ここでこの境界の問題に、ホフマンの「儀式と自発性」がどうかかわってくるかを示さなくてはならない。以前に書いたのは以下のような内容だ。
ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つはそれを破ったら大変な事になるのではないか、という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの医師の間のせめぎ合いである。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を自発性、後者を儀式としたのだ。
私たちの個人的な生活における行動はことごとくこのせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。
そしてこれは治療関係についてもいえる。患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性だと言った。患者は時間を減らす自由はあるが(「今日はお先に失礼します」、と言って時間前に退出することなど。治療者はその患者の自由を尊重すべきであろう。それもまた患者の時間の使い方だからだ)、時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(と言っても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。
ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。そもそも人間存在は、生きているかなりの時間を(すなわち何かに追われて余計な思考が介入できないような時間を除いて)この「儀式」と「自発性」の境界線上に浮遊 poise している状態なのだ。フロイトが考えたような形での自由連想が実現している状態がそれに相当するのか。完全に抑制が放たれて退行しきった状態でもなく、「~すべし」という観念にがんじがらめになっている状態でもなく、その中間でいいバランスがとれている状態。治療構造はその上でバランスがとれるような格好のロープというわけだ。