ICD-11(2022)に登場したCPTSDの概念はこの問題の理解を一歩進める役割を果たしたと言えよう。CPTSDは主として幼少時の(定義は必ずしもそうと限定してはいないが)頻回のトラウマによる長期的な影響に関する診断であり、主として単回性のトラウマによるPTSDよりさらに慢性的で深刻な、パーソナリティ全体に及ぶような状態をさす。 さてこのCPTSDの概念は、実は悩ましい問題を含む。単回性PTSDに比べ、CPTSDには解離症状がより特徴づけられるかと言えば、必ずしもそうではない。CPTSDの患者の一部は解離性障害を伴い、それらの人たちはより深刻な適応上の問題を呈することがわかっているが、必ずしもCPTSD=解離、というわけではない。ここら辺は 1990年代の Judith Herman のオリジナルのCPTSDと異なるところだ。(Herman の最初のCPTSDの概念は、CPTSD=DID+BPD+somatoform disorder であった。)CPTSDの問題はほかにもあり、そもそもCPTSD=PTSD+DSO(自己の組織化の障害)であるならば、CPTSDはPTSDの下位分類になるはずだが、別個に独立してあげられている。何となれば、長期の繰り返されるトラウマでパーソナリティの障害に至っている人々、という事であれば必ずしも明確なPTSD症状を伴わなくても診断されるという傾向がある。でも臨床的にはこのCPTSDは重要なんだなあ。
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist
精神科医が日常的な思いつきを綴ってみる
2026年1月13日火曜日
2026年1月12日月曜日
ショアのメッセージ 1
アラン・ショア著、小林隆児訳(2025)「精神療法という技法の科学」Allan Schore (2012)The sciene of the Art of Psychotherapy. W. W. Norton & Company.を正月の間少しずつ読んでいる。(実は書評を依頼されているからだ。トホホ。)そして彼の言うパラダイムチェンジを少しずつ分かりかけているところだ。それをトラウマと解離という文脈からまとめてみる。 トラウマ関連障害に関する脳科学的な知見が増すにつれて、トラウマが脳および心に及ぼす影響に関する新たな理解が得られるようになって来ている。PTSDと解離症を結ぶ研究として注目されるのが、妊娠後期からの愛着期における右脳の神経回路の発達およびそれが愛着トラウマにより阻害された場合に生じる精神医学的な症状の表れである。その結果PTSDと解離はトラウマ反応という一つの現象の二つの側面という理解がなされるようになってきている。少なくとも両者を個別のものと理解して治療する意味は少なくなってきているのだ。ショアは右脳の高次右脳(眼窩前頭皮質)と皮質下右脳(扁桃体)の連携が愛着の時期に形成されることの重要性を説き、それが阻害されることで交感神経系の過活動と背側迷走神経系の過活動がそれぞれ生み出す病理としてのPTSDと解離状態を説明する。このうち前者の過活動が優勢な場合にPTSD(非解離型)、後者が過活動の場合に解離症という表れ方をとる。要はアクセルとブレーキの両方を踏んだ時に、どちらの効果が顕著になるかという事だが、最終的には後者の方が優勢になることがわかっている。その極端な表れが 擬死反射 apparent death or feigning death という事になる。アランショアの主張は、愛着期におけるトラウマが右脳のストレス処理機構に障害を及ぼし、それがしばしば解離傾向を生む。
2026年1月11日日曜日
PDの精神療法 新たに書き直し 6
この依頼論文。一応形の上では出来上がったが直感的には「このままでいいはずがない」のに、具体的には何処がおかしいのかわからない状態である。この段階で一度プリントアウトして、紙ベースで読みなおすことでどこに違和感があるかを探ることになる。
PDの精神療法
本特集の中で、本章は「Ⅲ さまざまな精神疾患に対する精神療法」の第13番目として位置づけられる。扱う対象はパーソナリティ障害であるが、他章の統合失調症やパニック症、摂食症などと比較して、DSM-5のカテゴリカルモデルに従っただけでも10の障害を含む大所帯であり、とても網羅的な解説をする余裕はない。そこでまずPDの精神療法についての概説を述べ、その後に各論として、境界パーソナリティ症、自己愛パーソナリティ症、発達障害および複雑性PTSDに関係したパーソナリティ障害について論じることとする。
