2025年10月30日木曜日

ある書評 5

 第八章 愛することと働くこと……フロイトの言葉を考える

この第8章も私が特に好きな章である。単体のエッセイとしてもとても優れたものということが出来る。著者はいよいよ臨床心理を学び始め、学費のために教科書搬入のアルバイトを行う。その肉体労働にふと楽しさを覚え、医療機器のメーカーでの営業職にはどうして楽しみを見出せなかったのかについて考える。そしてそれはアルバイトが将来につながる、あるいは生きがいに結びついた仕事であることに気が付く。そして改めて働くということの意味を問い直すのだ。
 私は中でも著者の「[前の営業職では]自分がやっていることが実感できなかった」という気付きに注目する。自分がある行動を起こすことで何かが変化するという感覚、いわゆる自己効能感が決定的な役目を果たす。その意味でも著者が今心理士として働くことで味わう喜びはどれほどばかりだろうと思うのだ。心理臨床は、セッションでクライエントと対峙し、だれにも指図をされることなく自分の信じるままに進めていく。基本的には評価を受けたり、勤怠を管理されることはない。そして自分の言動の結果は多くの場合よくも悪しくもクライエントに及ぶ。およそ「自分がやっていることが実感でき」ない状態には程遠い。実感されすぎてしまうほどだ。臨床は「自分の意思とは関係なく言われたことに従わされる」のではなく「自分の意思に従って行うことに結果が左右される」世界だ。同じストレスでも後者は前者よりも精神衛生上いいだろうし、著者もそう感じているはずだ。もちろん人それぞれで後者に耐えられないという人もいるであろう。一日に何人もクライエントのつらい訴えを聞くこと、ましてや何らかの意味のある介入を行うことが期待されるということが耐えがたい人もいるし、するべきことを与えられ、それを何も考えずに機械的にこなすことが一番嫌なことを忘れられるという人もいるだろう。そのような人にはこの著者の話はあまり意味をなさないかもしれない。

以上3つの章についての感想を述べたが紙幅の関係でここで留める。あとは読者が各自本書をひも解いて存分に楽しんでいただきたい。


2025年10月29日水曜日

ある書評 4

 第七章 先が見えないときどうしたらいいの?……ネガティブ・ケイパビリティ

 この章は少し不思議な章である。著者は「先が見えない時どうしたらいいの?」というタイトルからネガティブケイパビリティ(以下、NC)の話に入る。著者は営業の仕事を辞める決心をし、それを恐る恐る部長に伝えるが、部長は決して怒ることなく、むしろ飲みに誘ってくれたという。NCとは詩人キーツが使い、それを分析家ビオンが取り上げている概念である。それは「人が事実と理由を性急に追い求めることなく、不確実さ・謎・疑惑の中に留まることが出来ること」とされる。それが著者の置かれた立場とどうつながるかは分かりにくいかもしれない。著者はこの頃には大学院の心理学科に合格し、仕事を辞めることを決めていて、それを上司に伝えることについては迷いがなかったのだ。
 実は彼にとって未知だったのは、部長がそれにどのような反応をするかであった。自分のように営業職→退職→学びなおし、という方針変換をする人間が部長にはどう映るのかがつかめなかったのだ。しかしそれを告げた時の部長の冷静でむしろ共感的な態度により支えられた、とある。自分の中に持っていたいわれのない罪悪感などを払拭することが出来「これでよかったのだ」という思いを持つことが出来たのであろう。この「他者から見えるであろう不可解さ」が解消されたことで、彼は自分の行っていることの分からなさから最終的に解放されたということだろうか。
 この様に部長により見事に救われた著者であったが、ではどうやってNCを持つことが出来るかという問題に彼は向かう。それは本を読んでも答えが見つからない。結局自分自身が「不確実さ・謎・疑惑の中に留まる」しかないということになるという。つまりNCとは答を他に求めるではなく,自分の中に求めるしかないということを意味するのだと著者は考える。自分は不確実性に苦しみ、じたばたする。そして起こした行動がある種の現実を突きつける。そして他人を巻き込むことなく、そこから学んでいくしかない。
 とすればNCからの救いは結局は他者を介するということになるのではないか。著者の場合はそれはほかならぬ部長だった。部長は部長で、著者と同じ「このままでいいのか?」という悩みを何年か前に持ち、その答えとして同職にとどまることを選び、またそれを受け入れた可能性がある。その諦めと受容があったらこそ、著者の葛藤もそれなりに「わからないながら」受け入れることが出来たのだろう。部長がNCを備えていたことは、著者の訳の分からない人生の決断を淡々と聞き入れたというところに表されていたわけだ。つまりそれはもうその人の人生のスタイルになり、他の人とは異なるユニークさであり、本書に登場する刑事コロンボも、結局はNCに対処する自分のスタイルを身に着けたのだろう。
 ちなみに評者はNCの一部は不可解さを楽しむ能力ではないかと思う。不可知であることは裏を返せば、自分のその事柄への対処は無限の自由を秘めていることなのである。

