2025年9月18日木曜日

男性の豹変の問題 4

 この男性の性愛性の問題は思いのほか時間的な余裕のもとに考察することが出来ることが分かった。というのも来年の3月くらいを目安にまとめればいいということになったのだ。

実は二週間ほど前だが週刊文春を読んで暗澹たる気持ちになった。それは確信犯的な盗撮グループがいるということだ。またまたどうしようもない男性たち・・・・。そこでその記事を電子媒体で読もうと思ったら、次のような記事に出くわした。

「盗撮さえしなければ、いい夫なんです…」妊娠中に夫が”盗撮”で逮捕→クビ、義両親からも非難され…それでも離婚しなかった“性犯罪者の家族”の悲しすぎる実情

『夫が痴漢で逮捕されました』より #1

 「加害者家族」――罪を犯してしまった当人の親やパートナー、子どもなど血縁関係にある人たちは、欧米では「隠れた被害者」と呼ばれる。加害者家族たちは「家族だから」という理由で、社会的あるいは心理的に追い詰められることも多く、中には自死を選んでしまう人もいる。

 中でも1000人超にのぼる性犯罪の加害者家族にソーシャルワーカーとして向き合ってきた斉藤章佳氏は、加害者家族の困難を理解することが、支援につながるとしている。では、実際に加害者家族はどのような暮らしをしているのか。斉藤氏の新著『夫が痴漢で逮捕されました』(朝日新聞出版)より一部抜粋し、お届けする。・・・・(https://bunshun.jp/articles/-/79595)

・・・また性犯罪者とはいえ、家庭内では子煩悩で「イクメン」、子育てにも積極的に関わっている人もいます。実際、「子どもにとってはいい父親。私の一存で子どもたちから『パパ』を奪っていいものか……」と葛藤する人も大勢います。

「自分の娘は可愛がるのに、なぜ他人の子どもには卑劣な性加害をするのか!」と憤る方も多いと思いますが、性犯罪者の頭の中には「それとこれとは別」という認知の歪みが存在している――それも性犯罪者の実態です。・・・・


この問題が男性の豹変の問題と共通しているのは、普段のまじめな「いい夫」とのギャップである。彼はある意味では状況により豹変する。そしてこれは確信犯的であるだけに、「一時の劣情に惑わされた」「魔が差した」は言い訳として通用しようがない。


2025年9月17日水曜日

●甘え再考 8

 ところで一方では北山理論に接近しながら、私自身のこれまでの甘え理論も思い起こさなくてはならない。この北山論文が掲載された書物(日本語臨床3「甘え」について考える. 星和書店、1999年)に、私は「甘えと『純粋な愛』という幻想」という論文を載せてもらっている。これまで述べてきたことと繋げるために、その論文における私の論旨を思い出したい。

私がこの論文で言いたかったことを一言で言えば、「人は誰でも他者から純粋に愛されたいと願うものである」ということである。それは土居先生の次の言葉に発想を得たものである。

「精神分析療法へと向かわせる意識的な動機が何であろうと、その裏にある無意識的な動機の主たるものは甘えやその派生物である」(Doi. T (1989) The conept of amae and its psychoanalytic implication. Int.REv. Psychoanal. 16 349~354)

私たちはある関係に入る時しばしば、「相手から無条件に受け入れられる」という幻想を抱く。もちろんやはりそうはならなかったという厳しい現実を、早晩突き付けられるのであるが。

そして私は一見意味不明なことを書いている。曰く「甘えは願望充足と防衛の両側面がある。」(p.223) 願望充足とは、幻想のレベルで私たちのこの願望を満たしてくれるという意味で、防衛というのは「たとえ今の関係ではうまく行かなくても、どこかにきっと無条件的に受け入れられる関係があるだろう」と思わせてくれるからである。そして母親との関係の中に似たようなものを体験して入れば、あれと同じことはまた起きるかもしれないと思いやすいのかもしれない。

もう一度整理しよう。

欲求充足的な側面・・・純粋の愛の疑似体験

防衛としての側面・・・それは現実には得られないという事実に直面することからの防衛 

そしてもう一つかなり重要なことを言っている。それは甘えは「能動的な意味で受け身的な」情緒交流だということだ。受け身的とは向こうが愛してくれることを期待するからだが、能動的なのは二つの意味でである。

①甘えさせる対象に結構執拗にそれを求めるから。

②甘えることで相手の「甘えさせたい願望」を充足させるから。

この①に関しては、実は北山先生の甘える側は上から下への愛を待つという意味で受動的であるという説に反対するもので、土居先生自身が次のように言っている。

「私が強調したいのは、甘えはそれを満足させるためには優しいパートナーが必要となるが、それは必ずも受動的な状態ではないということである。甘える、というのは自動詞であり、すなわちそれは甘える人にある能力を想定している。つまり甘えを引き起こすような行動を開始し、それに浴するという能力である」Doi,T (1992) On the oncept of Amae. Infant Mental Health Journal, 3:7-11.

