今日はクレイエントさん(20代女性)から話を聞いた。女性にとってのかわいい、とは何か。彼女はジーンズやパンツよりはスカートがかわいい、という。だから自分はそれをはいている。それはキュロットでは表現できないかわいさ、という。しかしそれはセクシュアルな意味があまりないようである。なぜなら「男性の目は関係ない」というからだ。女性の間でもかわいくありたいし、かわいさを競うというところがあるという。女子高であってもそれは同じだ。
女性の追及するかわいさが、セックスアピールとは微妙に、あるいは明らかに異なるという点は重要であろう。男性が女性のかわいさを魅力的と感じたとしても、そこにはどこか倒錯的なところがある。秋葉原でメイド服を着た女性たちに対して男性はそこに一種倒錯的(オタク的)な視線を向けることになる。それは女性たちがセックスアピールとは異なる「かわいさ」を発散しているところに、逆説的に魅力を覚えてしまうということになる。
確かにかわいい、はセクシュアリティと関係しているようでしていない部分がある。彼女たちはアクセサリーを見ても「かわいい!」と言ったりする。うちの神さんは、コーヒーカップも、トイレの便座カバーも、明らかに「かわいい」(彼女にとって)ものを買ってくる。そしてそのかわいいはもちろん、うちの犬チビの「かわいい!」とも結びつく。子犬、子猫の「かわいさ」は言うまでもない。そして … 人間の赤ちゃんを見たときの「かわいい」にもつながっているかもしれない。そう、女性にとってのかわいいは、幼児を見たときの「かわいい」に通じるところがある。しかしではどうして彼女たち自身が「かわい」くありたいのだろうか?動物学的に考えたら、男性を惹きつけるために女性がかわいくありたいとしたら、繁殖にむすびつくという意味では合目的的である。しかし繰り返すが、彼女たちがかわいさを追求する際にそこに男性の目はあまり意識されていないのである。
自分もかわいくありたく、そしてかわいいものにひかれるというこの女性の特徴は、女性に特有の対象との同一化傾向と関係しているのかも知れない。対象の気持ちが分かり、対象に同一化し、対象を取り入れ、また対象の中に自分を見る。この傾向が、私がつねづね考える「関係性のストレス」と繋がっているかも知れないと思うのは飛躍であろうか。
2011年1月12日水曜日
2011年1月8日土曜日
解離に関する断章 その8 投影過剰か、取り入れ過剰か?
今、「続・解離性障害」という本を準備している。出版はまだ先になるだろう。その中で、2008年の「解離性障害」(岩崎学術出版社)で論じたことをまとめている。そこから新に何を考えたか、ということを示すためだ。2008年の同書には、まとめるならばこんなことを書いた。
「DID(解離性同一性障害)の病理をもつ多くの患者が訴えるのは、彼女たちが幼い頃から非常に敏感に母親の意図を感じ取り、それに合わせるようにして振舞ってきたということである。彼女たちは自分独自の感じ方、考え方を持たないわけではないにしても、母親のそれを自分のものとして取り入れることで、不自然にもいくつもの「自分」を心に宿すことになるのだ。そこで彼女たちがなぜ自己主張を行なったり、投影や外在化を用いて、自分の感じ方を押し付けてくる母親に対する反撃を行わないかは不明である。しかし少なくともそれが母親からの精神的な重圧だけでは説明できないことも事実である。」
「しかしどうして母親から示されたメッセージを取り入れることがストレスになるかを考えた場合、当然ながら娘の主観的な思考や感情があり、それが取り入れられたそれと矛盾するという現象が生じるのだろう。その意味ではベイトソンの示したダブルバインド状況そのものが実は解離性障害を生む危険性に関連していたということになる。この問題については、実は安 (1998) が生前指摘していたことでもある。」
うーん。いろいろ考えさせられる。DID出生じていることを、ボーダーラインと対比させることで論じる、ということを私はよくやるが、ここの図式はわれながらわかりやすいと思う。要は、投影projection 過剰か、取り入れ introjection 過剰か、ということになる。前者はボーダーライン。後者はDIDということになる。投影とは簡単に考えれば、人に耳の痛いことを言われて、その通りだと落ち込む代わりに、「あんたこそそうだ!」と言い返すことだ。これは実に大多数の人が行うことだ。精神科の研修医の頃だが、あるボーダーさんと思しき人に診断名を聞かれて、人格障害とはいえずにおずおずと「あなたは人格的な問題があると思います。」と言ってから、「しまった」と思った。案の定その患者さんからすかさず「そんなことを言う先生こそ人格的に問題があります!」といわれてしまった。これなどはいい例である。