2025年10月28日火曜日

ある書評 3

 この短いスペースでは内容に詳しく立ち入ることはできないが、いくつか印象に残った部分を紹介しよう。

第六章 「自分の人生このままでいいの?……人生を物語ること」
 この章で著者がドラえもんとタイムマシンとの関係で自分の人生を語っている部分がとても面白い。著者は医療機器の営業職に携わりながら、いかに自分がそれに向いていないかを知り、初めて将来について真剣に考えていたようである。なぜ最初に営業職に就く前にそれを考えなかったのかは読者にはよくわからないが、自分にやりがいや使命感のようなものを体験でき、心について、人間についても深く考える機会を得ることを期待していたのかもしれない。しかしそれはある意味では全く見当外れであったことがわかる。自分がしたいこと、感じることが封印される毎日。そしてそれを続けて将来どうなるかを先輩や上司が実例として見せてくれる。ある意味では著者はタイムマシンに乘って自分の未来像に出会い、その自分が心情を吐露するのを聞いたのだ。そして思った。「自分はこのようにはなりたくない。」
 こうして人より数年遅れて臨床心理の世界に入った著者は、最初から漫然と臨床心理に入っていた場合に比べてずいぶん性根の座った心理士になれているのではないか。一度別のタイムマシンに乗っているからである。そして本書を通して著者は再びタイムマシンに乗り、今度は逆向きの旅をして過去の自分に出会う。そして今の自分の萌芽は既に20年前にあったことを各章を通して再確認しているのである。
 これは一見フロイトの言葉「本質的なことはすべて保たれている。完全に忘れられてしまっているように見えることでさえ、何らかのあり方を取って、どこかになお存在している。それはただ埋没させられているだけであり、個人の自由にならないようにされているのである。」(全集21巻 分析における構築)を裏付ける作業のようであると著者は言う。しかしこれは同時にナラティブの構成の作業でもあるのだ。なぜならさらに20年経ってまた全く別の新たな道に進んでいるかもしれない著者は、本書を読み返して新たな道に進む前触れをそこに見出すかもしれないからである。


2025年10月27日月曜日

ある書評 2

 ある書評の続きを書いている。

 それにしても本書の構成は旨くできている。著者は彼の人生の上での様々な場面で遭遇した問題について書いているわけではない。彼は大卒後初めて務めた職場で、比較的短期間の間に一連の経験を持ち、それらにより大きな方針転換を迫られ、結局臨床心理の道に向かうことになったのだ。つまりそれらの期間は数年に限られ、同じ職場でいわば定点観測のようにして体験したことを抽出し、回顧する形を取っているのだ。そしてそれらの体験は同じトーンを帯び、それらが全体として著者の人生のかじ取りに手を貸したのだ。

