2026年3月8日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 7

 昨日の文章(バウンダリー6)を書いているうちに少し方向性が見えてきた。章立ても浮かんできた。

1.バウンダリーの起源

2. そもそもの問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

3.バウンダリーの本質としての両義性と「治療的柔構造」の概念

4.境界侵犯と相転移、トラウマ


1.バウンダリーの起源


 バウンダリーの歴史についての考察という事で原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深いテーマである。精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場である私にとってはとりわけ関心を持たざるを得ないテーマであるため、その立場からの考察になる。
 私にとってのバウンダリーの問題はとりわけ二つの意味において重要である。一つには精神分析や精神療法において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているということだ。そしてもう一つは、そのバウンダリーが乗り越えられたり侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。そこでこれらの二つのテーマについて主として論じることとする。
 最初にバウンダリーの問題は広く深いと述べたが、その原型は私たちが持つ身体そのものに関連している。私達は身体が自由に動ける一定の範囲の空間を必要とする。私たちは常に収まりがよく、活動のしやすいような身の置き所、空間を探しているのだ。いわゆるパーソナルスペースと呼ばれるものに近い。そしてそこに他者が表れて同じような空間を必要とするなら、両者の境目の問題は必然的に生じる。そしてそれは身体を持つ(「受肉している」存在、ないしは生命体)であれば進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁を見回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物は自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩く。他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだ。そしてそれは生物としての私たちにも同様である。それは日常生活のあらゆる面に関わってくる。しかし新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況でしかあまり意識化されないかもしれないが。

 この様にバウンダリーは他者と生きる私たちの身の安全を保つためにやむを得ず引かれるものというニュアンスがあるが、それはまた社会生活を営む私たちにとっては利便性の面でも重要になってくる。一日の時間をバウンダリーを設けることでいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは隣人達と活動を共にする上では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
 こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。その意味でバウンダリーの歴史はそのまま人間としての私たちの社会の発展とともに細かく張り巡らされ、その上に載って私たちは生きている。そうして大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。

2026年3月7日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 6

 やがて私は米国にわたり精神分析のトレーニングを受けるうちに、私の疑問や迷いは実は正しかったんだと思うようになる。  私の中では深まっていったこの境界に関する考察から明らかなことは、私の論じていることは境界(侵犯)の問題には留まらないという事だ。あらゆる人間の些細な言動は、偶発的な側面と必然的な側面を併せ持つ。治療時間に5分遅れることには、偶発的な原因(電車の乗り過ごしなど)以外にも必然的な部分がある。後者は例えばその人の「ちょっとくらい遅れても大丈夫だろう」という気のゆるみのせいかもしれず、それなら5分遅れはある程度意図的に選択されている。ただしこれは「治療に抵抗している」という以外にも「治療を軽んじている」とか「治療者に甘えている」かもしれない。そしてどれがどれだけ関与しているかはとても複雑な問題で解明のしようがない。さらに、である。そのうちのどれが無意識的で、どれが半ば意識的かを知る由もないことが多い。

 ただその中にその意味を明らかにすることが治療的な意味を持つものが含まれる。例えばこれまで遅刻のなかった患者が5分遅れて何も理由を告げないとしたら、そこに何らかの非偶発的(必然的)原因がある可能性を治療者は頭に置いて治療を進める必要があるのだ。

 このような意味での必然的な些事は境界が定まっていることで、それの乗り越えを感知することが出来、そうすることで意識的に取り上げることが可能になる。その意味で治療が構造を有することは必要なのだ。もし私の研修医時代の精神分析研究会の様に、だいたい8時くらいに始まり、S先生自身が平気で15分遅れてくるような設定では、そこに意味を考えることは出来ないだろう。

 このように考えると、巷で言われるような「治療構造は守るべき原則である」のニュアンスが大分違ってくる。治療構造は、守られるべきものとして私たちを縛るという意味を持つのは確かだ。でもそれは「守るべきもの」ではない。それがあることでその存在を意識させるようなもの、である。それは一方で私たちが無構造の世界に生き、なにものにも制限を加えられずに自由奔放に生きるという方向性に対して向こうから「待った」をかけてくるもの、規範、決まり、法律、習慣、不文律などと呼ばれているものである。そして両者のせめぎあいにより私たちの生活は成り立っている。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」、後者を「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と名付けた。分析家のホフマンは前者を自発性、後者を儀式とした。