ただ人からネガティブなことを言われて「あんたこそ●●だ」と言い返さず(投影せず)に「自分は●●だ」と引き受ける(取り入れる)ことの苦痛は、やはり何らかの形で処理されなくてはならない。自分にネガティブなレッテルを貼られて嬉しい人などいないからだ。そしてDIDの場合は、それは●●という性質を持った人格を内側に作ること、言うならば「自己の内部での投影」という複雑な規制ということになるだろう。うーん、話は複雑になってきた。
「DID(解離性同一性障害)の病理をもつ多くの患者が訴えるのは、彼女たちが幼い頃から非常に敏感に母親の意図を感じ取り、それに合わせるようにして振舞ってきたということである。彼女たちは自分独自の感じ方、考え方を持たないわけではないにしても、母親のそれを自分のものとして取り入れることで、不自然にもいくつもの「自分」を心に宿すことになるのだ。そこで彼女たちがなぜ自己主張を行なったり、投影や外在化を用いて、自分の感じ方を押し付けてくる母親に対する反撃を行わないかは不明である。しかし少なくともそれが母親からの精神的な重圧だけでは説明できないことも事実である。」
「しかしどうして母親から示されたメッセージを取り入れることがストレスになるかを考えた場合、当然ながら娘の主観的な思考や感情があり、それが取り入れられたそれと矛盾するという現象が生じるのだろう。その意味ではベイトソンの示したダブルバインド状況そのものが実は解離性障害を生む危険性に関連していたということになる。この問題については、実は安 (1998) が生前指摘していたことでもある。」
うーん。いろいろ考えさせられる。DID出生じていることを、ボーダーラインと対比させることで論じる、ということを私はよくやるが、ここの図式はわれながらわかりやすいと思う。要は、投影projection 過剰か、取り入れ introjection 過剰か、ということになる。前者はボーダーライン。後者はDIDということになる。投影とは簡単に考えれば、人に耳の痛いことを言われて、その通りだと落ち込む代わりに、「あんたこそそうだ!」と言い返すことだ。これは実に大多数の人が行うことだ。精神科の研修医の頃だが、あるボーダーさんと思しき人に診断名を聞かれて、人格障害とはいえずにおずおずと「あなたは人格的な問題があると思います。」と言ってから、「しまった」と思った。案の定その患者さんからすかさず「そんなことを言う先生こそ人格的に問題があります!」といわれてしまった。これなどはいい例である。
ただ人からネガティブなことを言われて「あんたこそ●●だ」と言い返さず(投影せず)に「自分は●●だ」と引き受ける(取り入れる)ことの苦痛は、やはり何らかの形で処理されなくてはならない。自分にネガティブなレッテルを貼られて嬉しい人などいないからだ。そしてDIDの場合は、それは●●という性質を持った人格を内側に作ること、言うならば「自己の内部での投影」という複雑な規制ということになるだろう。うーん、話は複雑になってきた。
2011年1月5日水曜日
関係性のストレスと母子関係
小沢さんに場合によっては辞職を迫る、という菅さんの発言を聞いていて、いよいよ本気なんだな、と思う。これは小泉さんとの比較で常に考えていたことだが、政治家にせよ、実業家にせよ、これがうまくいかなかったら現在の職を退いてもいい、という覚悟がないと、大きな決断はできないだろう。小泉さんが郵政改革を巡って2005年8月に衆議院を解散した時は、誰もが彼を「●っているとしか言いようがない」「説得の仕様がない」として翻意させることを諦めたような、孤独な決断を下したのである。
いくら自分がある決断を下したいと願っていても、それが客観的に正しいか間違っているかは、誰にも証明できない。そこで「それを世の中が是としないのなら仕方がない。仕事を辞めるだけだ。」という覚悟と共に決断するのは、その人の勇敢さとか豪胆さとかとは関係がないことである。だから私は小泉さんが特別勇気がある人間とも思えない。ただ彼は決断には必ずその職を賭すほどの覚悟が伴わなくてはならないことをよく知っていたのだと思う。
「これを言ったら相手は怒るのではないか?」「皆から非難を浴びるのではないか?」「支持率が下がるのではないか?」という恐れを抱く限り、重要な決断はできない。「支持率が下がってやめることがあっても仕方がない」と最初から腹をくくっていれば、何も恐れることはない。これは勇気ではないのだろうか?むしろ立場の選択の問題であり、それを可能にするような人生設計を持つことと思う。職を失っても別の選択肢があり、それで生きて行けるだけの準備をした上で、いざとなったら失っても大丈夫な職や立場を選択し、その職や立場を賭して決断しがいのあることを決断する。その順番なのだ。