 その著者のおかれた境遇では、何人かの上司や同僚が、著者に様々な現実を突き付けてくるのであるが、彼らは決して社会人としての表向きの品行方正な姿を見せるのではない。ある意味では一番本音をぶつけやすい後輩の立場にある著者に対して、かなり無遠慮に、裏側の顔を見せる。彼らは目の前の新人が将来心理士となり、自分達を本に登場させるなどとは夢にも思わなかっただろう。その意味では著者の視点は自然観察を行う動物生態学者のそれに似ている。
 その意味では著者は心についての学徒としてまたとない機会を得られたことになる。そして普通なら一種の社会勉強と考えて受け流し、そのうち忘れてしまうような先輩の言動に深く考え込み、そこに将来の自分を重ねる。そう、彼はある意味では心理士になる前からすでにすぐれた心の観察者としての資質を存分に発揮していたのだ。

2025年10月26日日曜日

解離症の精神療法 推敲の推敲 4

   ● 入院治療

DIDの患者の診断的な理解が不十分な段階では、時として生じる頻繁な自傷行為や解離状態での行動化のためにパーソナリティ症や精神病が疑われ、危機介入の意味で緊急入院となることがある。しかしその場合には入院後には解離症状が治まるとともに平静さを取り戻し、早期に退院となることが多い。しかし抑うつ症状に伴う自傷行為や自殺傾向が強まった場合、ないしは再外傷体験に伴う人格の交代が頻繁に生じて本人の混乱が著しい場合などには、一時的な入院治療の必要が生じるであろう。入院の目的としては、患者の安全を確保し、現在の症状の不安定化を招いている事態(たとえば家族間の葛藤、深刻な喪失体験など)があればそれを同定して改善を図ることなどが挙げられる。
 外来治療においては情緒的に不安定であったり深刻なトラウマを抱えている人格については十分にそれらを扱う余裕がないという問題が生じることがある。しかし比較的長期の入院が可能であれば、病棟による安全性も確保されることで、それらの問題を扱うことが可能になるかもしれない。
 ただし解離症の入院治療は解離症の理解やその治療の特異性を踏まえた看護スタッフの存在が不可欠であり、さもなければ入院治療がさらなるトラウマ体験となってしまう可能性も否定できない。

3.DFの治療プロセス


<以下省略>


2025年10月25日土曜日

解離症の精神療法 推敲の推敲 3

2.DIDの治療プロセス 

治療目標

DID の治療の目標は、患者の統合された心身の機能の達成である。しかしそれは患者が有する複数の異なる人格が最終的に一つにまとめ上げられることを必ずしも意味しない。個々の交代人格の存在は、患者が過去に直面した外傷性のストレスに対処したりそれを克服したりするうえで行った適応的な試みの帰結である可能性がある。そしてそれぞれの人格には特有の存在意義と記憶と、自己表現の意思がある。そのため治療者は、交代人格を単なる部分とみなしたり、その存在を無視ないし軽視したり、「消える」ことを促したりすべきではない。
 しかし心身の機能を担う身体がひとつである以上、どの人格の言動についても、たとえ他の人格はそれに関与した自覚や記憶がなくても、その結果について社会から責任が問われるという事情を理解し、受け入れることの援助も、治療者の重要な役割である。
 なお欧米のDID の治療に関するガイドラインには、患者に新たな人格を作り出すことを示唆したり、名前のない人格に名前を付けたり、自律的な機能を担うよう促すことは慎重であるべきことがしばしば強調されたが、それには根拠がある。個々の人格の出現や消退は、患者が体験するライフイベントに大きな影響を受けつつ独自に展開する可能性がある。そこに治療者が人工的な手を加える際には、十分な治療的な根拠と患者との合意必要であろう。個々の人格のプロフィールを明らかにする、いわゆるマッピングについても、それが眠っている人格を不必要に覚醒させることにつながるのであれば、その是非は個別の臨床場面において判断されるべきであろう。 Putnam(Putnam FW Diagnosis and treatment of multiple personality disorder . New York: Guilford Press1989/ 安克昌、中井久夫(訳)多重人格障害-その診断と治療。東京、岩崎学術出版社2000)

