2.DIDの治療プロセス
治療目標
DID の治療の目標は、患者の統合された心身の機能の達成である。しかしそれは患者が有する複数の異なる人格が最終的に一つにまとめ上げられることを必ずしも意味しない。個々の交代人格の存在は、患者が過去に直面した外傷性のストレスに対処したりそれを克服したりするうえで行った適応的な試みの帰結である可能性がある。そしてそれぞれの人格には特有の存在意義と記憶と、自己表現の意思がある。そのため治療者は、交代人格を単なる部分とみなしたり、その存在を無視ないし軽視したり、「消える」ことを促したりすべきではない。
しかし心身の機能を担う身体がひとつである以上、どの人格の言動についても、たとえ他の人格はそれに関与した自覚や記憶がなくても、その結果について社会から責任が問われるという事情を理解し、受け入れることの援助も、治療者の重要な役割である。
なお欧米のDID の治療に関するガイドラインには、患者に新たな人格を作り出すことを示唆したり、名前のない人格に名前を付けたり、自律的な機能を担うよう促すことは慎重であるべきことがしばしば強調されたが、それには根拠がある。個々の人格の出現や消退は、患者が体験するライフイベントに大きな影響を受けつつ独自に展開する可能性がある。そこに治療者が人工的な手を加える際には、十分な治療的な根拠と患者との合意必要であろう。個々の人格のプロフィールを明らかにする、いわゆるマッピングについても、それが眠っている人格を不必要に覚醒させることにつながるのであれば、その是非は個別の臨床場面において判断されるべきであろう。 Putnam(Putnam FW Diagnosis and treatment of multiple personality disorder . New York: Guilford Press1989/ 安克昌、中井久夫(訳)多重人格障害-その診断と治療。東京、岩崎学術出版社2000)
治療目標として人格間の統合 integration や融合 fusion を掲げることは、そこに一部の人格の消失をニュアンスとして含む場合には、人格間の混乱を引き起こしかねないために慎重さを要する。望まれる治療の当初の目標は人格達の間の調和的な共存であり、それは特定の人格の消失を必ずしも意味しない。ただしその調和が、かつて存在が確認されたすべての人格により達成される保証はない。
治療者はまた人格間の理想的な調和を阻む要素にも留意すべきであろう。それらは加害者との継続的な接触、家庭内暴力などによる慢性的で深刻なストレス、うつ病などの精神医学的ないしは慢性疾患などの身体的な併存症を持っていること、治療を受けるための十分な経済的な背景を持たないこと、社会的な孤立などである。
現在多くのテキストでDIDの治療として以下のような3段階説が提唱されている。以下にISSDのガイドラインを参照しつつそれらの3段階について概説する。
治療の各段階
● 第1段階 安全性の確保、症状の安定化と軽減
治療の初期の目標は何よりも、安全、安心な治療関係の成立が大切である。治療の初期には、患者は非常に防衛的であったり、異なる人格の目まぐるしい入れ替わりが生じている可能性がある。この段階においては、治療者は安心できる雰囲気を保ちつつ、表現の機会を求めている人格にはそれを提供することでひとまず落ち着かせることも必要となろう。また治療者は患者とともに、異なる人格により表現されたものを互いにどこまで共有することが出来るかについても考える必要がある。時にはそれぞれの筆記したものを一つのノートにまとめて参照したり、生活史年表を作成したりするという試みが有効となる。治療は週に一度、ないしは二週に一度の頻度が望ましい。なおこの段階では過去のトラウマについて扱うことには慎重であるべきであろう。ただしそれがフラッシュバックの形で体験されている際にはその症状の軽減のための方策は望まれる。
● 第2段階 トラウマ記憶の直面化、ワーキングスルーと統合
安全な治療環境が整うに従い、それぞれの人格が抱えたトラウマ記憶が語られたり、そのフラッシュバックが生じ易くなる場合がある。それらのトラウマ記憶は夢によって再現されたり、日常接するメディアや映画、小説などに触発されることもある。治療者は適切な判断のもとにそれらが再外傷体験を導かないように注意しつつ必要な勇気付けを行いながら、トラウマ記憶が徐々にナラティブ記憶に改変されることを手助けすることが望ましい。それによりフラッシュバックの頻度が減り、特定の人格による行動化が少なくなることが当面の目標となる。ただしトラウマ記憶を扱うことについては人格ごとに意見が分かれたり、セッションの前後で解離症状が増す可能性に注意すべきであり、それらが生じる場合はトラウマの扱いを一時留保することも必要になる。
なおこの第2段階で治療者がトラウマ記憶を扱うことが一つの義務や使命のように感じることで、患者への負担になることは避けなくてはならない。トラウマを扱うということはそもそもトラウマ記憶を抱えた人格と交流するということでもあり、その詳細を探る事では必ずしもないことに治療者は注意すべきであろう。
DID の治療においてしばしば遭遇されるのは、多くの自然に姿を見せなくなる人格の存在である。それらの人々がことごとく過去のトラウマ記憶についての適切な処理が行われたとは限らない。
● 第3段階 統合とリハビリテーション、コーチング
この段階での「統合」は文字通りの人格間の統合というよりは、人格どうしが協力し合い、より調和的で生産的な人生を歩むようになった状態と理解すべきであろう。順調に治療が進み、回復へのプロセスを辿った場合、治療は現実適応を目指したリハビリテーションの段階になり、頻回の治療はおそらく必要がなくなっていくであろう。しかし定期的な診察やカウンセリングにより周囲や家族との関係についてのコーチングを継続することの意味は大きい。また患者がうつ病などの併存症を抱えている場合には、精神科受診による投薬の継続も必要となろう。
DID の患者がどのような家族のサポートを得られるかは、非常に重要な問題と言える。なぜならDID の症状の深刻さは基本的には日常的な対人ストレスのバロメーターと言えるからだ。有効な治療的な努力が行われていても、患者が暴力や暴言に満ちた環境で過ごす限りは、その効果は半減してしまうだろう。また患者のパートナーや同居者が一度は治療的な役割を担っても、早晩その自覚を失ってしまう可能性もある。その意味では継続的なカウンセリングは、よい治療結果を維持するという目的もあるのである。
DID の治療は多くの偶発的な出来事に左右され、治療者の思い描く治療方針通りに進まないことが多い。治療者は患者の身に降りかかるライフイベントや交代人格の予測可能な振る舞いに対応しつつ柔軟な姿勢を失わないことが重要であろう。