2026年3月19日木曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 17 

  ここでこの境界の問題に、ホフマンの「儀式と自発性」がどうかかわってくるかを示さなくてはならない。以前に書いたのは以下のような内容だ。

 ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つはそれを破ったら大変な事になるのではないか、という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの医師の間のせめぎ合いである。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を自発性、後者を儀式としたのだ。

 私たちの個人的な生活における行動はことごとくこのせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。

そしてこれは治療関係についてもいえる。患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性だと言った。患者は時間を減らす自由はあるが(「今日はお先に失礼します」、と言って時間前に退出することなど。治療者はその患者の自由を尊重すべきであろう。それもまた患者の時間の使い方だからだ)、時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(と言っても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。

 ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。そもそも人間存在は、生きているかなりの時間を(すなわち何かに追われて余計な思考が介入できないような時間を除いて)この「儀式」と「自発性」の境界線上に浮遊 poise している状態なのだ。フロイトが考えたような形での自由連想が実現している状態がそれに相当するのか。完全に抑制が放たれて退行しきった状態でもなく、「~すべし」という観念にがんじがらめになっている状態でもなく、その中間でいいバランスがとれている状態。治療構造はその上でバランスがとれるような格好のロープというわけだ。


2026年3月18日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 16   

  ここで私が40年前に日本を発つとき考えていた「患者さんの遅刻が治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。より正確には以下のように書いた。 「でも[患者さんの3分の遅れは]どの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」

 今の私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。

 「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事はあるよ。でもそのこと自体はそれほど重要なことじゃないんだ。というのも多くの場合そのどちらとも決められないからね。大事なのは治療抵抗の可能性に気がついたら、一応フラグを立てておくことかな。もしその上でそれが繰り返され、そこに何らかのメッセージが含まれるのではないかとより強く感じた場合は、それが単なる偶発事ではない可能性を考えるだろう。まだ確証はないだろうが、それが強いと感じられるのなら、その時点で患者と話してみるといいだろう。でも恐らくそれはそれを感じ取る能力は、分析のトレーニングとはあまり関係ないだろうね。」

 そう、はっきり言って精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり働いてくれないのだ。「でも」と私は続ける。「その種の出来事の扱い方の経験値は増えていくだろうね。」それは以上のような経緯で何らかの反応をし、それに対する相手の反応を見る、という事を通して高まっていくのだ。でも患者さんの遅れを取り上げると言っても、決して「あなたは最近セッションに何回か遅れてきますね。そのことに気づきですか?」などの言い方にはならないだろう。というのもそのような言い方はもろに「これからは遅れないように!」というメッセージを伝える事になってしまうからだ。でもそれはその介入の目的ではない。というか精神分析はそれとは逆のことを目指しているからだ。というのもセッションに遅れるのはある意味では患者の自己表現だし、治療者にセッションの開始を遅らせる権利はなくても、患者の側にはその自由があるのである。

 患者さんの3分の遅れについてのこうした扱いは「柔構造的」と言えるだろう。それは一言でいえば、決して超自我的な役割を分析家が負わないということだ。そしてその結果として実は色々なことが偶発的にわかったりする。たとえば患者さんが乗るバスの時刻表が最近変更になってから起き始めたという事が判明したりもする。あるいは患者が少し遅れることで治療者を試すという意味も含まれていたかもしれない。いずれにせよ「治療抵抗」という呼び方ではくくれない様々な事情が浮かび上がってくる可能性がある。そしてこのように考えると分析的な「抵抗」の概念は非常に問題含みであることもわかるだろう。その概念はとても大切ではあるが、かなり高飛車で上から目線なのである。

2026年3月17日火曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 15

  上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは自己開示の例であった。両方ともある種の境界がそこに引かれていることで、それを原則的には守ろうとする二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれは境界を厳密に守る事に徹していては生じない。治療者は患者からチャレンジを受け、境界を押したり引いたりする力を加えられ、それに対してある程度の柔軟性を発揮して対処する。それが柔構造的なやり方だ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はその境界はもっとしっかりとした、強固なものになって行くのだ。それはなぜなのだろうか?それは境界のマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくからだ。  治療者と患者のやり取りを、押し相撲にたとえよう。と言っても患者の方が一方的に押してくる状況だ。治療者の皮膚は柔らかく弾力がある。患者はちょっと治療者のお腹のあたりを突っついても、その皮膚は跳ね返してくる。その時治療者は多少困惑の顔色を浮かべ、その患者の行動に不思議そうな顔をするだろう。そこで患者はもっと強く押してみる。すると治療者の体は多少揺らぐが、こちらの押す力に応じて踏ん張るので倒れることがなく、安定を保つことができる。しかし治療者は先ほどよりはもっと困惑の色を浮かべ「押さないでくださいね。どうかしましたか?」と尋ねてくるだろう。そう、治療者はそれなりにしっかり反応をしてくるのだ。ただその反応は依然として穏やかで、患者からの揺さぶりに挑発されて仕返しをしてくるわけでもなく、ただ心穏やかな人間としてそこにいることを感じさせる。そこに患者が感じるのは、自分の体をしっかり保ち、かつこちらの働きかけに応じた反応を示す人間としての治療者である。  このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう?つまりそれは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はピシャッと跳ね返されたり、無視されたりするだろう。「私のキャンセルの理由をお聞きになりたいのですね?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、「はい時間です!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。  今示した剛構造的な治療者は現実にはあまり存在しないかもしれない。治療者もそれなりに真っ当な人生経験を積んできているからだ。しかし多少なりともロボット的な印象を感じさせるとしたら、その治療者は治療構造を厳密に守るべし、という誤った教えをかたくなに患者にも自分にも押し付けてくる人という事になる。 そのようなことが生じる可能性を考えてみる。一つは、治療者自身が左脳人間的であり、境界を少しでも踏み越えることが著しい不安を喚起するという可能性である。ただそのような人が精神分析を志す可能性はあまり高くないだろう。そしてもう一つは治療構造を誤って理解しているために、良かれと思いその遵守を目指し、それを揺るがせる行動については抵抗とみなすという可能性である。これはかなり経験を積んだ精神分析家にもみられる。 いずれにせよ患者の側は治療者を血の通った人間として認識することが出来ないであろう。


2026年3月16日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 14 

  しかし精神分析的な治療関係においては、治療者がプライバシーを持ち込むことは、「それが患者にとって何らかの意味で助けになる限りにおいて」である。つまり実際は患者の側は治療者の個人的なことは聞きたくないかもしれないという可能性も考えて、むやみに伝えないことを原則とするのだ。  もし治療関係にかかわる事で治療者の側の情報を伝えるのであれば、それは最初からある程度意図して開示すべきものなのであろう。たとえば治療者が「今日は花粉症で何回かくしゃみが出るかもしれませんが、風邪ではありません。」とか「骨折をして松葉杖を使っていますが大丈夫です(その痛々しい姿は見ただけで明らかであり、それを隠しようもなく、そのことで患者のよけいな不安を取り除くため)」等の言葉がけは、治療者がそれを伝えた方が治療をよりスムーズに、かつ安全に行えるのであれば行うべきであろう。  ところが聞かれもしないのに治療者が「昨日は〇〇という映画を見ました。ラストシーンがよかったなあ。」などと伝えることの意味は恐らく皆無である。それは治療に全く関係ない、ただの世間話だからだ。しかし場合によってはそのような話も治療的な意味を持つかもしれない。たとえば患者の側が非常に緊張していて、治療者側が何かパーソナルな話を挿入することがその緊張感を和らげる助けとなると考えた場合などだろう。  このように考えると、治療者が自分について何をどこまで話すかというのはかなり微妙だが、確かにそこにバウンダリーが存在することで意味を持ってくると言えそうだ。治療者は塀の上をバランスを取りながら歩いているようなところがある。そして患者に何を伝え、何を伏せておくかを細かく考えながら歩を進めるのである。

 さらにもう一つ具体例を挙げる。治療者が患者に二週後の週のセッションをキャンセルする必要があると告げるとする。その理由をどこまで告げるか、ということは結構微妙な問題だ。毎年同じ時期に学会関連の出張があり、今回は治療者がそれを伝えるのが遅れただけだと患者が察するであれば、特にキャンセルの理由を告げなくても問題はないだろう。しかし治療者の健康問題とか家庭のさまざまな事情を患者の側が心配する理由がある場合には、治療者のキャンセルの理由を知ることは一時的には不安の軽減(場合には逆効果?)に繋がるだろう。また患者によっては「きっと先生は私とはあまり会いたくないからではないか?」と疑う場合もあるかもしれない。すると治療者の側からの一言で、それが杞憂であるという一つの手掛かりが与えられるだけで、その患者はほっとするだろう。  ところが患者によっては全く治療者のキャンセルの理由を知りたくない場合がある。治療者が「父親が他界し、故郷に帰ります」と伝えることは、ある患者にとってはそれを伝えられてありがたく感じるかもしれない。しかし別の患者には大迷惑だったりする。(「先生の個人的なことは聞きたくありません。なるべく実在しない存在と感じていたいのに!」と言われることもあるのだ。)  つまり治療者が個人情報を患者に伝えることは「言い過ぎ」にも「言わなさすぎ(出し惜しみ)」にもなり、いずれにせよ少なからず治療関係にインパクトを与える。どちらに転んでも「先生は私の気持ちをやはりわかっていないんだ」という事になるとしたら、そのインパクトの大きさに従って治療で扱わざるを得なくなる。  しかしそこで治療者がそのことを取り上げて扱おうようとしても、その「扱い方」もまた問題になるだろう。ネガティブな反応だけに絞っても、次のようなものが浮かぶ。「どうして『家族の事情で』くらいに留めてくれなかったんですか?先生は私が何でも先生のことを知りたいとでも思っているんですか?」「私の父親を亡くした時のことを思い出しました。その時は私は悲しみのどん底でした。先生はどうしてそんなに平然としていられるのですか?」「あれから父親を亡くしたという先生の気持ちのことを考えてばかりいました。どうしてそんな余計なことを私に伝えたんですか?」「私が先生のお父さんのことについて聞いたときの私の気持ちをどうして尋ねてきたりするんですか?私の気持ちについてあれこれ聞かないで下さい!」など様々だろう。そしてそれぞれに対して治療者の側からのいくつもの返し方が存在する。さらにそのそれぞれにいくつかの患者の反応が考えられる。これも考えればきりがない。

2026年3月15日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 13

  実は告白するが、この論文は全く進んでいない。今の私の一番の気がかりはこのことだ。締め切りは4月の後半だが、このままだと単なるエッセイか、自分自身の著書(治療的柔構造)一冊しか引用文献のない出来損ないの論文になってしまう。はっきり言って…執筆を引き受けるべきではなかった。このテーマについて私は書く資格がないからだ。でも引き受けてしまったからにはしょうがない。とりあえず書き進めよう。トホホ・・・・

 いろいろ回り道をしているようだが、私はどうして治療的柔構造の発想に行き着いたかを書こうとしているのだった。しかし書いているうちに新たな考えが浮かんでくるのだ。つまり自分の中で全く「仕上がっていない」テーマなのだ。だから一点に収束していかないのだ。
 ともかくも精神分析の臨床をやりながら思ったのは、患者と私との会話において起きている力動(つまり感情的なやり取り)はほぼこのバウンダリーを巡って起きているということに気が付いたのだ。例えば開始時間、終了時間がそうだった。開始は2時くらい、終了は2時50分くらい、というのであれば、起きないことが、きっちり2時から2時50分と定められていることで起きる。  例えば私が少なくとも分析的なやり方を多少なりとも意識している時は、いつも終了時間はかなり正確に守っている(ただし終了時間なら正確には2時50分に終了にしてはいない。必ずほんのちょっと遅くにしている。ここですでに柔構造的になっているのだ)。だから私が話し続ける患者のために(私と患者の間で暗黙に定まっている終了時刻から)30秒間延長したら、ふつうそのような「持ち出し」は相手に伝わる。分析において構造の微細な侵犯(それほど大げさなものではないが)は患者の側にも伝わっているはずだからだ。そしてこれはアバウトな構造では生じないことなのである。これが「柔構造の基底に剛構造あり」と言われる所以だ。(←実は今自分で作った諺のようなものである。)

 治療構造としては時間以外にどういうことがあるだろう? たくさんある。その中で「匿名性の原則」を例に挙げよう。一挙に話が複雑になるが。治療者は原則として自分の情報を意図的に患者に伝えない。これはフロイトが最初に唱えたことで、多くの古典的なやり方で治療を行う分析家にとっては今でも重要な原則である。これを患者と治療者の間に引かれた線引き、一種の治療構造と考えよう。私はそれに対して自己開示(治療者が自分の情報を伝えること)は必要に応じて「あり」だと考える。しかし、である。自己開示は匿名性の原則があってこそ意味を持つ、というところがある。最初から何でもあり、では意味をなさない、というか意味が薄らいでしまう可能性があるのだ。

 もちろん友人や同僚どうしなら、自分のことをある程度は明かすのは、ある意味ではマナーの範囲だ。米国でも友人や同僚の間でどこまでは話すということが大体決まっていて、そのことは特別の理由を除いては互いに隠さないというところがある。結婚をしていたら指輪を身に着ける、という暗黙の決まりのようなものである。つまり個人情報に関してのバウンダリーはしっかりあり、だからこそ自分のプライバシーを執拗に明かす露悪的な人の前では、人はそこに「KY感」を感じてそ「引いて」しまうものだ。