治療目標として人格間の統合 integration や融合 fusion を掲げることは、そこに一部の人格の消失をニュアンスとして含む場合には、人格間の混乱を引き起こしかねないために慎重さを要する。望まれる治療の当初の目標は人格達の間の調和的な共存であり、それは特定の人格の消失を必ずしも意味しない。ただしその調和が、かつて存在が確認されたすべての人格により達成される保証はない。
 治療者はまた人格間の理想的な調和を阻む要素にも留意すべきであろう。それらは加害者との継続的な接触、家庭内暴力などによる慢性的で深刻なストレス、うつ病などの精神医学的ないしは慢性疾患などの身体的な併存症を持っていること、治療を受けるための十分な経済的な背景を持たないこと、社会的な孤立などである。
 現在多くのテキストでDIDの治療として以下のような3段階説が提唱されている。以下にISSDのガイドラインを参照しつつそれらの3段階について概説する。

治療の各段階

● 第1段階  安全性の確保、症状の安定化と軽減

治療の初期の目標は何よりも、安全、安心な治療関係の成立が大切である。治療の初期には、患者は非常に防衛的であったり、異なる人格の目まぐるしい入れ替わりが生じている可能性がある。この段階においては、治療者は安心できる雰囲気を保ちつつ、表現の機会を求めている人格にはそれを提供することでひとまず落ち着かせることも必要となろう。また治療者は患者とともに、異なる人格により表現されたものを互いにどこまで共有することが出来るかについても考える必要がある。時にはそれぞれの筆記したものを一つのノートにまとめて参照したり、生活史年表を作成したりするという試みが有効となる。治療は週に一度、ないしは二週に一度の頻度が望ましい。なおこの段階では過去のトラウマについて扱うことには慎重であるべきであろう。ただしそれがフラッシュバックの形で体験されている際にはその症状の軽減のための方策は望まれる。

● 第2段階 トラウマ記憶の直面化、ワーキングスルーと統合 

安全な治療環境が整うに従い、それぞれの人格が抱えたトラウマ記憶が語られたり、そのフラッシュバックが生じ易くなる場合がある。それらのトラウマ記憶は夢によって再現されたり、日常接するメディアや映画、小説などに触発されることもある。治療者は適切な判断のもとにそれらが再外傷体験を導かないように注意しつつ必要な勇気付けを行いながら、トラウマ記憶が徐々にナラティブ記憶に改変されることを手助けすることが望ましい。それによりフラッシュバックの頻度が減り、特定の人格による行動化が少なくなることが当面の目標となる。ただしトラウマ記憶を扱うことについては人格ごとに意見が分かれたり、セッションの前後で解離症状が増す可能性に注意すべきであり、それらが生じる場合はトラウマの扱いを一時留保することも必要になる。
 なおこの第2段階で治療者がトラウマ記憶を扱うことが一つの義務や使命のように感じることで、患者への負担になることは避けなくてはならない。トラウマを扱うということはそもそもトラウマ記憶を抱えた人格と交流するということでもあり、その詳細を探る事では必ずしもないことに治療者は注意すべきであろう。
 DID の治療においてしばしば遭遇されるのは、多くの自然に姿を見せなくなる人格の存在である。それらの人々がことごとく過去のトラウマ記憶についての適切な処理が行われたとは限らない。

