2025年11月20日木曜日

特別寄稿 4

 一つ確かなことは次のことだ。日本のグループの場で沈黙を守る参加者たちは、実はたくさんのことを思っている。先日も私がある講演をした時、その質問の「なさ」にヤキモキしたことがある。こちらが力を注いで話をした時、私たちはたいてい聴衆からの反応を予想ないし期待しているものだ。そしてそこで何も質問が出ないと拍子抜けするし、がっかりもする。ところがそこで誰かを指名して質問をしてもらったり、アンケートなどで感想を募ると、実に様々な、実り多い返事が返ってくる。つまりメンバーたちは何も考えていないわけでは決してない。そして私の感想では、アンケートが特に匿名であるほど、より自由な意見や感想が戻ってくる。そしてこれはおそらくWDを日本で考える場合にかなり大きな問題を提示している気がする。何かの触媒catalyser のような装置ないしは工夫が必要なのだ。と言っても大げさなものを私が考えているわけではない。たとえば極端な話、グラスに一杯のワインでもいい。アルコールで少しほろ酔い気分になった日本人は程よく抑制がほどけて饒舌になったりするものだ。それは何だろうか?

私が授業などでやっているのは少し荒っぽいやり方だ。それは参加者に順番をつけて、次々と質問や感想を述べるようにすることだ。


2025年11月19日水曜日

特別寄稿 3

  その後私が考えるようになったのは、これが彼らが自由に発想するための訓練になっているのであろうということである。 欧米社会では自分がどのような独自の考えを持っているかということは事更重視され、また期待される。あるトピックについてとりあえずは自分がどのように考えているかを表明することは、おそらく自分が周囲とどの程度同調しているか、逆に言えばどの程度とんちんかんではないかということとは全く異なる懸念である。そしてこの後者が恐らく日本における同様の状況で人の心の中に起きているのだろう。  日本社会では自分が正しいか(正解ではなくても、少なくともその場でそれを言って恥ずかしくないか)が一番問題となるため、人はまず発言する前にグループを見わたし、そこでの「温度」を計ろうとする。そして誰かが口火を切るのを待つのだ。欧米ではまず自分か口火を切り旗幟を鮮明にするのである。  ちなみにこれを日本の恥の文化と結びつけて考える向きもあるだろう。しかし私はそれともすこし違うような気がする。「何が恥ずかしいか」が日本と欧米で違うのだ。そしてかの地では自発的な見解を持たないことが恥かしいのだ。  この様な違いがこれほど明らかである以上,英国原産のWDの理論をすくなくともそのままでは用いることは出来ないであろうとさえ思えるのだ。


2025年11月18日火曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 4

 ようやく文献を整理してまとめる最後の段階。面倒くさいのだが、これで解放されると思うと、少し楽しみでもある。

参考文献)

(1)Maines, R.P. (1998). The Technology of Orgasm: "Hysteria", the Vibrator, and Women's Sexual Satisfaction. Baltimore: The Johns Hopkins University Press

(2)Lamberty, G.J.(2007) Understanding somatization in the practice of clinical neuropsychology. Oxford University Press.

(3)小此木啓吾 ヒステリーの歴史 imago ヒステリー 1996年7号 青土社 18~29 (4)岡野憲一郎(2011)続・解離性障害 岩崎学術出版社

(5)Ellenberger, H.F. (1970): The discovery of Consciousness; the history and evolution of dynamic psychiatry; Basic Books, New York. (木村・中井監訳: 無意識の発見 上 - 力動精神医学発達史. 弘文堂、1980年)
(6)Poirier J, Derouesné C. Criticism of pithiatism: eulogy of Babinski. Front Neurol Neurosci. 2014;35:139-48.

(7)American Psychiatric Association (1980) Diagnostic and Statistical Manual. 3rd edition. 高橋三郎、花田耕一、藤縄昭(訳) (1982) DSM-III 精神障害の分類と診断の手引き. 医学書院.

(8)American Psychiatric Association (1968) Diagnostic and Statistical Manual. 2nd edition, revised. American Psychiatric Association, Washington, DC.

(9)van der Hart, O. Nijenhuis, ERS.and Steele, K. W. (2006) Haunted Self: Structural Dissociation And The Treatment Of Chronic Traumatization. Norton, 2006 野間俊一、岡野憲一郎訳:構造的解離:慢性外傷の理解と治療. 上巻(基本概念編). 星和書店, 2011.

(10)American Psychiatric Association (2000): Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders DSM-IV-TR (Text Revision). American Psychiatric Association, Washington, DC., 高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京

(11)American Psychiatric Association (2013) Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th ed (DSM-5). American Psychiatric Publishing, Arlington.日本精神神経学会 日本語版用語監修,髙橋三郎,大野 裕(監訳)(2014) DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京.

(12)American Psychiatric Association (2022) Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th ed,Text revision (DSM-5-TR). American Psychiatric Publishing. 日本精神神経学会 (監修) (2023) DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル. 医学書院.
(13)World Health Organization (2022) ICD-11 for Mortality and Morbidity Statistics.
(14)Stone J, LaFrance WC Jr, Levenson JL, Sharpe M. Issues for DSM-5: Conversion disorder. Am J Psychiatry. 2010 Jun;167(6):626-7.

