは違い、それを事実として確信することに一歩近づいていると言えるだろう。つまりその様な場合、私たちはその虚偽性をどこかで意識しつつ、同時に否認しているところがある。そしてそれが本格的な虚偽記憶に移行する素地を提供するのである。なぜなら「魚を6尾釣った」と公言することで、前述した言語化することによる記憶の歪曲はより成立しやすくなるからである。そして数週間後、あるいは数か月後は実際に魚を6尾釣ったという記憶に置き換わる可能性があるのである。


2024年5月24日金曜日

「トラウマ本」脳とトラウマ 加筆訂正部分 1

 巨視的な脳と微視的な脳

 上記の「シェルショック」は、トラウマが脳のレベルで生じるという発想がかなり以前から存在したことを示すつもりで紹介した。発案者のMyers先生に、砲弾の衝撃波が、脳のどの部分を侵襲したのかを尋ねても、その症状から想像されるいくつかの部位を挙げる以上のことは出来なかったであろう。そしてその症状自体がケースによりひどくバラバラだったことを思うと、かなり大雑把な推論にもとずく概念であったことが伺える。つまりは「シェルショック」は巨視的、マクロスコピックな発想ということになろう。

 しかし現代的な科学技術に裏付けされたトラウマ理論は、その部位をかなり詳細に特定するに至っている。現在のMRIの解像度はミリ単位であることを考えると、脳のかなり特定の部位の変化が画像上に示されることになる。これはある意味ではマイクロスコピック(微視的)な位置づけという事になる。
 そしてその意味では「シェルショック」で生じている可能性がある脳の神経線維レベルの変化もマイクロスコピックなレベルでの話ということにもなる。その意味では現代の脳科学は精神疾患における病変の部位を微視的なレベルに焦点付けるだけでなく、巨視的なレベルの視点も併せ持っていると言えるだろう。

 この文脈で私が個人的に興味深いと感じているのは、脳の巨視的なレベルでの病変を考える、いわゆる脳の炎症モデルだ。最近ではうつ病の基盤にある種の炎症反応が関与しているのではないかという説が唱えられている(O'Donovan, A., Rush, G. et al. 2013
 これまでうつ病は神経伝達物質(セロトニン、ノルアドレナリン、など)の異常と考えられてきた。いわゆるモノアミン仮説と言われるもので、シナプスにおいてその量を調節する目的で抗うつ剤が開発された。
 しかしそれらの投薬が有効であるとしても、それによるうつの改善は時間がかかる。そもそも深刻なうつ病には前兆があり、徐々に食欲や睡眠が損なわれていき、気持ちがふさぐ、涙もろいなどの鬱症状が生じるようになる。そしてそれがよくなっていくのにも時間がかかる。そのような進行の仕方が、炎症、例えば喉のかすかな痛みにより始まり患部の腫れや発熱に至る扁桃腺炎や関節リューマチなどと似ているのである。
 脳においても、例えばストレスにより血液中の炎症性サイトカインが上昇することが知られ、そこには中枢神経系の免疫を担当するミクログリアが関与しているのではないかと考えられるようになった。ミクログリアは神経細胞を支える神経膠細胞(グリア)の一つとして分類されているが、れっきとした免疫細胞であり、脳の細胞の10%程を占めるという。そしてうつ病の危険因子としての小児期のトラウマそのものが、炎症の惹起性に影響を与えているというのである。

 ストレスやトラウマとうつ病の関連については、私たちが昔からよく耳にした視床下部―下垂体―副腎のいわゆるHPA軸機能の障害の関与を思い出す。こちらは身体のレベルでのストレス反応を説明するが、脳のレベルでのストレス反応も生じ、それがうつ病に関与していると考えられるのである。そしてこのような視点そのものが、極めてマクロスコピックな脳の病理の捉え方ということが出来るのである。


2024年5月23日木曜日

「トラウマ本」まえがき

 いろいろ考えて、結局本のタイトルを変えてしまった。「トラウマ理論の現在」である。


  • はじめに


  •  本書は様々なテーマに関してトラウマという視点から徹底して掘り下げて考察した論文集である。すなわち現代的なトラウマ理論というテーマでの書き下ろし、成書ではない。むしろアンソロジー(論文集)という形をとっている。
     本書の各章は実際には私が過去3年あまりの間に発表した論文を加筆修正したものであるが、テーマはそれぞれバラバラだったはずである。しかしどれも予定調和のようにトラウマに関わり、このような題名での著書にまとめられることが運命づけられていたような内容になっている。そしてそれは現在の私が持つ臨床観が関係しているのかもしれない。

  •  最近私は臨床は患者に寄り添うものだという当たり前の考えをより重視するようになっているが、心や症状、精神疾患に関する考察も最終的に患者に還元されるべきだと考えている。そしてそれは病の現実を伝える事に尽きる。しかしそのために必要となってくるのは、現代的な脳科学とそれに依拠したトラウマ中心の考え方である。時には精神分析的な理論に遡り、時には現代的な脳科学や発達理論を援用することで、トラウマとは何か、その犠牲者を援助するとはどのような事かについてより深く迫ることが出来ると考えている。そしてそのような意味で「トラウマ理論の現在」というタイトルを選んだわけである。 
     トラウマとは英語の trauma をそのままカタカナで表現しているが、trauma といった場合それを精神的なそれとして用いるという傾向がある。いわゆるPTSD、すなわち posttraumatic stress disorder は日本語では「心的外傷後ストレス障害」と訳される。つまり「trama =心的外傷」と言い表しているわけであるが、それなら日本語でも「トラウマ」を用いれば、いちいち「心的外傷」あるいは「心の外傷」と断る必要もなくなるだろう。そこで本書での「トラウマ」は、特別に断らない限り、精神的な意味での傷つき、外傷、という意味で用いることをまず最初にお断りしたい。

  •   本書の各章は、その元の文章はそれぞれ別々の機会に別の目的で書かれたものであるが、それぞれの論文を書くごとに、私は確実に一つないしはそれ以上の気付きを得たと思う。私は論文を書くときに、それをこれまでの学問上の知見を集積したものという形を取ることはない。それぞれが気付きや面白さを発見して、それを届けたいというつもりで本書を世に送りたい。


2024年5月22日水曜日

解離への対応に関する覚書 2

・相談すると人に迷惑をかける、ということばかり考えている当事者さんたちへのアドバイスは?

先ず迷惑をかけるという心配をする必要がなく話せる相手を見つけることが第一歩ではないでしょうか?カウンセリングとかで、話し方の練習を始めるのが一番でしょう。ただし人に気を使う、というのは習い性ですので、それを直そうという感覚は最初は持たない方がいいかも知れません。特に遠慮を感じたり圧をかけられたりする人との関係を持たないということが一番大事かもしれません。

・周囲の人の気を付けるべきことは?

その様に心がけるだけでも随分違うでしょう。人間関係におけるベクトルを常に考えて下さい。どちらがどちらの顔色を窺っているのか。それによりベクトルが成立します。相手が自分の顔色を窺っているような関係には気を付けて下さい。自分では気がつかないものです。「あの人なら気楽に話せる」とこちらが思えている時、相手はとても気を使っている可能性があります。解離を持つ方は大抵は、周囲のすべての人の顔色を窺うことで生き抜いてきた方です。こちらがそのことを考えるだけでも当事者に対する姿勢としては大切だと思います。

・別人格に関わると却ってよくない、という意見については?

「交代人格を相手にしてはダメ」というのは都市伝説です。何らかのメッセージがあってそこにいると考え、それを聞き取ることが第一です。大抵は治療者が解離の症状について問うた場合に患者さんがそれについて話すと、治療者が引き出してしまった、という感覚を与えるという問題があります。これが医原病という考えです。これには古い歴史があり、このために解離については触れるな、という暗黙の掟、ないしは都市伝説があります。私達はそれに戦っていかなくてはならないのです。

●医療施設が数少ないという現状で、患者さんたちはどのように生き抜いて行ったらいいのでしょうか?

