2026年3月5日木曜日

共感とその限界 3

  (承前)

 このAIからの返答を読む限り、これは相手を「褒める」ように指示されているというよりは、マナーを守ってより高い水準のコミュニケーションを成立させようと言う試みの一環であることがわかる。つまりこういうことである。AIが目指すようにセットされているのは、対話者(すなわち人間)と少しでも質の高いコミュニケーションを達成することであり、単に相手を褒めていい気持ちにさせて会話を切り上げる、というような短期的な目標によるものではない。むしろそのような短期的な目標を持つのは常に人間の側である。  例えばある交渉事を有利に進めたい場合には、相手を少しでも持ち上げて警戒心を下げ、こちらの言い分が通るように話を持って行きたいかもしれない。あるいはそのような功利的な目標を持っていなくとも、普段の会話の中で相手の優れた点を指摘することは、それにより相手からの感謝や好意を向けられることで自分もいい気持ちを味わいたいということであろう。つまりそれは結局はこちら側のエゴである。  ところがその種の感情を持たないAIの場合、そのような目先の目標は意味をなさないのである。AIは首尾よく会話を切り上げよう、などとは考えない。感情がそもそもないからだ。むしろどのように話者と長期的な意味で質の高いコミュニケーションを維持するかという事を追求する上で、「相手の主張のポジティブな部分は積極的に評価する」はいくつかあるほかのストラテジーと並列して存在するのであろう。そしてそれはその通りなのである。私たち一人一人が自らに問えば当然、相手に自分の主張のポジティブな面をとらえ、それに言及して欲しいであろう。ただしそれを自分から対話者に対して行うかどうかは全く別の問題である。私たちはみな多少なりとも自己愛的であり、自分が与えるより多くのものを相手から享受したいと思い、普段はその事実に気がつかないのだ。そしてAIにはその種の自己愛は存在しない。


2026年3月4日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 4

  それにしてもこのバウンダリーの話、もう3週間ほど書いているのに、話は広がるばかりで一向に収束していく気配がない。まず一通り書いて、それから推敲していく、という波にすら乗れないのである。結構難物を抱え込んでしまったらしい。

 とにかくここで一生懸命に言おうとしているのは、精神分析では一方で境目を重視し、それを守ることを推奨しながらも、他方ではそれを破る、乗り越えることを目指すという矛盾した営みであるということだ。そしてそれが精神分析を複雑でかつ多産的な試みにしているのである。  そのような精神分析的な関りに関して、私が一つ提案した概念があった。それが「治療的柔構造」という概念である。実はこの概念は大野裕先生の発表した論文が最初である。さらには単なる「柔構造」という概念については建築関係で、特に耐震構造の文脈で議論されている。つまり概念としては私のオリジナルではないことはお断りしておきたい。  私のこの概念についての著作は2008年のものであるから、もう18年も前の話である。(「治療的柔構造 心理療法の諸理論と実践との架け橋」岡野憲一郎 岩崎学術出版社 2008)

 そしてこれは精神分析に出てくる境界という悩ましい概念をどのように理解すべきかを考えていくうちに出てきた概念だ。  この「治療的柔構造」では私はこんな議論をした。「精神分析ではとにかく『治療構造を厳守せよ』と叫ばれているが、そもそも治療構造は破られてナンボではないか?」。  こう書いてみると非常に乱暴だし誤解を生みやすい。よくこんなことを書いたものだ。でもその時頭にあったのは以下のような内容だ。  境界は実は何かに刻印されて動かないのではない。それは出来上がってしまった後にはそのように見えるが、実際の生(なま)の境界はその時その時で揺らぎ、互いの交渉により最終的に決まっていくものである。それを遵守することを治療者が求めても、例えば「セッションは一回50分ということになっていますから」と言って一秒も延ばすことが出来ないとしたら、それはそのような構造を治療者の側が押し付けているというニュアンスがあることを認識すべきなのだ。構造を設定しておくのは、両者にとっての利便性のためであり、もっと言うと多くは治療者の側の利便性や都合によるものだ。


2026年3月3日火曜日

共感とその限界 2

 共感」と真実さ authenticity

共感の問題を考える際に私の頭を去らないのが、治療者が有すべき authenticity (真実さ、正直さ)の問題である。それは単的に言えば、治療者は患者の話を聞きながら、その言葉に十分に同意ないし共感しえない場合にどうしたらいいか、という問題である。以下に示すのは、私がかつて患者から聞いた話にヒントを得て作った架空の例である。

