2025年11月23日日曜日

PDの精神療法 1

これも依頼論文である。もう書くものが多すぎて訳が分からなくなってきた。  

本章は 「Ⅲ さまざまな精神疾患に対する精神療法」の第13番目として位置づけられる。扱う対象はパーソナリティ障害(personality disorder, 以下PD)ただ他章の統合失調症やパニック症などに比べ、本章ではDSM-5のカテゴリカルモデルに従っただけでも10という大所帯である。従ってPDの治療に関する議論も多岐にわたるため、ここではBPD, NPD, ASPおよびCPTSDの4項目に限定して論じることにしたい。(最後のCPTSDはもちろんPDの一つとは数えられないが、CPTSDの有するパーソナリティへの表れについて考えると本章で特筆する価値はあるものと思われる。

PDの治療論として特にBPDが筆頭に挙げられるのにはそれなりの経緯がある。歴史的には主として神経症の治療として出発した精神分析がその対象を広げ、またその方法論を変更する必要に迫られたのは、1960年代にはじまるBPDの概念への注目やその治療についての模索が始まったからである。その過程でカンバーグやマスタ-ソン等により唱えられたBPDの治療論はNPD等により応用される一方ではDSM-ⅢによるカテゴリカルなPD論の整備がなされたのである。その意味ではPDの精神療法に関する議論はPDに関する理論から派生したものと考えられよう。


2025年11月22日土曜日

特別寄稿 6

ここから、私が授業で採用している方法(私なりのWDの変法?)について書くつもりだったが、その前に一つの disclaimer (但し書き)が必要だと思った。というのも「日本人はグループでは話そうとしない」などと偉そうなことを書いているが、私自身ははぜったいにグループで積極的に喋らないタイプだったことを告白しなくてはならない。おそらく生来の引っ込み思案が関係していると思うが、私は極度の恥ずかしがり屋で気弱である。(このブログの題の通りだ。)アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかく無口だった。下手な英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(もともとディスカッションについていけないということもあったが。)だから「では質問のある方?」と講義の後で呼びかけて、シーンとされていても、自分が向こう側に至らシーンとする一人なので、その気持ちはとてもよくわかる。しかし他方では言いたいことを用意していたりもするのだ。しかし手を挙げる勇気がない。実はパリとトピーカで過ごした長い時間、「あー、またクラスで手を挙げて話すことが出来なかった。悔しい!」という思いを毎日のようにしていたのだ。クラスで思い切って発言したかどうかで、その日の後の時間の気分が大きく変わるから結構これは重大な問題なのだ。
しかしひとつ面白い体験があり、それはメニンガーでの体験グループでの体験だった。外国人留学生も交じって、力動的な体験グループに何度も出たが、20人、30人という人数のグループでも発言に不思議と抵抗がなかった。「ええと、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困った!」ということも含めて言っていいのが力動的なグループだと思い込んでいたから、すべてを実況中継すればいい、と思えば発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに素(す)であることを許される場なのである。そしてもちろん同じことは分析を受けている時も起きた。分析家の前では何を言ってもいい、ということになっているから「素」のままでいい。

このことはWDを考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるのかもしれない。


2025年11月21日金曜日

特別寄稿 5

私はよくある論文を課題としてあらかじめ出し、それについて感銘を受けたり、疑問に思ったりしたところをいくつかチェックしておいて、付箋でも張っておいていただく。(このチェック項目は数個は用意しておいてもらう。)そして実際のセッションでは私なりにその論文のまとめみたいなものについて話した後は、1番から順にチェック項目を一回にひとつずつ発表してもらう。そしてそれについてディスカッションを皆で行い、私の方からもコメントする。これを時間の許す限り何週も行うが、だいたいは5週くらいで修了時間(90分程度)となる。これを一つの形式として行うので、皆の自発的な発言を待つまでの無駄な時間はない。勿論彼らに自発的に質問やディスカッションをしてもらえばいいのだが、効率としてはこちらの方がいいと思うし、また誰かの質問に関して、だれでも意見を言っていい事になっているので、いくらでも彼らは「自発的」に振舞うことが出来るのだ。そして彼らには「パス」の権限を与える。「私が言いたかったことをさっきAさんに言われてしまいました。ちょっと待ってください。」等という時は「じゃ、もう一周するまでに考えておいてください。」と寛容さと柔軟さを示す。さらには「この論文のことじゃなくても、このテーマに関する事なら、どんな質問でもいいですよ。先ほどのBさんの挙げたテーマについて考えることがあれば、それでもかまいません。というよりはその方が議論が深まっていいかもしれません」となる。