(以下略)
2026年1月10日土曜日
PDの精神療法 新たに書き直し 5
2)自己愛性PD
自己愛性PD(以下、NPD)の患者はその性質上、自発的に精神療法を求めることは多くはなく、しばしば他の精神疾患に伴う形で治療場面に表れることが多い。しかし自己愛の問題を抱える患者は多く、その治療論に関する歴史的な経緯を知っておくことは重要であろう。
NPDに対する精神療法的アプローチはBPDの治療理論と歩調を合わせる形で発展した。1970年代よりHeinz Kohut (1971) とKernberg (1975) がそれぞれかなり異なる治療論を提出して論争となった。Kohut は自己愛を本質的に健全なものと考え、患者が幼少時に親から十分な共感を得られなかったことによる「自己の断片化」がその病理につながると考えた。そして治療者が患者の体験の肯定的な側面により多くの注意を払い、共感的なアプローチの重要さを強調した。また治療の目標は適切な「自己対象」を見出す助けとなることであると考えた。
それに対してKernberg は患者の示す理想化をスプリッティングを伴う防衛とみなし、患者が有する貪欲さと要求がましさに注目し、それらに対する直面化の重要性を説いた。Kohutと異なり、Kernberg はむしろ患者の示す否定的な側面への直面化を重視することになる。
このようにKohut と Kernberg はやや対照的な治療論を展開したが、現実の治療ではこれらのいずれかに偏ることなく、患者の言葉に耳を傾け、転移と逆転移の発展を観察し、その時々の介入に対する患者の反応に注目しながら治療を進めていくべきであろう(Gabbard, 2014)。なおNPDの治療に関してもメンタライゼーションの見地からの治療の有効性が示されている。(Ritter K, Dziobek I, Preibler S, et al 2011, Choi-Kain, LW. Sebastian Simonsen,S et al: 2022)
なお岡野は自己愛の問題が人間社会に偏在し、それがPDというよりは一つの現象として状況依存的に個人により発揮されるという視点を示した(恥と自己愛トラウマ 岩崎学術出版社 2014)
3)発達障害に関連したPD
ここではASD(自閉スペクトラム障害)を典型的な形でではなく、あくまでも傾向として有する患者について述べる。ASD傾向は一般のPDにも頻繁にみられ、筆者はBPDの患者が持つ他罰性や他者の気持ちを理解することの難しさにはしばしばこの問題が関与していると考えている。上述のBPDに対するMBTによるアプローチにも同様の患者理解が反映されているといってよいであろう。患者の示す独特の関心や確信、思考行動パターンは、それを強制することではなく、それが対人関係に及ぼす影響を共に考えるという文脈で取り上げるべきである。
内海は発達障害への治療的な関りに関し、いくつかの留意事項をあげている。それは患者の固有の世界やその発達経路を尊重することであり、その治療の目標も定型者としての振る舞いへの強制ではないこと、そしてその意味でも治療が逆に害をなしてはならないことをあげ、治療があくまでも患者のそして自己価値の低下を修復することをあげる。
内海健(2015)自閉症スペクトラムの精神病理 星をつぐ人たちのために 医学書院
4)CPTSDに関連したパーソナリティ傾向
近年では幼少時のトラウマがPDのスペクトラムの根本に存在しているとも言われる(Lanius, et al、2010 ショア書評本の435)それに関連して近年ICD-11(2022)に記載されたCPTSDの診断基準に従うならば、PTSD症状と共にいわゆる自己組織化の障害(Disturbance of Self-Organization、以下DSO)、すなわち感情のコントロールの困難さ、否定的な自己概念、対人関係の困難さが診断基準として挙げられている。これらはPDに準ずるものと見なすこともできよう。CPTSDの治療アプローチとして我が国に紹介されたものを二つ紹介しておく。
ピート・ウォーカーPete Walker は自身がCPTSDの体験を持つ立場から、CPTSDは単なる「反応」ではなく、持続的な対人侵害や見捨てられ体験(すなわち「アタッチメントの不全」、幼少期の不安定なケア経験が人間関係の学習機会そのものを奪った影響)を反映した習慣性の反応として理解されるべきだとする。そしてウォーカーは、CPTSDの回復において安全な治療関係(安全基地の提供), 感情フラッシュバックの理解と管理などを重視する。またCPTSD特有の emotional flashbacks(感情的フラッシュバック)は、過去の関係パターンに侵されるように現在の生活に現れるとし、それを自覚し、距離を置き、対応スキルへとつなげることが治療の中心となる。