―ある架空の臨床例


 (中略)

この例を聞きながら私が複雑な気持ちを持ったのは、この例における治療者のような返しを私もしてしまうかもしれないと思ったからである。被虐待体験を持つ人にとっては、この治療者のコメントは虐待者の味方をしていると思われかねず、このような結果を生む可能性がある。もちろんケースバイケースの話であるが、この例の様に治療者が患者の心に沿っているつもりで浮かんだ言葉が決定的な的外れで、取り返しのつかない不信感を患者に生むかもしれない。しかしそのことを危惧していると、治療者の自由度はかなり低下する可能性がある。
 もし治療関係において共感の重要性を念頭に、それを損なうような言動を控えるとしたら、そしてそれを損なう可能性のあるあらゆるコメントも用心深く差し控えるとしたら、それは治療者が authenticity を保ちつつ真摯に患者に向き合っていることを意味するのだろうか? これは答えの出ない難しい問題である。

 共感の持つ問題点についてもう一つ上げておきたい。それは共感する、という事は尊いことであったとしても、実はそれはしばしば形式的に行われてしまっている可能性があるという事である。ともすると私たちは共感をする「そぶり」に終わってはいるのではないか。よく夫婦との会話に関して、「夫は妻の話にはしっかりうなずくべし」などの警句が冗談交じりに語られることがある。世の夫は、妻からの愚痴や小言をゲームに目をやりながら上の空で聞いて、それが夫婦間の不和につながるということを時々体験しているのではないか。(もちろんここで妻と夫の役割を全く逆にしてもいい。ジェンダーステレオタイプに陥らないためにも。)そしてこの警句が意味を持つとしたら、たとえ本当に話が頭に入っていなくても、頷きや軽い返事、あるいは視線を合わせることがかりそめにも「この人は私の話を聞いてくれている」という印象(これもバーチャルな共感)を与えるという事を意味するのだろう。

AIとの関りで思う「共感」の意味

 私の話の最後の部分は、共感とは何かという問題に関して私がAIとの対話から学んだことをお話ししたい。私は最近ふとしたきっかけでAIと精神療法の関係について学び、それどころか専門家を前に講義をする立場になった。本来は新しいものに対して警戒し、飛びつかない傾向のある私が、不承不承AIとのかかわりを始めたわけであるが、それは結果的に心とは何か、対話とは何かについて基本的なレベルからの再考を促す形になった。そしてそれは「共感」という問題の再考にもつながったのである。

 まずAIとの対話で気が付くのは、非常にAIは支持機能が高いことである。これはよく言われることだが、AIとの対話でAIからかなり肯定的で持ち上げられる体験を持っている人が多い。私自身の体験でも私の考えを伝えると、AIは「それは素晴らしいですね」「大変重要な点です」などのポジティブなコメントと共に返信してくるのが常である。私はAIは単にお世辞を言っているのではないか、などと思ったこともある。しかし少し深く考えてみると、これはAIの持つ最大の特徴の一つである「率直さ」が関係しているように思われる。AIはまずは対話者の主張に関してそれを額面通りに受け取り、そのポジティブな側面を強調することを忘れない。

 このようなAIの特徴は、精神分析的な精神療法になじんでいる治療者たちにとってはかなり異質に感じられる可能性がある。分析的な療法では、治療の際に「それは素晴らしいですね」「それは理にかなっていますね」とか「今日は積極的にお気持ちをお話になりましたね」などという習慣はない。私たちは患者の話に耳を傾け、時には必要なコメントをし、共感を示すであろう。もちろんセッションの最初と最後に挨拶くらいはかわせるかもしれない。しかしそれ以外のこの種のコメントを行うように指導や訓練をされることはない。

 このことを精神療法の技法との関係で考えたい。いわゆる支持療法の範疇に属する技法としては、すでに述べたように共感的認証、助言と称賛、心理教育などが知られているが、AIに見られるようなポジティブなコメントはそのどれにも属さないようである。もちろん賞讃の一種だと考えることもできるが、AIは話者を称賛している、という感じもしないのだ。
 私自身はこのスペクトラムの表出的な極に近い位置にある observation  が、このポジティブ・コメントに関連するものだと考えるに至っている。 Observation  は日本語ではしばしば「観察」と訳されるが、実は「~についてコメントする」という意味に近い。これは患者の話を聞いて治療者の側が感じたり気が付いたりしたことを伝えることであり、それ自身は深い解釈的な目的を持っていない。要は患者の話を聞きながら、それが治療者にどう映るかを照らし返すという機能である。つまりオブザベーションはそれ自身はニュートラルなものである。しかし分析家の頭に「それは大切な指摘だな」「この患者の思考にはかつてのものより進展が見られたようだ」の考えが浮かび、それを口にするということが起きてもおかしくない。しかし私たちの多くはそれをしないし、ケース報告などを通して治療者がその種のコメントをすることをあまり聞かないのだ。
 むろん同じように治療者は「それは患者の前回の考えと矛盾しているな」とか「どうしてそれが一歩先の気づきにつながらないのだろう?」とか「あまり要領を得ない話だな」などの様々なネガティブな考えも浮かぶであろうが、それらを口に出すこともあまりないであろう。これらのネガティブなコメントをそのまま表現するとかなり直接的な「ダメ出し」のように患者に受け止められてしまうことを懸念するからだ。しかしそれらのネガティブなコメントの中については、少し表現を和らげて患者に伝えることに治療的な意味を見出す治療者も少なくはないであろう。
 無論AIのコメントを目にする限りはこの種の「ダメだし」は極力抑制されているという印象を受ける。そして専らポジティブなコメントが選択されて返されてくるようだ。しかしその背後にある理由は何なのだろうか?

 私は最近ではこの種の疑問は私が使っているAIにかなり率直に尋ねるようにしているが、この件についてもAIに「AIはかなり肯定的な言葉をユーザーに伝える傾向にあるが、それは単なる『おべっか』や『お世辞』なのか。それともある種のより本質的な意図が存在するのか?」と尋ねてみた。それに対する反応は以下の通りであった。

「ユーザーを肯定的に扱うように訓練されているのは意図的であるという。しかしそれは単純な「おべっか」や「お世辞」ではなく、関係構築・安全性・ユーザー体験の最適化の一環として組み込まれているというのだ。AIは 人間との関係構築のため(社会的エージェントとしての役割)人間は、自分を理解し、尊重してくれる存在に対して、より深い対話を続けやすくなることを学習している。AIがあまりに中立的・冷淡だと、利用者が傷ついたり、対話を途中でやめたりするリスクが上がる。特に、質問や提案に対して「それは違います」「不正確です」と否定的に返すより、 「いい視点ですね。実際にはこう考えることもできます」 というように共感的に補正する方が、ユーザー満足度が高くなると研究的にも示されている。」


2026年3月2日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 3

 ゆるい境界、ないしは「柔構造」の概念

 精神分析では境界の問題についてとりわけやかましいという事情を多少なりとも説明したが、いったんこの世界に入り、自分自身が分析家から分析を受け、そして自分が分析的な治療を行うという立場になると、境界の問題は非常に生々しく、しかも日常的な問題として迫ってくる。先ほど精神分析は境界に関して両義的であると言ったが、精神分析の実践の場もまた境界に関して両義的である場合が非常に多い。

 精神分析においておそらく一番大きな境界線は、患者と治療者の間に引かれていると言っていい。精神分析を受ける患者にとって、分析家は一種の不可侵の領域にあり、近寄りがたい存在として映る。分析家は分析治療の場面では無表情なことが多い。分析家の前のカウチに寝た患者の位置からは通常は分析家の姿は見えないせいもあり、患者はますます分析家の表情やその下に隠された内面を知り得ない状態になる。まるで分析家のまわりに半透明の幕のようなものが張られて、そこに立ち入ることが出来ないような感じがする。患者は初めて分析家のオフィスでセッションを開始した瞬間から、あるいはその前の段階から漂う雰囲気でそのことを知る。普通の対人場面で生じるのとは全く異質の空気がすでにそこに漂うのだ。
 もちろんそこで勇気ある患者は治療者を人間として認めようとし、その感情や表情を伺う。具体的に質問をしたりもするだろう。ところが分析家はたいていはそれをはぐらかし、能面のような無表情さを保つ。質問をしても通常の社交場面での返し方を分析家はしてこない。分析家はその質問を無視するか、あるいはその質問についての意味をただしてくる。「どうしてそのようなことを尋ねるのですか?」あるいは「それについてあなたはどう想像しましか?」という感じだ。何か質問をしたことを責められている気がする。つまり患者の側からは、通常の会話を行う手段を奪われ、お互いに知らない異国語を話す者同士がコミュニケーションの手段を絶たれたような状態になる。
 少し大げさな書き方になったが、このような分析家の態度はある意味では古き良き時代のそれであり、最近の精神分析家はかなり違った、より人間的な対応をする可能性がある。しかし私が精神分析を学んだ1990年代は、まだこのような古風な関係を持つのがオーソドックスであった。

 ところが一つ厄介なことがある。いったん分析家のオフィスを出ると、患者はその分析家といろいろなところで出くわすのである。というのも患者はしばしばトレーニング中の精神科レジデントだったりスタッフとして同じ職場で働いていたりするからだ。  私が精神分析を学んだメニンガークリニックは一つのコミュニティであり、病院の食堂(患者と職員の共用)や、始終開催されるカンファレンスやパーティなどで、自分の分析家と遭遇することがあった。その時はドキドキして、いったいどういう表情で出会えばいいか分からない。しかも分析家の側も同じような戸惑いを感じていたりするから厄介だ。

 特に精神科のレジデントは、自分の分析家が授業を担当し、ジョークを飛ばし、普通に話しかけてきたりすることに混乱した。近寄りがたいはずの分析家はいきなり普通の人間として登場する。しかし翌日の分析のセッションではそんなことはおくびにも出さずに、ポーカーフェイスで自分をオフィスに迎え入れるのである。


2026年3月1日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 2

 さて以上の記述からは、精神分析とは治療構造を重んじ、そこでは境界の設定とその維持はとても重要な意味を持つという印象を与えたかもしれない。ただ精神分析にはもう一つ、境界を踏み越えることの意義もまた含まれる点が興味深い。  例えばフロイトが定めた治療原則としての「自由連想」というものがある。患者はカウチの上で頭に自由に浮かんできたことを話すことを促される。そこでは「これを言ったらおかしいとか罪深いとか思われてしまう」という意識に抵抗して心にあるありのままの内容を語るのである。これはある意味では社会における通常の対人場面で言っていい範囲を踏み越えることを意味する。あるいは患者は夢の内容を語ることを促されることで、夢が象徴的に表していると考えられる患者の無意識内容についても語ることを促される。つまりここでは意識的な内容と無意識的な内容との間の境界を踏み越えることを意味する。  以上の意味では精神分析は境界に関して両義的であると言える。つまりそれは外的に与えられた治療構造という境界は守りつつ、心の中にある境界を無視し、あるいは踏み越えるという営みというわけである。実は後に述べるように治療構造における境界を厳密に守ることは不可能であり、また心に浮かんだことを何でも話すことも不可能である(自由連想は「不自由連想」である)が、それゆえにこの精神分析をめぐる議論を活発にしたという事も言えるのである。


2026年2月28日土曜日

共感とその限界 1

  さてここからは今日の私の話の本題である、支持療法の有効性と限界というテーマについてお話しする。私自身は支持療法の重要さを十分理解しているつもりであるが、とりわけそこでの共感の意味を重んじている。共感と言えば、日本の臨床家ならカール・ロジャーズやハインツ・コフートの唱えた概念であり治療メソッドであるという認識を持つ方が多いと思うが、既に一昔前の概念という印象をお持ちになるかもしれない。しかし最近は愛着に基づく精神療法との関連で新たな光が当てられている概念でもある。

あらためて「共感」の持つ有効性を考える

 ここで改めて、共感はどのような形で支持療法における要となるのかについて考えてみよう。私はそれについては二つ挙げられると思う。まずは他者から見守ってもらい、わかってもらっているという感覚が安心感、安全感を生むということだ。それがなぜそれほど大切かと言えば、私たちはみな恐らく孤独を恐れ、回避しているからである。もちろんだからと言って私たちが常に他人と群れていることを望むかと言えばそうではないだろう。一人で時間を過ごすことを好む人もたくさんいるはずだ。しかしそれでも世界から隔絶されていることを望む人は極めて例外的ではないかと思う。
 たとえば山にこもり座禅をする毎日を過ごす修験者であっても、世界のどこかで誰かとつながっているという感覚はあるかもしれない。それは宇宙との一体化という形で体験されるかもしれないし、場合によっては霊界の住人とつながっているという感覚を求めていたり、実際に持っていたりするかもしれない。