 治療の開始時間について言えば、午後2時(が開始時間であるとしよう)という境界は、それを守ろうとする力と破ろうとする力のせめぎあいが起きることだ。それが生じるようにポンとそこに設定されているに過ぎない。この際開始時間が早まるという事を治療者が選択しないのがふつうであるから、守ろうとする力と遅らせる力のせめぎ合い事が起きる事になる。おそらく治療者の側がその境界をしっかりその場所に留めようと力を入れているだろう。そして患者はそれを遅れるという形で押してくる。治療者は時には力を緩めて境界線を外に広げるかもしれない。患者の側はそれを意外に思って力を緩めたり、逆にここぞとばかり押しまくるかもしれない。つまりそこで色々なせめぎあいが起きるだろう。
 たとえば「すみません、ちょっと電車を一本乗り過ごして・・・」と呟きながら遅れて入室した患者に「そうですか、大変でしたね」と治療者が応答するという事で終わるかもしれない。しかし何らかの理由で治療者がプライドを傷つけらてムッとして、「大事な時間が無駄になりますよ…。今度から気を付けてくださいね」と言う。それに対して患者が「細かいことを言う人だな。」と反応したり「しまった。先生に失礼なことをしてしまった。」とヒヤッとしたりするといった境界をめぐる駆け引きが行われ、そのような形で開始時間2時という設定が維持されるのだ。

私が「治療的柔構造」と言う概念でこのような境界の意味を論じた時に、それは単なる数字や決まりではなく、生きた境界であるという側面を重んじたことになる。

 研修医時代の疑問に戻ろう。「患者が5分遅れたら、それを抵抗とみなす」という教えはその時は目からうろこであった。でも「それがセイシンブンセキだ」と考えたのは全くの誤りだった。より真実に近いのは次のようなことだ。「治療時間に患者が5分遅れた場合、治療者がそれに対してどのように反応し、それに対して患者がどのように返すか、という一連のやり取りが生じ、それを一緒に検討する事に治療的な意味があるだろう。」
 ここには、患者の5分の遅れが、偶発事なのか意図的なものなのか、あるいは無意識的なものなのかを決定する必要は存在しない。どちらでもありうるのだ。しかし治療者がそれをどのように感じるか、そしてそれをどう扱うか(自分の心に留めるか、患者にそれを表現するか)、そしてそれを患者がどう感じ、どう返すかにこそ意味がある。それをなるべく明示的に、つまりお互いにオープンに話すのだ。(もちろんしつこ過ぎてはよくない。患者がそこに意味を見出せない場合には、かえって治療関係に逆効果だろう。)そしてそれは最近の精神分析でよく語られるエナクトメントの理念と同じなのである。


2026年3月6日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 5

 このテーマに書いているうちにいよいよ迷宮入りし、どうしてもエッセイ風にならざるを得ない。要するに考えがまとまっていないからだ。テーマから脱線する形になるが、しばらく書き進めるしかない。

 境界についての私の考えが変わったのは、おそらく境界を守るとはどういうことかについて徹底して考える機会を持ったからだと思う。きっかけは私の研修医時代にさかのぼる。
 新人の頃、私は精神分析にとても興味をひかれたが、同時に精神分析に全く無知であった。つまり何となく精神分析という言葉や雰囲気に魅かれたのである。そして精神科医の新人を集めた精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 そこではある患者さんが5分ほど開始時間に遅れた事について話していたが、S先生は次のようなことを言った。「この患者さんが治療時間に5分遅刻してきたのには無意識的な理由があるだろう。つまり治療に対する抵抗なのだ。だからこの遅刻は分析の対象になるのだ。」それを聞いたときは私には目からうろこだった。心に興味を抱いていたとはいえ、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の動きにことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくは常にそれを念頭に置いて考えるようになった。こうして一週間ほどずっとそれを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。

