2026年1月28日水曜日

レマ書評 ④

 第1章 羨望と母体  最近非常に頻繁に行われることの多い美容整形がテーマに掲げられている。(42)美容整形の手術を求める人たちのメンタルヘルスの有病率が高いという所見は確かに気がかりなことだ。しかしもう一つ重要なことは昨今のSNSばやりでバエることが再生数にもつながるとしたら深刻なことだ。しかし考えてもみよう。今やバーチャルな形でいくらでも整形(加工?)が可能なのだ。それにそれを問題視するなら、お化粧はどうなのだろう? これ程公認され、それどころかマナーの一種とさえ見なされているという事が本書では触れていないのは面白いと思った。何しろお白いなどの顔に塗料を塗るという風習は整形の原初形態であり、それこそ時代と文化を超えて存在していたのである。  私はこの身体の問題については、自分の理解や自覚は不十分であることを本書を読みながら痛感したわけであるが、それでもこの章で私が違和感を持ったのは、例えば次のような表現だ。(48)「美を追求することは、身体をデザインしなおすことで自己を誕生させるという万能感をエナクトする方法であり、それによって他者(母親)や、ひいては「欲望の対象」に依存する体験から逃れる方法であった。」これってあまりにブンセキ的ではないだろうか?私は整形は一つの変身願望であり、自分の殻を破る行為であると思う。もちろんそれは一歩間違えればBDDの様に底なしの闇に足を踏み入れることになるかもしれないが、それ自体は程度が軽ければ一種の「遊び」に近い。新しい技を覚え、新しい服を着、新しいファッションに身を包むという行為は、それほど病理的に考えなくてもいいのではないか?おそらく同程度の「遊び」は言葉の使用にも通じる問題だ。人は軽い嘘や誇張をしばしば用いて自分をより正しく、美しく、強く見せようとする。この遊びとしての化粧⇔深刻で自己破壊的な整形手術への希求というグラデーションがあるのではないか、という事なのだ。

第2章 いったい誰の皮膚なのか

 レマの身体への関心は、まなざしというテーマにも向けられる。他者の視線も、自己の視線もその向けられる先は身体を含む。他者の視線が自分を飲み込む性質のものならば、それは去勢してくる存在でもある。この章で登場するBさんという男性のクライエントは、屍姦幻想という事で他者を死者とみなすことで女性に入っていくことが出来たのである。屍姦幻想にまで至るというのは極端かもしれないが、母親のまなざしの問題は、臨床的にこれほど重要なものはない。飲み込んでくるような母親の視線の由来は、間違いなくそれが愛着の時期の最初の対象であったことの名残であろう。母親はその時、子供を自分の延長と考えている。子供が母子が密着しており、対象として意識されず、母親と「地続き」であると体験するのは、母親の側としても同じなのであろう。そして母親の感情は子供のそれとして同一視される傾向にある。ところが母親の側の「地続き」が強烈で、子供の側の感受性が強いと、これがフラッシュバックしてしまう。例えば父親のことをさして「お父さんはうそつきの悪魔のような人よね」と母親に言われて、娘はそれに対して抗いようがないと感じる。すると父親に対して優しい感情を持っていても「そうよね」となる。これは別の人格の形成につながることになるだろう。他方ではASDの「軽い質量の自己」は吹っ飛んでしまう。するとどちらにも偏らない人にとっては、母親の存在はその者がトラウマになりかねないのだ。


第3章 純粋な決定の秩序

 本章はサイバースペースに生きる若者という現代的なテーマを扱う。患者の一人がいみじくも語っているように、サイバースペースは自分が身体を持った、受肉した身であることbeing-in-a-body (ちなみにこの訳はハイデガーの「世界―内ー存在」に準じて 身体―内―存在)としてはどうか?)を忘れさせてくれる空間であり、非常に居心地がいいものの、それは偽りの空間であり、いずれは現実に引き戻されざるを得ない。患者の抑うつもちょうど家から出られないが外出せざるを得ない患者の苦悩を語っているようである。