 ● 第3段階 統合とリハビリテーション、コーチング

この段階での「統合」は文字通りの人格間の統合というよりは、人格どうしが協力し合い、より調和的で生産的な人生を歩むようになった状態と理解すべきであろう。順調に治療が進み、回復へのプロセスを辿った場合、治療は現実適応を目指したリハビリテーションの段階になり、頻回の治療はおそらく必要がなくなっていくであろう。しかし定期的な診察やカウンセリングにより周囲や家族との関係についてのコーチングを継続することの意味は大きい。また患者がうつ病などの併存症を抱えている場合には、精神科受診による投薬の継続も必要となろう。
 DID の患者がどのような家族のサポートを得られるかは、非常に重要な問題と言える。なぜならDID の症状の深刻さは基本的には日常的な対人ストレスのバロメーターと言えるからだ。有効な治療的な努力が行われていても、患者が暴力や暴言に満ちた環境で過ごす限りは、その効果は半減してしまうだろう。また患者のパートナーや同居者が一度は治療的な役割を担っても、早晩その自覚を失ってしまう可能性もある。その意味では継続的なカウンセリングは、よい治療結果を維持するという目的もあるのである。
  DID の治療は多くの偶発的な出来事に左右され、治療者の思い描く治療方針通りに進まないことが多い。治療者は患者の身に降りかかるライフイベントや交代人格の予測可能な振る舞いに対応しつつ柔軟な姿勢を失わないことが重要であろう。

 


2025年10月24日金曜日

解離症の精神療法 推敲の推敲 2

 生育歴と社会生活歴

解離症の患者の多くに過去のトラウマや深刻なストレスの既往が見られる以上、それらの内容の把握も重要となる。ただしトラウマ体験の聞き取りは非常にセンシティブな問題を含むため、その扱い方には慎重さを要する。特に幼少時の性的ないし身体的なトラウマをはじめから想定し、いわば虐待者の犯人探しのような姿勢を持つことは望ましくない。
 DID において面接場面に登場している人格が過去のトラウマを想起できない場合や、家族の面接からも幼少時の明白なトラウマの存在を聞き出せないこともまれではない。さらには幼児期の出来事のうち何がどの程度のインパクトを持ったストレスとして当人に体験されるかには、大きな個人差がある。繰り返される両親の喧嘩や、同胞への厳しい叱責や躾けを目撃することが、解離症状につながるような深刻なトラウマを形成することもある。
 成育歴の聞き取りの際には、さらにそのほかのトラウマやストレスに関連した出来事、たとえば転居や学校でのいじめ、登下校中に体験した性被害、疾病や外傷の体験等も重要となる。 


診断および説明、治療指針

初回面接の最後には、面接者側からの病状の理解や治療方針の説明を行う。無論詳しい説明を行う時間的な余裕はないであろうが、その概要を説明することで、患者自らの障害についての理解も深まり、それだけ治療に協力を得られるであろう。また筆者は解離症に関する良質の情報を患者自身が得ることの意味は大きいと考えている。少なくとも患者が体験している症状が、精神医学的にはすでに記載されており、治療の対象となりうるものであるという理解を伝えることの益は無視できないであろう。  
 患者がDID を有する場合、それを伝えた際の反応は人格ごとにさまざまであり、時には非常に大きな衝撃を受ける場合もある。ただし大抵はそれにより様々な症状が説明されること、そしてDID の予後自体が、多くの場合には決して悲観的なものではないことを伝えることで、むしろ患者に安心感を与えることが多い。ただし良好な予後をうらなう鍵として、重大な併存症がないこと、比較的安定した対人関係が保て、重大なトラウマやストレスを今後の生活上避け得ることなどについて説明を行っておく必要がある。
 治療方針については、併存症への薬物療法以外には基本的には以下に紹介するような精神療法が有効であること、ただしその際は治療者が解離の病理について十分理解していることが必要であることを伝える。またDF に関しては、最終的な診断が下された後は、筆者は患者の記憶の回復が必ずしも最終目標ではなく、出来るだけ通常の日常生活に戻ることの重要さを説明することにしている。

岡野憲一郎 (2007)解離性障害入門 岩崎学術出版社