 例えば患者が5分遅れてくるという類のことは日常的に起きる。逆に5分早く訪れることもあるし、いつも定刻ぴったりに表れる患者もいる。そして私自身が何かの約束に5分遅れることもあるのだ。それが起きるたびにその無意識的な理由について問う事は極めて難しいのではないか。
 患者は5分遅れた時には、私と会うことに無意識レベルで気が進まなかったのかもしれない。しかしほかにも原因は山ほどあるだろう。5分の遅れは電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。つまり境界侵犯(少し大げさだがこう呼ぼう)は偶発的にいくらでも起こりうる。患者はそれ以外にも時間を延長したがるかもしれないし、支払いをしぶるかもしれない。つまり「通常なら~はずである」という想定から外れるような出来事は一回の面接に山ほど起きるのだ。境界侵犯はあらゆるところに満ち溢れている。そのうちどれを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか。
 そう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。何ともはや単純で理系的な発想だ。しかし私はその頃はまだ精神分析は学問だと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では5分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」それに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ.Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。ところがその時のS先輩の返事は忘れられない。彼はあきれたように、無知の初学者である私を窘めるように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」(「そんなの当り前じゃない?どうしてそんなことを考えるの?」という口調であった。)

 それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー、そうか‥‥」。  私が医学部を卒業後5年経ってアメリカに精神分析を学びに留学した時点では、私はまだこのレベルにとどまっていたと思う。「自分の無意識を知れば、患者の無意識もわかるようになり、患者の無意識の抵抗もわかるようになるんだ。「これこそ心の探求の真の学問だ。」しかし一抹の疑問は抱えていたのである。



以下、延々と続くので省略




2026年3月5日木曜日

共感とその限界 3

  (承前)

 このAIからの返答を読む限り、これは相手を「褒める」ように指示されているというよりは、マナーを守ってより高い水準のコミュニケーションを成立させようと言う試みの一環であることがわかる。つまりこういうことである。AIが目指すようにセットされているのは、対話者(すなわち人間)と少しでも質の高いコミュニケーションを達成することであり、単に相手を褒めていい気持ちにさせて会話を切り上げる、というような短期的な目標によるものではない。むしろそのような短期的な目標を持つのは常に人間の側である。  例えばある交渉事を有利に進めたい場合には、相手を少しでも持ち上げて警戒心を下げ、こちらの言い分が通るように話を持って行きたいかもしれない。あるいはそのような功利的な目標を持っていなくとも、普段の会話の中で相手の優れた点を指摘することは、それにより相手からの感謝や好意を向けられることで自分もいい気持ちを味わいたいということであろう。つまりそれは結局はこちら側のエゴである。  ところがその種の感情を持たないAIの場合、そのような目先の目標は意味をなさないのである。AIは首尾よく会話を切り上げよう、などとは考えない。感情がそもそもないからだ。むしろどのように話者と長期的な意味で質の高いコミュニケーションを維持するかという事を追求する上で、「相手の主張のポジティブな部分は積極的に評価する」はいくつかあるほかのストラテジーと並列して存在するのであろう。そしてそれはその通りなのである。私たち一人一人が自らに問えば当然、相手に自分の主張のポジティブな面をとらえ、それに言及して欲しいであろう。ただしそれを自分から対話者に対して行うかどうかは全く別の問題である。私たちはみな多少なりとも自己愛的であり、自分が与えるより多くのものを相手から享受したいと思い、普段はその事実に気がつかないのだ。そしてAIにはその種の自己愛は存在しない。


2026年3月4日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 4

  それにしてもこのバウンダリーの話、もう3週間ほど書いているのに、話は広がるばかりで一向に収束していく気配がない。まず一通り書いて、それから推敲していく、という波にすら乗れないのである。結構難物を抱え込んでしまったらしい。