さて今回の菅さんの決断は、覚悟やその背後にある選択によるものだったのだろうか?おそらく違うだろう。私は菅さんは本気で小沢さんに腹を立てたからだと思う。年末の小沢さんとの会談で、国会招致を受け入れない彼に、菅さんは非常に怒りをあらわにしたという。それに対して小沢さんは「菅さんがあんなに感情的になったのは見たことがない。しんどかった」というようなことを他人事のように語ったというが、菅さんは今や総理大臣である自分をないがしろにするような小沢さんに怒り心頭なのだろう。人間は腹を立てたら何でもできる。この大事な決断を、結果としてはよかったとは思うが、怒りという勢いまかせないと決断が下せないのは情けない。覚悟や選択による決断は、むしろ冷静さの中からこそ出てくるべきものだからだ。
そこで昨日の続きの母子間の問題。最近いつも考えていることは、なぜこれだけ子どもは親を憎むのだろうか、ということだ。親子の関係は、時としてアカの他人同士よりもはるかに大きな憎しみを生むのはどうしてであろう? 特に子供の親に対する憎しみが顕著に思われる。親の子に対する憎しみは、子が親に対して持つ憎しみに比べれば、多寡が知れているという印象がある。そしてこの親への憎しみの特徴は、それが過去の自分への仕打ちに対する恨みとして、しばしば事後的に表れるのである。これはその親子の関係にとっては不幸なことである。
一見親子の関係が順調にいっている時に、実は後になり子供が計り知れない憎しみを感じるような対応や言動が生じてしまう。子どもが無力で自分の気持を表現できずに生殺与奪の権を握られ、他方では親は簡単に子どもを無視し、自分の感じ方を強要するような状況では、それこそあらゆる気持ちのズレが子どもにとってのストレスやトラウマに繋がるのだ。あからさまな虐待は生じなくても、親が注意を払ってくれなかったというそれだけが、深く子どもを傷つける。人は自分とは関係ない人から無視されるよりは、親から無視されることで親を100倍憎むようになる。
これは親からすれば実に理不尽なことだ。子供は勝手に生まれてきて、100% のケアを要求して、感謝の言葉もない。時には無視をしたくもなるだろう。しかしそれは子どもにとっては許されないことなのだ。
香山リカ氏は「親子という病」(講談社現代新書)の中で佐野洋子氏の「シズコさん」(新潮社)にあるエピソードを紹介する。「4歳ぐらいのとき、手をつなごうと思って母さんの手に入れた瞬間、チッと舌打ちして私の手を振り払った」ことから始まる母娘の葛藤を描いているという。「関係性のストレス」が想定する basic fault (根本的な不具合、過ち)とはこのような瞬間を指すのであるが、それはおそらく「対人ストレス」としてはカウントされないであろう。
いくら自分がある決断を下したいと願っていても、それが客観的に正しいか間違っているかは、誰にも証明できない。そこで「それを世の中が是としないのなら仕方がない。仕事を辞めるだけだ。」という覚悟と共に決断するのは、その人の勇敢さとか豪胆さとかとは関係がないことである。だから私は小泉さんが特別勇気がある人間とも思えない。ただ彼は決断には必ずその職を賭すほどの覚悟が伴わなくてはならないことをよく知っていたのだと思う。
「これを言ったら相手は怒るのではないか?」「皆から非難を浴びるのではないか?」「支持率が下がるのではないか?」という恐れを抱く限り、重要な決断はできない。「支持率が下がってやめることがあっても仕方がない」と最初から腹をくくっていれば、何も恐れることはない。これは勇気ではないのだろうか?むしろ立場の選択の問題であり、それを可能にするような人生設計を持つことと思う。職を失っても別の選択肢があり、それで生きて行けるだけの準備をした上で、いざとなったら失っても大丈夫な職や立場を選択し、その職や立場を賭して決断しがいのあることを決断する。その順番なのだ。
さて今回の菅さんの決断は、覚悟やその背後にある選択によるものだったのだろうか?おそらく違うだろう。私は菅さんは本気で小沢さんに腹を立てたからだと思う。年末の小沢さんとの会談で、国会招致を受け入れない彼に、菅さんは非常に怒りをあらわにしたという。それに対して小沢さんは「菅さんがあんなに感情的になったのは見たことがない。しんどかった」というようなことを他人事のように語ったというが、菅さんは今や総理大臣である自分をないがしろにするような小沢さんに怒り心頭なのだろう。人間は腹を立てたら何でもできる。この大事な決断を、結果としてはよかったとは思うが、怒りという勢いまかせないと決断が下せないのは情けない。覚悟や選択による決断は、むしろ冷静さの中からこそ出てくるべきものだからだ。
そこで昨日の続きの母子間の問題。最近いつも考えていることは、なぜこれだけ子どもは親を憎むのだろうか、ということだ。親子の関係は、時としてアカの他人同士よりもはるかに大きな憎しみを生むのはどうしてであろう? 特に子供の親に対する憎しみが顕著に思われる。親の子に対する憎しみは、子が親に対して持つ憎しみに比べれば、多寡が知れているという印象がある。そしてこの親への憎しみの特徴は、それが過去の自分への仕打ちに対する恨みとして、しばしば事後的に表れるのである。これはその親子の関係にとっては不幸なことである。