この方式のいいところは、平等に意見を言う機会を与えることが出来ること、そして出席者は課題となった論文を隅から隅まで読まなくても参加できるということだ。あまり恥ずかしくないような質問をすることが出来る程度にその論文を読む必要はあるであろうし、何と言っても質問をすることでディスカッションに参加するモティベーションになる。さらには全く読んでこなかった人でも、前の質問者に触発されて意見や質問を述べることが出来る。


2025年11月20日木曜日

特別寄稿 4

 一つ確かなことは次のことだ。日本のグループの場で沈黙を守る参加者たちは、実はたくさんのことを思っている。先日も私がある講演をした時、その質問の「なさ」にヤキモキしたことがある。こちらが力を注いで話をした時、私たちはたいてい聴衆からの反応を予想ないし期待しているものだ。そしてそこで何も質問が出ないと拍子抜けするし、がっかりもする。ところがそこで誰かを指名して質問をしてもらったり、アンケートなどで感想を募ると、実に様々な、実り多い返事が返ってくる。つまりメンバーたちは何も考えていないわけでは決してない。そして私の感想では、アンケートが特に匿名であるほど、より自由な意見や感想が戻ってくる。そしてこれはおそらくWDを日本で考える場合にかなり大きな問題を提示している気がする。何かの触媒catalyser のような装置ないしは工夫が必要なのだ。と言っても大げさなものを私が考えているわけではない。たとえば極端な話、グラスに一杯のワインでもいい。アルコールで少しほろ酔い気分になった日本人は程よく抑制がほどけて饒舌になったりするものだ。それは何だろうか?

私が授業などでやっているのは少し荒っぽいやり方だ。それは参加者に順番をつけて、次々と質問や感想を述べるようにすることだ。


2025年11月19日水曜日

特別寄稿 3

  その後私が考えるようになったのは、これが彼らが自由に発想するための訓練になっているのであろうということである。 欧米社会では自分がどのような独自の考えを持っているかということは事更重視され、また期待される。あるトピックについてとりあえずは自分がどのように考えているかを表明することは、おそらく自分が周囲とどの程度同調しているか、逆に言えばどの程度とんちんかんではないかということとは全く異なる懸念である。そしてこの後者が恐らく日本における同様の状況で人の心の中に起きているのだろう。  日本社会では自分が正しいか(正解ではなくても、少なくともその場でそれを言って恥ずかしくないか)が一番問題となるため、人はまず発言する前にグループを見わたし、そこでの「温度」を計ろうとする。そして誰かが口火を切るのを待つのだ。欧米ではまず自分か口火を切り旗幟を鮮明にするのである。  ちなみにこれを日本の恥の文化と結びつけて考える向きもあるだろう。しかし私はそれともすこし違うような気がする。「何が恥ずかしいか」が日本と欧米で違うのだ。そしてかの地では自発的な見解を持たないことが恥かしいのだ。  この様な違いがこれほど明らかである以上,英国原産のWDの理論をすくなくともそのままでは用いることは出来ないであろうとさえ思えるのだ。


2025年11月18日火曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 4

 ようやく文献を整理してまとめる最後の段階。面倒くさいのだが、これで解放されると思うと、少し楽しみでもある。

参考文献)

(1)Maines, R.P. (1998). The Technology of Orgasm: "Hysteria", the Vibrator, and Women's Sexual Satisfaction. Baltimore: The Johns Hopkins University Press

(2)Lamberty, G.J.(2007) Understanding somatization in the practice of clinical neuropsychology. Oxford University Press.