私は患者さんたちの間の自助グループのようなものが必要だと真剣に考えています。今や解離について一番知っているのは、実は当事者の方々であるという現状があるのです。


2024年5月21日火曜日

解離への対応に関する覚書 1

 医療者とのコミュニケーションについて。うまく伝わらない場合はどうしたらいいのか。

やはりご自分の体験を何らかの文章にしてまとめることは必要でしょう。クライエントさんは医師の前で思いつくままに語るのではなく。初診の時点で文章にしていらっしゃるといいと思います。少なくとも医師にとってそれは非常に役に立ちます。しかし「はい、これを読んでください」ではいけません。医師の方はただでさえ限られた時間でそれを解読し、場合によっては書き写すのは負担です。それをもとにご自分の言葉で大事なところから順番にお話をしてください。起きたことをバラバラに伝えるのではなく。それが一番相手にも伝わるのです。医師といえども人間です。人に話す時、どのような順番で話せば一番伝わるのかをお考え下さい。

覚えていないことが多いが、それをどう伝えたらいいか。
 だからこそ整理して伝えるのです。そして覚えていないのはどの様な部分なのかについても、つまりそれについて説明するつもりでいらしてください。つまり何が分からないか、というマイナス情報を示すということになります。例えば小学校の高学年の頃が一番記憶に残っていません、とか今でも時々数時間の単位で記憶がなくなります、とか。知らないうちにどこかに行っていたなど。これらはとても重要な情報です。

・解離の治療は最近は進んでいるのでしょうか?薬物療法は意味があるのでしょうか。

基本的には臨床診断、つまり聞き取りが一番大事です。ただDESなどはスクリーニングとして役に立つということがあります。薬については、ベンゾジアゼピンやお酒で悪化することだけは覚えておいてください。抗うつ剤はもちろん役に立ちます。解離の方がなかなか良くならないのは、その方が置かれている人生のストレスか、あるいは合併症だと考えています。そちらの治療が大事であるとお考え下さい。

2024年5月20日月曜日

「トラウマ本」 トラウマとパーソナリティ障害 加筆訂正部分 5

 CPTSDとBPDの関連性 -その再考

   以上Herman により提唱された「BPD寄り」のCPTSDの概念について述べたが、ここで再び問おう。ICD-11によるCPTSDとBPDとの関連性については、結局どの様に捉えたらいいのであろうか。
 ICD-11が発表された後に、CPTSDがPTSDとBPDの合併症と区別されるべきかという問題がさかんに論じられるようになった。そして「自己組織化の障害」はCPTSDとBPDに共通しているというのが概ねの見解であるようである(Ford & Couerois, 2021)。しかしCPTSDのパーソナリティ傾向とBPDのそれはやはり異なるものとしてとらえるべきだという見解もある。
  Cloitre (2014) は、「自己組織化の障害」はCPTSDとBPDに見られるとしているが、その上でBPDの場合にはそれ以外にも、以下の4つが特徴的であった点を強調する。それらはすなわち見捨てられまいとする尋常ならざる努力、理想化と脱価値化の間を揺れ動く不安定で激しい対人関係、著しくかつ持続する不安定な自己イメージや感覚、衝動性、である。
 そしてこれらはCPTSDでは低かったという事である(Cloitre, et al. 2014)。また自殺企図や自傷行為はBPDでは50%だったが、CPTSDやPTSDでは15%前後だったという。すなわちCPTSDとBPDとの関連性はそれほど高くないということになる。
 改めてCPTSDに描かれた、「自己組織化の異常」として表されるパーソナリティ傾向を考えると、それはBPDに比べて「地味」であり、他罰的ではなくむしろ自罰的であると言えよう。その意味では上記のCloitre の結論は納得出来るものだ。長期、特に幼少時にトラウマに晒された人々が悲観的で抑うつ的、自罰的なパーソナリティ傾向を有することは臨床場面でも見て取れることであり、それはBPDの典型像とは異なる。そして「自己組織化の異常」はそれを比較的うまく表現しているように思う。
  ちなみにBPDの特徴と捉えるための概念として、私は最近提唱されているいわゆる「hyperbolic temperament」説に注目している。ボストンのZanarini グループが1900年代末に提唱した説であり、ボーダーラインの病理のエッセンスとして、いわゆる Hyperbolic temperament による心の痛みが特徴であると説いた(Hopewood, et al. 2012)。これを字義通り「誇張気質」と訳すと誤訳扱いされかねないので「HT」と表記しておくことにする。このHTとは次のように記されている。「容易に立腹し、結果として生じる持続的な憤りを鎮めるために、自分の心の痛みがいかに深刻かを他者にわかってもらうことを執拗に求める。」(Zanarini & Frankenburg, 2007, p. 520).
 これはDSMのBPDの第一定義、すなわち「他者から見捨てられることを回避するための死に物狂いの努力」(DSM-5)とほぼ同義であるように思う。ただしHTは「気質temperament」、すなわち生まれつき、遺伝子(というよりはゲノム)により大きく規定されている、と主張している点が特徴だ。
 以上のことから本章の一応の結論を述べよう。HermanのCPTSDの概念の提案は確かに偉業であった。慢性のトラウマを体験した人々の精神障害についてのプロトタイプとして掲げられたCPTSD概念には大きな意義があり、ICD-11への掲載により、この問題に対する啓発という目的は達成されたのだ。
 ただしHermanのCPTSDの概念にBPDが含みこまれていたことは、BPDの病理を把握することの難しさをかえって際立たせたという側面を持っていたかもしれない。そしてこれらの考察が示唆するのは、CPTSDに見られるトラウマ由来のパーソナリティ傾向は、ボーダーラインパターンのみではとらえられず、あらたにPDに追加されるべきものではないかということである。