一見親子の関係が順調にいっている時に、実は後になり子供が計り知れない憎しみを感じるような対応や言動が生じてしまう。子どもが無力で自分の気持を表現できずに生殺与奪の権を握られ、他方では親は簡単に子どもを無視し、自分の感じ方を強要するような状況では、それこそあらゆる気持ちのズレが子どもにとってのストレスやトラウマに繋がるのだ。あからさまな虐待は生じなくても、親が注意を払ってくれなかったというそれだけが、深く子どもを傷つける。人は自分とは関係ない人から無視されるよりは、親から無視されることで親を100倍憎むようになる。
これは親からすれば実に理不尽なことだ。子供は勝手に生まれてきて、100% のケアを要求して、感謝の言葉もない。時には無視をしたくもなるだろう。しかしそれは子どもにとっては許されないことなのだ。
香山リカ氏は「親子という病」(講談社現代新書)の中で佐野洋子氏の「シズコさん」(新潮社)にあるエピソードを紹介する。「4歳ぐらいのとき、手をつなごうと思って母さんの手に入れた瞬間、チッと舌打ちして私の手を振り払った」ことから始まる母娘の葛藤を描いているという。「関係性のストレス」が想定する basic fault (根本的な不具合、過ち)とはこのような瞬間を指すのであるが、それはおそらく「対人ストレス」としてはカウントされないであろう。
2011年1月4日火曜日
(昨日の続き)
昨日の話の続き。私が外傷と解離との関連について考える上で理論的な拠り所とする人のひとりとして、マイケル・バリント(1896~1970)がいるということである。このことは「新・外傷性精神障害」(岩崎学術出版社、2009年)でも触れていることである。バリントは精神分析家であり、系譜としてはフロイトの直系の弟子シャンドール・フェレンチの弟子ということになる。ブタペスト出身の彼は、ナチズムを逃れて後に英国に移住し、そこで中間学派の対象関係論として活躍した。しかしそのアプローチはきわめて外傷理論としての色彩を持つ。本来は精神分析と外傷理論は水と油のところがあるから、彼のような存在は貴重である。
バリントの理論で一番知られているのは、いわゆる「基底欠損basic fault」という概念である。バリントは、これが母子間に生じることにより、後に重大な精神病理をきたすとした。彼はこれがある種の養育上の問題、不十分さ、であるというニュアンスをこめている。が、この「基底欠損」翻訳を宛てた中井久夫先生には申し訳ないが、ニュアンスを正確に伝えていない恐れがあるように思う。
英語の fault は、欠損 deficit というよりは、過ち、すなわち正常とは違ったことが起きた、というニュアンスがある。basic fault も、その意味では、「母子間に生じてしまった根本的な過ち、間違い」というニュアンスがあるのだ。バリントは次のように書いているのを、私自身が訳してみた。ここでfault を不具合などとしているが、そのほうが「欠損」よりはニュアンスを伝えているからだ。
「第一に、彼は何か自分の中に不具合 fault があると感じる。つまり直すべき不具合である。そしてそれは、コンプレックスではなく、葛藤ではなく、状況でもなく、不具合 fault であるというのだ。そして第二に、子供は誰かが、自分を駄目にしたfailed か、あるいはなすべきことを怠った defaulted on という感覚を持つ。(傍線岡野)そして第3に、このことはその領域に関して多大なる不安を起こさせ、それを今度は分析家には決して繰り返してほしくないという要求をして表現される。」 (He feels there is a fault within him, a fault that must be put right. And it is felt to be a fault, not a complex, not a conflict, not a situation. Second, thre is a a feeling that the cause of this fault is that someone has either failed the patient or defaulted on him, and third, a great anxiety invariarbly surrounds this area, usually expressed as a desperate demand that this time the analyst should not – in fact must not fail him. (Basic Fault ,P21.)