(93)「アバターという仮面が与える匿名性の錯覚のせいで、人々はしばしば自分自身について通常の場合よりもはるかに多くのことをオンラインで開示する…オンライン上での交流は、一部の傷つきやすい人々に、想定外に剥き出しになってしまったと感じさせる可能性がある」とこれまた警句である。アバターという仮面が与える世界を楽しみ、遊ぶことは、おそらく現代の世界では不可避的である。昔ではできなかったことが出来てしまうことで、私たちは確実に違う世界に生きている。そしてそこでの規範、それに則ったうえで享受できるもの、そして危険性を一つ一つ体験しながら学ばなくてはならないのであろう。

第4章 過去なき現在

「思春期の性的移行における時間的統合」という副題がついているが、より正確には、「その破綻」である。ここに登場する「自分は男の子の身体に閉じ込められていた女の子だと確信していた」ポーラのケースは性再適合手術を受けた後も「手術前には何もなかった。自分の人生はクソだった」(133)とし、いわばそれ以前の人生を全否定するようなことを言う。そのようなケースの場合には手術を受けることが新しい人生を手に入れることにはつながらず、その意味で手術後も過去の人生との連絡が必要であることを示したケースと言える。愛着の問題に根本の問題があった場合、そのようなトランスセクシュアルなケースをどのように扱うかについて改めて考えさせられる章である。

2026年1月27日火曜日

ジャネ書評 ④

 第6章 ジャネからフェレンチ、ブロンバーグへ

(119)フロイトが解離の発見をどうして放置したかはいまだに解明されていないという。ジャネの貢献は「精神力動診断マニュアルPDM-2)に反映されている、という事だがこの本、案外手に入れにくく、調べられていない。

(121~124) フロイトは意図的な抑圧によって無意識内容を作り出すという説明。どうやらこれが解離と抑圧の違いのエッセンスと言っていい。そしてこれがフロイトが解離を否定する源になっているのだ!!!! (124)「これらの罹患によるヒステリー症例における意識の分裂は、意志や意図に端を発するものである。‥…しかし実際に起きることは患者個人が意図する事とは異なっている。・・・その人にできるのは、その表象を心的に孤立させることだけなのである。」

(ちなみに私(岡野)はフロイトに問いたい。「という事は、解離や抑圧は意識的な活動の産物でしょうか?」これにフロイトは答えられないであろう。なにしろ意思や意図、と言っているのだから、意識的な産物というしかない。しかしそれが無意識内に抑圧されるのに抑圧したことを意識している、とは矛盾してはいないだろうか?これが一番抑圧理論の一番悩ましい点なのだ。)

(126)ジャネの心理的統合不全 désagrégation psychologique は要するに高いレベルの意識が備わる綜合的で統合的な高次の機能(=現在化 presentification、現実機能 fonction du réel )とは正反対のもの)=意識野の狭窄、と考えてよいだろう。

(126) Liotti のまとめは完璧である。ジャネは、(意識のスプリッティングは)激しい情動で心が機能欠損になるためと考えたが、フロイトは自我による能動的な防衛だとした。これはえらい違い。もっと言うと解離は防衛ですらないであろう。心はダメージを受けているからだ。

(137)ブロンバーグの思考もほぼショアらの考えに近い。彼は通常の解離と病的な解離を分け、後者に関しては「早期の関係性トラウマが逆行性健忘を引き起こし、象徴的な形を欠いた身体的記憶は、意識的かつ明示的な形で表現され得ず」・・・それを「津波の影」と呼ぶ。そしてそれを表すのがエナクトメントであるというのだ。

第7章 ジャネのフロイト批判

ラッセル・ミアーズは、フロイトとジャネを両立させる立場らしい。

(144)ジャネ自身のフロイト理論との違いに関する主張は3点あるが、一番大事なのは、解離は受け身的、抑圧は能動的ということである。(146)これに関連して、フロイトは「意識内容の分裂は患者の意志の努力の結果である」とする(1984)。トラウマ後の解離は防衛であり、何かにより動機づけられた心的規制を示すというのは力動精神医学の基本となったのだ。