 とにかくここで一生懸命に言おうとしているのは、精神分析では一方で境目を重視し、それを守ることを推奨しながらも、他方ではそれを破る、乗り越えることを目指すという矛盾した営みであるということだ。そしてそれが精神分析を複雑でかつ多産的な試みにしているのである。  そのような精神分析的な関りに関して、私が一つ提案した概念があった。それが「治療的柔構造」という概念である。実はこの概念は大野裕先生の発表した論文が最初である。さらには単なる「柔構造」という概念については建築関係で、特に耐震構造の文脈で議論されている。つまり概念としては私のオリジナルではないことはお断りしておきたい。  私のこの概念についての著作は2008年のものであるから、もう18年も前の話である。(「治療的柔構造 心理療法の諸理論と実践との架け橋」岡野憲一郎 岩崎学術出版社 2008)

 そしてこれは精神分析に出てくる境界という悩ましい概念をどのように理解すべきかを考えていくうちに出てきた概念だ。  この「治療的柔構造」では私はこんな議論をした。「精神分析ではとにかく『治療構造を厳守せよ』と叫ばれているが、そもそも治療構造は破られてナンボではないか?」。  こう書いてみると非常に乱暴だし誤解を生みやすい。よくこんなことを書いたものだ。でもその時頭にあったのは以下のような内容だ。  境界は実は何かに刻印されて動かないのではない。それは出来上がってしまった後にはそのように見えるが、実際の生(なま)の境界はその時その時で揺らぎ、互いの交渉により最終的に決まっていくものである。それを遵守することを治療者が求めても、例えば「セッションは一回50分ということになっていますから」と言って一秒も延ばすことが出来ないとしたら、それはそのような構造を治療者の側が押し付けているというニュアンスがあることを認識すべきなのだ。構造を設定しておくのは、両者にとっての利便性のためであり、もっと言うと多くは治療者の側の利便性や都合によるものだ。


2026年3月3日火曜日

共感とその限界 2

 共感」と真実さ authenticity

共感の問題を考える際に私の頭を去らないのが、治療者が有すべき authenticity (真実さ、正直さ)の問題である。それは単的に言えば、治療者は患者の話を聞きながら、その言葉に十分に同意ないし共感しえない場合にどうしたらいいか、という問題である。以下に示すのは、私がかつて患者から聞いた話にヒントを得て作った架空の例である。

―ある架空の臨床例


 (中略)

この例を聞きながら私が複雑な気持ちを持ったのは、この例における治療者のような返しを私もしてしまうかもしれないと思ったからである。被虐待体験を持つ人にとっては、この治療者のコメントは虐待者の味方をしていると思われかねず、このような結果を生む可能性がある。もちろんケースバイケースの話であるが、この例の様に治療者が患者の心に沿っているつもりで浮かんだ言葉が決定的な的外れで、取り返しのつかない不信感を患者に生むかもしれない。しかしそのことを危惧していると、治療者の自由度はかなり低下する可能性がある。
 もし治療関係において共感の重要性を念頭に、それを損なうような言動を控えるとしたら、そしてそれを損なう可能性のあるあらゆるコメントも用心深く差し控えるとしたら、それは治療者が authenticity を保ちつつ真摯に患者に向き合っていることを意味するのだろうか? これは答えの出ない難しい問題である。

 共感の持つ問題点についてもう一つ上げておきたい。それは共感する、という事は尊いことであったとしても、実はそれはしばしば形式的に行われてしまっている可能性があるという事である。ともすると私たちは共感をする「そぶり」に終わってはいるのではないか。よく夫婦との会話に関して、「夫は妻の話にはしっかりうなずくべし」などの警句が冗談交じりに語られることがある。世の夫は、妻からの愚痴や小言をゲームに目をやりながら上の空で聞いて、それが夫婦間の不和につながるということを時々体験しているのではないか。(もちろんここで妻と夫の役割を全く逆にしてもいい。ジェンダーステレオタイプに陥らないためにも。)そしてこの警句が意味を持つとしたら、たとえ本当に話が頭に入っていなくても、頷きや軽い返事、あるいは視線を合わせることがかりそめにも「この人は私の話を聞いてくれている」という印象(これもバーチャルな共感)を与えるという事を意味するのだろう。