(3)小此木啓吾 ヒステリーの歴史 imago ヒステリー 1996年7号 青土社 18~29 (4)岡野憲一郎(2011)続・解離性障害 岩崎学術出版社

(5)Ellenberger, H.F. (1970): The discovery of Consciousness; the history and evolution of dynamic psychiatry; Basic Books, New York. (木村・中井監訳: 無意識の発見 上 - 力動精神医学発達史. 弘文堂、1980年)
(6)Poirier J, Derouesné C. Criticism of pithiatism: eulogy of Babinski. Front Neurol Neurosci. 2014;35:139-48.

(7)American Psychiatric Association (1980) Diagnostic and Statistical Manual. 3rd edition. 高橋三郎、花田耕一、藤縄昭(訳) (1982) DSM-III 精神障害の分類と診断の手引き. 医学書院.

(8)American Psychiatric Association (1968) Diagnostic and Statistical Manual. 2nd edition, revised. American Psychiatric Association, Washington, DC.

(9)van der Hart, O. Nijenhuis, ERS.and Steele, K. W. (2006) Haunted Self: Structural Dissociation And The Treatment Of Chronic Traumatization. Norton, 2006 野間俊一、岡野憲一郎訳:構造的解離:慢性外傷の理解と治療. 上巻(基本概念編). 星和書店, 2011.

(10)American Psychiatric Association (2000): Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders DSM-IV-TR (Text Revision). American Psychiatric Association, Washington, DC., 高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京

(11)American Psychiatric Association (2013) Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th ed (DSM-5). American Psychiatric Publishing, Arlington.日本精神神経学会 日本語版用語監修,髙橋三郎,大野 裕(監訳)(2014) DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京.

(12)American Psychiatric Association (2022) Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th ed,Text revision (DSM-5-TR). American Psychiatric Publishing. 日本精神神経学会 (監修) (2023) DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル. 医学書院.
(13)World Health Organization (2022) ICD-11 for Mortality and Morbidity Statistics.
(14)Stone J, LaFrance WC Jr, Levenson JL, Sharpe M. Issues for DSM-5: Conversion disorder. Am J Psychiatry. 2010 Jun;167(6):626-7.

(15)Egmond, J. Kummeling, I, Balkom, T (2004) Secondary gain as hidden motive for getting psychiatric treatment.European psychiatry 20(5-6):416-21
(16)岡野憲一郎(2025)脳から見えるトラウマ.岩崎学術出版社)

(17)Francis Creed, Peter Henningsen and Per Fink eds (2011) Medically Unexplained Symptoms, Somatisation and Bodily Distress. Developing Better Clinical Services. Cambridge University Press. 太田大介訳 (2014) 不定愁訴の診断と治療 よりよい臨床のための新しい指針.星和書店.

(18)安野広三 (2024) 痛覚変調性疼痛の背景にあるメカニズムとその臨床的特徴についての検討 心身医学 64巻 5号 415-419

2025年11月17日月曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 3

 さいごに

  FNSの歴史について、特にそれがヒステリーという精神的な病として扱われた時代にさかのぼり、いかに現代的なFNSの概念に至ったかについての経緯を概括した。ヒステリーは身体的な表れの体裁をとっていても、本質的には心の問題であると考えられていた長い時代があった。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた事も示した。DSM-Ⅲ 以降、それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでのどちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化された形と言えるであろう。

 しかしそれが真の、あるいはより現代的な理解に基づく概念として生まれ変わるためにはFNSの概念の成立が必要であった。そしてその概念と共に精神科医たちは朗報と言える「身体科からの歩み寄り」に浴する一方では、心因という概念や精神疾患と脳との関連についての再考を迫られていると言えるのではないか。

 ではこのことは将来何を意味しているのだろうか?それはかつての認知症や転換がそうであったように、精神医学からFNSが消え、例えば脳神経内科に所管が移行するということであろうか。それはそれで構わないのかもしれないが、私はそれでは十分ではないと考える。というのもFNSを身体疾患として純粋に考え、扱う際にも精神療法的なアプローチの有効性が不可欠であるからだ。そしてその根拠となるのが、FNSに見られる心的なトラウマの関連である。FNSにおいて心的トラウマの関連が大きい以上、それに対する精神療法的なアプローチは必須となる。そしてそのような形でFNSは今後とも精神医学と身体科の両者により治療すべき対象と考えられるのである。その意味でFNSの存在が精神医学と身体医学を結ぶ懸け橋としての意味を持つことはとても重要であると考える。