2025年11月13日木曜日

特別寄稿 1

 「特別寄稿」は私の好きなジャンルである。なぜなら自由なことを書いても比較的許されるからだ。ということで私はこのディスカッションに突然引き込まれたが、おかげでずいぶん刺激を戴いた。work discussion WDと書くことにする。まずはWDについての私の乏しいながらの理解から。
 WDは私の理解では精神分析をルーツとし、グループの環境で学びを高めるためのプログラムである。そしてこの動きは日本の心理臨床においてかなり前からあり、「日本ワークディスカッション研究会」なるものまで存在している。その理事長であられる野村誠先生の文章を引用しよう。

WDは、1980年代種多様な援助職の観察力や対人スキル向上に貢献したという。そしてその可能性に気づいた臨床家によって、より幅広い援助状況に応用されていくようになって行った。そして臨床心理士養成大学院など、さまざまな領域の対人援助職に対して実践されはじめ、心理臨床の事例検討会やグループスーパービジョンにも応用されて、その汎用性が注目され日本ワークディスカッション研究会が設立されたとのことだ。しかしその運営、グループのファシリテートには固有の難しさがあることが分かってきたという。

さて私はたまたまワークショップで長谷先生や若狭先生の実践の発表を知って,「ああこれが今話題になっているWDなんだ,と問題意識をかろうじて共有させてもらうところから始まつた。実は自分でもとてもよく知っている、あのプロセスのことなのだ。ある事例が発表されて様々なデイスカッシェンが行なわれ、時にはドラマか展開するプロセス。精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会でのケース検討会でも何度となく経験し、時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされるあのプロセス。場合によっては年若い発表者が助言者、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに火だるま状態になり、聴衆のひとりとしとも歯がゆい思をしたこともある。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不幸理と感じる一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランのコメントも聞こえて来たりして「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるがわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方について考えることはペンデイングにしていたが、この問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのだ。

2025年11月12日水曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 11

 まとめ

 

 FNSの歴史について、特にそれがヒステリーという精神的な病として扱われた経緯を示した。それは身体的な表れの体裁をとっていても、本質的には心の問題であると考えられていたからだ。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた事も示した。DSM-Ⅲ 以降、それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでのどちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化されたということが出来るであろう。
 そしてその間いわゆる解離性障害についての理解は大きく進んだと言える。とくにそれを精神症状を来すものと身体症状に分けるようになった。いわゆる精神表現性解離と、身体表現性の解離(Psychoform and somatoform dissociation)という概念である。

 しかしそれが真の、あるいはより現代的な理解に基づく概念として生まれ変わるためにはFNSの概念の成立が必要だったのである。そしてそれと同時に精神医学にとって朗報と言えるのは身体科からの歩み寄りだったわけである。

 ただしこのことは将来何を意味しているのだろうか?それはかつての認知症や転換がそうであったように、精神医学からFNSが消え、例えば脳神経内科に所管が移行するということであろうか。それはそれで構わないのかもしれないが、私はそうはならないと考える。というのもFNSを身体疾患として純粋に考える場合に、それに対する精神療法的なアプローチを想定しにくいという問題があるからである。そしてその根拠となるのが、FNSに見られる心的なトラウマの関連である。

FNSにおいて心的トラウマの関連が大きい以上、それに対する精神療法的なアプローチは必須となる。そしてそのような形でFNSは今後とも精神医学と身体科の両者により治療すべき対象と考えられるのである。その意味でFNSの存在が精神医学と身体医学を結ぶ懸け橋としての意味を持つことはとても重要であると考える。


2025年11月11日火曜日

大阪への出張

  119(日曜日)はあいにくの雨だったが、大阪出張であった。V製薬会社の抗うつ剤Eの日本での発売10周年記念の学術会議なるものに呼ばれて、「AIと精神療法」というテーマで講演した。司会は京都大学精神科教授の村井先生という私には勿体ないお方である。しかも私の前の演者が、かの松本俊彦先生で、相変わらずの熱のこもった薬物濫用の話が刺激的で聞き惚れてしまった。内容は詳しくは語れないが徹底して患者さん目線で,市販薬のODを過剰ににとりしまる傾向に対する苦言を含んでいた。彼の話はいつ聞いてもほぼl00%正論のように思えるが.私も彼の持つ「過激さ」をシエアしているからなのだろうか?心から声援を送りたい精神科医である。

 

2025年11月10日月曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 10

  このMUSという疾患群は最近になって精神医学の世界でも耳にするようになったが、取り立てて新しい疾患とは言えない。むしろ「医学的に説明できない障害」の意味する通り、そこに属するべき疾患群は、医学と呼ばれるものが生まれた時から存在したはずである。そして身体医学の側からはMUSはそれをいかに扱うべきかについて、常に悩ましい存在であり、それは現在においても同様であるといえよう。結局MUSに分類される患者は「心因性の不可解な身体症状を示す人々」として精神医学で扱われる運命にあったのだ。そしてそれは昔のヒステリーとほぼ同義だと考えられる。しかしこのカテゴリーに属する疾患を身体科で扱うという兆しが見られたことは精神科医にとっても朗報と言える。そしてもちろんFNSもこのMUSに含まれることになる。

   ここでMUSに属するものについて比較的わかりやすく図に示したものを、ある学術書(Creed, Henningsen, Fink eds, 2011)から引用する。なおこの図には発表された時期 (2011) に合わせて筆者が日本語で診断名を書き入れてある。ここにはMUSという大きな楕円の中に身体表現性障害と転換性障害の集合が含み込まれ、また器質性疾患の集合はMUSと一部交わっているという関係が示される(図の斜線部分)。