これでもまだ basic fault の正体は見えにくいが、一番説得力があるのが、彼が同じページで彼があげている例えである。彼はこのfault という表現は、地質学や結晶学でも使われているという。それは「全体の構造の中に突如見られる不規則性を意味し、その規則性は普段は姿を現さないが、ストレスがかかると全体の構造の崩壊を導くようなものである」という。
彼がこの basic fault を別の箇所で「外傷」と表現していることから、この結晶の不規則性は、ある種のトラウマとして位置づけられるべきものであることがわかる。しかし依然として、それは見えにくい、隠微な形で生じるそれである。バリントはそれを母親からの加害行為、という明確な表現のされ方などはしていないこともわかるだろう。 それは結晶構造の本来の問題かもしれないし、そこに加わった外的な影響、それも傍目にはわからないような微妙な影響かも知れない。恐らくその両者の相互作用で生じたものであり、それは隠微でかつ重大な亀裂がそこから将来生じるかもしれないような問題を残してしまったのだ。それを明確な外傷、対人外傷と表現できるものかといえば違うだろう。それは何らかの環境との行き違いであり、多分に相互的なものであろう。しかし患者にとっては主観的には、養育者が自分を「駄目にした、なすべきことを怠った」という印象を持つ。つまり被害者として自分を意識する可能性が高いのである・・・・。
私が「関係性のストレス」としてあらわしたいような母子間のストレスもまさにそのようなレベルのものなのである。そして関係性のストレスは、それこそ母子間の完成のずれ、ちょっとした言葉のニュアンスの違いから来るミスコミュニケーションという形をとりうる。そこから心の結晶は不規則な配列を生じ始め、それが解離症状の始まりを意味することが考えられるのだ。ところでこれを論じていくと、「親子関係」という途方も無い問題へと踏み込むことになる。(しばらく続く)
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| 外傷理論を取り込んでいた マイケル・バリント(1896~1970) |
バリントの理論で一番知られているのは、いわゆる「基底欠損basic fault」という概念である。バリントは、これが母子間に生じることにより、後に重大な精神病理をきたすとした。彼はこれがある種の養育上の問題、不十分さ、であるというニュアンスをこめている。が、この「基底欠損」翻訳を宛てた中井久夫先生には申し訳ないが、ニュアンスを正確に伝えていない恐れがあるように思う。
英語の fault は、欠損 deficit というよりは、過ち、すなわち正常とは違ったことが起きた、というニュアンスがある。basic fault も、その意味では、「母子間に生じてしまった根本的な過ち、間違い」というニュアンスがあるのだ。バリントは次のように書いているのを、私自身が訳してみた。ここでfault を不具合などとしているが、そのほうが「欠損」よりはニュアンスを伝えているからだ。
「第一に、彼は何か自分の中に不具合 fault があると感じる。つまり直すべき不具合である。そしてそれは、コンプレックスではなく、葛藤ではなく、状況でもなく、不具合 fault であるというのだ。そして第二に、子供は誰かが、自分を駄目にしたfailed か、あるいはなすべきことを怠った defaulted on という感覚を持つ。(傍線岡野)そして第3に、このことはその領域に関して多大なる不安を起こさせ、それを今度は分析家には決して繰り返してほしくないという要求をして表現される。」 (He feels there is a fault within him, a fault that must be put right. And it is felt to be a fault, not a complex, not a conflict, not a situation. Second, thre is a a feeling that the cause of this fault is that someone has either failed the patient or defaulted on him, and third, a great anxiety invariarbly surrounds this area, usually expressed as a desperate demand that this time the analyst should not – in fact must not fail him. (Basic Fault ,P21.)