ここを読む限り、土居先生自身はかなり甘えを能動的なものとしてとらえていたことになる。


2025年9月16日火曜日

●甘え再考 7

 こで北山先生の気になる発言。「日本語『愛』が博愛や双方向的な愛の意味で実に気軽に使用されるのだが、そこには虚偽意識や薄っぺらな感覚が伴いやすい」(p102)。この説ではそこに表層的、薄っぺらさというニュアンスが混入しているのか‥‥。北山先生は本来は存在しなかった「愛」と違い、「愛しい」は古来日本に存在し、それは1.見られたものではない。みっともない。2気の毒だ、かわいそうだ、不憫だ、いたわしい 3.かわいらしい、いじらしい

の意味があるという。としてこれも明らかに優者から劣者へ、という上下関係が見られるという。そして次のようにまとめる。日本語での「愛」や「愛しい」は上から下に与える愛であり、甘えは下から上に愛を求めるものとなりやすく、それを「愛の上下関係」と呼ぶ。そして結局乳児が母親を愛すること、小さいものが大きいものを愛するという言葉が日本語にないことを指摘する。それは日本語が下からの愛の衝動に共感的ではなく、抑圧されていると言ってもいい、という。なるほど。そうすると北山先生の極端にも見える以下の立場もそれなりに理屈が通っている。「甘えを観察したり、解釈したりするものは、愛は目下からはやってこないという「愛の上下関係」という愛情観に捉われてはいないだろうか?」(p.105)そして土居先生はこの甘えの上下関係に気が付いていないとする。


2025年9月15日月曜日

● FNSの世界 推敲の推敲 5

 引き続き痛覚変調性疼痛③についての話。この③は、①手足などの体の痛みを持つ体の部分の組織の損傷が見られるもの、②その部分と中枢を連絡する神経の病変のあるものによる痛みのどちらでもない痛みである。たとえば指を刃物で怪我すると、組織の損傷があるから痛い(①)。あるいは中枢に向かう神経が途中で椎間板ヘルニアなどで骨や組織に圧迫されても痛い(②)。そしてこれまで神経内科は①②のみ扱ってきた。ところが実際に外来に訪れる患者には、どうもそれ以外の痛みとしか言いようがないものが多い。そこで③が注目されるようになったのだ。しかし従来はそれを第三の痛み、として正式に扱うことがこれまではなかった。それがどうしてこうなったのか。

一言で言えば脳を通して心が見えるようになったからだろう。つまり痛みを感じる中枢はしっかり反応をしていることが見出されるようになった。そしてこれにはMRIやCTなどの画像技術の発展が関係している。これまで傷もないのに「痛い」という人をどこまで信じられるかについての答えはなかった。しかし今では「痛い」に対応する脳の変化を見出すことが出来るようになったからだ。私たちが本当に痛い、と感じている時には脳のどこかでそれに相関 correlate する部分があるはずだ。それは①や②とは独立してあるはずである。(そしてそこは①や②でも同時に反応しているからこそ、それらの時も痛いのだ。)それが見られるようになったということか。 どうもそこまでは行っていないようなのだが、ここで重要な概念があり、それがいわゆる「中枢性感作」ということらしい。明確な画像に表されなくとも、明らかに脳内である異常事態が起きていることがあるという理論が提唱され、それがこの「中枢性感作」という概念だ。そしてこの③の例として、なんと、片頭痛や線維筋痛症などが例として挙げられるのだ。これはまさにこれまでの「心因性の身体症状」にそのままとってかわるものとなる。これは精神医学にとっても、そしておそらく脳神経内科学にとっても大激震なのだ。「身体科からの歩み寄り」などと悠長なことは言っていられないのだ! さてそのような動きを精神科ではどのように受け止めるのか。一言で言えば、脳神経内科から多大な恩恵を受けることになるのではないか。少なくとも精神科医は、③の訴えをする人たちの脳科学的な研究は行っていなかった。あくまでも臨床所見から判断するしかなかったのだ。しかし神経内科医が③を診断することにより、精神科医はそれに頼る形で精神医学的な診断としてのFNSを行うことになる。しかしこれでは精神科医のプライドはどうなるのだろうか。 プライドの問題はさておき、精神医学の臨床の場では最近は私はペインクリニックの先生方にとてもお世話になっている。患者さんの中に身体的な訴えがとても多く聞かれ、ペインクリニックや脳神経内科の先生に片頭痛や線維筋痛症の診断をお願いして、一緒に診ていただく。そして精神科医としては処方することに心もとない様々な痛みをコントロールする薬を処方してもらえているのである。

2025年9月14日日曜日

● FNSの世界 推敲の推敲 4

 全体をまとめよう。FNSは基本的にはヒステリーという精神的な病として扱われた歴史についてはこれまでに十分示した。それは体の症状でも心の問題が原因である、と考えられていたからだ。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた。それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでの疾病利得一辺倒の、どちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化されたということが出来るであろう。