以下、いくつかの重要な知見。

(145)遺伝+トラウマという考えにより、ジャネの理論は愛着理論を先取りしていた。

(148)意識野の狭窄、とは精神レベルの低下、と考えるべきらしい。狭窄、という言葉がちょっと引っ掛かり、誤解を招きやすいと私(岡野)は思うのだが。

(148)累積ストレスで、PFCの樹状突起が失われ、扁桃体の樹状突起は促進される。慢性ストレスでPFC灰白質が低下するのは、人においても確認される。


2026年1月26日月曜日

レマ書評 ③

 身体としてあらわれる空想

身体が無意識のコミュニケーションの主要な手段となる患者さんに対して、分析家の身体が変化しない(あるいは安定した)体現化として設定の一部となるという主張。そしてその分析家のプレゼンスは、患者の不安や空想を体現化し、コンテインするという。この体現化とは一体どういうことか。私(岡野)にとっては「受肉」と言った方がわかり易い。受肉しているとは、心が体と一体になっていることで、心の苦痛は体の苦痛と不可分に体験されるという事だ。受肉しているとは、見られる身体を持っているという事だ。確かにそうだろう。私の肉体というプレゼンスは大きな意味を持つ。自分がどんな顔をしてどんな表情で他者と関わるかは患者にとって大きな意味を持つ。しかし身体はまた極めて偶発的な因子により変化し、時には人を幻惑して欺く。たとえば性的な魅力という事一つをとってもどうだろう?自分を本当にわかってくれると思えた人が同時に性的な魅力を備えていたとしたら。一気に多次元方程式並の複雑さが出現する。しかしSNSを通して本当に深く知り合った人たちは、実際に会う前からもう恋愛関係に陥る場合があるという例は、それの逆の例と言えるのだろうか?

身体の変化が及ぼすもの

分析家が分析設定の体現化された形として身体を概念化する際、転移解釈に意味を与えることが出来たはずの「かのような as if」空間は存在しなかったという事を、レマはDさんという人の治療例を振り返りつつ論じている。(どういう意味かよくわからなかった。)

トイレの使い方(実に身近なテーマ)

以下の二つの用い方があるとレマは論じる。

①性愛化され敵対的で侵入的な力動を実行するための倒錯的な使用。

②自己の受け入れがたい厄介な部分をさらけ出すときに、対象の受けるダメージを気遣うが、そのような患者はトイレットブレストとして使えない。 

おわりに

レマが本書の中でも繰り返し取り上げている「まなざし」は特別な意味を持つようである。体現化が意味を持つのは、それがまなざしの対象となるからであり、体現化の相互作用はそのまままなざしの相互作用でもある。

以上がキャンベルによる要約の要約。これではまだ全然わからない。という事でいよいよ本文に入っていくことになる。

序章 身体が語るとき

“The body always speaks” で始まる序章は、本書の日本語の題名にも選ばれている。この序章では、レマの本書の主張が端的に描かれている。体現化が心を形作る embodiment shapes the mind ので、分析家は身体をいつも心に留めておく必要があるというのだ。実はこれが本来の原題として扱うべきであろう。原題であるMinding the body は著者たちが訳している通り、「身体をいつも心に留める」が正確なのだ。

この序章のテーマは何と言っても、「体現化がこころをかたちづくる embodiment shapes the mind」という仮説である。これは身体化が心を「作る」ということではない。心に形を与える shape ということだ。これはどういうことか。例えば私は男性の、それも69歳という老年の体を持っている。日本人特有の顔つき、頭髪は薄くなり真っ白だ。このことは私のこれまでの来歴や作品や業績と共に私を規定する。そしてそれが少なくとも人前では常に私の心に反映される。つまり私の身体的な在り方はその重要な構成要素となってはいるものの、そのすべてを形成してはいない。
さて私たちはこのことを普段忘れがちである。他方私を見た他者はおそらく私の外見から私という人間や、私の心を規定することになる。そのことを忘れてはならないということを言っているのだろうか。確かに私の外見は、人前で振る舞うときにとても大きな制限となることは確かだ。そしてそれが社会的な関係を有するときに極めて重要だということである。それは私が着ぐるみを着たり、女装をしたときに体験する著しい違和感からもわかる。そして私が精神的にある程度安定しているとしたら、それは私のそのような身体を周囲が受け入れてくれる(と少なくとも思っている)からであり、私自身もそれを安心して受け入れることが出来るからであろう。そしてそれがさかのぼって両親との体験に根差している、というのが分析家レマの主張の大きな部分なのである。それがフロイトの「自我は真っ先に身体自我である」(14)という言葉に反映されているというわけだ。