 さらにはこのMUSの概念と並んで脳神経内科の分野で最近提出された、いわゆる「第3の痛み」と言われる「痛覚変調性疼痛 nociplastic pain 」の概念にも注目するべきであろう。これは侵害受容器性疼痛(体の部分の組織の損傷が見られるもの)と②神経障害性疼痛(その部分と中枢を連絡する神経の病変のあるもの)以外の痛みであるとされる。そしてそれに関連して中枢性感作というメカニズムが想定されているが、この種の痛みを主症状とするものとしては、線維筋痛症、顎関節症、偏頭痛、過敏性腸症候群、非特異的腰痛、慢性骨盤痛などが含まれるという。

安野広三 (2024) 痛覚変調性疼痛の背景にあるメカニズムとその臨床的特徴についての検討

心身医学 64巻 5号 415-419

この痛覚変調性疼痛の認定もまた、精神科医にとっては朗報と言える。なぜならこの種の痛みこそ、精神科で患者の口から聞かれるものの多くをカバーしているからであり、少なくともその一部は脳神経内科その他の身体科の治療者にゆだねることが出来るようになるからだ。


2025年11月9日日曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 9

 FNSの概念と身体科からの歩み寄り  ― 「MUS」との関連において

 上述の通りFNSの登場は精神医学にとっても大きな動きをもたらしたが、その具体的な表れは、脳神経内科やリューマチ科、その他の「身体科」からの歩み寄りとして体験されているという印象を筆者は持つ。これまで精神科医は患者の身体症状の扱いに苦慮することが多かったが、それらの一部が身体疾患として概念化されて病名が与えられ、それぞれの科でも扱われるようになったのである。それらはたとえば慢性疲労症候群や線維筋痛症、PNES (psychogenic nonepileptic siezures 心因性非癲癇性発作)、片頭痛などである。これらに該当する症状を訴える患者は精神科外来でも少なからずみられたが、その多くは身体科でも引受先がなく、精神科医が痛みその他の身体症状に対する薬物的な対処の必要に迫られることが多かった。その際精神科医としては疼痛その他の症状に対して専門性を備えていないことを半ば自覚しながら、不本意な投薬を求められることのジレンマを抱えることも少なくなかった。そしてそれらの患者が精神科と並行して身体科を受診して専門的な視点から治療を受けることで援軍を得て孤独感や不条理な気持ちが和らぐ思いをしている精神科医も少なくないであろう。

この問題と関連して、最近いわゆる「MUS」、すなわち「医学的に説明できない障害 medically unexplained disorder」の概念の持つ重要性が増しているように思われる(岡野(2025)脳から見えるトラウマ.岩崎学術出版社)。


2025年11月8日土曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 8

  ところでDSM-5には次のような注目すべき記載がある。「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。・・・所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.339)  ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、以下に述べる、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。  このうち 「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。  また疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。  さらには従来CDと呼ばれる状態について見られるとされていた「美しい無関心 la bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。  ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。

以上をまとめるとFNDでは、心因の存在を必須としないこと、症状形成が作為的でないこと、疾病利得の存在を問わないこと、という点で変換症から大きく変化したが、そこに共通するのは次のことだ。

①心身二元論を排すること。

②倫理性を重んじること。


つまりヒステリーは体の病ではなく心の病である、という従来の考え方は、心身二元論的に立てば体の症状を偽っているという偏見に直結し易く、それを防ぐ方策だということだ。

でもなんだかわからなくなってくる。そもそも身体科と精神科に分かれていること、あるいは精神科という科が存在すること自体が心身二元論に基づいているのではないか。しかし精神科が「医学」に含まれることで心身二元論を廃しているということになるのか。だんだんわからなくなってきた。

こう考えてはどうか。心の悩みやストレスが、身体科で診断の付くような身体の症状につながるということは確かにある。でも「身体科の診断がつくようなすべての症状には心因が必ずある」という考えが誤りであることは確かである。問題は「身体科の診断がつかない症状に必ず心因がある」が誤りであるということで、これがFNDの概念の成立とともに認められたというわけである。これは実はとても新しい、重大な一歩なのだ。そしてそこには「そのような診断のつかない症状にも「何らかの脳の変化ないしは働き」は起きているであろう」という理解が背景にある。そしてこれを推し進めると、「あらゆる身体症状は脳の変化や働きを伴う」という理解になる。そしてその「脳の変化や働き」は、当人の意図とは独立しているということが重要だ。そしてこのことの理解は、おそらく精神医学にとっても大きなパラダイムシフトなのだ。


2025年11月7日金曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 7

 この心因の問題とともに、DSM-IVにあった「症状が神経学的に説明できないこと」についても、DSM-5やICD-11では変更が加えられている。具体的には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)。  ここでDSM-5ICD-11では、FNSにおいて神経学的な所見が見られないことを特に否定しているわけではない点が重要である。しかしそれは陰性所見(医学的な診断が存在しないこと)ではなく、陽性所見(症状が医学的な診断と適合しないこと)を強調する形になっている。この違いは微妙だが大切である。さらにFNSに関して「このような『陽性』検査所見の例は何十例もある」p.351)とし、その例として○○テストを挙げている。 ちなみにこの陽性所見という言葉の説明として、DSM-TRでは次のような説明もなされている。「むしろ陽性の症状及び兆候(苦痛を伴う身体症状に加えて、そうした症状に対する反応としての異常な思考、感情、および行動)に基づく診断が強調される。」(p.339)