しかし精神分析的な治療関係においては、治療者がプライバシーを持ち込むことは、「それが患者にとって何らかの意味で助けになる限りにおいて」である。つまり実際は患者の側は治療者の個人的なことは聞きたくないかもしれないという可能性も考えて、むやみに伝えないことを原則とするのだ。 もし治療関係にかかわる事で治療者の側の情報を伝えるのであれば、それは最初からある程度意図して開示すべきものなのであろう。たとえば治療者が「今日は花粉症で何回かくしゃみが出るかもしれませんが、風邪ではありません。」とか「骨折をして松葉杖を使っていますが大丈夫です(その痛々しい姿は見ただけで明らかであり、それを隠しようもなく、そのことで患者のよけいな不安を取り除くため)」等の言葉がけは、治療者がそれを伝えた方が治療をよりスムーズに、かつ安全に行えるのであれば行うべきであろう。 ところが聞かれもしないのに治療者が「昨日は〇〇という映画を見ました。ラストシーンがよかったなあ。」などと伝えることの意味は恐らく皆無である。それは治療に全く関係ない、ただの世間話だからだ。しかし場合によってはそのような話も治療的な意味を持つかもしれない。たとえば患者の側が非常に緊張していて、治療者側が何かパーソナルな話を挿入することがその緊張感を和らげる助けとなると考えた場合などだろう。 このように考えると、治療者が自分について何をどこまで話すかというのはかなり微妙だが、確かにそこにバウンダリーが存在することで意味を持ってくると言えそうだ。治療者は塀の上をバランスを取りながら歩いているようなところがある。そして患者に何を伝え、何を伏せておくかを細かく考えながら歩を進めるのである。
さらにもう一つ具体例を挙げる。治療者が患者に二週後の週のセッションをキャンセルする必要があると告げるとする。その理由をどこまで告げるか、ということは結構微妙な問題だ。毎年同じ時期に学会関連の出張があり、今回は治療者がそれを伝えるのが遅れただけだと患者が察するであれば、特にキャンセルの理由を告げなくても問題はないだろう。しかし治療者の健康問題とか家庭のさまざまな事情を患者の側が心配する理由がある場合には、治療者のキャンセルの理由を知ることは一時的には不安の軽減(場合には逆効果?)に繋がるだろう。また患者によっては「きっと先生は私とはあまり会いたくないからではないか?」と疑う場合もあるかもしれない。すると治療者の側からの一言で、それが杞憂であるという一つの手掛かりが与えられるだけで、その患者はほっとするだろう。 ところが患者によっては全く治療者のキャンセルの理由を知りたくない場合がある。治療者が「父親が他界し、故郷に帰ります」と伝えることは、ある患者にとってはそれを伝えられてありがたく感じるかもしれない。しかし別の患者には大迷惑だったりする。(「先生の個人的なことは聞きたくありません。なるべく実在しない存在と感じていたいのに!」と言われることもあるのだ。) つまり治療者が個人情報を患者に伝えることは「言い過ぎ」にも「言わなさすぎ(出し惜しみ)」にもなり、いずれにせよ少なからず治療関係にインパクトを与える。どちらに転んでも「先生は私の気持ちをやはりわかっていないんだ」という事になるとしたら、そのインパクトの大きさに従って治療で扱わざるを得なくなる。 しかしそこで治療者がそのことを取り上げて扱おうようとしても、その「扱い方」もまた問題になるだろう。ネガティブな反応だけに絞っても、次のようなものが浮かぶ。「どうして『家族の事情で』くらいに留めてくれなかったんですか?先生は私が何でも先生のことを知りたいとでも思っているんですか?」「私の父親を亡くした時のことを思い出しました。その時は私は悲しみのどん底でした。先生はどうしてそんなに平然としていられるのですか?」「あれから父親を亡くしたという先生の気持ちのことを考えてばかりいました。どうしてそんな余計なことを私に伝えたんですか?」「私が先生のお父さんのことについて聞いたときの私の気持ちをどうして尋ねてきたりするんですか?私の気持ちについてあれこれ聞かないで下さい!」など様々だろう。そしてそれぞれに対して治療者の側からのいくつもの返し方が存在する。さらにそのそれぞれにいくつかの患者の反応が考えられる。これも考えればきりがない。