このことを考えるうえでレマが言及するのが例のミラーニューロンの話である。私たちが他者の姿や振る舞いを見るとき、直接身体に訴えかけてくるものがある。人がバナナを食べているのを見るとき、私たち自身がバナナを食べているときに活動を行う運動前野の神経が同時に活動している。私たちは他者の在り方をこうして体で直接感じる。これはメンタライゼーションの概念をさらに磨き上げる助けとなる。それが体現化されたメンタライジング embodied mentalizing という概念である。そしてそれがおそらく損なわれているのがASDなのであるというのが私(岡野)の見解だ。

ともかくも私たちは、特に言語的なコミュニケーションを重んじるという立場をとりがちであり、そこにいかに身体が絡んでいるかを軽視し、ないし忘れがちであるという事は本章におけるとても重要なメッセージだと言えよう。現実には私たちは無意識レベルで自分の、そして相手の身体性に大きな影響を受けつつ、それを否認しているというのだ。


2026年1月25日日曜日

ジャネ書評 ③

 第3章 ジャネとフロイト

フロイトにとってジャネがいわば仮想敵であったことはとても興味深い。彼は敵を見つけることで奮起をしていたというところがある。それをフロイト自身が明言していたわけだ。

(77)「親密な友人と憎むべき敵は、私にとってはいつも感情生活の必要な要件である‥‥」(フロイト)

結局フロイトはジャネの見出したものを拒否し続けたことになるが、いわば反対のための反対というニュアンスもあったという事だろう。フロイトはジャネはブロイアーの発見と一致し、しかもブロイアーの方が早かったということでのみ敬意を払っている(78)。この章では、フロイトはジャネとは違うということを示すために、ブロイアーを見捨てた、とまで書ているのが興味深い(81)。フェレンチを見捨てたのも同様の理由だとすると、フロイトの野心は空恐ろしいものがあると考えざるを得ない。彼にとっては学問的な価値は彼の自己愛を高めるものではあっても、真実への追及の結果見出されたものとは必ずしも言えないという事か。

しかし(89)でフロイトとジャネの重要な理論的な関りが指摘される。フロイトの否認 Verleugnung と現実機能の喪失 fonction du reel との密接な結びつきであるという。それがフロイトの「防衛過程における自我分裂」に結実しているという。つまりこれが精いっぱいフロイトがジャネを認めた証、という事になるのだろうか?

第4章 ジャネとユング

ユングはフロイトと精神分析を離れてからは、年上であるジャネから大きな影響を受けたという内容が書かれている。ユング自身ジャネを高く買っていて、母親コンプレックス、ペルソナなどの概念はユングの下位人格(同時に存在する心理的実体群)(92)の概念の影響を受けているという。要するに心を一つと見なさないところがユングの思考に自由度を与えていたということが出来るだろうか。何しろ(91)ブルグヘルツリでユングはジャネの指導のもと連想実験をやっているというのだからその影響は大きかったのであろう。

第5章 あちらを立てればこちらが立たず (対象関係論への影響)

(107)ブロンバーグは、「100年前にフロイトにより城から追放されたピエールジャネの亡霊が、現代のフロイトの子孫たちに、のべつまくなしに憑依し続ける姿を想像するに難くない」と書いている。(108)よく知られていないことではあるが、フェレンチはジャネにかなり影響を受けていたという。しかしそれに言及する論文が英文では手に入らないという事情があったという。(109)フェレンチは、ジャネは精神分析に必要不可欠とまで書いていた。(111)実はフェアバーンもジャネに興味を持ったが、不幸なことに彼は解離の代わりにスプリッティングという言葉を使用した。

(112)実はジャネは分裂病理論を説いたブロイラーに直接影響を与えていたという話!

