昨日の文章(バウンダリー6)を書いているうちに少し方向性が見えてきた。章立ても浮かんできた。
1.バウンダリーの起源
2. そもそもの問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」
3.バウンダリーの本質としての両義性と「治療的柔構造」の概念
4.境界侵犯と相転移、トラウマ
1.バウンダリーの起源
バウンダリーの歴史についての考察という事で原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深いテーマである。精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場である私にとってはとりわけ関心を持たざるを得ないテーマであるため、その立場からの考察になる。
私にとってのバウンダリーの問題はとりわけ二つの意味において重要である。一つには精神分析や精神療法において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているということだ。そしてもう一つは、そのバウンダリーが乗り越えられたり侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。そこでこれらの二つのテーマについて主として論じることとする。
最初にバウンダリーの問題は広く深いと述べたが、その原型は私たちが持つ身体そのものに関連している。私達は身体が自由に動ける一定の範囲の空間を必要とする。私たちは常に収まりがよく、活動のしやすいような身の置き所、空間を探しているのだ。いわゆるパーソナルスペースと呼ばれるものに近い。そしてそこに他者が表れて同じような空間を必要とするなら、両者の境目の問題は必然的に生じる。そしてそれは身体を持つ(「受肉している」存在、ないしは生命体)であれば進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。
たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁を見回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物は自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩く。他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだ。そしてそれは生物としての私たちにも同様である。それは日常生活のあらゆる面に関わってくる。しかし新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況でしかあまり意識化されないかもしれないが。
この様にバウンダリーは他者と生きる私たちの身の安全を保つためにやむを得ず引かれるものというニュアンスがあるが、それはまた社会生活を営む私たちにとっては利便性の面でも重要になってくる。一日の時間をバウンダリーを設けることでいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは隣人達と活動を共にする上では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。その意味でバウンダリーの歴史はそのまま人間としての私たちの社会の発展とともに細かく張り巡らされ、その上に載って私たちは生きている。そうして大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。