これでもまだ basic fault の正体は見えにくいが、一番説得力があるのが、彼が同じページで彼があげている例えである。彼はこのfault という表現は、地質学や結晶学でも使われているという。それは「全体の構造の中に突如見られる不規則性を意味し、その規則性は普段は姿を現さないが、ストレスがかかると全体の構造の崩壊を導くようなものである」という。
彼がこの basic fault を別の箇所で「外傷」と表現していることから、この結晶の不規則性は、ある種のトラウマとして位置づけられるべきものであることがわかる。しかし依然として、それは見えにくい、隠微な形で生じるそれである。バリントはそれを母親からの加害行為、という明確な表現のされ方などはしていないこともわかるだろう。 それは結晶構造の本来の問題かもしれないし、そこに加わった外的な影響、それも傍目にはわからないような微妙な影響かも知れない。恐らくその両者の相互作用で生じたものであり、それは隠微でかつ重大な亀裂がそこから将来生じるかもしれないような問題を残してしまったのだ。それを明確な外傷、対人外傷と表現できるものかといえば違うだろう。それは何らかの環境との行き違いであり、多分に相互的なものであろう。しかし患者にとっては主観的には、養育者が自分を「駄目にした、なすべきことを怠った」という印象を持つ。つまり被害者として自分を意識する可能性が高いのである・・・・。
私が「関係性のストレス」としてあらわしたいような母子間のストレスもまさにそのようなレベルのものなのである。そして関係性のストレスは、それこそ母子間の完成のずれ、ちょっとした言葉のニュアンスの違いから来るミスコミュニケーションという形をとりうる。そこから心の結晶は不規則な配列を生じ始め、それが解離症状の始まりを意味することが考えられるのだ。ところでこれを論じていくと、「親子関係」という途方も無い問題へと踏み込むことになる。(しばらく続く)
2011年1月3日月曜日
解離に関する断章 その7 DIDの成因
最近結構見ている正月二日の箱根駅伝。職業病で変なことを考えてしまう。走者はみな苦しそうな顔で、しかし走りのペースは崩さずに淡々と走ってくる。そして次の走者に襷を渡した途端、コーチらしき人にタオルを掛けられると同時に崩れ落ち、腰が抜けて立てないようになってしまうことが多い。これって鬱の発症に似ている。昨日まで仕事に来ていたのに、今日は朝から起き上がれない。そこで本人や家族が会社の上司に連絡をする。上司は当然「昨日まで平気だったよ。急に欝なんてありえないよ。甘えじゃないの?」
崩れ落ちたランナーに「ほら、しゃんと立て。さっきまで走ってきたじゃないか。甘えるな。しっかりしろ。その気になれば走れるんだ。」という人は、あまりいないだろう。この扱いの差はナンだろう?一種の差別扱いdouble standard と言えないだろうか?
さらに私の職業病がかっているのだが、彼らは襷を渡したときに、あるいは仕事に行けないことを受け入れたとき、スイッチが切り替わるのだと思う。なにも「別人格にかわる」とは言わない。しかし心身の状態が切り替わり、「もうダメ」状態になる。いったん変わったものを意図的に切り替え直すことは、通常の意志の力では無理なのだ。
DIDの成因という問題について考える。一昨日は「対人ストレス interpersonal stress」(最近欧米でのはやりの表現。結局は幼児期の心的、性的、身体的虐待 + ネグレクトの言い換え)との関係で、私の提唱する「関係性のストレス」という概念について述べたが、このようなことは他の人が言っているのか?これをちゃんと調べないといけない。ちょうど今審査のために読んでいる修士論文で、院生の期待の星Nくんが手際よくまとめているので参考にする。
まずはあまりにも有名な、Kluft の4因子説。(Richard Kluft は一昔前の解離の世界ではカリスマだが、最近は威光に影がさしている。この間学会で見かけたら、「笑うせえるすまん」みたいな風貌のただのオジみたいになっていた)第1因子は、本人の持って生まれた解離傾向。これはわかる。第2因子は「対人外傷」の存在。第3因子は「患者の解離性の防衛を決定し病態を形成させるような素質や外部からの影響」という、ある意味では一番掴みどころのない因子だ。しかしこれはその本人の持つ解離性障害の具体的なあり方を決定している要素、例えばアニメのキャラクターが交代人格のあり方に影響を与えるといった状況をさすらしく、解離性障害の形成自体は、第1,2因子で決定しているというところがある。なあーんだ、そういうことか。そして第4因子は、保護的な環境であり、言わばいったん成立しかかっている病理を保護修復する環境の欠如である。アメリカ人らしい、合理的な提案と言える。結局核心部分は、第1,2因子と考えていい。
