2026年3月16日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 14 

  しかし精神分析的な治療関係においては、治療者がプライバシーを持ち込むことは、「それが患者にとって何らかの意味で助けになる限りにおいて」である。つまり実際は患者の側は治療者の個人的なことは聞きたくないかもしれないという可能性も考えて、むやみに伝えないことを原則とするのだ。  もし治療関係にかかわる事で治療者の側の情報を伝えるのであれば、それは最初からある程度意図して開示すべきものなのであろう。たとえば治療者が「今日は花粉症で何回かくしゃみが出るかもしれませんが、風邪ではありません。」とか「骨折をして松葉杖を使っていますが大丈夫です(その痛々しい姿は見ただけで明らかであり、それを隠しようもなく、そのことで患者のよけいな不安を取り除くため)」等の言葉がけは、治療者がそれを伝えた方が治療をよりスムーズに、かつ安全に行えるのであれば行うべきであろう。  ところが聞かれもしないのに治療者が「昨日は〇〇という映画を見ました。ラストシーンがよかったなあ。」などと伝えることの意味は恐らく皆無である。それは治療に全く関係ない、ただの世間話だからだ。しかし場合によってはそのような話も治療的な意味を持つかもしれない。たとえば患者の側が非常に緊張していて、治療者側が何かパーソナルな話を挿入することがその緊張感を和らげる助けとなると考えた場合などだろう。  このように考えると、治療者が自分について何をどこまで話すかというのはかなり微妙だが、確かにそこにバウンダリーが存在することで意味を持ってくると言えそうだ。治療者は塀の上をバランスを取りながら歩いているようなところがある。そして患者に何を伝え、何を伏せておくかを細かく考えながら歩を進めるのである。

 さらにもう一つ具体例を挙げる。治療者が患者に二週後の週のセッションをキャンセルする必要があると告げるとする。その理由をどこまで告げるか、ということは結構微妙な問題だ。毎年同じ時期に学会関連の出張があり、今回は治療者がそれを伝えるのが遅れただけだと患者が察するであれば、特にキャンセルの理由を告げなくても問題はないだろう。しかし治療者の健康問題とか家庭のさまざまな事情を患者の側が心配する理由がある場合には、治療者のキャンセルの理由を知ることは一時的には不安の軽減(場合には逆効果?)に繋がるだろう。また患者によっては「きっと先生は私とはあまり会いたくないからではないか?」と疑う場合もあるかもしれない。すると治療者の側からの一言で、それが杞憂であるという一つの手掛かりが与えられるだけで、その患者はほっとするだろう。  ところが患者によっては全く治療者のキャンセルの理由を知りたくない場合がある。治療者が「父親が他界し、故郷に帰ります」と伝えることは、ある患者にとってはそれを伝えられてありがたく感じるかもしれない。しかし別の患者には大迷惑だったりする。(「先生の個人的なことは聞きたくありません。なるべく実在しない存在と感じていたいのに!」と言われることもあるのだ。)  つまり治療者が個人情報を患者に伝えることは「言い過ぎ」にも「言わなさすぎ(出し惜しみ)」にもなり、いずれにせよ少なからず治療関係にインパクトを与える。どちらに転んでも「先生は私の気持ちをやはりわかっていないんだ」という事になるとしたら、そのインパクトの大きさに従って治療で扱わざるを得なくなる。  しかしそこで治療者がそのことを取り上げて扱おうようとしても、その「扱い方」もまた問題になるだろう。ネガティブな反応だけに絞っても、次のようなものが浮かぶ。「どうして『家族の事情で』くらいに留めてくれなかったんですか?先生は私が何でも先生のことを知りたいとでも思っているんですか?」「私の父親を亡くした時のことを思い出しました。その時は私は悲しみのどん底でした。先生はどうしてそんなに平然としていられるのですか?」「あれから父親を亡くしたという先生の気持ちのことを考えてばかりいました。どうしてそんな余計なことを私に伝えたんですか?」「私が先生のお父さんのことについて聞いたときの私の気持ちをどうして尋ねてきたりするんですか?私の気持ちについてあれこれ聞かないで下さい!」など様々だろう。そしてそれぞれに対して治療者の側からのいくつもの返し方が存在する。さらにそのそれぞれにいくつかの患者の反応が考えられる。これも考えればきりがない。

2026年3月15日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 13

  実は告白するが、この論文は全く進んでいない。今の私の一番の気がかりはこのことだ。締め切りは4月の後半だが、このままだと単なるエッセイか、自分自身の著書(治療的柔構造)一冊しか引用文献のない出来損ないの論文になってしまう。はっきり言って…執筆を引き受けるべきではなかった。このテーマについて私は書く資格がないからだ。でも引き受けてしまったからにはしょうがない。とりあえず書き進めよう。トホホ・・・・