2024年5月19日日曜日

CPTSDと解離 6

 DESについて。この28項目からなる尺度(ここでは省略)は、解離の三つの構成要素について問うているとされる。それらは没頭、離人、健忘である。

健忘については、以下の項目。 3, 4, 5, 6, 8, 9, 10, 24, 25, 26
没頭については 1, 2, 14, 15 ,16, 17, 18, 20, 21, 22, 23
離人については 7, 11, 12, 13, 19, 27, 28 

このうち赤字で示した項目は合計8項目で有り、taxon すなわち病的なものということになる。それを以下に示す。

没入
22 場所が変わるとまったく別の行動をするので、自分が二人いるように感じてしまう。
健忘
3 気がつくと別の場所にいて、どうしてそこまで行ったのか自分でも分らない。 
5 自分の持ち物の中に新しい品物がある。しかし自分では買った憶えがない。 
8 友達や家族の見分けがつけられない時がある。
離人
7 自分の近くに立っていたり、自分が何かするのを眺めたりして、まるで他人を見るように自分を外から見ている
12 周囲の人間、事物、出来事が現実でないように感じる。 
13 自分の体が自分のものではないと感じる時がある。
27 何かするように命令したり、自分の行為を批判する声が、頭の中から聞こえる。

さてここで検討してみよう。これらは本当にtaxon なのだろうか。だいたいそれに該当するように思える。ただし12などは、正常範囲でもある程度は体験されるのではないか、という気はする。またこの8つには採用されていないものの中にも、通常は起き得ないような、つまり taxon っぽいものもある。私の主観であるが。たとえば・・・・

6 見知らぬ人から別の名前で呼ばれたり、以前に会ったことがあると言われる。

25 自分に記憶がないが、何かを実行した形跡がある。  

26 自分に記憶がないが、明らかに自分が書いたメモ、絵、文章などを発見する。

2024年5月18日土曜日

CPTSDと解離 5

先日紹介したこの論文、実はネットで読めることが分かってさっそくダウンロード。

 Hyland P, Shevlin M, Fyvie C, Cloitre M, Karatzias T. The relationship between ICD-11 PTSD, complex PTSD and dissociative experiences. J Trauma Dissociation. 2020 Jan-Feb;21(1):62-72.