その間いわゆる解離性障害についての理解は大きく進んだと言える。そしてそれを精神症状を来すものと身体症状に分けるようになった。いわゆる精神表現性解離と、身体表現性の解離というわけである。Psychoform and somatoform dissociation という考えだ。(Van der Hart O, Nijenhuis ERS, Steele K. The haunted self. Structural dissociation and the treatment of chronic traumatization. New York: W.W. Norton & Company; 2006.) そのうち精神表現性の症状をきたすものについては、それは精神医学の内部で扱われることになる。解離性同一性障害などはその例だ。ところがそこに身体症状が絡んでくる転換性障害だと、それが「現実の」、ないしは「本当の」身体疾患との区別が難しくなる。その際そこに心因があること、疾病利得が関係していることが、「本当の」身体疾患とは違うという了解があった。それが2013年以前の考え方であったことは上に述べた。 ところが研究が進むうちに新たなことが分かった。疾病利得がなくても身体症状が起きるだけではなく、心因がなくても身体症状が生じる(あるいは本来の身体症状が悪化する)ことがあるということなのだ。この状態は一言で言えばMUS(医学的に説明のつかない症状)ということになる。このMUSの概念について考える上で一つとても参考になるのが、いわゆる③「第3の痛み」と称されるいわゆる「痛覚変調性疼痛 nociplastic pain 」である。これが脳神経神経内科の分野で提唱されることになったのは、画期的な意味を持っていたと言えよう。


2025年9月13日土曜日

●甘え再考 6

 北山理論についての読解が続いているが今一つ分からない。ただしこういうことなのか、という仮説はある。要するに甘えは、甘えさせる、依存させる上位の存在が必要になる。子供の側の甘えは、むしろ「依頼心」なのだ。北山は言う。「甘えの欲求は依存欲求として抽象化されることが多いが、これは他者の適応を誘発し、対象を与えられることを依頼するものであり、その意味で『依存心』というよりは『依頼心』という呼び方が適切であろう。」そしてまたいう。「乳児の内的現実や現像というものの実在を信じる私は、下にいる乳児は上位の母親に何かしてもらうことを依頼するのではなく、スーパーマンのように自力で飛び上がって母親に飛びつこうとしていると解釈することもできる」。(どちらも引用は北山 1999.p.99)

つまり甘えは結局他人頼みであり、受け身的で、上からの母親の存在を前提といている。あるいは母親を見ることで発動する、と言ってもいいか。そしてそれが子供の側からの自発的愛情を無視ないし矮小化しているのではないか、ということだ。

もっと決定的な文章があった。「大きいものの側が下へ適応するのではなく、小さいものの側が上位へと、空想や遊び、または魔法で到達できるという可能性は、乳幼児の魔術的な願いや非現実的な祈りの存在を考慮すれば、間違いなく存在するのである。」(p.99~100)

ただ甘えにより幼児が母親の膝によじ登る場合、母親からケアされて当然という気持ちがあり、それを疑わない分だけ非現実的、魔術的であり、その意味で受け身的だけとは言えないのではないか。(甘えることが出来ない人からは、「どうしてそんなない相手を信じられるの?と不思議に思われるだろう。)

「刷り込み」の現象からわかる通り、赤ん坊はケアされるニーズをそれこそ周囲の何にでも投影する傾向にあり、十分に積極的、という気がする。それに母親も母親で子供の存在に反応するというよりは、母性はそれ自体が子供の存在を前提として成り立つという意味では積極的であり、ここでの能動性―受動性という二極化は存在しないのではないか、というのが私の感想なのである。それは博愛におけるギブアンドテイクとは別の意味で「平等」だと思うのだが。


2025年9月12日金曜日

●甘え再考 5

 前回からの考えの続き。甘えはお互いに上下関係のない愛、つまり対等な関係における愛とは明らかに異なる。これは見返りを求めない、という意味だろうか?つまり甘えと違う「大人の愛情」にはギブアンドテイクがある、一種の契約のようなものと考えることが出来るだろうか?そうかもしれない。相手が自分を愛すように、自分も愛する。他方が愛するのを止めたらこちらも止めざるを得ない関係だ。あるいは自分を差し置いて他の人を愛することに対しては非常に厳しい。その意味で極めて条件付きの愛である。

ところが母親の子に対する愛は、おそらく子供の母親に対するそれに似て、無条件的である。母親は、普通なら子供に嫌われても愛することを止められない。子供の場合はもっとそれが明らかである。また子供が別の人間(例えば父親)になついても母親はそれにジェラシーをあまり感じないであろうし、子供も母親が別の人間(例えばきょうだい)をかわいがってもそれに憤慨するわけではない。(少しはするかもしれないが。)

ちなみに北山先生は、このような上下方向の日本の愛は、キリスト教的な博愛の持つ水平性と対比させている。私のように男女の愛を対立させているわけではないことは断っておかなければならない。