日本での体験
私はこの海外での十数年間の、学生ないしはディスカッションの参加者としての体験を持った後に帰国し、自分自身が講演や授業をする立場になった。そしてディスカッションの時間になると学生や受講者の沈黙に出会うという体験を頻繁に持つことになったのだ。私の眼には、日本のディスカッションの参加者たちは、欧米よりもかなり受け身的であるように感じられた。そしてどうしたら活発な質問や討論を誘発することが出来るかについていろいろ苦労することとなった。
その中で一つ気がついたのは次のことだ。日本のグループの場で沈黙を守る参加者たちは、実は口には出さなくてもたくさんの考えを持っているのである。たとえばある講演をした時、その質問のなさにヤキモキし、少し不躾かもしれないと思いつつ、聴衆のうちの誰かを指名して質問や感想を話すことを促すとしよう。すると意に反してかなり内容のある反応が返ってくることが多いのだ。さらに最後に講義の後にアンケートなどで感想を募ると、あれだけ沈黙をしていた受講者から実に様々な、実り多い返事が返ってくる。つまり彼らは決して何も考えていないわけではないのだ。そして私の体験では、アンケートを匿名で書いてもらえば、さらに自由な意見や感想が戻ってくるようなのだ。そしてそこには参加者たちの「本当は意見を言いたかった」という気持ちが透けて見えることもあるのだ。
そしてこれはおそらくWDの日本でのあり方を考える場合に、かなり大きな問題を提示している気がする。この問題については後ほど述べるが、日本のグループは何かの触媒 catalyser のような装置ないしは工夫が必要なのだ。と言っても大げさなものを私が考えているわけではない。
たとえば極端な話、グラスに一杯のワインでもいいだろう。アルコールで少しほろ酔い気分になった日本人が途端に饒舌になる様子は数多く経験しているからだ。もちろん学術講演でアルコールを振舞ったりしたら大変な問題になるだろう。それにアルコールを飲めない人たちは取り残されたと感じるかもしれない。しかしカクテルパーティと講演を合体させることが出来たらどうなるだろうか、などと夢想することもあったのだ。このようにあれこれ思案はしてきたのである。
一つだけ「断り書き」
ここから私が現在自分が行う講演や授業で採用している私なりの工夫について書いてみたいが、その前に一つの断り書きが必要だと思った。先ほど「日本人はグループでは沈黙がちだ」などと偉そうなことを書いたが、すでに触れたように、私自身ははグループで真っ先に沈黙するタイプであることを告白しなくてはならない。だから私の講義がひと段落したところで「では質問のある方?」と呼びかけてシーンとされても、少しがっかりはするが、その気持ちはとてもよくわかるのだ。私がグループでの発言が苦手なのは生来の引っ込み思案が関係していると思う。思春期以降の私はかなりの恥ずかしがり屋で気弱である。パリ時代も、アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかくグループ状況では喋れなかった。もともと日本でもそうだったのに、外国で下手なフランス語や英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(そもそもディスカッションの理解がついていけないということもあったが。)
しかし他方では私は毎回授業のたびに「何とか発言が出来ないものか」ともがいていたことも確かである。言いたいことを紙に書いて用意していたりもしていた。しかし手を挙げる勇気が出ず、その度に不甲斐なさを感じていた。実は授業が終わった後の帰り道に「あー、また発言できなかった!悔しい!」と空を見上げることを何度も体験していたのである。このような思いがあるからこそ、私はこのWDの議論にことさら興味を覚えるのかもしれない。
ところでこのグループで発言できないという問題に関しては、ひとつ面白い体験があった。それは米国での留学先のメニンガー・クリニックで持った力動的なグループでの体験だった。グループ療法にも力を入れるメニンガーでは、一般市民にも開かれたさまざまなワークショップが企画され、年に何度か体験グループのセッションが持たれた。それもかなり本格的なもので、二日、ないしは三日連続で朝から力動的なグループの体験学習が何セッションも行われたりしたのである。私もおっかなびっくりでそのような体験グループに出てみたのであるが、そこでとても不思議な体験をした。20人、30人というほとんどが米国人で占められるグループに参加しても、発言することに不思議と抵抗がなかったのだ。
今から考えると、私は体験グループの状況を、精神分析の自由連想と同じにとらえていたからではないかと思う。私は当時個人セラピーや週4回の精神分析を受けていたが、そのような状況ではただ一人の相手である治療者に対して喋れないということは特になかった。聴衆がたった一人なら緊張のしようがないではないか。私にとっての喋れない苦しさはグループ状況に限られていたのである。
そして基本的には「何を言ってもいい」という力動的なグループ状況でも、私は分析の自由連想を行う時と同じ心持になれたようである。何か言葉に詰まったら、そのことを言えばいいのである。「ええと・・・・、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困っています・・・・」と、なんでも包み隠さず実況中継すればいいのだと思えば、発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに体験グループは私が素(す)であることを許される場と感じられたのである。この点はWDのあり方を考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるからである。