「甘え」の関係の双方向性について ―精神分析的視点から
本章のテーマは甘え理論を現代的な視座から捉えなおすというものである。言うまでもなく甘え理論は、土居健郎先生が1950年代から考え、また提唱された概念であり、日本人一般にも、そして世界的にもよく知られた概念である。
私は土居先生の弟子という立場ではなかったが、個人的にもいろいろお世話いただいた関係である。私は2004年に米国留学から帰国して、聖路加国際病院の精神科にパートで勤め始めたが、そのオフィスはなんと土居先生が普段から使っているオフィスであった。そこを先生の診療のない月曜日に使わせていただいたのである。
土居先生は電子化の波を快く思われず、最初はデスク上にパソコンのモニターを置くことさえ抵抗されたという。デスクの引き出しを開けると先生の書きかけ中の手書きの原稿や処方箋が出てくるといった具合であった。
私が土居先生とオフィスを「シェア」させていただいた光栄な日々は5年続き、2009年に先生は聖路加に入院されてそこで最期を迎えられたが、最後にお見舞いに伺った時の痩せてちっぽけになられたお姿を今でも思い出す。
思い出話に流れそうになるが、ともかくもその土居先生の理論はもう提唱されてから半世紀以上が経つが、非常に先駆的であり、脳科学の時代に生きる私たちにとっても多くの示唆に富んだ理論と言える。パソコン嫌いだった先生はいまのAIの隆盛を天国で苦々しく見ていらっしゃると思うが、その理論は時代を超えて輝き続けているのである。
この辺で敬称を略するが、土居の理論を学ぶために最初に手に取るべきなのは、1971年の初版の「甘えの構造」である。その中で土居は甘えについて、以下のように言い表しているが、これは彼自身の甘えの定義と見ていいであろう。
「甘えの心理は人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることである」
これはかなり抽象的な定義と言えるが、土居はまた本来は誰もが甘えの意味を体験的に知っているとした。そしてそれを後に「相手の愛をあてにして、それによりかかる」(竹友への反論の論文)と言い直している。
土居の「甘えの構造」を改めて読み返して改めて思うのは、それが私たちの日常体験に近く、平易な言葉で書かれているということだ。土居は決して専門用語を使わないという主義であったというが(小林、遠藤、2012)そのことも彼の文章のわかり易さに繋がっていると思う。
甘えの概念の由来
土居の「甘えの構造」が彼自身の異文化体験に根差していることは、「甘えの構造」を読めば明らかであるが、そこで出てくる例もとてもわかり易い。特に最初の土居自身の異文化体験から説き起こされていることが大きな意味を持つと思う。というのも西欧社会で暮らすことで体験する様々な違和感は、まさに甘えの概念を成人の立場から理解する上で、恰好の素材と考えられるからだ。
土居は初めての渡米直後のエピソードについて語っている。米国人の知人宅に招かれ「あなたはお腹がすいているか、アイスクリームがあるのだが」と問われ、初対面の人にいきなり「お腹がすいています」とも言えず、「すいていない」と断ったところ、それ以上すすめられなかった。日本人なら違うのに、と彼は思ったという。(「甘えの構造」1971 ,p.1)
そしてさらに米国人の精神科の指導医に親切にされた時、思わずサンキューの代わりに I’m sorry と言ったら、向こうから怪訝そうな顔をされたという(同 p.2)、さらにパーティに呼ばれた時などに、「どうぞお好きにお召し上がりください」という意味での”Please help yourself” という英語の表現を聞いても、慣れないうちは「突き放された感じ」がして違和感を覚えたという。(同 p.4)
これらの例が示すのは、相手の気持ちを読み合う文化に育った私たちが、そうでない文化に接してカルチャーショックを味わうという事情である。空腹かどうかを問われたというエピソードも、「本当はお腹がすいているが、気恥ずかしくて言えない」というこちらの気持ちを、アイムソーリーという言葉も、相手が親切な行動を示してくれた際に、相手に負担をかけてしまったことについて、申し訳なく思ったという気持ちを、相手にわかってもらっていないという感覚を生んだのであろう。
ただしどうもそればかりではない可能性がある。空腹か尋ねられた例でも、その米国人に「相手(土居)が空腹かどうかを想像しないのですか?」と尋ねてみると、おそらく「それはそうかもしれませんが‥‥。そうならそうと言ってもらわないと分かりません。」という返事が返ってくるのは目に見えている気がする。そこには「相手が本当に空腹かどうかを考えるのは私の役割ではありません」という態度が透けて見える。そしてそこには自分のニーズ(必要としているもの)は自分が積極的に表明するという暗黙の了解があるかのようだ。それが”Please help yourself” のような表現に端的に表れていると言っていいだろう。
この問題は「相手の気持ちを敢えて読まない」と「相手の気持ちに鈍感である」の二つを含むようである。しかし両者はまったく別のことではない。何かニーズがあれば言ってくるであろうと考えることで、自然と相手の様子をうかがうことも減るであろう。そしてそれは結果的に相手の潜在的なニーズへの鈍感さと繋がるであろうからだ。そして土居はこれを米国人の鈍感さとしてとらえていたようである。
土居はこの米国での体験について、「甘えの構造」の中でかなり率直に語っている。
「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである」( 同、p.16)
「[米国では]精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。」(同、p.16)
土居はクリスチャンの家庭で育ち、早くから欧米の数々の思想にも触れていたという。しかし同時にかなり日本びいきで、「反米」的な人でもあった。彼のアメリカ人に対する批判には歯に衣着せないものも含まれる。