(15)Egmond, J. Kummeling, I, Balkom, T (2004) Secondary gain as hidden motive for getting psychiatric treatment.European psychiatry 20(5-6):416-21
(16)岡野憲一郎(2025)脳から見えるトラウマ.岩崎学術出版社)

(17)Francis Creed, Peter Henningsen and Per Fink eds (2011) Medically Unexplained Symptoms, Somatisation and Bodily Distress. Developing Better Clinical Services. Cambridge University Press. 太田大介訳 (2014) 不定愁訴の診断と治療 よりよい臨床のための新しい指針.星和書店.

(18)安野広三 (2024) 痛覚変調性疼痛の背景にあるメカニズムとその臨床的特徴についての検討 心身医学 64巻 5号 415-419

2025年11月17日月曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 3

 さいごに

  FNSの歴史について、特にそれがヒステリーという精神的な病として扱われた時代にさかのぼり、いかに現代的なFNSの概念に至ったかについての経緯を概括した。ヒステリーは身体的な表れの体裁をとっていても、本質的には心の問題であると考えられていた長い時代があった。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた事も示した。DSM-Ⅲ 以降、それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでのどちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化された形と言えるであろう。

 しかしそれが真の、あるいはより現代的な理解に基づく概念として生まれ変わるためにはFNSの概念の成立が必要であった。そしてその概念と共に精神科医たちは朗報と言える「身体科からの歩み寄り」に浴する一方では、心因という概念や精神疾患と脳との関連についての再考を迫られていると言えるのではないか。

 ではこのことは将来何を意味しているのだろうか?それはかつての認知症や転換がそうであったように、精神医学からFNSが消え、例えば脳神経内科に所管が移行するということであろうか。それはそれで構わないのかもしれないが、私はそれでは十分ではないと考える。というのもFNSを身体疾患として純粋に考え、扱う際にも精神療法的なアプローチの有効性が不可欠であるからだ。そしてその根拠となるのが、FNSに見られる心的なトラウマの関連である。FNSにおいて心的トラウマの関連が大きい以上、それに対する精神療法的なアプローチは必須となる。そしてそのような形でFNSは今後とも精神医学と身体科の両者により治療すべき対象と考えられるのである。その意味でFNSの存在が精神医学と身体医学を結ぶ懸け橋としての意味を持つことはとても重要であると考える。


2025年11月16日日曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 2

ところでDSM-5には次のような注目すべき記載がある。「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。」「所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。」「医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.339)

 ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、C項目「症状が意図的に産出されないこと」そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。
 このうち「症状が意図的に産出されないこと」は、FNDだけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを変換症についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。
 またすでにDSM-IVの段階で削除された疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。
 さらには従来変換症について見られるとされていた「美しい無関心 a bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。  ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。

2025年11月15日土曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 1

この論文、いよいよ締め切りが迫っているが、まだまだおかしいところがある! 

FNDと心身二元論

 この変換症からFNDの移行の持つ意味について改めて考えたい。先ずはFNSという用語の意味についてである。このFNDの「F」とは機能性 functional の意であり、器質性 organic の対立概念である。すなわち「神経学的な検査所見に異常がなく、本来なら正常に機能する能力を保ったままの」という意味である。したがってFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。それに比べて変換症という概念には多分にその成立機序やその成立に関する憶測が入り込んでいたことになる。その憶測ともいうべき症状が変換症の診断基準から除外されたのがFNSであるが、それらを以下にまとめよう。

まず診断基準としてはDSM-Ⅲ,IV の以下の項目が削除された。

B項目 心理的要因が存在すること

C項目 症状は意図的に産出されないこと

D項目 症状は身体疾患によっては説明されないこと

なお、DSM-ⅢではB項目に含まれていた「疾病利得が存在すること」はDSM-IVではすでに削除されている。

 このFNSへの移行はどのような意味を持っているのだろうか。FNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone (2010) の記述を参考にしよう。彼は本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来し、彼は鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味でこの言葉を用いたとし、問題はこの conversion という機序自体が Freudの 仮説に過ぎないのだという。そしてそれは心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからであり、この概念の恣意性や偏見を生む可能性を排除するという意味でもDSM-5においてはその診断にはこのB項目の心因論を排したFNSという概念や名称が導入される必要があったのである。


2025年11月14日金曜日

特別寄稿 2

 フランス、アメリカでの体験

 私自身の体験から出発するしかない。私はフランスのパリで一年間、米国で4年間、精神科のレジデントトレーニングを合計数年にわたって受けたが、それは私たちの学年の6~8名のクラスの討論に次ぐ討論であった。あるレクチャーが行われたり、あるケースが提供されるとまずは十分なディスカッションの時間が与えられる。というか授業の主体はクラスメートの間でのディスカッションというニュアンスさえある。そして講師がディスカッションをクラスに開くと、そのあと日本での同じ機会のように,しばらく(あるいは延々と)沈黙が流れるということはまず欧米ではありえない。グループ全体がそのような沈黙を一体となって消しにかかるという感じで、必ず誰かが挙手をしたり口火を切ったりして、ディスカッションが始まる。そしてしばしばその全体の流れに方向性が見いだせず、様々な意見が出て応酬があり、それで授業が終わってしまうということがある。いったいこのディスカッションに意味があるのか、皆が様々な意見や感想を持つということが分かっただけで、その誰が正解を握っているかということが分からずじまいになってしまい、これでは授業を受ける意味がないのではないか、とさえ思ったことを覚えている。