(114)フェアバーンは、解離と抑圧の決定的な違いに触れているという。彼の両者の分類の仕方はネミアの区別に近い。(ショア(2010,p.233)によれば、ネミアの見解は、ジャネによれば、解離は自我があまりに弱いために意識を保持できないが、フロイトは、自我が十分に強いために、積極的に抑圧するという違いを強調している。)


2026年1月24日土曜日

ショア書評 ③

 第2章 関係外傷と発達途上の右脳 精神分析的自己心理学と神経科学の接面

 この章も驚きだ。ショアはなんとコフート理論も自分の体系に引き付けようとしている。フロイトと同時にコフートにもエールを送るわけだ。まさに全方位外交である。そしてコフートのもっとも独創的で傑出した知的貢献は、自己対象という発達的構成概念であるとする。この自己対象の概念も当時の精神分析のエスタブシッシュメント達には非常に受けが悪かったが、ショアはこちらにも理があるとする。そしてまさにショアの言うとおりである。子供と親、患者と治療者、あるいはいかなる二者に関してそれが相互に自己対象として機能し合う関係とは、まさに右脳同士の交流に置き換えることが出来るではないか!! (78)ショアはコフートの理論を次のようにまとめる。「成熟した心理的組織を持つ親は、未熟で不完全な心理的組織を持つ乳児にとって重要な調整機能を実行する自己対象として機能する。」(強調岡野)。親の調整機能、という考えはフロイトにはなかった。コフートの治療論の出発点が幼少時の幼児と養育者の関係性に注がれている点を改めて認識する。87では、右脳の興奮が神経細胞のアポトーシス(自然死)を生むために、それに対するブレーキが作動するというメカニズムについて言及されているのが興味深い。つまり交感神経系の興奮が高じるといずれは背側迷走神経優位の状態に取って代わるのは、神経系の自衛手段としておそらく系統発達の早期に備わったはずなのだ。(迷走神経系によりクールダウンできなかった神経系は生き延びれなかっただろう。)


第3章 右脳の感情調整 発達、外傷、解離、精神療法の本質的メカニズム


この章でショアは改めて全盛期から今世紀初めにかけて生じたパラダイムシフトについて論じる。その最新のものは、認知的アプローチの次に来た動機付けと情動であるという。(100)そして無意識の感情は抑圧ではなく解離された感情として最もよく理解できること、またその後に形成される抑圧は、右脳によって生成された感情の左半球による抑制なのだ、という。ここは重要である。つまりショアは無意識を重視しているが、それは解離が働く領域であるというわけである。ショアは彼の言う無意識がフロイトの無意識とはかなり異なっているという事を、あまり強調していないが、もちろん彼はそれをわかっていて、敢えて反フロイト的なスタンスをとることを避けているのであろう。

ところで(99)のリヒテンバーグの引用内容が面白い。要するに精神療法においては、治療目標が意識の外にある、という事だ。すなわち言語的なコミュニケーションにより目標や動機を明らかにしていくプロセスには限界があることを、早くから動機付けに注目していたリヒテンバーグは述べているのである。

 

2026年1月23日金曜日

ジャネ書評 ②

 はじめに

先ずは1970年のエランベルジェの「無意識の発見」が極めて大きな意味を持っていたこと、そして本書が半世紀を記念するものであるということが述べられる。そしてその影響を受けた多くの論者による本書の各章のモチーフが簡単に紹介されている。


1章 PJ入門

この章を読むと、実は私たちは今やジャネ(以下、PJ)という、フロイトとの双璧をなす人物と対峙していることがわかる。PJはシャルコーの早い死の後、サルペトリエールで催眠を用いる唯一の研究者となったが、やがて催眠を毛嫌いするデジュリーヌがサルペトリエールの院長になるとともに、そこを去らなければならなかったのだ。そしてその後コレージュ・ド・フランスの心理学教授に就任した。

PJの心的自動症の基本概念は、①過去の活動の自動的な再現 ②綜合 synthesis と創造による統合integration. の二つの組み合わせが私たちの活動であるとする。そして解離は②がうまくいかなくなっている状態であるとした。そして①においても意識は介在しているが、下意識であるとした(35).