 いろいろ回り道をしているようだが、私はどうして治療的柔構造の発想に行き着いたかを書こうとしているのだった。しかし書いているうちに新たな考えが浮かんでくるのだ。つまり自分の中で全く「仕上がっていない」テーマなのだ。だから一点に収束していかないのだ。
 ともかくも精神分析の臨床をやりながら思ったのは、患者と私との会話において起きている力動(つまり感情的なやり取り)はほぼこのバウンダリーを巡って起きているということに気が付いたのだ。例えば開始時間、終了時間がそうだった。開始は2時くらい、終了は2時50分くらい、というのであれば、起きないことが、きっちり2時から2時50分と定められていることで起きる。  例えば私が少なくとも分析的なやり方を多少なりとも意識している時は、いつも終了時間はかなり正確に守っている(ただし終了時間なら正確には2時50分に終了にしてはいない。必ずほんのちょっと遅くにしている。ここですでに柔構造的になっているのだ)。だから私が話し続ける患者のために(私と患者の間で暗黙に定まっている終了時刻から)30秒間延長したら、ふつうそのような「持ち出し」は相手に伝わる。分析において構造の微細な侵犯(それほど大げさなものではないが)は患者の側にも伝わっているはずだからだ。そしてこれはアバウトな構造では生じないことなのである。これが「柔構造の基底に剛構造あり」と言われる所以だ。(←実は今自分で作った諺のようなものである。)

 治療構造としては時間以外にどういうことがあるだろう? たくさんある。その中で「匿名性の原則」を例に挙げよう。一挙に話が複雑になるが。治療者は原則として自分の情報を意図的に患者に伝えない。これはフロイトが最初に唱えたことで、多くの古典的なやり方で治療を行う分析家にとっては今でも重要な原則である。これを患者と治療者の間に引かれた線引き、一種の治療構造と考えよう。私はそれに対して自己開示(治療者が自分の情報を伝えること)は必要に応じて「あり」だと考える。しかし、である。自己開示は匿名性の原則があってこそ意味を持つ、というところがある。最初から何でもあり、では意味をなさない、というか意味が薄らいでしまう可能性があるのだ。

 もちろん友人や同僚どうしなら、自分のことをある程度は明かすのは、ある意味ではマナーの範囲だ。米国でも友人や同僚の間でどこまでは話すということが大体決まっていて、そのことは特別の理由を除いては互いに隠さないというところがある。結婚をしていたら指輪を身に着ける、という暗黙の決まりのようなものである。つまり個人情報に関してのバウンダリーはしっかりあり、だからこそ自分のプライバシーを執拗に明かす露悪的な人の前では、人はそこに「KY感」を感じてそ「引いて」しまうものだ。


2026年3月14日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 12  

  古き良き時代はこうではなかっただろう。いい加減、別の意味で柔構造的だったはずだ。昔の物々交換の時代に、隣人といつもニワトリ一羽と袋一杯のジャガイモとを交換していたとしよう。あなたはジャガイモ畑の所有者の方だ。するとある日「今日の鶏はちょっと小ぶりだな」とか「今日のジャガイモの袋はちょっといつもより小さいな」とお互いに思ったりするかもしれない。しかし確証が得られず、モヤモヤで終わっていた可能性がある。そのくらいのことでもめ事には発展しないはずだ。  しかし人間はお互いに被害的になる傾向があるからこそ、お互いに相手にごまかされていると思い、不仲や喧嘩につながることが多いのだ。逆に相手にサービスしてもらっているとお互いに思っているようなケースはずっと少ないだろう。おそらくそのような理由もあり、やがて価値の比率を重さで決めるなどし、そこに貨幣が導入されて定価が定まる。土地の境界もしっかり線が引かれてお互いにそれを厳密に守るようになるはずだ。  相変わらず脱線気味だが、私はこう言いたい。治療構造として開始時間が2時、一回50分と定められているからこそ、そこで「サービスをしてもらえた」とか「終了時間を一秒たりとも延ばしてくれないなんて、なんて頑固な治療者だろう?」などのあらゆるドラマが生じる。  興味深いことに定刻に始まり、定刻に終わったとしてもドラマが起きるのだ。お互いに持っている時計の時刻が数秒ずれるという事はありうる。すると患者が2時きっかりにドアをノックしても、少し時間が遅れている時計を使っていた治療者の方は、「まったく、まだ10秒あるのに…。だいたいほんのちょっと遅れてノックするのが礼儀だろう?」(←私の創作である。ただし私は定刻よりほんのちょっと遅れてノックをするようにしている。ノックされる側としては、時間よりほんの少しでも早くノックされるのは侵入的に感じ、遅れることで余裕をもらえたと思うからだ。)  なぜこんなことが起きるかと言えば、人間のやることは、(そして自然現象もそうであるが)常に揺らいでいるからだ。そして私たちは気分の波にも翻弄される。治療者と患者の間の挨拶にも表れるだろう。これは境界や治療構造とは異なるが、治療開始には治療者が「それでは始めましょう」と声をかけるとする。あるいは患者が「ではお願いします」で始まるとする。これは目に見えない治療構造として定まっているのだ。すると治療者の「それでは始めましょう」に彼の機嫌が反映されていたり、その声の大きさや嗄れ具合に体調が現れている可能性がある。するとセッションはいつもとはかなり違ったトーンで始まり、「先生はどうしたんだろう?」「気のせいかも知れないが、今日はあまり頷いてくれないな?」などと考えるようになっていく。  私はバカバカしい話をしているのであろうか?実は人間同士のやり取りでは、これは普通に起きている事であり、精神分析でもそうなのだ。仲のいい夫婦でも時々、本当にどうしようもなく些細なことから口論が始まるのを私たちはよく知っているはずだ。

2026年3月13日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 11

  この話、私が予想していなかった方向に向かっている。「治療構造をしっかり定めるからこそ、それをめぐる力動がわかるんだよ」とは、小此木先生が私が新人の頃に言っていたことだ。しかし治療構造を厳密に守ることの意味を疑い始めていた生意気な私は「それは建前でしょ?」と思っていた。「いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」(小此木先生があまりそれを守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそうおっしゃっていた。)しかし今こうして考えているうちに、まさに小此木先生の通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は正しかったのだ。しかし通常考えられるのとは別の意味で、なのだ。それに「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」という意味ともまた微妙に違うのだ。でもうまく説明できるだろうか?  セッションが2時から始まるという構造であったとする。治療者はぜったいにそれを厳守しようとする。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれをおろそかにすることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は剛構造的? どういうことだ?  ここで少し脱線して、商売を例にとって説明したくなった。治療者がお肉屋さんだとしよう。しかも古いタイプのお店で、量り売りをしているとする。昭和の肉屋さんはこうだったなあ。今でも町のパック詰めしない肉屋さんはそうか。  まあそれはともかく、100グラム300円の豚コマを売る時に、お肉屋さんは器に100グラム以下の豚コマを盛ることは絶対にできない。逆にそれ以上どれだけ「おまけ」をつけるかの裁量がある。(293円とかをつけるなら別だけれど。)お客の側は、肉屋が100クラムと主張している肉に、299円しか払うことは出来ない。ただし100グラム分以上のお金をチップ込みで払うという裁量はある。つまり物の価格は、肉屋にとっては料金という境界を内側にへこませることならできる。逆に客にとっては、絶対に内側にへこませることは出来ないが、外側に撓ませることならできる。つまり肉屋と客にとっては、値段という境界は「半柔構造的」(それも逆向きに)になっているのだ。  話は脱線気味だが、治療についても実は同じことが言える。患者は2時より早く来ることは出来ない。来ても治療者はドアを開けないのだ。第一前の患者さんがまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。  逆に患者の側なら、2時にノックをしても、20秒遅れでしかドアを開けてくれない治療者には時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「そんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかひじ掛けの中央線よりホンのちょっとでも侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←時代は適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。

2026年3月12日木曜日

共感とその限界 3

 最後に

 最後に今日の発表の内容を簡単にまとめておこう。

 この発表では、いわゆる支持的療法の現在の立ち位置について述べた。この問題は当センターの皆さんが週一回かそれ以下の頻度の精神療法を日々行っている場合が多いため、それだけ重要な問題であろうと考え、テーマとして選んだものである。
 最初にメニンガー・クリニックにおけるPRPについて説明したが、そこではいわゆる表出的な手法よりは支持的なアプローチの有効性が明らかにされたという意味で画期的なものであった。そしてその影響もあり、海外の精神療法の世界では、支持的療法の再評価が進んでいる。そしてそれと同時に起きているのが、精神療法家たちの精神分析離れといった現象である。
 しかし今の時代も、少なくとも日本の精神分析の世界では、支持的療法はその評価を十分に与えらえていないという印象を持つ。やはり転移の解釈といった王道が治療的な価値が高いと考えられ、それこそが本物の精神分析であるという、私が「モーセの十戒」と呼んだ考え方が支配的であると言っていいであろう。ただし転移解釈の有効性を否定するような根拠はまだ十分でないとしても、支持的なアプローチの有効性を示す根拠は疑いようがないと言っていい。