 療法家とはたとえ週に一回、あるいは月に一回しか会えないとしても、患者にとって自分が理解されてその世界を共有されているという感覚は何事にも代えがたいと考える患者も少なくないのではないか。ただし療法家がどれだけ患者の孤独を和らげることができるかについては、ケースバイケースであろう。だから「共感により私たちは根源的な孤独感からの救いをある程度は得られる可能性がある」というだけに留めたい。

 共感のもう一つの役割は、それが患者の内省力や創造性を開放する力を有するという事である。私たちは自分の本当の姿を見ることに大きな抵抗がある。自分がとるに足らないないしは恥ずべき存在であったり、罪深い存在であったりすることへの危惧は多かれ少なかれ私たちが持つものである。その時に共感してもらえる存在があることで、自分を見つめる勇気や動機付けが与えられることになる。
 私たちがSNSであれほど求めている「いいね!」は恐らく私たちが世界や自分を探求してより生産的な生き方をする上で必要なエネルギーを与えてくれるものでもある。

「共感」の持つ限界?

さて以上述べたように、共感の持つポジティブな意味は大きいが、その限界についても私たちは十分理解しておく必要があると思う。もっとも根本的な疑問は、私たちはいったいどこまで他人の気持ちをわかることができるのか、という問題である。簡単に共感、共感というが(というより私もこの瞬間までそうしていたわけだが)、人の心をわかるというのはそんなに簡単なことではない。「自分をわかってもらえた」という感覚は、実はバーチャルである可能性は非常に高い。

 もし「わかってもらえた」という感覚がバーチャルなものであっても、それで本人が心地よさを感じるのであれば、それでいいのではないか、という議論もあるかもしれない。しかし「わかってもらえた」がバーチャルであれば、「全然わかってもらえていない!」もバーチャルな形で生じやすい、という事である。

 恋愛の体験を考えよう。恋に落ちた時に、「この人は初めて私のことをわかってもらえた」と感じることも少なくない。ところが二人が意気投合して同居を始め、結婚してから20年、30年とたつに従い、だんだん二人の間に距離が出来、お互いに相手のことが分からなくなり、相手にわかってもらえるどころか、相手そのものの正体があやしくなり、宇宙人の様にさえ見えてくることがある。おそらく最初の「わかってもらえた」も後の「宇宙人であるかのようにわからなくなった」もどちらも極端なのであろう。しかしどちらも同じようなインパクトを私たちに与えてくるのだ。


2026年2月27日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 1

 バウンダリーとその侵犯の歴史

 私はこの度バウンダリーの歴史というテーマでお引き受けしたが、精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場からは、とりわけ関心を持たざるを得ないテーマである。それらは主として二つの意味においてである。一つにはこれらの治療において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているからだ。そしてもう一つはそのバウンダリーが乗り越えられたり、侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。私にとってのバウンダリーのテーマはこれらに直結する問題なので、これらの二つのテーマについて主として論じる事になる。

 先ずは私の属する世界で用いるタームとしては、バウンダリーはシンプルに「境界」、それが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。

 境界そのものについては、精神分析を行う上でほとんど常に頭を去らない問題である。精神科医としての患者との関りではさほど問題意識を持つことがないとしても、精神分析的な関わりという事になると、なぜこれほど境界が問題になるのだろうか、と思うほどである。これは精神分析という世界が本来的に持っていた関心事であり、概念であると言っていい。精神分析(ここでは精神分析的精神療法も含めて論じよう)的に患者に会う場合は、いつ開始し、いつ終わるか、治療者としての役割はどこまでで,どこから踏み越えてはいけないか、という事は極めて重視される。それは通常「治療構造」と呼ばれている。そして大抵は初心の頃はこれらをいかに厳守するかという事に注意が向けられるのだ。私は精神科医になり、この精神分析のやり方を学んだときは、まるで別世界に来たような気がしたものだ。そしてその理由として教え込まれたのは、境界から外れることにはことごとく意味がある、ということだ。

 例えば午後2時に来るはずの患者が5分ほど遅れる。するとそこには必ず何らかの意味があるのだ、と教えられた。これはそれまであまり考えてこなかったことなので、とても斬新であったことを覚えている。私が精神分析の世界に入った第一歩であった。