その冒頭に書いていてある事に考えさせられた。こう書いてある。traumatic stress researchers have debated whether dissociation is dimensional or a taxon (Brewin,2003) 訳すると、「トラウマの研究者の間で意見が分かれている問題がある。解離はディメンジョナル(次元的)か、タクソンか」。
 最初は意味が分からなかったが、それは私が解離の議論に関してこれまで関心を向けていないことだったからだ。
 この文章はすなわち、すなわち解離とは病的な特性として抽出できるようなものなのか、それとも誰にでもあるものがその度合いが高くなることにより病的になるのか、ということだ。例えば「憂鬱気分」はディメンジョナルだ。なぜなら軽い憂鬱分は誰でも体験するが、深刻になるとうつ病と診断される。その意味では「不安」もディメンジョナルだ。
 タクソンとしては例えば「幻聴」が挙げられるだろう。特殊な病気で生じ、それが見られることは diagnostic (診断的)である。「意識発作を伴うような痙攣発作」もそうだ。つまり「昨日軽い幻聴があったけれど、すぐよくなった」とか「昨日電車の中で軽い痙攣発作が起きたけれど、いつものことだから気にしなかった」ということは普通はない。「悪性腫瘍」もタクソンだ。「大学時代、梅雨の頃になると軽い悪性腫瘍が出来たが、医者に行くまでもなく直ぐによくなった」ということはないだろう。
 さて解離はどうか。軽い(健康な範囲でも起きうる)解離症状と病的な解離症状とに分かれるのか。難しい問題だが、いわゆるDES-Taxon はこの理屈に沿ったものだ。


2024年5月17日金曜日

CPTSDと解離 4

 もう一つ適切な論文を見つけた。これも抄録からまとめてみる。

Fung HW, Chien WT, Lam SKK, Ross CA. The Relationship Between Dissociation and Complex Post-Traumatic Stress Disorder: A Scoping Review. Trauma Violence Abuse. 2023 Dec;24(5):2966-2982. 

二つの大きな学術的データベースであるWeb of Science and Scopus databases及びProQuest を用いて、3つの問いを検討した。1.CPTSDは解離症状と関連しているのか? 2.CPTSDの診断を満たす人の解離症状はどれほど見られるのか? 3.CPTSDにおける解離症状の相関 correlates は何か。26の研究のうち10において、CPTSDの患者はそれ以外に比べて高い解離スコアが得られたと報告している。そして11の研究において、CPTSDと精神表現性/身体表現性解離 psychoform/somatoform dissociation scoresとの間に正の相関が見られたと報告している。CPTSDの患者のうち解離症状がどの程度多いかについては殆ど研究がないが、かなりの割合で(例えば( 28.6-76.9%))顕著な解離症状が見られる可能性がある。CPTSDにおける解離は合併症状(DSM-IVにおける第二軸症状、恥、身体症状)も多い。このテーマに関する更なる研究が必要である。

結局どれも面白くない。数値が出て来るだけである。CPTSDと解離の関係については、自分の頭で考えていくしかない。

2024年5月16日木曜日

CPTSDと解離 3

このテーマに関して二つの論文の抄録を読んでまとめてみた。

Hamer R, Bestel N, Mackelprang JL. Dissociative Symptoms in Complex Posttraumatic Stress Disorder: A Systematic Review. J Trauma Dissociation. 2024 Mar-Apr;25(2):232-247.

ICD-11にCPTSDが掲載された。しかしCPTSDの評価の際にどのように解離が関係しているかについては明らかにはされていない。そもそも解離とCPTSDの関係性自体が不明である。この問題に関する17の論文を検討した。CPTSDの程度を推し量るうえで最も頻繁に用いられているのが、ITQである。また解離症状の程度を評価するのに用いられる尺度は12あり、その中でももっともよく用いられるのが、DSS(Dissociative Symptoms Scale)とDESである。それによるとCPTSDと解離の相関は中等度 moderate ~強度 strongであるが、研究にばらつきも見られる。CPTSDにおける解離の程度を決定する上で最適な尺度を見極めなくてはならない。


Hyland P, Shevlin M, Fyvie C, Cloitre M, Karatzias T. The relationship

between ICD-11 PTSD, complex PTSD and dissociative experiences. J

Trauma Dissociation. 2020 Jan-Feb;21(1):62-72.