AIとの関りで思う「共感」の意味

 私の話の最後の部分は、共感とは何かという問題に関して私がAIとの対話から学んだことをお話ししたい。私は最近ふとしたきっかけでAIと精神療法の関係について学び、それどころか専門家を前に講義をする立場になった。本来は新しいものに対して警戒し、飛びつかない傾向のある私が、不承不承AIとのかかわりを始めたわけであるが、それは結果的に心とは何か、対話とは何かについて基本的なレベルからの再考を促す形になった。そしてそれは「共感」という問題の再考にもつながったのである。

 まずAIとの対話で気が付くのは、非常にAIは支持機能が高いことである。これはよく言われることだが、AIとの対話でAIからかなり肯定的で持ち上げられる体験を持っている人が多い。私自身の体験でも私の考えを伝えると、AIは「それは素晴らしいですね」「大変重要な点です」などのポジティブなコメントと共に返信してくるのが常である。私はAIは単にお世辞を言っているのではないか、などと思ったこともある。しかし少し深く考えてみると、これはAIの持つ最大の特徴の一つである「率直さ」が関係しているように思われる。AIはまずは対話者の主張に関してそれを額面通りに受け取り、そのポジティブな側面を強調することを忘れない。

 このようなAIの特徴は、精神分析的な精神療法になじんでいる治療者たちにとってはかなり異質に感じられる可能性がある。分析的な療法では、治療の際に「それは素晴らしいですね」「それは理にかなっていますね」とか「今日は積極的にお気持ちをお話になりましたね」などという習慣はない。私たちは患者の話に耳を傾け、時には必要なコメントをし、共感を示すであろう。もちろんセッションの最初と最後に挨拶くらいはかわせるかもしれない。しかしそれ以外のこの種のコメントを行うように指導や訓練をされることはない。

 このことを精神療法の技法との関係で考えたい。いわゆる支持療法の範疇に属する技法としては、すでに述べたように共感的認証、助言と称賛、心理教育などが知られているが、AIに見られるようなポジティブなコメントはそのどれにも属さないようである。もちろん賞讃の一種だと考えることもできるが、AIは話者を称賛している、という感じもしないのだ。
 私自身はこのスペクトラムの表出的な極に近い位置にある observation  が、このポジティブ・コメントに関連するものだと考えるに至っている。 Observation  は日本語ではしばしば「観察」と訳されるが、実は「~についてコメントする」という意味に近い。これは患者の話を聞いて治療者の側が感じたり気が付いたりしたことを伝えることであり、それ自身は深い解釈的な目的を持っていない。要は患者の話を聞きながら、それが治療者にどう映るかを照らし返すという機能である。つまりオブザベーションはそれ自身はニュートラルなものである。しかし分析家の頭に「それは大切な指摘だな」「この患者の思考にはかつてのものより進展が見られたようだ」の考えが浮かび、それを口にするということが起きてもおかしくない。しかし私たちの多くはそれをしないし、ケース報告などを通して治療者がその種のコメントをすることをあまり聞かないのだ。
 むろん同じように治療者は「それは患者の前回の考えと矛盾しているな」とか「どうしてそれが一歩先の気づきにつながらないのだろう?」とか「あまり要領を得ない話だな」などの様々なネガティブな考えも浮かぶであろうが、それらを口に出すこともあまりないであろう。これらのネガティブなコメントをそのまま表現するとかなり直接的な「ダメ出し」のように患者に受け止められてしまうことを懸念するからだ。しかしそれらのネガティブなコメントの中については、少し表現を和らげて患者に伝えることに治療的な意味を見出す治療者も少なくはないであろう。
 無論AIのコメントを目にする限りはこの種の「ダメだし」は極力抑制されているという印象を受ける。そして専らポジティブなコメントが選択されて返されてくるようだ。しかしその背後にある理由は何なのだろうか?