2026年3月14日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 12  

  古き良き時代はこうではなかっただろう。いい加減、別の意味で柔構造的だったはずだ。昔の物々交換の時代に、隣人といつもニワトリ一羽と袋一杯のジャガイモとを交換していたとしよう。あなたはジャガイモ畑の所有者の方だ。するとある日「今日の鶏はちょっと小ぶりだな」とか「今日のジャガイモの袋はちょっといつもより小さいな」とお互いに思ったりするかもしれない。しかし確証が得られず、モヤモヤで終わっていた可能性がある。そのくらいのことでもめ事には発展しないはずだ。  しかし人間はお互いに被害的になる傾向があるからこそ、お互いに相手にごまかされていると思い、不仲や喧嘩につながることが多いのだ。逆に相手にサービスしてもらっているとお互いに思っているようなケースはずっと少ないだろう。おそらくそのような理由もあり、やがて価値の比率を重さで決めるなどし、そこに貨幣が導入されて定価が定まる。土地の境界もしっかり線が引かれてお互いにそれを厳密に守るようになるはずだ。  相変わらず脱線気味だが、私はこう言いたい。治療構造として開始時間が2時、一回50分と定められているからこそ、そこで「サービスをしてもらえた」とか「終了時間を一秒たりとも延ばしてくれないなんて、なんて頑固な治療者だろう?」などのあらゆるドラマが生じる。  興味深いことに定刻に始まり、定刻に終わったとしてもドラマが起きるのだ。お互いに持っている時計の時刻が数秒ずれるという事はありうる。すると患者が2時きっかりにドアをノックしても、少し時間が遅れている時計を使っていた治療者の方は、「まったく、まだ10秒あるのに…。だいたいほんのちょっと遅れてノックするのが礼儀だろう?」(←私の創作である。ただし私は定刻よりほんのちょっと遅れてノックをするようにしている。ノックされる側としては、時間よりほんの少しでも早くノックされるのは侵入的に感じ、遅れることで余裕をもらえたと思うからだ。)  なぜこんなことが起きるかと言えば、人間のやることは、(そして自然現象もそうであるが)常に揺らいでいるからだ。そして私たちは気分の波にも翻弄される。治療者と患者の間の挨拶にも表れるだろう。これは境界や治療構造とは異なるが、治療開始には治療者が「それでは始めましょう」と声をかけるとする。あるいは患者が「ではお願いします」で始まるとする。これは目に見えない治療構造として定まっているのだ。すると治療者の「それでは始めましょう」に彼の機嫌が反映されていたり、その声の大きさや嗄れ具合に体調が現れている可能性がある。するとセッションはいつもとはかなり違ったトーンで始まり、「先生はどうしたんだろう?」「気のせいかも知れないが、今日はあまり頷いてくれないな?」などと考えるようになっていく。  私はバカバカしい話をしているのであろうか?実は人間同士のやり取りでは、これは普通に起きている事であり、精神分析でもそうなのだ。仲のいい夫婦でも時々、本当にどうしようもなく些細なことから口論が始まるのを私たちはよく知っているはずだ。

2026年3月13日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 11

  この話、私が予想していなかった方向に向かっている。「治療構造をしっかり定めるからこそ、それをめぐる力動がわかるんだよ」とは、小此木先生が私が新人の頃に言っていたことだ。しかし治療構造を厳密に守ることの意味を疑い始めていた生意気な私は「それは建前でしょ?」と思っていた。「いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」(小此木先生があまりそれを守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそうおっしゃっていた。)しかし今こうして考えているうちに、まさに小此木先生の通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は正しかったのだ。しかし通常考えられるのとは別の意味で、なのだ。それに「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」という意味ともまた微妙に違うのだ。でもうまく説明できるだろうか?  セッションが2時から始まるという構造であったとする。治療者はぜったいにそれを厳守しようとする。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれをおろそかにすることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は剛構造的? どういうことだ?  ここで少し脱線して、商売を例にとって説明したくなった。治療者がお肉屋さんだとしよう。しかも古いタイプのお店で、量り売りをしているとする。昭和の肉屋さんはこうだったなあ。今でも町のパック詰めしない肉屋さんはそうか。  まあそれはともかく、100グラム300円の豚コマを売る時に、お肉屋さんは器に100グラム以下の豚コマを盛ることは絶対にできない。逆にそれ以上どれだけ「おまけ」をつけるかの裁量がある。(293円とかをつけるなら別だけれど。)お客の側は、肉屋が100クラムと主張している肉に、299円しか払うことは出来ない。ただし100グラム分以上のお金をチップ込みで払うという裁量はある。つまり物の価格は、肉屋にとっては料金という境界を内側にへこませることならできる。逆に客にとっては、絶対に内側にへこませることは出来ないが、外側に撓ませることならできる。つまり肉屋と客にとっては、値段という境界は「半柔構造的」(それも逆向きに)になっているのだ。  話は脱線気味だが、治療についても実は同じことが言える。患者は2時より早く来ることは出来ない。来ても治療者はドアを開けないのだ。第一前の患者さんがまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。  逆に患者の側なら、2時にノックをしても、20秒遅れでしかドアを開けてくれない治療者には時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「そんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかひじ掛けの中央線よりホンのちょっとでも侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←時代は適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。