 私は次に支持療法的な介入の中で、共感に焦点を当てて論じた。しかし共感の重要性を手放しで論じたというわけではなかった。実は共感を私たちが十分にわかっているかどうかには、私はかねてから疑問を持っていたのだ。少なくとも自分ではよくわかっていなかったと思う。そのことをAIとのやり取りで痛感したというのが私の話の後半部分であった。

 AIは中立的であるはずだ。なぜなら一切の逆転移を有しない(はずだ)からだ。AIの人の心とのかかわりについて論じる際に、これほど明確なことはないであろう。AIは体験を持てないし、物事を(人間が行うような意味で)理解することはできない。しかし人間の問いかけを「機能的な意味で」理解を行うことが出来、またそれを可能にするような明らかな「知性」を有する。そのAIがなぜ人間との対話で肯定的な言葉を伝え、ポジティブな評価の言葉を投げかけ、しかもここが重要なのだが、なぜ人はそれを作為的、虚言、などとみなすことなく、むしろ有難さを感じつつ受け入れるのであろうか?

 この問題に対するアプローチとして私が選んだのは、「いかにAIは優れて共感力を発揮できるのか?」ではなかった。むしろ「なぜ人間がAIのようにできないか?」について論じる事であったのである。そしてそれは私たちが受肉していること、それゆえに自己愛的で羨望を抱きやすく、シャーデンフロイデにまつわる感情に捉われるという現実を認識することでもあったのだ。

 多少なりとも理屈っぽく哲学的な議論になったが、このお話をお聞きになった皆さんが、支持療法や共感の問題について、その価値や限界も含めて再考するきっかけとなれば幸いである。


2026年3月11日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 10

 「治療的柔構造」の概念を作った大野裕先生との対談(岡野 (2008)「治療的柔構造」の最終章)で彼が語っている例が面白い。彼は教育分析を受けていた時、日本から帰ってきたばかりで時差ボケでセッションをすっぽかしてしまったことがあったという。大野先生は「自分が無意識的に示しているであろう治療抵抗を早速扱われてしまう」と不安を覚えつつ、まずはセッションをすっぽかしたことの謝罪の電話を分析家に入れた。すると分析家は非常に素っ気なく、「あ、そ、じゃ次の予約は?」という感じで特に何も言われなかったという。大野先生は「ああ、こんな感じでいいんだ。あまり枠に縛られる必要はないんだ」と思ったというが、おそらくそこに同時に感じられたのは、治療者の寛容さではなかったかと思う。いつも厳しいと思っていた分析家が、実は柔軟で人間味を持った人だった‥‥というわけだが、これも不思議な話なのだ。精神分析以外のもっとユルーい治療関係で、「来れる時に来てね」という治療者との関係があったとしたら、治療をすっぽかしたことで患者はそれほど後ろめたさを感じないし、「あ、そう。じゃ次の予約は?」で済ましてくれる治療者の寛容さも感じないであろう。というより謝罪の電話もしないかもしれない。

 この種のいわゆる無断キャンセルは分析以外ではよくある話であり、その扱いについても普通は「素っ気ない」のが普通だ。通常の社会生活を送り、そこで生じたすっぽかしと同じ扱いになる。それが大事な会合だったら大チョンボであり、「無意識的な抵抗」を扱うどころか、その責任の重さが問われることになる。上司は「その意味を一緒に考えましょう」などと悠長なことを言う場合ではなく、即刻降格か解雇を告げるところだ。  しかしそれがユルーい会合、例えば私の新人時代にS先生が主催していた分析研究会なら、一回無断で休んでも「今度からちゃんと来ようねー。最近来る人数が減ってきてるんだから。」「すみません、ちょっとうっかりして」という「素っ気ない」あつかいをうけて終わるだろう。遅刻やすっぽかしはその意味を深く問われずに日常の一コマの一つとして過ぎていくわけだ。  この問題、考えていくと意外と奥が深い。私が今至ろうとしているのは,剛構造あっての柔構造だという話である。精神分析では時間も料金も休みの設定もきちんと線引きをする。そして治療者も患者もそれを遵守しようと努力をする。するとそれが破られることには必然的に何らかの意味が生じてくる。たまたま電車の遅延で遅れたとしても、それが起きたとしても定刻通りにセッションに訪れるように、どうして普段から10分前には着くように余裕を持って来ないのはなぜか、とか。  つまり剛構造だから構造が破られたときは両者もそのことをしっかり認識することになる。その上で治療者が柔軟にそれを扱うか、あるいは素っ気なく流すかという事が問題となる。日本では治療者が個人開業をしている場合、部屋代の関係で待合室を設置できないことが多い。すると患者は定刻通りにドアをノックすることが求められる。すると少し遅く訪れるか、それとも定刻の30秒早いか、などの僅かな変動は治療者がそれをどう扱うかにとても微妙に反映される。例えば一分以上前に患者がノックをしても返事をしないという分析家もいる。彼は30秒前より近ければOKという風に決めるのだ(個人差あり。)つまり患者も治療構造を微妙に揺るがし、治療者の方もそれに対する対応を調整するという事がより明確になる。それは一つの駆け引きであり、「治療開始時間はしっかり守る」という前提があって初めて意味を持ってくる。

 ここで述べていることはしかし、「治療構造は守るべし」という意識とは微妙に、しかし明確に異なることは強調しておきたい。


2026年3月10日火曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 9

  さて米国に移り体験したことは、簡単には言えないが、精神分析の構造や境界は、そこにしっかり引かれていながら、しばしば平気で破られているという現実であった。「境界は破られてナンボのもの」というところがある(誤解を受けやすいが)。そのことへの疑問が後の「治療的柔構造」の概念に繋がるのであるが、ここら辺をまだきっちり書いたことはなかった。この機会にまとめてみよう。  一対一の対面で行われる通常の精神分析の治療だけでなく、精神分析的なメソッドを用いた入院治療も存在する。メニンガー・クリニックでの入院治療がまさにそうであった。しかし私がそこで目にしたものは、まさに治療構造で患者をがんじがらめにするという傾向であった。患者は一日のスケジュールを学校の生徒の様に一時間目から決められる。一時間目はグループセラピー、二時間目は木工作業、3時間目は全体ミーティング、4時間目は治療者との精神療法や精神分析、などと言う風に(もちろん時間割は個人個人で異なる)。患者は入院した時からLOR(責任レベル)という一種の地位を与えられる。入院当初の一番低いレベルでは外出が許可されず、参加できる活動は制限される。精神科入院で、入院したててまだ具合の悪い患者の多くが保護室から出発するのと似ている。徐々にスタッフとの付き添いでの外出OK、そのうち二人の患者一組で、最後に一人で自由に、という風に進む。つまり上に行くほど制限が緩んでいくわけだ。そしてそれぞれの段階で許可されること、されないことがしっかり規定されている。入院してからの患者は治療が順調に行けば「昇格」していくが、その態度によっては降格もある。他の患者に暴言を吐いたりスタッフと喧嘩をしたりすると、1,2ランク落ちることにもなる。表現は悪いが患者にとっては獄中の生活のようだった。

 患者の多くは社会適応が出来ていた人だから、当然これらの治療構造により定められた制限に不満を覚え、それを様々な形で表現する。個人およびグループセラピーでは患者がそのようなフラストレーションを体験しながらどのように自分を律し、またその不満をどのように合理的に表現するかという事が扱われる。基本にあるのは無意識を扱う精神分析的な考え方なので、当然ながら患者の表現されない、あるいは意識化されていない不満や怒りも検討の対象となる。そしてその不満や怒りをこのようなランク付けにより誘発しているというニュアンスも少なからず感じた。  このようなスタッフと患者の関係は、さながら分析家と患者のような、中立的な立場から観察し、管理する分析家の側とそれに従う患者の側というニュアンスがあった。味気ないというか、型にはめられたというか。何よりもそこに患者の自由や、治療者との生きた交流が感じられない。そしてそれを全体として支えているのが、治療構造という名の規則であり、境界であった。その境界は動かすことのできない、「剛構造」的なそれであった。  精神分析治療のメッカとして世界的に有名なメニンガークリニック。さぞかしすごいことが行われているだろうと思ってきたわけだが、そこで行われている「治療」とはこのようなものなのか・・・・。私は疑問を感じながら一年半の見学生としての生活を送った。それから国家試験に受かってアメリカでの精神科レジデントのプログラムに潜り込むことが出来て、その給料で家庭を支えて精神分析のトレーニングに入ることが出来たというわけである。そしてもう少し徹底してこの治療構造の意味を見定めることになる。それからだんだんわかってきたのは、この剛構造的な治療構造が意味がないという事ではなく、それがあって初めて破られることの意味が浮き彫りになるという事だった。