この療法においてはただ認知を変えるだけでなく、患者の身体感覚・情動体験を統合し、自分自身を取り戻すプロセスが中核にあり、実際のスキルとしてはジャーナリング、呼吸や緩和技法、情動ラベリング等が用いられる。
アリエル・シュワルツ(Arielle Schwartz)はCPTSDに対する統合的・身体と心をつなぐ治療モデル( マインドボディアプローチ)を提案する。 シュワルツのアプローチもまたCPTSDをただ認知の問題としてではなく、身体の反応と精神の連動として治療することに重きを置く点が特徴的である。そしてトラウマは単に思考や感情の問題ではなく、自律神経や身体感覚に刻まれているという立場から、マインドフルネス、ポリヴェーガル理論の応用、身体介入などを統合する。
最後に
本章ではPDについての精神療法の総説的な解説を行った。精神療法家は患者の病態の理解や見立てを行う上で診断的な理解を必要とせざるを得ない。しかしそれは患者の問題をカテゴライズすることを意味するのではない。PDの概念は今なお流動的で、今後も更なる発展や変化を経る可能性を秘めている。カテゴリカルモデルとディメンショナルモデルはそれぞれ一長一短があり、それを必要に応じて取り入れて行くことになるが、その共存は時には混乱を招きかねない。本稿ではその際に患者が有するボーダーライン傾向、トラウマの影響、そして発達障害の影響を脳裏に持ちつつ、その見立てと治療に取り組むことを示唆した。冒頭にも述べたとおり、PDの治療はあらゆる病態の治療と同様に、患者という人間と治療者とのダンスにたとえられ、柔軟にかつブレない姿勢が求められる。その踊り方の指針としていくつかを示したことになるが、臨床家にとって少しでも参考になることを望む。
2026年1月9日金曜日
PDの精神療法 新たに書き直し 4
各論
1)BPDの精神療法
BPDの精神療法に関しては、これまでにさまざまなアプローチが提案され、その効果についてのエビデンスが示されているものも多い。いわば「あらゆる治療法が効果的となりうる」という印象さえ受ける。しかし共通して言えるのは、良好な治療同盟の成立が治療効果をうらなう最も重要なファクターの一つであるということである。またそれらはいずれもBPDの脳内基盤と考えられる扁桃核の機能亢進とそれに伴う前頭前野の活動低下を緩和する方向に働いていると考えることが出来る(Gabbard, 446)。ただしBPDの精神療法の効果について論じることの難しさは、患者の多くがうつ病などの併存症を有していることにある。Fonagy, 206)
現在BPDの治療として無作為化対照比較試験 (RCT)による有効性が確かめられているのは複数あるが、このうちのいくつかについて、以下に述べる。
MBT(mentalization-based therapy メンタライゼーションに基づく治療)の治療の要は、患者のメンタライゼーション機能の強化である。BPDの治療に際して、患者は治療者に対する転移的な受け取り方を、いくつかある可能性の一つとして考えるのではなく、それが現実に根差したものであると考える傾向にある。すなわち彼らはふりをするモードpretend mode に入り転移関係の中で「遊ぶ」ことが難しいからである。患者が治療者に対して挑発的になったり、怒りや被害感を表明した場合には、治療者も余裕をなくして自身のメンタライゼーションの力を一時的に損なうことになりかねない。そのような場合には治療者はそれに対する指摘や解釈を行うよりは、できるだけ患者の気持ちを語ってもらい、必要に応じて治療者自身の気持ちを表すことで互いのメンタライゼーションを高め合うことが出来るであろう。(Bateman and Fonagy, 2004)。Bateman AW, Fonagy P(2004)Psychotherapy for Borderline Personality Disorder: Mentalization-Bsed Treatment. Oxford, UK,Oxford University Press.狩野力八郎、白波瀬丈一郎監訳 (2008) メンタライゼーションと境界パーソナリティ障害 岩崎学術出版社.