PJはある意味ではフロイトにより日陰者の存在になったが、実は時代を先取りしていたということが提案されている。そしてフロイトはジャネを否定しつつも、随所に影響を受けていたという主張もなされる。これを単なるジャネびいきの妄言と取るか真実と取るかは別として、最近の解離にまつわる議論はPJ,そしてフェレンツィの主張の信憑性を示しているともいえる。


第2章 意識から下意識へ


(61)解離で起きているのはしてこれは意識の不在(=無意識)ではなく、意識の分割であるとした)。(61)ジャネは例によって次のように説明する。現象を絶えず統合へと集める活動、創造活動。もう一つは過去に存在理由があった古い総合を再活性化させる反復運動。この両方のバランスの破綻が自動症となるとした。(62)「解離は自動症活動と総合の活動の平衡の喪失」。これは心的緊張の低下によりもたらされ、それを引き起こすのが情動であり,トラウマであるというのだ。これはよくわかる。

(69)ジャネは古くから研究のある無意識を意識とは異なる知性の可能性であり、形而上学的な研究である一方、下意識は極めて臨床的であるとした。それは通常の意識とは独立して存在し、「意識野の狭窄」「人格の解離」と同等であるとした(70)。


2026年1月22日木曜日

ショア書評 ②

 私にとってのショアの理論の有用性

①フロイトの立場に立ち、Freud-friendly な議論であり、安心である。(右脳による)無意識的な関係が(左脳による)意識的な関係に先立つという考え方がフロイトの正しさの表れであるという主張。この脳科学の立場に立ち、かつフロイト寄りの発言をする立場としては、神経精神分析 neuropsychoanalysis のスタンスに近い。ただしこのショアの全方位外交的な立場ははフロイトに対してにとどまらない。彼は精神分析のエスタブリッシュメントたちから敬遠されたボウルビイにもコフートにも向けられている。さらには関係精神分析のブロンバーグなどに熱烈なエールを送っている。しかしこれらの人物たちはいずれもフロイトとはかなり異なる主張をしている。それらの理論が含んでいた先駆性を積極的に取り入れつつ、フロイトをも立てるという姿勢がショアの持ち味なのである。というかなんでも取り入れるショアの姿勢が一種のパラダイムシフトを可能にしているのである。そしてそれは認知的アプローチの次に来た動機付けと情動であるという。

②ショアのパッションが直接的に伝わってくる。もう19年も前、2007年のことだが、ショアをシカゴで生で見たことがある。ISSTD(トラウマと解離国際学会)に、自分の発表がないのでジーパンで参加していた。小柄な好々爺と言った感じだが、全身からエネルギーがほとばしっていた(記憶の中で多少盛っているかもしれない)。とにかく書く量が尋常ではない。

以下に各章について少しまとめてみる。こうなると書評のためではなくて、自分の勉強のためだ。


改題

ショアが情動調節の議論から始めてそれを治療に応用し、それをaffect regulation therapy (ART) (後に「右脳精神療法」となる)とした経緯が語られる(9)。


序文

序文だけで22ページ、しかも文献が4ページ。もうこれだけでお腹がいっぱいだ。

でも大事なメッセージが盛られている。(18)いかなる発達論も、心理学と生物学を統合しなくてはならない。序文でショアはパラダイムシフトについて訴えているが、この「左脳の意識的認知から右脳の無意識的感情へ」は2009年のAPA(アメリカ心理学会)の基調講演「パラダイムシフトー右脳と関係的無意識」として発表されている。という事はお墨付きと言えるのだ。



第1章 現代アタッチメント理論


本章は改めてショアのアメリカのボウルビィたる所以を物語っている。メラニー・クラインの時代にロンドンでボウルビイが試みたように、ショアはデカルト的な心身二元論を廃し、母子間で行われていることは、双方向的な調整であり、そこではCNS(中枢神経系)とANS(自律神経系)の両方が共同で調整されると主張する。これをショアは「双方向的精神生物学的調整」と呼ぶ。これは言葉を交わすことで意識的な省察を介した交流よりは、かなり迅速な交流となる(57)。これはASD者であるかどうかを知る上で一番の決め手となるやりとりの自然さ、流暢さに関係しているのだろう。そしてショアは、治療場面でも「経験に近い主観的なレベルで、意識的に気が付かないところで瞬間瞬間の社会情動的情報を暗黙の裡に処理している。」(58)とする。結局は一次過程も、無意識のコミュニケーションも右脳を中心に行っているのだ。