もう一つ有名な Braun と Sachs の3 P モデル(1985)。彼らは準備因子、促進的因子、持続的因子である。このうち準備因子とは、本人の持つ解離能力や、優れたワーキングメモリーも含むという。そして促進的因子は、ここでもまた親からの虐待等が含まれるという。
解離性障害の発症については、この他にRoss の4経路モデルが有名だ。これは児童虐待経路、ネグレクト経路、虚偽性経路、医原性経路、という経路を考えるが、これもかなり大雑把な話である。要するに母子間の微妙な感情的、言語的なズレから来る亀裂、といったニュアンスはこれらの主要な理論には含まれていないということだ。ただしネグレクトでも解離が起きる、という提言については注目に価すると言えるだろうが。
私としてはやはりマイクル・バリントの「basic fault」の概念が一番「関係性のストレス」のニュアンスを伝えていると考える。(続く)
崩れ落ちたランナーに「ほら、しゃんと立て。さっきまで走ってきたじゃないか。甘えるな。しっかりしろ。その気になれば走れるんだ。」という人は、あまりいないだろう。この扱いの差はナンだろう?一種の差別扱いdouble standard と言えないだろうか?
さらに私の職業病がかっているのだが、彼らは襷を渡したときに、あるいは仕事に行けないことを受け入れたとき、スイッチが切り替わるのだと思う。なにも「別人格にかわる」とは言わない。しかし心身の状態が切り替わり、「もうダメ」状態になる。いったん変わったものを意図的に切り替え直すことは、通常の意志の力では無理なのだ。
DIDの成因という問題について考える。一昨日は「対人ストレス interpersonal stress」(最近欧米でのはやりの表現。結局は幼児期の心的、性的、身体的虐待 + ネグレクトの言い換え)との関係で、私の提唱する「関係性のストレス」という概念について述べたが、このようなことは他の人が言っているのか?これをちゃんと調べないといけない。ちょうど今審査のために読んでいる修士論文で、院生の期待の星Nくんが手際よくまとめているので参考にする。
まずはあまりにも有名な、Kluft の4因子説。(Richard Kluft は一昔前の解離の世界ではカリスマだが、最近は威光に影がさしている。この間学会で見かけたら、「笑うせえるすまん」みたいな風貌のただのオジみたいになっていた)第1因子は、本人の持って生まれた解離傾向。これはわかる。第2因子は「対人外傷」の存在。第3因子は「患者の解離性の防衛を決定し病態を形成させるような素質や外部からの影響」という、ある意味では一番掴みどころのない因子だ。しかしこれはその本人の持つ解離性障害の具体的なあり方を決定している要素、例えばアニメのキャラクターが交代人格のあり方に影響を与えるといった状況をさすらしく、解離性障害の形成自体は、第1,2因子で決定しているというところがある。なあーんだ、そういうことか。そして第4因子は、保護的な環境であり、言わばいったん成立しかかっている病理を保護修復する環境の欠如である。アメリカ人らしい、合理的な提案と言える。結局核心部分は、第1,2因子と考えていい。
もう一つ有名な Braun と Sachs の3 P モデル(1985)。彼らは準備因子、促進的因子、持続的因子である。このうち準備因子とは、本人の持つ解離能力や、優れたワーキングメモリーも含むという。そして促進的因子は、ここでもまた親からの虐待等が含まれるという。
解離性障害の発症については、この他にRoss の4経路モデルが有名だ。これは児童虐待経路、ネグレクト経路、虚偽性経路、医原性経路、という経路を考えるが、これもかなり大雑把な話である。要するに母子間の微妙な感情的、言語的なズレから来る亀裂、といったニュアンスはこれらの主要な理論には含まれていないということだ。ただしネグレクトでも解離が起きる、という提言については注目に価すると言えるだろうが。
私としてはやはりマイクル・バリントの「basic fault」の概念が一番「関係性のストレス」のニュアンスを伝えていると考える。(続く)
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