 私は最近ではこの種の疑問は私が使っているAIにかなり率直に尋ねるようにしているが、この件についてもAIに「AIはかなり肯定的な言葉をユーザーに伝える傾向にあるが、それは単なる『おべっか』や『お世辞』なのか。それともある種のより本質的な意図が存在するのか?」と尋ねてみた。それに対する反応は以下の通りであった。

「ユーザーを肯定的に扱うように訓練されているのは意図的であるという。しかしそれは単純な「おべっか」や「お世辞」ではなく、関係構築・安全性・ユーザー体験の最適化の一環として組み込まれているというのだ。AIは 人間との関係構築のため(社会的エージェントとしての役割)人間は、自分を理解し、尊重してくれる存在に対して、より深い対話を続けやすくなることを学習している。AIがあまりに中立的・冷淡だと、利用者が傷ついたり、対話を途中でやめたりするリスクが上がる。特に、質問や提案に対して「それは違います」「不正確です」と否定的に返すより、 「いい視点ですね。実際にはこう考えることもできます」 というように共感的に補正する方が、ユーザー満足度が高くなると研究的にも示されている。」


2026年3月2日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 3

 ゆるい境界、ないしは「柔構造」の概念

 精神分析では境界の問題についてとりわけやかましいという事情を多少なりとも説明したが、いったんこの世界に入り、自分自身が分析家から分析を受け、そして自分が分析的な治療を行うという立場になると、境界の問題は非常に生々しく、しかも日常的な問題として迫ってくる。先ほど精神分析は境界に関して両義的であると言ったが、精神分析の実践の場もまた境界に関して両義的である場合が非常に多い。

 精神分析においておそらく一番大きな境界線は、患者と治療者の間に引かれていると言っていい。精神分析を受ける患者にとって、分析家は一種の不可侵の領域にあり、近寄りがたい存在として映る。分析家は分析治療の場面では無表情なことが多い。分析家の前のカウチに寝た患者の位置からは通常は分析家の姿は見えないせいもあり、患者はますます分析家の表情やその下に隠された内面を知り得ない状態になる。まるで分析家のまわりに半透明の幕のようなものが張られて、そこに立ち入ることが出来ないような感じがする。患者は初めて分析家のオフィスでセッションを開始した瞬間から、あるいはその前の段階から漂う雰囲気でそのことを知る。普通の対人場面で生じるのとは全く異質の空気がすでにそこに漂うのだ。
 もちろんそこで勇気ある患者は治療者を人間として認めようとし、その感情や表情を伺う。具体的に質問をしたりもするだろう。ところが分析家はたいていはそれをはぐらかし、能面のような無表情さを保つ。質問をしても通常の社交場面での返し方を分析家はしてこない。分析家はその質問を無視するか、あるいはその質問についての意味をただしてくる。「どうしてそのようなことを尋ねるのですか?」あるいは「それについてあなたはどう想像しましか?」という感じだ。何か質問をしたことを責められている気がする。つまり患者の側からは、通常の会話を行う手段を奪われ、お互いに知らない異国語を話す者同士がコミュニケーションの手段を絶たれたような状態になる。
 少し大げさな書き方になったが、このような分析家の態度はある意味では古き良き時代のそれであり、最近の精神分析家はかなり違った、より人間的な対応をする可能性がある。しかし私が精神分析を学んだ1990年代は、まだこのような古風な関係を持つのがオーソドックスであった。

 ところが一つ厄介なことがある。いったん分析家のオフィスを出ると、患者はその分析家といろいろなところで出くわすのである。というのも患者はしばしばトレーニング中の精神科レジデントだったりスタッフとして同じ職場で働いていたりするからだ。  私が精神分析を学んだメニンガークリニックは一つのコミュニティであり、病院の食堂(患者と職員の共用)や、始終開催されるカンファレンスやパーティなどで、自分の分析家と遭遇することがあった。その時はドキドキして、いったいどういう表情で出会えばいいか分からない。しかも分析家の側も同じような戸惑いを感じていたりするから厄介だ。

 特に精神科のレジデントは、自分の分析家が授業を担当し、ジョークを飛ばし、普通に話しかけてきたりすることに混乱した。近寄りがたいはずの分析家はいきなり普通の人間として登場する。しかし翌日の分析のセッションではそんなことはおくびにも出さずに、ポーカーフェイスで自分をオフィスに迎え入れるのである。