TFP(transference-focused therapy 転移焦点付け療法)は Otto Kernberg (1984) のBPDの精神分析的な治療概念に基づき発展した(Clarkin et al 2007) 。TFPでは患者の抱く心的表象の偏りは内在化された養育者との愛着関係に由来し、それが治療者との間で転移の形で再体験されると考え、その点では上述のMBTに類似する。しかしTFPにおける主たる治療技法は、患者と治療者との間で展開する転移関係の明確化、直面化、および解釈であり、特に患者の攻撃性や敵意などの陰性転移を早期から扱うことが重要とされる。セッションは週2回行われ、治療契約と明確な治療の優先順位に基づいて構造化された枠組みを持つ。
Clarkin, J.F., Levy K.N., Lenzenweger M.F. et al .: Evaluating three treatments with borderline personality disorder: a preliminary mu1ti-wave study of behavioral change. Am J Psychiatry 164(6);922-92. 2007
Kernberg, O.:Severe Personality Disorders: Psychotherapeutic Strategies. Yale Univ Press 1984(西園昌久: 重症パーソナリティ障害―精神療法的方略. 岩崎学術出版社, 東京, 1997)
DBT(Dilalectic behavioral therapy 弁証法的行動療法)は米国のMarsha Linehan (2006) により自殺傾向の強いDBTの患者を対象に開発された認知行動療法の一種である。米国精神医学会によりBPDの治療として推奨されているが我が国での普及は十分とは言えない。DBTにおいては患者は問題解決のための感情調節のスキルを学ぶとともに、自身に対する妥当性を承認される環境を与えられる。治療は個人療法とグループスキル・トレーニングなどの複合的な構造を有し、このうち後者ではマインドフルネススキル、対人関係保持スキル、感情抑制スキル、苦悩耐性スキルを高めることが目指される。
Linehan M.M., Comtois, K.A., Murray, A.M. et al. :Two-year randomized controlled trial and follow-up of dialectical behavior therapy vs. therapy by experts for suicidal behaviors and borderline personality disorder. Arch Gen Psychiatry 63(7);757-766. 2006
遊佐安一郎、 宮城整ほか (2019) 感情調節困難の家族心理教育―境界性パーソナリティ障害,神経発達障害,摂食障害,物質関連障害,双極性障害などで感情調節が困難な人の家族のために― 精神経誌 第121巻第2号 pp131ー138
DDP(Dynamic Deconstructive Psychotherapy 力動的脱構築精神療法)は、BPDの社会での対人関係に焦点づけられた精神療法である。この治療法は、対象関係理論や神経科学、脱構築哲学などを盛り込んだ治療指針を有し、問題解決やアドバイスではなく、問題の背後にある脆弱さに注目し変革的な癒し transformative healing を提供するものとされる。週に一度のセッションだけでなく、毎日の対人交流シートを活用することを求められる。
Gregory RJ,De lucia-Deranja E, MogleJA (2010) Dynamic deconstructive psychotherapy versus optimized community care for borderline personality disorder co-occurring with alcohol use disorders: 30 months follow-up. J Nerv Ment Dis 198:292-298.
2026年1月8日木曜日
PDの精神療法 新たに書き直し 3
6.メンタライゼーションを促進すること
後に述べるようにBPDの治療において中核的となるのが、メンタライゼーションに基づく治療である。患者が自らの思考や行動が他者の心にどのように映るかについて考えることを治療者は促すことで、患者の抱える対人関係上の問題をより客観的に把握する能力を育むことに努める。患者が治療者に対して挑発的になったり、怒りや被害感を表明した場合には、治療者も余裕をなくして自身のメンタライゼーションの力を一時的に損なうことになりかねない。そのような場合には治療者はそれに対する指摘や解釈を行うよりは、できるだけ患者の気持ちを語ってもらい、必要に応じて治療者自身の気持ちを表すことで互いのメンタライゼーションを高め合うことが出来るであろう。ただしメンタライゼーションを高める能力は患者により個人差があることも注意すべきであろう。
7.治療同盟を確立し、維持すること
PDの心理療法においては患者とのラポールの成立やその維持が極めて重要であり、治療の成否を占うものであることは数多くの実証研究が共通して示していることである。上述のメンタライゼーションの促進についても、そのベースとなるのは治療者が患者に共感し、患者が治療関係を安心安全なものと感じることがその基本にある。ただし治療者は自らの共感の限界についても自覚的であるべきであろう。そのうえで成立する治療同盟は2.の設定と共存することで意味を持つことになる。
8.逆転移感情をモニターすること