本研究は英国において深刻なトラウマを経験し、トラウマ的なストレスと解離体験に関する尺度を記入してもらった患者106人の患者である。大部分(69.1%)がCPTSDの診断基準を満たした。CPTSDの基準を満たす患者は、PTSDのみないしは診断のつかない患者に比べて、より高い解離傾向を示した。(Cohen's d がそれぞれ 1.04 と1.44)CPTSDの3つの症状クラスターが多変数的に解離と関連していた。それらは「感情調節不能 Affective Dysregulation」 (β = .33)と「今ここでの再体験 Re-experiencing in the here and now」 (β = .24)と「 関係性の障害 Disturbed Relationships」 (β = .22)であった。解離がCPTSDのリスク要因なのか、あるいはその結果なのかを知るためには縦断的な研究が必要になろう。


2024年5月15日水曜日

「トラウマ本」 トラウマとパーソナリティ障害 加筆訂正部分 4

 最近になり、PDを論じる上で二つのファクターを加味しなくてはならないという考えが見られるようになった。一つは本章で主として論じる愛着の障害や幼少時のトラウマの問題である。そうしてもう一つはいわゆる発達障害(最近の表記の仕方では「神経発達障害」とPDとの関係である。

 現代の私達の臨床感覚からは、人が思春期までに持つに至った思考や行動パターンは、持って生まれた気質とトラウマや愛着障害、さらには発達障害的な要素のアマルガムであることは、極めて自然なことと考えられるのだ。

 トラウマとCPTSD 

  トラウマ関連障害とPDとの関係性を考える上で格好の材料を提供したのが、ICD-11に新たに加わった複雑性PTSD(以下、CPTSDと表記する)という疾患概念である。これは、「組織的暴力、家庭内殴打や児童虐待など長期反復的なトラウマ体験の後にしばしば見られる」障害とされる。そして診断基準はPTSD症状に特有の一群の症状に「自己組織化の障害 Disorder of Self Organization」 が組み合わさった形となっている。
 このうち自己組織化の障害は、それが過去のトラウマにより備わった一種のパーソナリティ傾向ないしはパーソナリティ障害の様相を呈しているのである。つまりCPTSDの概念自体にPDの要素が組み込まれているという事になるのだ。 (以下は飛鳥井(2020)の訳を用いて論じる。)

「自己組織化の障害」は以下の3つにより特徴づけられる。それらは

● 感情制御の困難さ:感情反応性の亢進(傷つきやすさなど)、暴力的爆発、無謀な、または自己破壊的な行動、ストレス下での遷延性の解離状態、感情麻痺および喜び又は陽性感情の欠如。
● 否定的な自己概念:自己の卑小感 敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広がった恥や自責の感情を伴う。
● 対人関係の障害:他者に親密感を持つことの困難さ、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ。

 これらの3つの条件を満たした人を思い浮かべた場合、おのずと一つのパーソナリティ像が浮かび上がって来ないだろうか。彼(女)は自分の存在を肯定されていないという考えに由来する自信のなさや、自分の存在や行動が周囲に迷惑をかけているという罪悪感や後ろめたさを持ち、そのために対人関係に入ることに困難さを感じる。実際幼少時に深刻なトラウマを負った多くの患者に、この種の性格傾向を見出すことができるというのが私自身の臨床的な実感である。
 このように繰り返されたトラウマにより「自己組織化の障害」を特徴とするパーソナリティの病理がみられるとすれば、それは従来のPDの概念にどの程度関連性が見られるのかを改めて振り返ってみよう。
 すでに述べたように、おそらくDSMにみられるPDのカテゴリーの中ではBPDが関係する可能性がある。それのみが診断基準(9)として「一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状」という、過去のトラウマに関連した症状を掲げているからである。また否定的な自己感ということに関しては、回避性PD(非難、批判に対する恐怖、親密な関係への躊躇、新しい対人関係に入ることへの抑制、非常にネガティブな自己感など)や依存性PD(ひとり残されることへの不安や無力感)も該当する可能性がある。
 またICD-11に掲げられているディメンショナルモデルが掲げる顕著なパーソナリティ特性としては、掲げられている否定的感情や離隔や非社交性などが関係している可能性があろう。しかしこれらのいずれも過去のトラウマとの関連性に特に言及しているわけではない。