治療者が自分が治療場面でどのような感情状態にあるかについて知ることは、力動的な治療を超えて恐らくあらゆる治療のモダリティにおいて必須である。そのために治療者は適切なスーパービジョンやケース検討の機会を利用する用意がなくてはならない。逆転移感情の主たるものが治療者自身の自己愛的な脆弱性に由来することは念頭に置いておくべきであろう。
9.トラウマの視点を忘れないこと
現在の患者のあり方が、過去に経験したトラウマを反映している可能性があるという視点を治療者は常に念頭に置くべきであり、この視点により患者に向ける共感の質や度合いが変わることがある。無論それはすべてをトラウマで説明しようとする試みとは異なることは言うまでもない。最近の研究が示すのは、愛着不全がパーソナリティ全体にもたらす影響である。これは殊に5.に関連し、治療者は患者の攻撃性に注目すると同時に、その背後にあるトラウマに由来する痛みの表現としてとらえることにより、治療者の逆転移感情も相殺される可能性がある。
10.患者を変えようと思わないこと
治療者が治療的なヒロイズムに陥り、患者の不適応的な側面を改善しようとしたり、パーソナリティの構造的な変化を目指したりすることは、時には患者に多大なストレスとなる。患者が発達障害傾向を有する際には、特的のものの見方や行動パターンを変えることは自分の感覚を失うことに匹敵するような意味を持つ。
2026年1月7日水曜日
PDの精神療法 新たに書き直し 2
10の留意事項
PDに対する心理療法を行うにあたり心がけておくべきことをGabbard(2017)は実証的な研究と脳科学的な研究からいくつかの項目をあげて論じている。これらは主としてBPDの治療に向けられたものであるが、広くPD一般に通じるものと考えられる。またどのような治療のモダリティについてもおおむね妥当なものと考える。これら筆者が必要と感じる項目を加えて以下に述べる。
1.柔軟性を保持すること
治療者が自らの治療指針を持つのは大切であるが、それまでの訓練に基づいて身に着けたアプローチの仕方や治療技法は、具体的な患者のニーズに合わせて柔軟に用いるべきであろう。洞察を促す探索的なアプローチと、安全で安心な治療関係を促進する支持的なアプローチはその時々で臨機応変に使い分けられるべきである。BPDの治療に際しては治療者が情緒的に揺さぶられることも多く、治療構造を守ることの重要性は言うまでもない。患者の求めに応じて治療構造を崩すことは時には悪性の退行を促進するが、それを警戒することで初心の治療者が過剰に防衛的になる傾向には気を付けなくてはならない。治療者の防衛的な態度は患者にとっては冷淡で反応に乏しいと思われがちになる。精神療法はいわば治療者と患者との「ダンス」であり、そこで患者が持ち込む様々な関係性のパターンを治療者は体験することになるが、それに押し流されることなく、治療者が自発性を発揮することも意味がある。
2. 精神療法を実行するための設定を確立すること
治療の開始に際し、治療関係が患者にとっても治療者にとっても安全が確保されるべきものとなるように、いくつかの設定や約束事を行うことは重要である。守秘義務が守られるという保証を与え、料金の支払いや時間の設定が守られるべきこと(いわゆる「限界設定」)、また患者の差し迫った自殺や他害の危険性に対しては警察への通報や入院の手配も必要となる可能性があることを伝えておく。セッション間の電話などによる通信に関しては治療スタイルにより異なる対応がなされるが、遅刻ややむを得ぬキャンセルの通知なども含めた緊急時の連絡が可能な何らかの手段を設けておく必要があろう。そのことは患者が治療者に理解され抱えられる感覚を得るためには重要である。これらの設定を設けることは、治療者が恣意的ないしは懲罰的に患者に対する限界設定を行っているという誤解を防ぐ意味でも重要である。
3.受け身的なスタンスを回避すること
治療者は受け身的なままにとどまらず、患者が目をそらそうとしていることに注意を促す必要がある。治療者は患者に、変化を起こすためには努力が必要であるということを伝え、よりよい刺激や現実の提供を行うことに治療者は積極的であるべきである。そして患者が自分の心について、そして他者の気持ちについて考えることへの努力が必要である点を強調する。ただしこのことは患者の過去のトラウマの記憶への直視を促すことを必ずしも意味はしない。(第10か条に関連)
4.治療者は「悪い対象」となるという役目も引き受ける用意を持つこと
患者の多くはわずかな切っ掛けに反応し、治療者に怒りを向けることがあることがあり、特にBPDにおいては半ば生物学的に定められていることでもある。治療者は客観的、中立的な存在のままでいたいという願望を放棄し、言わば「程よく悪い対象 bad-enough object」となることをいとわないことも重要である。患者から怒りや攻撃性を向けらた時に最低限の情緒反応を有する「生きた人間」としての姿を保つことで、無反応な治療者を力ずくで動かしたいという患者の試みを回避することが出来るかもしれない。ただし治療者は自らが感情的になりすぎていたことに気が付いた時点で、その旨を患者に伝えるだけの心の余裕も持たなくてはならない。
5.患者の怒りの背後にある痛みに共感すること
患者からの挑発に怒りで返すことは、BPDの患者の過去において繰り返された対象関係に加担することになる。むしろその背後にある患者の傷付きに注目すべきである。従来の精神分析的な考え方では、患者が本来有する攻撃性を指摘し解釈することが有効であるとされるが、これには多くの例外がある。特に患者のトラウマや自己愛の傷つきがその怒りの背後にあることを見出すことで、治療者は患者の怒りが自分への個人攻撃ではないことに思い至り、それらへの共感を示すことで、治療関係が情緒的な意味での「相転移」を起こすことがあることを知るべきである。